説教翻訳2
説教翻訳2
年間第5主日 C年 2025年2月9日
聖書: イザヤ 6:1-8 詩編138 1 コリント 15:1-11 ルカ 5:1-11
私たちは、イエスの弟子になるようにお招きを受けています。イエスは私たち一人ひとりにこう言っています。「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだのです。」(ヨハネ15:16)私たちは、イエスの呼びかけに自由に応えるよう求められています。
神からの呼びかけは、聖書にたびたび登場します。アブラハム、モーセ、ギデオン、エレミヤです。今日の聖書朗読では、さらに3人、イザヤ、パウロ、ペテロが登場します。「彼らは弱い人たちでしたが、力を受けました。」聖書のすべての呼びかけにおいて、呼ばれた人は、それを受け入れるには自分は不十分だと感じています。マリアは「とまどい」ました。イザヤは、汚れた唇の者で、神について語る資格がなく、語ることができないと感じました。パウロは、キリスト教徒の迫害とステファノの殺害の同意に良心の呵責を感じていました。ペテロは、自分が罪人であると感じていました。
聖書の中で呼ばれた人は皆、自分の弱さと、神が求めている呼びかけに応えることができないことを認めています。
そのとき、神は呼びかけに応じるための力と導きを与えてくださいます。神は一人ひとりにこう言われます。「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる。」聖パウロはこれを「弱さの中の力」と認めています。(2コリント12:9)
聖書の登場人物たちは、現代の私たちとは関係ないと思わないでください。聖書の中の人たちは、私たち一般人より優れていると考えないでください。彼らは私たちの代表者です。彼らは、私たち平凡な人間に神の呼びかけにどう応えるかを教えてくれます。私たちは一人残らず、イエスの弟子になるように呼ばれています。イエスは、私たちが住んでいる小さな社会の中で、彼の愛の道具となるように求めています。私たちは神の恵みを分かち合うように呼びかけられ、選ばれています。イエスに選ばれたからといって、私たちはエリートということではありません。私たちは特別な使命を与えられます。既婚者または独身者。父親または母親。学生、働く人。教会の中で「特別な使命」を果たしている人もいれば、社会(またはその両方)の中で「特別な使命」を果たしている人もいます。「リタイヤ」してから呼ばれている人もいます。
そして、イエスからの呼びかけは一度だけではありません。イエスは、特に人生の旅の途中で、何度も私たちを呼びかけます。ある人は、赤ん坊のときに呼びかけられますが(幼児洗礼)、大人として再び呼びかけに応じなければなりません。
① 誰もがキリストに呼ばれています。静かに祈りながら、自分自身に問いかけましょう。「今、何のために呼ばれているのか?」
② 弱さとできないことを認めましょう。
③ キリストに力と導きを求めましょう。
④ いつも、その力を心にとめ、頼りましょう。
⑤ そして、イザヤの言葉「わたしがここにおります。私を遣わしてください。」と願いましょう。(翻訳担当:田澤)
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主の奉献 C年 2025年2月2日
聖書: マラキ 3:1-4; 詩編 24; ヘブライ 2:14-18; ルカ 2:22-40
聖書や私たちの典礼では、「捧げる」、「ゆだねる」、「託す」という言葉が使われます。今日の福音は、イエスの母マリアが幼子イエスを神に捧げた日について、です。
私たちの教会の正面には、聖書朗読台と聖餐の祭壇があります。ミサに出席するとき、私たちはどのような態度で臨むべきでしょうか。一言で言えば、耳を傾け、捧げることです。
先週、私たちは神の言葉について考えました。朗読される聖書は、神から私たちへの生きた声のメッセージです。よく聞きましょう。耳を傾けて聞きましょう。
今日は聖餐の典礼について考えましょう。私たちはミサで、最初のミサである最後の晩餐でのイエスの言葉に従っています。イエスは私たちのために、ご自分の死を記念し、忘れられないようにしました。イエスの言葉です:「私の記念として、これを行ないなさい。」
イエスは生涯を通じて、父なる神にご自身の人生を捧げ、私たちのためにその命を捧げました。イエスはよく詩篇31を祈りました。十字架上で死に瀕している時にも、詩篇31を祈りました。「父よ、私の霊を、み手に委ねます。父よ、私の命を、み手に委ねます。」
ミサに出席するとき、イエスと共に神に自分自身を捧げる態度を持ちましょう。ミサに臨むとき、自分自身にこう言いましょう。「イエスよ、私はあなたと共に、今週の私のすべての行いを神に捧げます。」
「私たちのすべての行い」とは、すべてを意味します。会社や職場での日々の仕事、家庭での作業、家事、調理や掃除、学校での勉強、娯楽、テレビの視聴、スマートフォンの使用、喜びや苦しみ、睡眠など、そしてもちろん祈りです。一言で言えば、私たちの人生です。
このような捧げ物は、ミサに深い意味を与え、私たちの日常生活に特別な味わいを与えます。
しかし、自分自身をこのように完全に捧げるには、私たちが誰に捧げているのかを思い出す必要があります。なぜなら、そのような捧げ物をするには信頼が必要だからです。私たちは、私たち人間の人生を支えるイエスと一体となって、自分自身を捧げているのです。私たちはイエスと一体となって言います:「父なる神よ、私はあなたに私の人生を託します。」神は優しく、親切で、思いやりがあり、私たち人間の弱さを理解しています。神は本当に私たちを愛しています。ですから、私たちは日々の生活を神に委ねることができるのです。
イエスと一体となって神に自分自身を捧げる姿勢は、イエスに従う私たちの生活において、とてもとても重要です。ですから、ミサや毎朝、神にこう言いましょう。
「神よ、あなたの手に私の人生を捧げます。」 (翻訳担当:相田)
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年間第3主日 C年 2025年1月26日
聖書朗読:ネヘミヤ記8:2-10 詩篇19 コリントの教会への手紙12:12-30 ルカ1:1-4/4:14-21
お知らせしたいことがあります!
「神様はあなたを愛して下さいます。私達の神であるイエス様は、あなたを今、ありのままに愛してくださる。」
このメッセージは、経済的に貧しい人々と、心の貧しい人々のためです。貧しい人とは、イエス様の考えでは、自分の人間的な弱さを認める人、自分の力では人生の道を歩むことは出来ないと認める人です。私達は皆このように貧しい者であるということを認めましょう。そしてイエス様が私達に与えて下さる力に頼りましょう。
イエス様のメッセージは、自由な状態にない人々、又、抑圧された人々の為です。自分自身に向かって問いましょう。「私は、忙しさやストレス、心配事のとりこになっているでしょうか?私は人を赦せないことに捉われていないでしょうか?あるいは、恨みや心の傷に捉われていないでしょうか?又、何か難しい人間関係の中にあって、本当の自由をあまり感じられないでいるでしょうか?」コロナやインフルエンザにかかった人は、病気自体は治っても、まだ後遺症があるかもしれません。又、誘惑があることから、不自由に感じている人もいるでしょう。イエス様との親しい関係の中で、「私は自由ではありません。イエスよ、どうか私を解放して下さい」と謙遜に正直に認めて、祈りましょう。
イエス様からの良い知らせは、体の目と、そしてまた、心の目の不自由な人々のためです。私達は自分自身に問いかけましょう。「私は、孤独な人や苦しんでいる人を見て、感じているだろうか?」このようなことは、しばしばそれぞれの家庭の中にあります。私達は、学校や、職場で、あるいは友人や親せきの中に、助けを必要としている人達を見ているでしょうか?自分は手助けをしているだろうか?人生の道において、自分の傍で歩いて下さっているイエス様を信仰の目で見ているでしょうか?私はそのイエスに頼っているでしょうか?
もし私たちが祈りの中でイエス様と共に深く考えているなら、ある意味、私達が貧しいものであり、囚われ、抑圧されて、目が見えなくなっているということに気が付くでしょう。
そうであれば、イエス様のみことばを聞いて下さい。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
まさにこのために、神の子イエス様は人間になられました。復活されたイエス様は今日もその使命を続けておられます。
イエス様は私達を愛しておられます。私達の神であるイエス様は、今、私達をありのままに受け入れて下さいます。さあ、イエス様の所に行きましょう。そして、このイエス様が私達に下さった贈り物を分かち合いましょう。(翻訳担当:三村)
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年間第2主日 C年 2025年1月19日
聖書朗読: イザヤ62:1-5; 詩編96; 1コリント12:4-7; ヨハネ2:1-12
ヨハネによる福音書には7つの奇跡が書かれています。それらは「しるし」と呼ばれています。奇跡における行いの中にはメッセージが込められています。今日の福音書では、カナの小さな村での結婚式でイエスは最初のしるしの奇跡を行いました。
この奇跡の中にはどんなメッセージが込められているのでしょうか?
①イエスは自然を越える神様の力を持っています。水がワインに変わりました。イエスは神様です。
②当時、もてなしは非常に重要でした。招待された人々のためにワインが足りなくなれば、若い夫婦にとって生涯続く恥じとなりました。私たちの神様であるイエスは思いやり深い方です。イエスは神様として人間の状況を理解しています。
③ 6つの水瓶は、人々が宗教儀式として手を洗うために使われていました。しかし、これは意味のない行動となりました。イエスは、神への恐れに基づいた古いやり方が終わったことをお示しになりました。神様は、恐しい方ではなく、優しくまた私たちを愛していることを示されました。
④この奇跡のしるしは食事の中で行われました。聖書の中で、食事は人間が神様と心地よい関係を持つことの象徴です。イエスは私たちに神様との親しい交わりを与えてくれます。
⑤イエスは水をワインに変えました。そのワインは最高級で、十分な量がありました。この「しるし」は、神様は惜しげなくお恵みをくださることを示しています。
⑥このしるしの奇跡は、若い夫婦の家で行われました。イエスは私たちの日常生活にお入りになることを望まれています。私たちの毎日の生活にイエスを招きましょう。
⑦このしるしの奇跡は、イエスの母マリア様からの依頼で行われました。マリア様は今も私たちのために祈っています。天使祝詞の祈りの中で、私たちは「神の母なる聖マリア、わたしたちのために、今も、死を迎える時もお祈りください」と唱えます。
結婚式でのイエスを想像してみましょう。イエスは人々と話し、ワインを飲み、笑っています。イエスは私たちの友人です。祈りの中でイエスのもとへ行きましょう。イエスは今も私たちに美しい恵みを与え続けてくださいます。私たちもそのお恵みを他の人々と分かち合いましょう。水をワインに変える奇跡は、多くの意味、つまり「しるし」で満ちています。今日の福音書をゆっくりと、祈りと共に読みましょう。今なお生きおられ私たちと共にいるイエスに会いましょう。イエスは「昨日も今日も、いつまでも変わらない」方です。(翻訳担当:薩田)
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主の洗礼 C年 2025年1月12日
聖書: イザヤ 40:1-11 詩編104 テトス 2:11-14 3:4-7 ルカ 3:15-22
洗礼者ヨハネがヨルダン川で行ったイエスの洗礼には、二つの側面があります。
① ヨハネによる洗礼は罪人のためのもので、それによって、罪人は赦されました。イエスは罪人ではありませんでしたが、私たち罪人と同じように洗礼を受けました。この洗礼によって、イエスは私たちの人間的な弱さを理解して、私たちに寄り添い、助けるために傍らに立っていることを具体的に示しています。イエスは、公生活の始まりの時と、この世での終わりの時に同じことを言っています。「私はあなたと共にいる」、そして自分は「罪人の友」である、と。
② 第二の側面は、私たち自身の洗礼です。ヨハネの洗礼と異なり、罪が赦されるだけではありません。神の真の命が私たちの魂に流れ込み、私たちは神の子になります。神様は、私たちにとって優しく理解のあるお父さんです。洗礼の時、私たちの父である神様は、私たち一人一人の名前を呼んで、「あなたは私の子ども。私はあなたを愛している。」と語りかけます。聖パウロは、今日のテトスへの手紙の中で、私たちの洗礼は、「新しく生まれさせる」ことであると言っています。
父なる神の子として、私たちは神の家である天国に入る継承者となります。比較的短いこの世での人生の目的は、終わることのない永遠の命に備えることです。天国では完全な幸福が待っています。聖パウロがテトスに言ったように、「父の恵みによって、わたしたちは、希望どおり永遠の命を受け継ぐものとされたのです。」
「希望」の意味について考えてみましょう。希望は、今年の聖年のテーマです。希望は常に、未来の価値あるものに向かいます。天国は、人間が受けることができる最も価値のある恵みです。
洗礼の時、私たちは「光の子として歩みなさい」という言葉とともに、火のついたろうそくを受け取ります。このろうそくは、復活のキリストを表す復活祭のろうそくから灯されます。
私たちはイエスとともに、天国という目的地へ人生の道を歩みます。イエスは暗闇の中に光を、弱さの中に力を、苦しみの中に慈しみを、孤独の中に友を与えてくださいます。そして私たちは聖霊によって導かれ、聖霊によって温められます。
「父と子と聖霊の御名によって、あなたに洗礼を授けます。」神様は、この言葉と水に力を込めてくださいます。
洗礼を受けた私たちは、本当に霊的に恵まれています。私たちは、神の愛と慈しみを他の人々と分かち合うために、神様に特別に選ばれた者なのです。 (翻訳担当:田澤)
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主の公現 C年 2025年1月5日
聖書: イザヤ 6:1-6; 詩編 72; エフェソ 3:2-6; マタイ 2:1-12
イエス・キリストの誕生より1900年前に、神はアブラハムに約束をしました。「神が、救世主を送る」という約束です。約束の救世主キリストが来たとき、救世主はユダヤ人だけのためと考える人もいました。しかし、神は違う考えでした!救世主はすべての人々、すべての国の人のためでした。そうです、救世主はユダヤ人の中から来ます。しかし、神が私たち人間に与えてくださるすべての恵みと同じ様に、救世主という恵みは他の人々と分かち合うものでした。
マタイの福音書は、救世主を分かち合うことを具体的に示しています。イエスが生まれた後、最初にイエスのもとに来たのはユダヤ人の羊飼いでした。その後、東の国から3人の博士が来ましたが、彼らはユダヤ人ではありませんでした。
神は3人の博士に救世主、イエスを示しました。今日、神はイエスを私たちに示します。それが今日の「主の公現」の主日の意味です。
第二朗読のエフェソの教会への手紙には、「同じ約束が私たちにもなされた」と書かれています。つまり、ユダヤ人と、私たち異邦人に、です。聖書の「約束」は非常に特別な言葉です。それは契約を意味します。この約束は最初にアブラハムにされ、その後何年も預言者を通して、繰り返しされてきました。イエス・キリストは今日、私たちのために、その約束を新たなものにされたのです。
聖書では、この約束はさまざまな方法で表現されていますが、短く言うと、神は私たちに「私はいつもあなたと共にいる。私はあなたを守り、導く。」と厳粛に約束されているのです。この約束は、洗礼のときに私たち一人一人に正式になされます。
この約束は私たち一人一人にとって非常に重要なものです。それが何を意味するのか理解すれば、私たちは平安と安全を味わえます。ですから、神の、私たちに対する、美しい励ましの約束について深く考えましょう。私たちは確かに神から恵みを与えられています。しかし、神が私たちに与えてくださる恵みは他の人と分かち合うものであることを忘れないようにしましょう。
神への感謝を表すため、3人の賢者のように、イエスに贈り物を捧げましょう。
黄金の代わりに、イエスに祈りの時間を捧げましょう。
乳香の代わりに、許しの贈り物を捧げましょう。
没薬の代わりに、親切で思いやりのある行ないをしましょう。
私たちは神から、この約束を信じる信仰の恵みを授かっています。この美しい恵みに感謝し、分かち合いましょう。特に、人に親切にすることで、私たちの信仰を他の人と分かち合うことができます! (翻訳担当:相田)
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聖家族 C年 2024年12月29日
聖書:サムエル上 1:20-28 詩編84 1ヨハネ 3:1-24 ルカ 2:41-52
今日の福音にはこうあります。「イエスの母マリアは、これらのことをすべて心に納めていた。」言い換えれば、マリアは自分の人生で起こったことを神に話したのです。そしてマリアは、聖書の祈り、つまり詩篇を祈りました。私たちも、マリア様に倣って祈りましょう。
今日の答唱詩篇(84篇)「主を畏れる者は幸い。」詩篇の原語であるヘブライ語では、「畏れる」という言葉は、神に尊敬と畏敬の念を捧げることを意味します。神は恐ろしい方ではありません!神は私たちに「恐れるな」とおっしゃっています。この背景には「心配するな、私はあなたと共にいる」という意味があるのです。
「主の道を歩む者は幸い。」私たちはその道を歩んでいます。私たちは本当に祝福されています。この道を知り、歩む特権と喜びを味わいましょう。そして、復活されたイエス、私たちの神が、いつも人生の道を私たちと共に歩んでくださることを思い出しましょう。
「主よ、あなたの住まいはうるわしい。」私たちは、主の家に住んでいます。洗礼によって、私たちは神に愛される子になります。そしてイエスは私たちにこう言います。「私にとどまりなさい」(ヨハネ15章)。神の家では、私たちは安全で、暖かく、愛につつまれています。私たちは神と同じ家に住んでいます。
「主よ、私の魂は主の庭を慕い、心とからだは生ける神にあこがれる。」
神を知り、その素晴らしさに出会うことは重要です。私たちは、イエスにもっと深く会いたいと望みましょう。イエスをもっと愛したいと憧れを持ちましょう。この憧れの恵みを願いましょう。復活した私たちの神、イエスは、私たちの心の扉の前に立ってノックしています。イエスは私たちが扉を開けるのを待っています。そして、イエスは私たちと一緒に温かい家庭的な食事をするためにやって来ます。(ヨハネの黙示録 3章)
「巡礼を志す人は、枯れた谷を通り、そこを泉に変える。」
これは、神が私たちの人生の旅路を守ってくれるということを詩的に表現したものです。私たちはマリアのように神を信頼するよう求められています。
第二朗読は、私たちが本当の意味で神の子どもであり、神は私たち一人一人を深く愛しておられる父であるということを教えてくれます。
福音の中で、誤解のせいでマリアが12歳のイエスを3日間見失ったことが書かれています。マリアはイエスに「私たちは心配して捜していたのです。」と言います。マリアはこの悲しみを神に伝えました。何年も経ってからようやく彼女は理解しました。私たちにも悲しい出来事があります。それを祈りに生かしましょう。その意味と目的は、後に明らかになります。 (翻訳担当:田澤)
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主の降誕(夜半のミサ) 2024年12月24日
聖書朗読:イザヤの預言9:1-6 詩篇96 テトスへの教会への手紙 2:11-14 ルカ2:1-14
皆さん、神様からの美しいお招きを聞きましょう。「疲れたもの、病気のもの、重荷を負うものは誰でも -誰でも皆- 私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」 神様ご自身が私達一人一人に、生きている声で、この夜、励ましに満ちたお招きを与えて下さっています。
これは神様ご自身からの招待です。けれど、この神様とは一体だれでしょうか?この神様とは私達と同じ一人の人間になられたイエスキリストです。私達は、その救い主の誕生日を今日祝います。この日は「クリスマス」と呼ばれます。それは、キリストのミサを記念する日という意味です。(クリスマス)
イエスキリストは神様ですが、私達が身体と心を持っているのと同じように、身体と心を持ったまことの人間です。
イエス様の人間としての生活は私達と同じように赤ちゃんとして始まりました。イエス様は少年としてユダヤの学校に行きました。そして青年になると、養父ヨゼフの見習い工になり、その後、ナザレの村の大工になりました。30歳の時、イエス様は彼の使命を始められました。この使命は、神様がすべての人に無償の愛を与えているという、天の国からのメッセージを人々に伝えることでした。イエス様は私達に、人生の道を教えてくださいました。それは人生における平安を、そして、死んでからも永遠の安息を与えてくれます。
私達の神であるイエス様は、人間性を体験なさいましたから、私達の問題を理解しておられます。イエス様、私達の神は本当の人間でした。イエス様は私達と同じように、寒さも暑さも感じました。又、他の人からの痛みも受けられました。(特別な12人の弟子の中の二人は深く彼を傷つけました。一人はお金の為に裏切り(ユダ)、そしてペテロは臆病さの故にイエスを裏切りました。)イエス様、私達の神様は、寂しさを感じ、又、誘惑、落胆、誤解も経験されました。イエス様はその頃、私達と同じように大変忙しく、ある時は沢山の人々がイエス様の所に来て、食事をする暇もありませんでした。勿論、喜びの時もありました。
言い方を変えると、私達には本当に私達を理解して下さる神様がいるのです。だから、私達は自分の喜びも苦しみも抱えて、神様のところへ行けます。その神様が私達を招いて下さっているのですから、それに応えましょう。イエス様は言っておられます。「だれでも私のもとに来なさい。」
私達はみな心の中に何か暗闇があると思います。第1朗読の中でイザヤが次のように預言しています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た。」
そして、天使たちは、キリスト誕生の夜、「地には平和あれ」と賛美して言っています。
神様が私達と同じ一人の人間としてこの世に来られたのは、単に2000年前の出来事ではありません。イエス様は、神の栄光を帯びて戻ってこられ、私達の傍で人生の道を共に歩んで下さっています。私達の神であるイエス様は、人間の弱さを体験なさいましたから、とても理解に満ち、近づき易いお方なのです。イエス様は言っておられます。「わたしのもとに来なさい。」 さあ、祈りのうちにイエス様のところへ行きましょう。(翻訳担当:三村)
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待降節第4主日 C年 2024年12月22日
聖書:ミカの預言 5:1-4; 詩編 80; ヘブライ人への手紙 10:5-10; ルカ 1:38-45
今日の最初の聖書朗読は預言者ミカのものです。最後の行でミカは、約束された救い主が力を持つことを予言しています。そして、救い主が平和となることが書かれています。約束された救い主が生まれる夜に、天使たちは「地には平和」と告げました。復活した救い主イエスは言います。「私の平和を与える。私の平和をあなたたちに残す。」 しかし、今日の世界ではたくさんの戦争があります。私たちは「なぜ神様は私たちに平和を与えてくれないのか?」と疑問に思うでしょう。
神様が私たち人間をお造りになったとき、人間に自由意志をお与えになられました。イエスは私たちに平和を与えてくださいますが、平和を受けるには自らの意志でイエスの招きに応えることが必要です。多くの人々がその招きに応じないので、戦争が起こります。 平和は私たち一人一人から始まります!無力だと思わないでください。少なくとも暗闇の中に1本のロウソクを灯しましょう。「私の心の中に平和はあるか」という問いを自問してみましょう。心の平和に関してさらに重要な問いは「私は自分中心的になっていないか」です。 アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」には「主よ、あなたの平和の道具として私をお使いください。」とあります。その後に続く祈りは、わたしたちに他者中心であることを求めています。例えば「主よ、私は慰められるよりも、慰めることができますように。」とあります。
今日の福音書では、マリア様が他者中心であることの具体例が描かれています。天使はマリア様に、神の母、つまり約束された救い主の母になるよう頼みました。この依頼にマリア様は困惑します。天使は「恐れることはない、主があなたと共にいる」とマリア様に伝えます。これを聞いてマリア様は「はい」と答え、聖霊の力によって神の母となりました。マリア様はちょうどヨゼフと婚約したばかりで、結婚の準備が必要でした。マリア様は忙しかったのです。しかし、マリア様は自分の都合を脇に置き、妊娠している親戚のエリザベトを手助けするために150キロも歩いて行きました。マリア様はエリザベトに喜びと励ましをもたらしました。この行いは私たちの手本です。今日からクリスマスまでの3日間、私たちも同じことをしましょう。年末、私たちは忙しいのですが、他の人のことも考えましょう。
答唱詩編80では、「ください」という言葉が9回繰り返されています。9つのお願いが書かれています。祈りの中で、イエスに以下のことをお願いしましょう。
① 平和:心、家庭、学校、職場での平和。日本だけでなく世界に平和が訪れますように。
② 力:自己中心的でなく他人を想うマリア様の手本に倣う力。特に忙しい今の時期に。
③ 理解:神様ご自身が天国から下り、私たちの人間生活を共有されたことの意味を理解すること。イエスは親しみやすい方です。私たちの話を聞いてくれます。毎日祈りの中でわたしたちの神様であるイエスに出会いましょう。
④ 生活の中で最も望むことをイエスに伝えましょう。(翻訳担当:薩田)
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待降節第3主日 C年 2024年12月15日
聖書:ゼファニヤ3:14-18;イザヤ 12:2-6;フィリピ 4:4-7;ルカ 3:10-18
今日の典礼では「喜び」という言葉が15回も使われています。例えば
第1朗読:喜びなさい。神は私たちの中におられる(ゼファニヤの預言)
答唱詩篇:喜び歌え。聖なる方は、あなたがたの真ん中におられる(イザヤ書)
第2朗読:喜びなさい。主はすぐ近くにおられる(フィリピの教会への手紙)
喜びとは何でしょうか?私たちはどのようにして喜びを味わうのでしょうか?
ここで、私自身の話を少しします!中学の時、私の試験の成績が最高だったのは木工で、最低だったのは数学でした!神学校では2年間哲学を学びましたが、私にはとても難しかった。私は理論的にではなく、具体的に考える傾向があるようです!
ですから、今日の説教を考えるとき、私は最初に次の様に自分に問いかけました: 「私が知っている、信仰の喜びを持っている人は誰だろうか?」すると、すぐに、藤沢教会の信者の一人が頭に浮かびました。今は亡き、百合子さんです。百合子さんは、日曜日のミサに車椅子で来ていました。百合子さんは足に痛みをかかえ、車椅子はとても不便でした。それでも、百合子さんはいつも、会う人会う人に笑顔を見せていたので、皆、彼女に会うと喜んでいました。喜びに満ちた百合子さんの、その喜びが、皆に伝染していったのです。
ある日、私は百合子さんに、なぜいつも笑顔で人に接することができるのか尋ねました。すると百合子さんは私の質問に考えをめぐらしてから、30年たっても決して忘れられない、こんな答えを返してくれました。その答えはこうでした: 「そう、私の足は痛いんです。でも、私は、その痛みをイエス様の苦しみと重ね合わせているんです。そして、ほかの車椅子の人や苦しんでいる人を助けようと思うのです。そのような人たちに対して、私は多く語るわけではありません。ただ、その人たちと一緒にいて、思いやりを持つようにしています」。
百合子さんの返事は、「信仰の喜び」の意味を教えてくれます。彼女の言葉は、アッシジの聖フランシスコの祈りと響き合います。「主よ、私をあなたの平和の道具としてください・・・(人から)慰めを受けるよりも、(人に)慰めを与えることができますように・・・。」
でも、百合子さんの答えで、祈りにでキリストと結ばれた方法が、とてもとても重要なのです。信仰の喜びは人間の努力だけでは得らません、神様からの恵みなのです。皆さん、この恵みを求めましょう。
聖パウロは今日の聖句(フィリピの教会への手紙)でこう語っています: 「主にあって喜びなさい。心配する必要はありません。必要なことがあれば祈りなさい。主はすぐ近くにおられます。」
だから、イエスからの賜物である喜びを求めて祈りましょう。そして喜びを分かち合いましょう。マザー・テレサの次の言葉の様に: 「笑顔は平和の始まりです。」
さあ、平和の運動を始めましょう! (翻訳担当:相田)
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待降節第2主日 C年 2024年12月8日
聖書:バルク 5:1-9 詩編126 フィリピ 1:4-11 ルカ 3:1-6
今日の第一朗読(バルク)の背景はこうです。バビロン軍は、エルサレムに侵攻して神殿を破壊し、ユダヤの人々を鎖でつながれた囚人として、バビロンに強制移住させました。神は、預言者であり代弁者であるバルクを通して、このバビロンに追放されて落胆した人々に語りかけます。
神はこう言っています。「バビロンの捕囚民よ!悲しみの服を着るな。栄光の服を着なさい。あなたの神である私が、あなたをあなたの国に連れ戻す。そこへ続く道を平らにする。」
神は落胆している人々に希望と励ましを与えているのです。
神は今もこのように働いておられます。私たちの神であるイエスは、今日も私たちに希望と励ましを与えてくださいます。
不安を感じていますか? 恐れを感じていますか? それとも落ち込んでいますか? 落ち着かない気分ですか? 心が傷ついていますか? 気がかりなことはありませんか?
もしそうなら、イエスのもとに行きましょう。
イエスは私たちと共にいて、私たちを見守ると約束されました。
しかし、私たち人間は、たちまちの癒しを欲しがります。聖書全体は、神がゆっくりと働くことを示しています。希望を持って待ち望みましょう。
「主は曙の光のように必ず現れる。」(ホセア書6:3)
私たちの神であるイエスは、私たちを見守ると約束し、必ず守ってくださいます。誠実な神のこの約束は私たちの希望の土台です。
待降節は、私たちが本当の自分、本当の心を見つめ、自己の棚卸しをするときです。
自分自身に問いかけましょう。「私は傲慢だろうか? 自分は他の人よりも優れていると思っていないだろうか? 自分を他の人と比べていないだろうか? 自分は「目立ちたがり屋」だろうか?」など。
私は自己中心的でしょうか?
祈りの時間をささげているでしょうか?
誰かに対して恨みを持っているでしょうか?
他の人を許しているでしょうか?他の人をあるがままに受け入れているでしょうか?
弱いわたしたちをありのままに受け入れてくださるイエスのもとへ行きましょう。イエスは罪びとの友です。
私たちの希望と罪に対する後悔を持つことは、この道を歩むため、道をまっすぐにし、でこぼこを平らにします。
今年の降誕祭に、もっと深くキリストに出会いましょう。 (翻訳担当:田澤)
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待降節第1主日 C年 2024年12月1日
聖書朗読:エレミヤの預言33:14-16 詩篇25 テサロニケの教会への手紙 3:12~4:2 ルカ21:25-36
待降節という季節は、私達が、世界の長い歴史の中で最も偉大な出来事を思い出す時です。私達の全能である神は、天国の栄光から、人間 - まさに私達と同じような人間となってこの世に下られました。でもこれは単に2000年前の出来事ではありません!イエス様は今も私達と一緒に生きておられます。
「道」という言葉が答唱詩編25に5回でてきます。復活されたイエス様は私達の人生の道の同伴者です。イエス様が私達の傍にいつもいて下さるという意味を深く思い巡らしましょう。それは、私達に大きな希望と励ましを与えてくれることでしょう。
「災害」と言う言葉は殆ど毎日ニュースにでてきます。日本では、洪水や地滑り、地震、そして非常に強い台風があります。又、世界ではウクライナ、ミャンマー、スーダン、パレスチナで戦争があります。日本では物価高が進んでいます。若い人達は、段々少なくなっていってます。これから、どのように高齢者を支えることが出来るでしょうか?北朝鮮はいつも私達を脅かしています。そして、専門家たちは、南海トラフがもうじき滑って、巨大な地震と津波が起きると言っています。私達は防災避難訓練をしています。
つまり!私達の中には不安な気持ちがあります。私達はしばしば、この不安、特に私達の将来についての不安を忘れよう、あるいは抑えようとします。
祈りの中で、正直に自分自身と向かいあいましょう。「イエス様と共に祈る」ということが、非常に大切です。
私達の優しい神様は、(エレミヤの預言を通して)バビロン捕囚で非常に落胆している人々に対して、励ましを与えています。私達の神様は今も私達に励ましを与えて下さいます。
私達の神であるイエス様は、大いなる優しさをもって、私達にいつも贈り物を下さいます。この贈り物は、満ち溢れています。
イエス様は人間性を体験なさいました。ですので、イエス様は私達人間の不安、思い煩いがどういうものかを良く知っておられます。もともとのギリシャ語の新約聖書で、「思い煩い」という言葉は「メリムナ(merimna)」といいます。
イエス様は今日も生きている言葉で私達に言っておられます。「疲れた者、私のもとに来なさい。」 (マタイ11章28節)
マルタに(そして私達にも)、「心配事よりも、もっと大事なことがあります。祈りなさい!」と言っておられます。
今日の福音の中でもイエス様は私達に言っておられます。「強くなれるよう、いつも目を覚まして祈っていなさい。」
また、聖ペトロは彼の手紙の中で言っています。「思い煩いは全て、主イエスに委ねなさい。イエス様があなた方のことを心にかけていて下さるでしょう。」(ペトロの手紙一 5章7節)
このようなイエス様からの美しい励ましには、私達の答えが必要です!それは信頼、信頼、信頼。
今週、時々詩編25番を読んで祈りましょう。復活されたイエス様は私達の元に来られます。信じて待ち望みましょう ― そして祈りましょう。「主は曙の光のように必ず来られます。」(ホセア書6章3節)(翻訳担当:三村)
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王であるキリスト B年 2024年11月24日
聖書: ダニエル書 7:13-14; 詩篇 93; 黙示録 1:5-8; ヨハネによる福音書 18:33-3
今日のミサの聖書朗読で、私たちはイエスの二つの異なる場面を見ることができます。福音書では、人間的な苦しみを体験するイエスが描かれています。ダニエル書、詩篇93、およびヨハネの黙示録では、復活したキリストが天の栄光の中で力と愛の神として描かれています。イエスはその力を私たちのためにお使いになります。
最初の場面では、ローマ総督の台の上に一人で立つイエスを想像してください。イエスは12人の弟子の一人に裏切られました。ペトロ、イエスが選んだリーダーは逃げて、イエスを知らないと否定しました。ピラトはイエスが無罪であることを知っていましたが、群衆に尋ねました。彼らは「その男を十字架につけろ!」と叫びました。イエスは私たちのために苦しみ、拷問、侮辱、いじめを受け、王が身に着けるもの—冠を与えられました。それは茨の冠でした。イエスはピラトに言いました:「私は王である。しかし、私の王国はこの世には属していない。」
イエスは十字架に釘付けにされて亡くなりました。十字架の上には、ピラトがラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の3つの言語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かせました(私たちの十字架上のあるINRIがその意味です)。
イエスは私たちのために苦しまれた私たちの王です。イエスは私たちの命と平和を勝ち取ってくださいました。
第二の場面では、天の神の栄光と力の中にいるイエスが描かれています。イエスは十字架で死に、死から蘇りました。「神は王。栄光に満ち、偉大な力を身に帯でおられる。」(詩篇93)「私たちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった。」(黙示録1:5)
これは私の個人的な経験です。私の母は時折、激しい頭痛に苦しんでいました。彼女は、本当に助けてくれた人は同じように激しい頭痛を持つ友人だったと、言っていました。人間は同じ経験を持つ人たちに助けられます。
私たちの神様であるイエスは、今、天にいます。イエスは私たち一人ひとりを愛し、名前で呼んでくださいます。私たちが祈りの中でイエスと対話する時、喜びと幸せを分かち合いましょう。そして、問題や心配事、苦しみに直面した時、同じ経験をしたイエスのもとに行きましょう。私たちの神様は苦しみを理解しています。
私たちの王でありリーダーであるイエスは、この世の人間から遠く離れた方ではありません。祈りの中でイエスのもとに行きましょう。私たちの王であるイエスは、励ましに満ちた美しい招待をしてくれます:「疲れた者、重荷を負うものはだれでも、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)(翻訳担当:薩田)
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年間第33主日 B年 2024年11月17日
聖書: ダニエル 12:1-3; 詩編 16; ヘブライ 10:11-14; マルコ 13:24-32
今週は「聖書週間」です。聖書にある神から私たちへの大切なメッセージはこうです: 「恐れるな。私はあなたとともにいる。」これはイエスの最後の言葉です。また、このメッセージは聖書の中で300回以上繰り返されています。ですから、この神から私たちへのメッセージは極めて重要なのです。今日の答唱の詩編16でも繰り返されています。「神は私の側におられる。私は決して揺るがない。」 神ご自身からのこの言葉は、私たちに希望、喜び、励まし、平安を与えてくれます。
今日のミサの聖書朗読には、「その時」(6回)と「その日」という言葉がよく出てきます。これらの言葉は3つの出来事を指しています:
1. ローマ皇帝ティトスが神殿を破壊した紀元70年のエルサレムの陥落と破壊。
2. この世の終わり(いつかはわからない)にイエスが栄光のうちに再臨されること。
3. 私たち自身の死。
ひとつだけ絶対に確かなことがあります。私たち誰もが死ぬ、ということです。これが怖いですか?聖書のメッセージを思い出してください: 「恐れるな。私はあなたとともにいる。」
40年前、「大いなる嘘」という本が出版されました。その著者は、多くの人々が死について考えることから逃げて、嘘を生きていると主張しました。そして、そのような嘘は不健康であると主張しました。ある日本人女性精神科医もこの主張を繰り返しました。彼女は、カトリック教徒がマリアに祈りを捧げるとき、こう祈ると書いています: 「マリア様!私たちが死を迎える時も、私たちを覚えていてください(アヴェ・マリアの祈り)。」
洗礼によって、私たちは父である神に愛された子となります。天国は私たちの故郷です。私たちは死ぬと故郷に帰ります。
私たちの死は人生の終わりではありません。本当は、死は天国での新しい人生の始まりなのです。天国では、平和、温かい雰囲気、決して終わることのない幸福を味わえます。私たちはこう感じることでしょう: 「私は人生の旅の目的地に到着した。」
私たちは典礼年の終わりを迎えようとしています。この時期、聖書の中の神のメッセージは、私たちに挑戦と励ましの両方を与えてくれます。
挑戦は、「忙しい」ことをやめることです。静かな時間と心を作りましょう。自分に問いかけてみましょう: 「私のこの地上での人生の目的は何だろうか?天国と永遠の命と平和。無事に到着するために、私は今何をしているだろうか?」
励ましは、私たちが人生の道を一人で歩むのではない、ということです。イエスが私たちの側にいて、共に歩んでくださいます。イエスは私たちの旅の仲間です。今日、生きた声でこう言っておられます。「恐れるな。私があなたとともにいる。私があなたのそばにいれば、あなたは決して揺るがない。」
天国の門で、イエスが私たちに「お帰りなさい」とよびかけようと、待っておられます。(翻訳担当:相田)
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年間第32主日 B年 2024年11月10日
聖書:列王記上 17:10-16 詩編146 ヘブライ 9:24-28 マルコ 12:38-44
十字架の上でイエスが最後に発した言葉は、「父よ、私の命を御手に委ねます」でした。この奉献の心は、イエスの生涯に欠くことのできないものでした。
マリアは、「私は主のはしためです」と言って、イエスの母として生涯をささげました。
私たちはイエスの弟子です。イエスに倣って生涯を神様にささげるよう求められています。
御ミサでは、「ささげる」という言葉と「奉献」という言葉がたびたび出てきます。
私たちの生涯を神様にささげるために信頼しましょう。
心から信頼するためには、神様のことを知る必要があります。私たちの神様は、憐れみに富み、慈しみ深く、喜んで私たちを許してくださいます。私たちの神であるイエスは、私たちと同じ人間性を体験されたので、私たちの弱さを深く理解しています。だから、私たちはイエスを信頼することができます。言い換えれば、イエスこそ私たちが信頼するお方なのです。
今日の第一朗読(列王記上)は、貧しいやもめ(ユダヤ人ではない)の話です。彼女は飢えていましたが、エリヤ(旧約時代の預言者)が食べ物を求めると、最後の小麦粉と油をエリヤと分け合います。やもめは神様を信頼しているのです。
福音朗読では、神様を信頼し、神殿の賽銭箱に最後のお金をささげた別のやもめが出てきます。
この二人のやもめは私たちの模範です。私たちを深く愛して下さる神様を信頼しましょう。私たちの生涯を神様の手に委ねましょう。私たちの日々の生活、祈り、日々の出来事をすべて神様にささげましょう。私たちの未来を神様の手に委ねましょう。神様は私たちのことを大切にすると約束し、その約束を必ず守ってくださいます。ですから、イエスと共に祈りましょう。「父よ、あなたの御手に私の命を委ねます。」 (翻訳担当:田澤)
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年間第31主日 B年 2024年11月3日
聖書朗読:申命記 6:2-6 詩篇18 ヘブライ人への手紙 7:23-28 マルコ12:28-34
今日の福音の中で、イエス様は尋ねられます。「最も重要な掟は何でしょうか?」同じ質問を他の言い方ですると、「この世で生きている間に、私達にとって、一番大事な行いは何でしょうか?」
イエス様は言います。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。」
これはどういう意味でしょうか?それは、日曜学校の子供たちが元気に歌う言葉の中で説明されています!「イエス様が一番」!
イエス様、私達の神様が、私達の日々の生活の中心にいますか?イエス様は日曜日のためだけではありません。イエス様は、私達の通常の日々の生活の中におられることを望んでいます。
イエス様を一番にするために、私達は毎日の祈りの中で、イエス様と関わりをもつことが必要です。私達が行なうこと、話すこと全てにおいて、イエス様がいつも私達と共にいてくださるようにお願いすることから、毎日をスタートしましょう。私達に力と導きを与えて下さるようにイエス様にお願いしましょう、「イエス様、私はあなたに全てを捧げます」このような祈りは、「朝の捧げもの」と言われています。
私達が日々の生活の中で、イエス様を一番とすると、人間関係が良くなり、学校の勉強もより効果が上がり、お母さん、お父さん、ご主人や奥さんも、より良く生きることができるようになり、働く人も、より効率よく働くことができ、幸せになるということに気付くことでしょう。別の言い方をすれば、イエス様と共に日々の人生の旅路を歩むことは、私達に喜びと平和、そして、生きる意味を与えてくれることでしょう。イエス様は私達の旅の同伴者です。
第二の掟は次のようです。「隣人を自分のように愛しなさい。」
自分たちに問うてみましょう。「私は自分自身を愛しているだろうか?私は自分をありのままに受け入れているだろうか?私は長所も短所も自分の人格として受け入れているだろうか?私は自分の容姿を受け入れて愛しているだろうか?(あるいは、自分自身を他の人と較べていないだろうか?)
神様は私達をありのままに愛し、受け入れて下さいます。私達は自分自身を愛していなければ、他の人たちを愛することは出来ません。
しかし、そのような生き方が出来るでしょうか?出来ます!出来ます!出来ます!ナンバーワンのイエス様の力と導きがあれば、私達は幸せな毎日を生きることが出来ます。
今日のヘブライ人への手紙の中に、大変励まされる真実があります。復活された、私達の神であるイエス様は、天の国で私達の為に祈っています。イエス様は私達に力と導きと希望を与えるために、聖霊を送って下さいます。私達のナンバーワンであるイエス様に頼りましょう。
神様は何でもお出来になります。
毎朝、私達の一日を通して、イエス様を一番にするようにしましょう。(翻訳担当:三村)
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年間第30主日 B年 2024年10月27日
聖書: エレミヤ書 31:7-9; 詩篇 126; ヘブライ人への手紙 5:1-6; マルコによる福音書 10:46-52
祈りは、イエスの信徒としての私たちの生活において非常に重要です。祈りにはさまざまな方法があります。今日は、その中の一つの方法をご紹介します。それは、想像の祈りです。イエスの生涯の一場面を想像し、その場面に入り込むのです。傍観者としてではなく、その場面を生き生きと想像の中で体験します。そこにイエスがいます。イエスが出会い、話をする人々の心と体に入り込みます。
完璧な信仰を持つ人などいません。私たちの信仰はみな不完全で弱いのです。言い換えれば、私たちは心の中で盲目です。想像の祈りを始める前に、まず私たちの弱い信仰を認めましょう。
では、今日の福音書の場面を想像してみましょう。それぞれが自分に言い聞かせましょう。「私はバルティマイです」。私は盲目です。エリコの砂地の道の脇に座っています。大勢の群衆の音が聞こえます。「あの騒ぎは何ですか?」と尋ねます。人々は「ナザレのイエスだ」と教えてくれます。私は大声で叫びます:「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」。人々は私に「静かにしろ、お前は厄介者だ」と言います。しかし、私はさらに大声で叫びます。イエスは私の祈りを聞き、私のもとに来ます。イエスは私に「何を望むのか」と尋ねます。私はイエスに「主よ、見えるようにしてください」と言います。イエスは私の目に触れ、「あなたの信仰があなたを救った」と言います。そうして、私はイエスの道を、希望と喜び、平和と意義を持って歩みます。私は、イエスつまり 私の神の、計り知れない愛を味わいました。
これは2000年前のエリコでの場面ですが、復活したイエスが私たちのそばにいて、私たちの叫びを聞いてくださいます。
想像の祈りは頭から心へと進みます。静かな心を作りましょう。リラックスして、スマートフォンや問題、心配事、忙しさを脇に置き、心の中の雑音を消しましょう。一人一人言いましょう。「私はバルティマイです。私は盲目です。道の脇に座っています」。イエスに出会いましょう。イエスの道を、より深い信仰と共に、喜び、希望、平和、そして意味を持って歩きましょう。イエス、私たちの神が、私たち一人一人に持っている計り知れない大きな愛を味わいましょう。そして、その愛を分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)
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年間第29主日 B年 2024年10月20日
聖書: イザヤ 53:10-11; 詩編 33; ヘブライ 4:14-16; マルコ 10:35-45
神が人間となったこと-受肉-は私たちの信仰の土台です。私たちを創造した神ご自身が、天国を離れ、真の人間、100%の人間になられたのです。人間になった神、イエスはすべての人間を表しています。
イエスはひどい苦しみを耐え忍びました。その苦しみのおかげで、私たちは神に似た人間とされたのです。
イエスのおかげで、私たちは恐れではなく、自信と愛をもって、神に向くことができるのです。
今日の聖書の第一朗読の中で、イザヤはこう語っています: 「私のしもべ(イエスを表しています)は、その苦しみによって、あわれみをもたらした。」
そして、今日、朗読される福音書の中のイエスの言葉です: 「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのであり、神のあわれみを届けるため、生涯を捧げようと来たのである。」
私たち自身の心に問いかけてみましょう。「私は個人的に神をどのように見ているだろうか?神は少し厳格でよそよそしいだろうか?それとも、神は優しく、私たち一人一人を、ご自分の子供として愛し、とても大切にして生きておられるのだろうか?」
私たちの神であるイエスは、父なる聖霊と結ばれています。
今日のヘブライ人への手紙に、私がとても好きな聖書のメッセージが書かれています。
私たちの神であるイエスは人間となられ、私たちと共に人間の弱さを感じておられます。イエスは誘惑され、苦しみを受けられました。だから、私たちは必要な助けを受けることができると分かっており、自信をもって恵みの源であるイエスのもとに行くことができるのです。
とても美しく、勇気づけられるメッセージです。このことを、心に深く受け止めて、よく考えてみましょう。 (翻訳担当:相田)
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年間第28主日 B年 2024年10月13日
聖書:知恵 7:7-11 詩編90 ヘブライ 4:12-13 マルコ 10:17-30
知恵とは何でしょうか。大学で学んだ人たちは、この世界の中での知恵を持っています。
しかし、別の種類の知恵もあります。この知恵は神からの賜物であり、非常に貧しい人や教育を受けていない人の心の中に、謙遜に大学で学んだ人たちと同じようにあります。
今日の最初の聖書朗読では、「私は知恵を祈り求めた。それはこの世の最も豊かな宝物よりも価値がある貴重な賜物である。」とあります。
今日の福音の中で、イエスは私たちにこう問いかけています。「あなたはこの世の財産と人生における財産をどう考えていますか?」イエスは私たちに神様を第一に考えるように求めています。 言い換えれば、イエスは私たちにこう問いかけているのです。「あなたは地上での人生の本当の目的をわかっていますか?」
「私の人生の中心は何だろう? 物質的なものなのか、経済的に成功することなのか、それとも名声を得ることなのか?」と自問してみましょう。
福音の中で、ある男がイエスに尋ねた質問は、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?」というものです。 この非常に重要な質問について深く考えてみましょう。 これは、私たちの人生の中で最も重要で根本的な質問です。イエスはこう答えます。「神を愛しなさい、そして隣人を愛しなさい。この世の財産を重視しすぎる危険には気をつけなさい。」そのような生き方は可能でしょうか。はい確かに、神様に頼れば、すべては可能です。
「イエスさまがいちばん」という聖歌があります。イエス様が私たちの人生でいちばんなら、他のすべてはうまく進みます。あなたが心地よい生活を送っているなら、神様に感謝し、それを分かち合いましょう。
イエスは、人をじっと見つめ、愛しました。人がその招きを断っても、イエスの人に対する愛が止まることはありません。イエスの愛は無条件です。
この愛を実現するための知恵を祈りましょう。 (翻訳担当:田澤)
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年間第27主日 B年 2024年10月6日
聖書朗読:創世記 2:18-24 詩篇128 ヘブライ人への手紙 2:9-11 マルコ10:2-16
今日の福音には2つのテーマがあります。1つ目は結婚生活についてのイエスの教えです。2つ目は子供達や母親たちに対するイエスの態度(その時も今も)です。
最初の場面:ファリサイ人達はたびたびイエスをためそうとしていました。彼らはイエスに言います。「男は妻を離縁できます。」あの社会、地域では男が一番で、女の地位は低くされていました。ファリサイ人達は、男が些細な理由で妻を簡単に離縁出来るようにしていました。イエスは神様の考えはそのようではないと仰いました。夫と妻は一生涯結婚生活を送ります。
教会はこの教えに従い、結婚式で二人は誓いの言葉を読みます。お互いがこのように誓います。「わたしたちは夫婦として、順境においても逆境においても、病気のときも健康のときも、生涯たがいに愛と忠実を尽くすことを誓います」
私は司祭として、式の中で大事なこの言葉を強調します。「神は私達の助けであり、力です。」神の助けが無ければこの誓いを守ることはできません。私は二人に神の助けを願い、頼るようにと勧めます。私は「お互いに」という言葉を強調します。そして聖フランチェスコの「平和の祈り」のカードを差し上げます。
自己中心は幸せな結婚の敵だと私は思います。私は二人に言います。「あなたは相手の長所も短所も理解して受け入れていますか?真実の現実の愛は、あなたの相手、彼や彼女のありのままを受け入れることです。これは常に易しいことではありません。だからこそ、私達は皆、優しい神様が与えて下さる助けや力が必要なのです。私はある時、明らかに幸せを分かち合っている60台の夫婦を知って、彼らに聞きました。「あなた方の幸せな結婚生活の秘訣は何ですか?」彼らの答えに私はびっくりしました。彼らは言いました。「神父様、愛という言葉は強調され過ぎていると思います。私達はお互いに友情を抱いています。」
フランシスコ教皇は、結婚したカップルに次のように言っています。「結婚生活において、大事な2つの言葉があります。それは、いつも「有難う」と言うようにしましょう。そして、必要な時には「ごめんなさい」と言いましょう。
今日の福音の最後の場面で、私達は、イエスの優しく、思いやり深い素晴らしい例を見ることが出来ます。イエスは外でたくさんの群衆に話し、とても疲れていました。丁度話し終えた時に母親達がやってきて、自分たちの子供を祝福して欲しいとイエスに頼みました。すると騒がしい弟子達が母親達にやめさせようとしました。しかしイエスは「どうぞ私の所へ来させてください。」と言って、子供達一人一人を祝福し、母親達を励ましました。
私達の復活したイエス様は、今も同じようにして下さいます。イエス様のところへ行って、信頼を持って祈りましょう。今も私達に対してイエス様は、「慈しみに満ち、憐れみ深い」のです。(翻訳担当:三村)
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年間第26主日 B年 2024年9月29日
聖書:民数記11.25-29 詩編19 ヤコブ5.1-6 マルコ9.38-43,45,47-48
福音を読むときは、聖書全体とイエスの教えの背景を考えることが大事です。
福音書は神様からの喜びの知らせです。信仰の喜びを心に持つように。
何年も前に大学生を対象に「キリスト教についてどう思うか」というアンケート調査がありました。多くの回答が「厳しい」というものでした。私はとても残念に思いました。「厳しい」は、イエス様とイエス様の(教えの)道に当てはまりません。今日の福音は厳しく聞こえるかもしれませんが、聖書全体の背景を考えましょう。
マルコはさまざまな場面のイエスの教えを取り上げ、それを福音にまとめて書いています。
今日の福音の第1のテーマは、キリストに従う別のグループの人たちに対する私たちの態度です。若い弟子ヨハネがイエスの名を使っている他の人々のことを非難しています。
今の時代、世界には「キリスト者」を自称する教会がたくさんあります。イエスは私たちに彼らを受け入れるように言っています。
次のテーマは貧しい人々への援助です。喉の渇いた貧しい人にあげるたった一杯の水でも、その報いを受けるのです。新子安教会として毎月行っている「一合のお米キャンペーン」は、これにあたります。
次に、イエス様は私たちに、小さな子供たちを特別に愛し、世話するようにと仰います。幼少期に受ける愛は重要で、その後の人生に影響を与えます。
日本の諺に「3つ子の魂、百まで」とありますね。イエス様は地上におられたとき、子どもたちを愛していました。今もそうです。子どもを大切にしましょう。
最後に、誘惑をどう防ぐかです。イエス様は私たちに、人生の目的は天国に無事にたどり着くことだと言っておられます。この道を邪魔するさまざまな誘惑(自己中心な気持ち、必要以上の冨、プライド、傲慢さなど)を避けるために、努力して積極的に行動しましょう。ただし、手足や目を切り落とすことを文字通りに受け取ってはいけません。
私たちは皆、天国と永遠の幸福への道を歩んでいます。
喜びをもってイエス様の道を歩みましょう。そして、イエス様の平和と喜びを他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:北尾)
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年間第25主日 B年 2024年9月22日
聖書: 知恵の書 2:12, 17-20; 詩編 54; ヤコブの手紙 3:16-4:3; マルコ 9:30-37
教会の中には「教会博士」と呼ばれる聖人がいます。彼らの生涯と著作物は、教会の教えに沿っているかどうか詳細に調査され、博士と認定されます。例えば、聖アウグスティヌス、聖トマス・アクィナス、そしてアヴィラの聖テレジアです。聖テレジアは「祈りの博士」として知られています。
聖テレジアは「祈りとは、私たちが愛されていると知っているイエスとの親しい対話です」と書いています。洗礼の準備として「イエスとの出会い」は重要なのです。
イエスは天国では神でしたが、人間となり、人間の生活を経験しました。地上にいる間、イエスは私たちと同じように体を持ち、心を持ち、感情を持ち、いろんな事に反応しました。イエスは誘惑され、孤独を感じ、他人に傷つけられ、私たちと同じように悲しみました。イエスは「泣き」、私たちと同じように痛みを感じました。このことで、祈りにおいて、私たちの神様は非常に近づきやすい存在となりました。
新約聖書の「ヘブライ人への手紙」には、「私たちの大祭司であるイエスが苦しみを経験されたので、私たちは信頼を持って恵みの座に近づき、助けを得ることができる」と書かれています。
今日の福音書を見てみましょう。イエスはファリサイ人の反感と憎しみを買いました。彼らは政府に権力を持っていました。イエスが教える霊的な生活が人々の中に広まると、彼らの権力が弱まるとファリサイ人は考えました。そこでイエスを殺す計画を立てました。イエスはその計画を知っていました。このような場合、普通の人間は恐怖心を抱きます。イエスも私たちと同じように将来に対する恐怖を感じていました。
イエスは12人の弟子たちから励ましを受けたでしょうか?いいえ!彼らは自己中心的で、誰が王国で一番になるかを気にしていました。彼らはまだイエスが政治的な救世主になると思っていました。イエスは弟子たちからの支えが得られず傷つきました。
イエスは12人の弟子たちとともに私たちもに言います。「競争心を持たず、他人と自分を比較しない小さな子供のようになりなさい。」
祈りの中でイエスと話しましょう。イエスは私たちに力強い励ましを受けるように招かれます。「私のところに来なさい。私は人間であることを経験したので、あなたの疲れ、恐れ、不安、問題を理解しています。」 祈りとは、私たちが愛されていると知っているイエスとの親しい対話です。(翻訳担当:薩田)
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年間第24主日 B年 2024年9月15日【敬老の祝福のミサ】
聖書朗読:民数記 6:22-27 詩篇23 イザヤ書 43:1-5 マタイ11:28・29
唯一真の神が私達をお造りになりました。その神様が今もずっと、私達が生きている間、どのような態度で見守って下さっているのかということを、第一朗読の民数記が私達に語っています。
モーゼは聖書に書いてあるように、約束の地を求めて山に登り、人間と人間が話すように、神様とお話しになりました。聖書の中で、モーゼは神様に、祭司アーロンが神の代理人として人々を祝福する時、どのような言葉を使ったらよいかを尋ねています。神様の答えが今日の第一朗読です。
神様は私達人間に、数多くの恵みと平和を与えたいと願っています。それは身体と心の平和です。平和は、神様からの素晴らしい贈り物です。それは、それぞれの心の中の平和、家庭の中の平和、教会共同体の中の、国の、世界の中の平和です。私達は心を開いて、その平和をいただきましょう。
私達は優しい神様に心を開いて、平和の為に祈り、そして働きましょう。イエスは、「平和のために働く人は幸い、彼らは神に出会うであろう。」と言われます。
この祝福の中で、私達は「御顔を私達に向けて、あなたの御顔を私達に見せて下さい。」と祈ります。「神の御顔」とは、優しく平和に満ちた御顔で、私達人間を見守って下さっている神ご自身です。
今日の答唱詩編は、詩編23番です。イエスはこの詩編の実現です。イエスは「私は良い牧者である。私は、私の羊一匹一匹の名前を呼んで連れ出す」と言われ、同じようになさいます。イエスは私達が苦しみの暗い谷にいる時も私達を導き、守ってくださいます。
わたしは、一人一人が聖書を開いて、詩編23を祈りながらゆっくりと読むことを熱心に勧めます。そうすれば、イエスがきっと私達にそのような励ましを与えて下さるでしょう。
福音は私達一人一人に対する優しいお招きです。「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう。」忙しく、競争に満ちた社会の中で、私達はたびたび、心と身体の疲れを経験します。そして人間でいる限り、苦しみに遭い、それは重荷です。今日の福音の中に軛という言葉がでてきますが、軛は牛の首の周りに着ける重荷を運ぶ為の器具です。でも、私達は重荷を運ぶ時にイエス様が一緒に運んでくださる、2頭立ての軛です。
さあ、イエスのところへ行きましょう。そして休息と平安を味わいましょう。それは特別な贈り物です。
説教の後に、塗油の秘跡をします。
この秘跡を受ける人は、両手を広げて、そして心の中で祈りましょう。「イエス様、私は、心配、苦しみ、病気、傷ついた心と一緒に、あなたの御手に私の人生を委ねます。」(翻訳担当:三村)
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年間第23主日 B年 2024年9月8日
聖書:イザヤ 35:4-7a 詩編146 ヤコブ 2:1-5 マルコ 7:31-37
イエスは聞こえない人の耳を開き、見えない人の目を開けました。
今日の福音書にあるイエスの2000年前の奇跡です。
この奇跡は現代の私たちとどのような関係があるのでしょうか? これは2000年前のイエスの生涯における単なる歴史的な出来事なのでしょうか?
いいえ、絶対にそうではありません。今日、復活したイエスは生きていて、私たちの間で働き続けて、私たちの心の耳、信仰の耳を開いてくださいます。
そのような心の耳は、肉体的な聴力よりも本当に重要なのです。
私は、夜7時のNHKニュースを聞いています。最近は「災害」「気をつけて」という言葉を頻繁に耳にします。洪水、土砂崩れ、刃物による襲撃、南海トラフや大地震、原子力発電所のトラブルなど、怖いものばかりで、私たちの心は不安になります。私たちは、今日聞いたイザヤの言葉、そしてイエスが何度も繰り返した言葉、「雄々しくあれ!恐れるな!私はあなたと共にいる。」を心の耳で聞いているでしょうか。
イエスは私たち一人一人に、あらゆる心配事、問題、難しい決断の時に、生きた声で同じ言葉を与えてくださっています。
私たちはイエスのもとに行き、聖書の言葉で祈りましょう。「神よ語ってください。あなたのしもべは聞いています。」
第二バチカン公会議の文書は教会の教えです。典礼に関する文書には、「聖書が読まれるとき、イエスご自身が私たちに語りかけてくださる。」と書かれています。
イエスに、私たちの心の耳に「エッファタ」と呼び掛けてくださるようお願いしましょう。有名な聖歌388 番「ガリラヤの風かおる丘で」で私たちは歌います。
1番は、イエスが山上で群衆に語った指導の言葉です。「私たちにもあなたの恵みの言葉を聞かせてください。」
2番は、人生の嵐の中で、「イエス様、あなたの力の言葉を私たちに聞かせてください。」
3番は、死にゆく男と私たちに向けて、「イエス様、あなたの救いの言葉を私たちに聞かせてください。」
4番は、人生の旅路を歩む人々へ、「イエス様、あなたの命の言葉を私たちに聞かせてください。」
聖書にある神の言葉は、「イエス様が語りかける声を聞くために、私たちの耳を開いてください。」と私たちが祈らなければ、ただページに印刷された単なる言葉になってしまうでしょう。 (翻訳担当:田澤)
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年間第22主日 B年 2024年9月1日
聖書: 申命記 4:1-8; 詩編 15; ヤコブ 1:17-27; マルコ 7:1-23
イエスは私たちにチャレンジと慰めを与えます。私たちの人生にあるチャレンジは、私たちを成熟させます。苦しみや困難に出会うとき、私たちには慰めと励ましが必要です。今日、私たちはチャレンジを受けています。私たちの信仰は心からのものでしょうか、それとも表面だけ、口先だけのものなのでしょうか。
イエスの時代のファリサイ人たちはとても宗教的でした。でも、それは自分たちの評判のためでした。彼らは他人から一目置かれ、敬虔な人々だと思われたかったのです。彼らが宗教といっていたのは、厳しい義務でした。彼らは多くの細かい規則や習慣を厳格に守っていました。しかし、彼らは神の愛と慈悲を忘れていました。肘を洗うような小さな規則を守らない人々を締め付け、そのような人々を「罪人」「汚れた者」と呼んだのです。
イエスはそのような宗教に強く反対されました。そして、彼らを「偽善者」と呼びました。
なぜ昔のファリサイ人が福音書に頻繁に登場するのでしょう?それは、現代の私たちの中に、しばしばファリサイ人のような心があるからです!
「なぜ私はこの祭壇に立っているのか?」と私は自分に問います。 「なぜ今日、私はミサに来ているのだろう?」と自分に質問してみてください。
私たちは、神様が与えてくださったすべてのものに感謝するためにミサに来ているでしょうか?イエスとの交わりを楽しみ、私たちの人生にイエスの力と導きを求めるために来ているでしょうか?今週の聖書で、私たちは問われています!
ファリサイ派の人々はある食べ物を禁じていました。しかしイエスは、人を汚すのは、食べる物ではなく、私たちの心の中にあるものだと言われました。例えば、人を許さないこと、恨みを抱くこと、欲望、自己中心性、高慢さなどです。
そして、第二朗読の聖ヤコブの手紙の中で、イエスは私たちに、貧しい人々に関心を持たなければならないと語っています(聖書時代の寡婦や孤児は、貧しい人すべてを表しています)。今日、私たちは本当の自分を深く見つめましょう。私たちは弱さという重い荷物を背負っています。
その重い荷物を持ってイエスのもとに行きましょう。イエスは私たちを招かれています: 「疲れた者、重い荷物を背負っている者は、皆、私のもとに来なさい。私があなたがたを休ませてあげよう。」
イエスはいつも、私たちを、ありのまま受け入れてくださいます。イエスは私たちに挑戦と慰め、つまり励ましを与えてくださるのです。
私たちは祝福されています。神様が私たちに与えてくださった祝福をはっきりと感じ、表しましょう。 (翻訳担当:相田)
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年間第21主日 B年 2024年8月25日
聖書: ヨシュア記 24:1-18; 詩編34; エフェソ 5:21-31; ヨハネ 60-69
今日まで5週間にわたり、福音書の朗読はヨハネの福音書第6章でした。第6章のテーマは御聖体です。第6章第1節では、イエスが神様の力を使って、5つのパンで五千人を食べさせたことが書かれています。イエスは神として、自然を越える力を持っています。
その場面ではイエスは御聖体について話をされました。イエスから離れた傍観者にならず、想像力を働かせ、弟子たちの傍でイエスの生きた言葉を聴きましょう。
イエスは言われます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。わたしが与えるパンとはわたしの肉であり、わたし自身である。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」
この言葉を聞いた多くの人は言いました。「そんなことはあり得ない」イエスのことを信じず、多くの人が離れ去っていきました。
イエスは12人の弟子たちに振り返り言われました。「あなたがたも離れて行きたいのか」ペトロは答えました。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
その時イエスはわたしたちにとってとても大切なことを言われました。「あなたの信仰への答えは、人間のものから出たのではない。神から贈り物である。」
わたしは、イエスに子どものところに来てくれるように頼んだ、てんかん発作の子どもの父親の祈りを時々使います。イエスは父親に尋ねました。「あなたは信じるか」父親は答えました。「主よ 信じます。しかし私の弱い信仰を強めてください。」ペトロの信仰をもう一度味わいましょう。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持ておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(翻訳担当:薩田)
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年間第20主日 B年 2024年8月18日
聖書: 箴言 9:1-6; 詩編 145; エフェソ 5:15-20; ヨハネ 6:51-58
ミサでは毎回、次の言葉が語られます: 「イエスの食卓に招かれる者は幸せです。イエスは私たちのためにご自分を差し出されました。」イエスは私たちを招き、この招きに私たちは自由に答えるのです。
今日の最初の朗読聖書、箴言の中で、私たちは神との食事を楽しむよう招かれています。神と共に食事をすることは、聖書の中で頻繁に出てくるテーマです。そのような食事は、神と温かく親密な関係を持つことを意味しているのです。
イエスはこの温かい関係の食事に私たちを招いています。新約聖書に、こう書かれています: 「私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、その人もまた私と共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)。
福音書では、イエスが、マタイやザアカイ、マルタ、マリアと食事をし、最後の晩餐では弟子たちと食事する様子が描かれています。そこには温かい雰囲気があります。最後の晩餐でイエスはこう言われました:「私は貴方がたを友と呼ぶ。」 真の友とは、ありのままの私を受け入れてくれる人のことです。さあ、聖体拝領で、イエスの友情の招きに応えましょう。
イエスは真の友です。私たちはイエスを信頼することができます。友として話すことができます。私たちの悩み、不安、疑念、小さな信仰を打ち明けられます。私たちの話を聞いてくださるイエスに、私たちの心を隠すことなく伝えることができるのです。イエスは私たちの友です。
ミサでは毎回、イエスの聖体を拝領した後、讃美歌を歌い、沈黙の時を持ちます。このとき、自分の言葉でイエスに語りかけましょう。まず、良いことがあったことについて「ありがとう」と言いましょう。そして、自分のため、家族のため、友人のため、日本のため、世界のために、心からの願いを表しましょう。特に平和のために。
今日の福音で、イエスは生きた声で私たちにこう言われます。「私の体はまことの食物、私は天から下った生きたパン。このパンを食べる者は、永遠に生きる。」 イエスの食卓に招かれた者は、本当に、幸せです! (翻訳担当:相田)
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年間第19主日 B年 2024年8月11日
聖書朗読:列王記上 19:4-8 詩篇34 エフェソの教会への手紙 4:30-5:2 ヨハネ6:41-51
旧約聖書からの第一朗読の中では、聖なる山、ホレブ山への、預言者エリヤの長い旅路が語られています。途中で、エリヤはお腹がすいて弱り、疲れ果てて落ち込みます。エリヤは「主よ!もう十分です」と祈ります。神様は目的地であるホレブ山に到達できるように、彼に食物、力、励ましを与えます。彼は無事にそこに着きます。
そこで、私自身の同じような経験を話します。私は27歳の時に、日本語学校の同級生3人と一緒に富士山に登りました。私達は山梨県で、午後5時に出発しました。午前1時頃、私達は小さな山小屋にやっと辿り着きました。私達は疲れ果てていました。霧の中、風はとても冷たく、薄い空気によって、息をするのも困難でした。エリヤのように、私達はもう十分です!私達はいくらかの栄養補給のビスケットを食べました。その時プロのガイドの方が来て、頂上まで登るよう、励ましてくれました。私達4人は絆を感じました。私達は立ち上がって、頂上まで登ることが出来ました。そして、日の出の時、麓の方に美しい眺め、特に黄色い菜の花を見ました。
富士登山では、3つの大事なことがありました。
1) 栄養のある食べ物が必要でした。
2) ガイドが私達を励ましてくれました。
3) 私達4人にはお互いを支え合う絆がありました。
皆さん、私達は大事な旅路、人生の旅路の途中にいます。この大変な旅路は私達の誕生の時に出発して、死ぬ時に終わります。だから私達には限られた時間しかありません。私達の人生の旅路の目的地は天国です。人生の目的は天国に無事に達して、永遠の命の喜びに生きることです。
私達にはこの旅路の為に霊的な食物が必要です。イエスは私達に力を与えるための食物としてご自身をお与えになります。ご聖体は、復活したキリストご自身です。イエスは私達に力と導きの両方ともお与えになります。イエスは私達が天国の山に登る時の同伴者です。イエスは私達に言っておられます。「私は命のパンである。」この聖なる食物、ご聖体は、私達に力と霊的な栄養を与えてくれるのです。ご聖体の力が無ければ私達は弱って倒れてしまうでしょう。聖パウロが言うように、「私は力づけて下さるキリストにおいて、何でもできる。」
私達は苦しみに遭う時、「神様、もう十分です。」と多分言うでしょう。イエスは私達を励まし、前へ進ませて下さいます。
そして今日、私達はミサの中で、皆さんと一緒にいます。共に祈りましょう。そして共にご聖体を戴きましょう。この一致はとっても大きな支えになります。
主の食卓に招かれたものは幸い。(翻訳担当:三村)
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年間第18主日 B年 2024年8月4日
聖書:出エジプト 16:2-4,12-15 詩編78 エフェソ 4:17,20-24 ヨハネ 6:24-35
まず準備として、旧約聖書の時代の歴史を少し考えてみましょう。 ユダヤ人はエジプトで奴隷状態にありました。 エジプトの王ファラオに命じられて、建物用のレンガを作るなど、過酷な労働に苦しんでいました。ユダヤ人は神に叫びました。「ああ、神よ!どうか私たちをお救いください。どうか私たちを解放してください。」神は彼らの叫びを聞き、神の道具としてモーゼを指導者に選び、エジプトから脱出させました。しかし、砂漠に入ると、彼らは神とモーゼに向かって不平を言いました。「私たちは空腹です!」すると朝になると白い物が現れました。ユダヤ人は、「マナ」と口々に言いました。ヘブライ語で「これは一体何だろう?」という意味です。そのため、白い物は「マナ」と呼ばれ、天からのパンと考えられました。
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ここで話題を変えます。何世紀にもわたり、ご聖体は、舌ではなく手のひらで受けられてきました。古代の司祭は民に宛てて次のように書き送っています。「ご聖体を受けるとき、私たちは手のひらに私たちの王であるイエスの玉座を作ります。」
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「マナ」に戻ります。「これは一体何だろう?」。私たちが手にご聖体を受けるとき、それを見て自分自身に「これは一体何だろう?」と尋ねてみましょう。ご聖体はイエスご自身です。
イエスはこう言っています。「私は命のパンである。」ご聖体はイエスご自身である神聖なパンです。パンは食物です。私たちは、毎日食物を食べています。食物は、私たちに栄養、エネルギー、生きる力を与えてくれます。ご聖体は、私たちの心と魂に栄養、エネルギー、そして力を与えてくれます。
イエスが示してくださった人生の道を歩むには、霊的なエネルギーと栄養が絶対に欠かせません。今日の聖書の中でパウロは、意味のない人生を送ってはいけないと言っています。自己中心的になってはなりません。キリストとともに新しい人生を始めましょう。イエスは私たちに命を与えてくださいます。イエスは私たちにエネルギー、栄養、そして力を与えてくださいます。本当に、イエスの食卓に招かれた者は幸いです。その幸いを分かち合いましょう。 (翻訳担当:田澤)
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年間第17主日 B年 2024年7月28日
聖書:列王記下 4:42-44 詩編145 エフェソ 4:1-6 ヨハネ 6:1-15
今日の日曜日から4週にわたり、ヨハネ福音書の第6章を読み祈ります。 テーマはご聖体です。ご聖体をいろいろな面から考えてみましょう。 私たちの典礼では、次のような言葉を使います。 「私たちの神であるイエスは、いつくしみ深く、恵みに満ちた方です。」 「ああ、神よ、あなたは寛大で、憐れみ深い。神に感謝します。」 私たちは普段の生活の中で贈り物をもらったとき、「ありがとう」と言います。神の優しさに感謝しましょう。
第一朗読は、旧約聖書の一場面です。神の代理人として預言者エリシャが少量の食糧を100人に与える場面が描かれています。 主の言葉通り、彼らは食べきれずに残しました。
福音書では、イエスは神として自ら5つのパンを5,000人以上に食べさせ、12籠いっぱいに残りました。これは神の寛大さを表す聖書的表現です。神は豊かに贈り物を注いでくださいます。
イエスは神として、自然を超えた力、物事や出来事を超えた力を持っていました。 福音書の中でいくつかのシーンが描かれています。イエスは食物を増やします。水の上を歩き、波と風を静めます。神の力でイエスは水をワインに変えました。イエスは死んでいたラザロ、ヤイロの娘に命を与えました。
最初の御ミサである最後の晩餐で、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、「このパンは私の体である」と言われました。イエスの時代、「体」とは「その人自身」を意味していました。つまり、イエスは「これは私自身です」と言っているのです。
イエスは、これらの非常に重要な言葉を語った後、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言いました。今日の御ミサはイエスを記念するものです。イエスは非常に寛大です。イエスは私たちに、心の糧としてご自身を与え、人生の道を歩む力と励ましを与えてくださいます。
今日から4週の御ミサの間、ご聖体で私たちにご自身を捧げてくださるイエスの美しさ、寛大さ、愛について深く考えましょう。
イエスの食卓に招かれた人は幸い。 (翻訳担当:田澤)
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年間第16主日 B年 2024年7月21日
聖書: エレミヤ 23:1-6; 詩編 23; エフェソ 2:13-18; マルコ 6:30-34
羊飼いや羊は、横浜ではめったに見られません。でも、聖書では、旧約聖書でも新約聖書でも、神の親密な愛と配慮を具体的に描くために、羊飼いや羊がしばしば用いられます。
少し時間を使って、イエスの時代の人々の文化や考え方の中に入ってみましょう。想像力を働かせて、その情景を見ることも大切ですが、それ以上に重要なのは、その場面の背後にあるメッセージについて考えることです。そのメッセージは、神が私たち一人ひとりを愛し、守り、導いてくださるということです。
今日の朗読聖書に、エレミヤの預言があります。「主なる神はこう言われる:私は羊飼いを遣わして、私の群れの世話をさせる。」私たちの羊飼いであるイエスは、この慰めに満ちた預言を実現させたのです。
イエスの言葉です:「私は良い羊飼いである。私はそれぞれの羊を名前で呼ぶ。私は羊のために自分の命を捨てる。」
イエスの時代、羊飼いは羊にとても優しくしました。夜も昼も羊を守っていました。子羊が生まれると、羊飼いはその子羊に名前をつけました。子羊は次第に自分の名前がわかるようになり、呼ばれると羊飼いのもとへ走っていくのでした。羊は安心していたのです。オオカミが羊の天敵でした。羊飼いは羊を守るための特別な杖を持っていました。羊は羊飼いの近くにいると、いつも安心できました。羊飼いは毎日、羊を食べ物と水のあるところに導いていました。
この場面を使って、私たちの羊飼いであるイエスに、私たちを導き、守り、守ってくださるように祈りましょう。私たちは彼の愛する羊なのです。
詩篇23を読み、祈りましょう。たとえ私たちが、痛みや苦しみの暗い谷間に入ったとしても、私たちの羊飼いであるイエスは私たちの近くにいてくださいます。イエスは私たちを導き、人生の道を共に歩んでくださるのです。
福音書には、私たちの良き羊飼いが行動している姿が描かれています。12人の弟子たちは疲れていたので、イエスは彼らに舟の中で静かな時間を与えました。しかし、船着き場では大群衆がイエスを待ち構えていました。イエスはとても敏感です。彼らの悩める心を、イエスは、とても、とても、深く感じられるのです。人々には指導者がおらず、心はさまよっていました。彼らは平安を深く望んでいたのです。イエスはとても深い憐れみを持った方です。復活された私たちのイエスは、今も同じです。イエスは今も言われています:私のもとに来なさい。(翻訳担当:相田)
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年間第15主日 B年 2024年7月14日
聖書:アモス 7:12-15; 詩編 85; エフェソ 1:3-14; マルコ 6:7-13
皆さん!次のことをよく考えてください。神様はわたしたちをお選びになりました。わたしたちは皆、イエス・キリストに従う者という大きな贈り物を頂きました。このことで自慢したり、自己満足しないでください。神様が選ぶ者は皆弱いと聖書に書いてあります。選ばれた者は、人間だけの力に頼ろうとすると、神様から頼まれた事を行うことはできないようです。
今日の第一朗読のアモスがその例です。アモスはユダ(南王国)出身の羊飼いでした。アモスは神様から選ばれ、北イスラエル王国へ預言者として行くことを命じられました。当時のイスラエルの人は、神様よりも権力とお金を選んでいたのです。「悔い改めよ」と呼びかけました。アモスは神様からの助けと導きに頼りました。
神様はわたしたちをお選びになり、わたしたち一人一人に家庭、職場、学校などで出会う人に対し、平和と愛の道具としてイエスに従う者となるように命じられました。
神様はわたしたちを選ばれましたが、排他的な集団にならないようにお命じになっています。暗闇の中の小さな光となるように命じられています。
第二朗読で聖パウロは、イエスを知り、人生の同伴者であるイエスと共にイエスの道を歩むために、わたしたちは選ばれたことを述べています。愛、ありのままに受け入れること、導き、許しというイエスの贈り物を他の人と分かち合うように求めています。わたしたちは分かち合いのために呼ばれそして選ばれているのです。
福音書では、良い知らせを伝えるために12人の弟子が選ばれ派遣されています。良い知らせとは、神様はすべての人を愛しているということです。アモスと同じようにこの12人は、神様の愛に応えるよう人々に呼びかけました。思い出してください。12人はほとんどが漁師でした。イエスの平和の道具としては適切でないようにも思えます。イエスは彼らに、杖は良いが、パン、袋、お金、替えの服は持って行くなと命じられました。当時の社会情勢を踏まえこの指示を解釈すると、「自分や物に頼ってはいけない。神様からの力、導き、言葉に自分をゆだねよ。」と12人にイエスが言われたのでしょう。
日本にいるわたしたちもイエスの愛、平和、力の道具になりましょう。わたしたちは大きな光となるように呼ばれていません。暗闇を照らす1本のろうそくの光となるように呼ばれています。イエスは、「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたを選んだのだ。」と言われます。弱さの中に力あり。(翻訳担当:薩田)
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年間第14主日 B年 2024年7月7日
聖書朗読:エゼキエル 2:2-5 詩篇116 コリントの教会への手紙II 12:7-10 マルコ6:1-6
私達は恵まれた者です!私達は選ばれて、私達の神であるイエスが教えて下さった人生の道を歩んでいます。
その道を歩む為の最初の一歩は、自分自身と向き合って、正直にそして、謙虚にこう言うことです。「私は弱い者です。私はこの美しい道を歩む為に、助けと力が必要です。」イエス、私達の神様は、誠実にそれを探し求める者に、喜んで助けと力と導きを与えて下さいます。
しかし、これはとても重要です!その最初の歩みは、人生の旅路の最後まで、いつも繰り返されなければなりません。
ミサのはじめに、私達は兄弟姉妹と共に、「私は罪びとです。」と祈ります。別の言葉で、私は皆さんと共に言います、私は弱い人間です。私が道を外れた時には、イエスよ、慈しみを持って私を赦して下さい。
第一朗読の中で、エゼキエルは、自分のことを「人の子」と呼んでいます。彼のように、イエスも弱い一人の人間であり、神の栄光をわきにおいて、本当の人間になりました。イエスも自身のことを又、「人の子」と呼んでいます。
弱さは人間であることの一つの要素です。イエスも人間の弱さと誘惑を経験なさいました。- しかし、罪は犯さなかった。そして、人生の道における私達の同伴者としてのイエスは、私達の傍にいて、とても近づき易い方です。福音書の中で、イエスは、自分の故郷ナザレに帰って、人々に受け入れられませんでした。「彼は、ただの私達の村の大工でなないか。」受け入れられないことは、イエスを傷つけます。彼らは「イエスは一体何者なのか?」と問います。私達一人一人にとって、イエスとはどういう方でしょうか?
パウロは、自分自身に同じ質問をしています。そして、パウロの答えはこのようです。「イエスは人生の道において、私の力、支え、導きです。」パウロは心の中に鋭いとげがあると言っています。というのは、パウロは弱さや傷を抱え、夢も消えてしまっていたのです。ある聖書学者たちは、パウロのとげとは異邦人への呼びかけに対して疑いがあったことだと示唆しています。又、ある学者は色々な誘惑だと言い、ある学者は、マラリアや目が悪いというような肉体的は弱さのことだと言っています。しかし、聖書の中の聖霊は、私達にはっきりと教えてはいません。私達は一人一人自分のとげを持っています。パウロは彼のとげを嫌い、神様に、このとげを抜き取ってくださいと願いますが、パウロは段々、このとげ、弱さ、あるいは誘惑のお蔭で、優しいイエスと出会ったと気づいたのです。イエスはパウロにそして、私達に言っておられます。「あなたの弱さの中でこそ、私はあなたの力である。」(翻訳担当:三村)
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年間第13主日 B年 2024年6月30日
聖書:知恵 1:13-2:24; 詩編 30; 二コリント 8:7; マルコ 5:21-43
ずっと前に経験したことがいつまでも記憶に残り、今でも時々わたしたちに影響を及ぼす出来事があります。
28歳のとき、わたしは和歌山県串本町の教会の主任司祭でした。そこでは時々日曜学校の先生の家へ訪問していました。隣の家には女性が住んでいることに気づきました。女性は病気でした。日曜学校の先生に女性の病気のことを聞いてみました。先生は上手に答えてくれました。医学的な用語を用いず、「イエスの服に触れた女性と同じ病気です」と教えてくれました。その女性と顔を合わせたこともありました。暗い部屋から外へ出たことが無いようで、孤独と困惑の深みにいました。
福音書では、串本町の女性と同じような孤独の深みにいた女性がイエスの服に触れました。イエスの中から神様の力が出て行き、その女性の病気は癒されました。イエスは女性を暗闇から抜け出させ再び人前に出れるようにされました。イエスは言われました。「安心して行きなさい。元気に暮らしなさい。」
イエスはその女性に慈しみ、理解、共感を表しました。家庭で祈る時また教会で聖体拝領の際にイエスを心に迎え入れる時、同じ優しいイエスに出会えます。イエスは、昨日も、今日も、いつまでも同じです。
女性を癒した後にヤロイの家へ向かいました。人々はイエスに「お嬢さんは亡くなりました」と言いました。イエスは家に入り女の子の手を取り「タリタ、クム」と言われました。マルコはイエスが実際に話した言葉を書き記しています。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。」イエスが実際に話した言葉によってその時の状況がありありと伝わってきます。人々は女の子が生き返ったのでものすごく驚きました。驚きと称賛が入り混じっていました。女の子のことは忘れさっていました。女の子は長い間食事を取れなかったのでお腹が空いていました。イエスは気が回り、食べ物を少女へ与えるように言われました。
遠藤周作さんはイエスの奇跡を「慈しみの物語」と呼んでいます。言い換えると、二千年前に現わされた奇跡の背景にある慈しみを味わうことができます。イエスは、昨日も、今日も、いつまでも同じです。
家庭での祈りや聖体拝領を通じて、思いやりがあり、慈しみ深く、理解がありまた共感してくれるイエスのもとへ行きましょう。イエスは優しくわたしたちを招いています。「わたしのもとに来なさい」
福音書の中でイエスに出会えます。イエスは昔から今に至るまで変わりません。イエスは今生きておられます。(翻訳担当:薩田)
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年間第12主日 B年 2024年6月23日
聖書: ヨブ 38:1-11; 詩編 107; 2コリント 5:14-17; マルコ 4:35-41
今日の福音の場面を見てみましょう。イエスは5000人以上の人々に、神の愛について語っておられました。ガリラヤ湖の東側でのことです。イエスが、弟子たちとともに、船で西側に戻ろうとしたときです。ガリラヤ湖ではよくあることですが、突然、激しい嵐が舟を襲いました。今にも沈みそうです。でも、イエスは舟の中で眠っておられます。弟子たちはイエスを起こし、「助けてください」と懇願しました。イエスは「まだ、疑っているのか」と言い、立ち上がって、神の力をこめて「静まれ」と嵐に言われました。恐ろしい高波だった湖は、静まり返りました。弟子たちは畏敬の念でいっぱいになりました。
この光景は2000年前のものです!現代の私たちにとって、どういう意味があるのでしょうか?
私たち人間は、心の嵐を経験します。例えば、心身の痛み、孤独、悲しみ、ストレス、悩みや問題、人間関係の破綻、差別、いじめ、うつ病、病気、その他多くの「嵐」です。イエスは私たちを「私のもとに来なさい」と招かれています。私たちが、嵐を胸いっぱいに抱えて祈っても、何も起こらないように思えることもあります。イエスは眠っておられるのでしょうか?私たちの祈りは届いていないのでしょうか?
苦悩の中で祈る私たちの祈りは、決して無駄にはなりません。イエスからの答えに、時間がかかることもあります。時には、私たちの祈りは、別の方法で答えられることもあります。私たちの祈りは決して無駄にはなりません。イエスは 「求めなさい、そうすれば与えられます。卵を願ったときに与えられたものが、さそりの様に見えることがあったとしても、もっと良いものが与えられます。」と言われます。
イエスは真の人間として、パリサイ派の人たちが自分を殺そうと企んでいることで、大きな恐れを経験されました。オリーブの木の園で、イエスは父なる神に祈りました。「父よ、どうかこの苦しみを私から取り去ってください。でも、私の意志ではなく、御心のままに。あなたが私を愛してくださることを知っています。私の全てをあなたに委ねます。」
イエスは今、生きている声で、私たちに言われます:「疲れている者、苦しみの重荷を負っている者は皆、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」
私たちの叫びに対して、イエスが最善の答えを与えてくださることを信じましょう。
そして、他の人々のために、平和と励ましを与える道具となりましょう。(翻訳担当:相田)
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年間第11主日 B年 2024年6月16日
聖書:エゼキエル 17:22-24 詩編92 2コリント 5:6-10 マルコ 4:26-34
神様が私たちに与えてくださったすべての良かったことに対して、1時間かけて感謝しましょう。(この1時間は、心配事や問題、苦しみを脇に置いておきましょう。)
私たちは神様を「万物の造り主」と呼びます。それは、エゼキエル書、詩篇第92篇、福音書にあるイエスの言葉からも読み取れます。大自然の緑、草木や花、鳥に対して神様に感謝しましょう。
先週のNHKニュースで、600人が田植えをしている様子を見ました。彼らは地元や遠方(特に都会)からやって来ました。その様子は、まるでお祭りのようで、みんな足首まで田んぼの泥に浸かって、楽しそうでした。一人の若者が苗を持ち上げて、感慨深げに眺めているシーンがありました。想像力を働かせて、私たちのルーツに立ち返ってみましょう。
小さな種に命を吹き込み、成長させ、実を結ばせるのは神様です。だから、私たちの植えた稲が食卓に上り、また花が咲き、果物が実るのを眺めることもできます。自然を当たり前のこととして考えないで、この美しい恵みを神様に感謝しましょう。
私たちはまた、神様を「命の源」と呼んでいます。私たちは生きています!! 命は素晴らしい恵みです。神様からの命の担い手であるお父さんとお母さんにも感謝しましょう。私たちの命を当たり前と思わないでください。
第二朗読の聖パウロは、私たちをより高いレベルに導いてくれます。神様は私たちに信仰の恵みを与えてくださいました。イエスを旅の同伴者として、私たちは人生の道を歩みます。私たちの目的地は、天国でイエス・キリストと共に過ごす永遠の命なの
です。「神様に感謝!」
福音書の中でイエスは、信仰の恵みは非常に小さなからし種のようなものだと語っています。私たちの信仰は徐々に成長します。ですから、特に祈りの中で、救い主であるイエスとつながり続けることが大切です。イエスを同伴者とすれば、私たちは自信を持って人生を歩むことができると聖パウロは語っています。
私たちの人生の良かったことを思い出して、「神様、ありがとう」と言いましょう。そして、みんなで分かち合いましょう。 (翻訳担当:田澤)
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年間第10主日 B年 2024年6月9日
聖書朗読:創世記 3:9-15 詩篇130 コリントの教会への手紙II 4:13~5:1 マルコ3:20-35
聖書は創世記からはじまります。創世記は実際の歴史ではありません。それは神話です。創世記はおとぎ話ではありません。神様から私達に与えられた、大変重要なメッセージを含んだ物語です。そのメッセージはこのようなものです。神様はこの世界を創造され、そして、そこに生きる私達人間をお造りになりました。そして神様は私達に、命を大切にするよう、そして世界を大事にするようにとおっしゃっています。ですから、私達は緑の自然を大事にしましょう、そして私達が息をする空気も大事にしましょう。地球温暖化が進んでいるこの世界を守りましょう。
創世記の第3章(今日の朗読)の中で、私達人間が誘惑を受けて、神様の道からそれてしまったことが描かれています。私達は時々そうした誘惑に遭います。私達はその過ちを他の人のせいだと言わないようにしましょう。自分自身が犯した罪です。私達はごミサのはじめに次のように言います。「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました。」答唱詩編130は、第一朗読に対する本当の、正直な答えに違いありません。私達の神様は罰する神様ではなく、恵みと慈しみに満ち、赦しを与えて下さる神様です。神様は私達人間が弱く、時に的に向かって矢を射っても外してしまうことをよくご存知です。詩編の中で言っています。「神よ、私達に赦しを与えて下さい。私達にあなたの慈しみを与えて下さい。」
私達人間は神様との温かい繋がりを持つ時にのみ、本当の幸せを味わうことが出来ます。罪は、私達と神様の間に高い塀を築きます。でも、私達が道からそれてしまったことを、心から神様にごめんなさいと言えば、神様はその塀を壊して下さいます。神様は私達をその温かい交わりの中に戻して下さいます。私達はその平和を味わうことができます。
私達は祈る時、そのことを思い起こしながら、温かい交わりを喜んで味わいましょう。祈りは私達にとって非常に大切です。その祈りを通して神様は私達にその愛を示して下さるのです。
福音の中で今日イエスはこう言われています。全ての罪は赦される、しかし聖霊に反する罪は赦されない。聖霊に反する罪とは、人間が、神様のことを悪だと言って、それを頑なに守り続ける状態のことです。神と自分自身との間の障壁は、その人自身が作っているのです。私達の神様は、慈しみ深く、理解と愛に満ちた方です。ですから私達は、その優しい神様との交わりをいつも保ちましょう。神様のいつくしみは私達にとっての平和です。(翻訳担当:三村)
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キリストの聖体 B年2024年6月2日
聖書: 出エジプト記 24:3-8; 詩編 116; ヘブライ 9:11-15; マルコ 14:22-26
今日のミサ‘キリストの聖体’での聖書朗読では3つの重要な言葉があります。
契約 血 記念 です。
これら3つの言葉の深い意味を理解するために、人類の古い時代の歴史を考えてみます。
国どうしまたは部族間が戦争または仲たがいの状態から平和で仲直りし互いに助け合う状態に戻る前に、お互いに真摯な約束を交わします。この相互の真摯な誓いを契約と呼びます。互いに約束を守ることへの印またはシンボルとして、血によるサインをすることがあります。この意味は、お互い命をかけて約束を守るということです。血は命のシンボルです。自分の血を用いる場合もあれば、動物の血を用いる場合もあります。
今日の日本でも似た事が引き続き行われています。「血判」やわたしたちが日常的に日々使っている「朱肉」の色は血を表してます。
聖書朗読の中で、神様ご自身が人間に対し真摯な約束をされています。一番初めに、アブラハムとその子孫に対し約束されました。神様は約束されています。「わたしはあなたと共にいる。あなたを守り、盾となる」
イエスは神様が人間と交わした約束を新たにし、自らの血で証明されました。
イエスがご自分の命を犠牲とされる前の晩に、家庭的な聖餐式において種なしパンを取り言われました。「これはわたしの体である」ここで使われた‘体’という言葉は、‘私自身’という意味です。次にイエスは杯を取り、「これは、新しく終わることがない契約のためのわたしの血である。これをわたしの記念として行いなさい。」
ここでの‘記念’という言葉はとても深い意味があります。過去の出来事を想うとその出来事は今の事になるという意味です。
世界でもっとも古い宗教の中で、オーストラリアのアボリジニーのものがあります。その宗教は外部からの影響を全く受けませんでした。過去の出来事を想うという儀式があります。厳粛な踊りの中で、過去を想いそのことがアボリジニーの人にとって現在の事になるのです。
わたしたちのミサの中で、イエスは励ましに満ちた言葉を言われます。「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを守る。これはわたしの大切な約束である。」イエスはわたしたちを愛しておられます。
聖体拝領において、イエスはご自身をわたしたちにお与えになります。食べ物という形でイエスはわたしたちの心の中に入って来られます。食事は体に栄養を与えます。ご聖体は心を温める食べ物で、心に栄養を与えます。わたしたちはイエスと歩む人生にエネルギーを頂きます。
イエスは約束されます:「わたしはいつもあなたと共にいる。あなたを守る。」
私たちの応え:「イエスよ わたし自身をあなたに捧げます。あなたに人生を委ねます。」
イエスの食卓に招かれた者は幸い
(翻訳担当:薩田)
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三位一体の主日 B年 2024年5月26日
聖書: 申命記 4:32-40; 詩編 33; ローマ 8:14-17; マタイ 28:16-20
15年前、私はこんな経験をしました。私たち7人の司祭は、東京の上野毛にあるカルメル会修道院で3日間の黙想と分かち合いをしていました。祈りで、三位一体の主日の聖句を用いました。祈りの後、分かち合いをしました。7人のうち6人は大学院で学んだ経験がありました。一人は15歳で学校を離れて郵便局で働き、後に電報のモールス信号のオペレーターになりました。18歳で海軍に入隊、25歳で神学校に入り、勉強が難しいと感じていました。しかし、その彼がこう言ったのです。「三位一体は愛の神秘です。だから私は父と子と聖霊の偉大な愛の中に入っていきます。そこで私は愛を味わい、温かさと平和に浸ります。」これを聞いた私たち6人は沈黙しました!反対の沈黙ではなく、完全な同意の沈黙でした。本当に、これは神秘の祈りでした。この黙想会で、三位一体に対する見方が変わりました。以前は、三位一体はとても複雑なものと思っていたので、そこから逃げていました。今は、三位一体は私にとっても喜びです。
私たちは、唯一の神が存在すると強く信じています。しかし、唯一の神の内的生活の中に、父と子と聖霊がいるのです。神の内的生命は私たち人間には把握できません。
洗礼によって、私たちは三位一体の愛に入るのです。三位一体を考えるとき、「愛」を考えましょう。私たちは十字架の印を結ぶたびに、三位一体の御名を思い起こすのです。
教会の博士たちは、私たちが三位一体を理解するのを助けるために、それぞれに特別な働きを割り当てています。それぞれがその働きを担っている、あるいは分かち合っていると博士たちは述べています。しかし、神は唯一です。
父なる神は創造主であり、私たちは父なる神が深く愛する子です。創造主である父は、私たち人間がいかに弱いかを知っておられるので、私たちを救うために御子を遣わされました。御子イエスは、私たちに御父を「アッバ」と呼ぶように教えられました。この言葉はイエス自身の言葉からきています。私の愛する、愛に満ちた、理解ある父という意味です。「アッバ」は、御父を信頼するよう私たちに呼びかける特別な言葉です。(第二朗読の聖句)
御子なる神は天の栄光を捨て、真の人間として私たちの間に来られました。これによって、私たちの神は私たちのすぐ近くにおられます。福音書を読み、いかに優しく、親切で、人間の弱さを理解し、赦す用意があるかを見て、私たちは「これが神の心だ」と言えるのです。これこそ神が私たちに与えてくださる親切な扱いであり、配慮です。
御子である神は、私たちと同じ人間となられました。イエスはその優しい人間としての行動によって、神の心がどのようなものであるかを私たちに示しています。イエスは御父の自画像です。
聖霊なる神は、イエスの御父への願いで、私たちに遣わされます。聖霊によって私たちの人生の旅路に、力、導き、そして希望がもたらされます。聖霊は私たちが苦しむとき、慰めと温かさを与えてくださるのです。
私には次のような習慣があります。毎朝、目を覚ますと、ひざまずいて、短く、こう祈ります:「父よ、新しい一日をありがとうございます。イエスよ、今日も私と共に歩んでください。聖霊よ、今日も私を導いてください。」 (翻訳担当:相田)
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聖霊降臨の主日 B年 2024年5月19日
聖書:使徒言行録 2:1-11 詩編104 ガラテヤ 5:16-25 ヨハネ 15:26-27, 16:12-15
福音書を読むとき、これらすべての出来事が2000年前、遠い過去に起こったこととは考えないようにしましょう。 イエスご自身と彼の言葉は今も生きています。 確かに、私たちは奇跡を見ることはできませんが、奇跡は教会の設立には必要でした。 しかし今日、私たちは奇跡の背後にあるイエスの憐れみを味わうことができます。 イエスは今日、私たちに憐れみを注いでくださいます。
しかし、イエスは私たちに一つの使命を与えてくださいました。 イエスは私たちにこう求めておられます。「全世界へ行って、あなたの家、職場、学校、親戚や友人、そして出会うすべての人たちに私の証人となってください。 私の平和、愛、許し、そして他者を受け入れるための道具となってください。」
弟子たちは、「全世界へ行きなさい」というイエスの話を聞いたとき、戸惑いました。 彼らは一介の漁師に過ぎず、イエスの使命を行う自信を持てませんでした。まだ彼らはイエスの教えを、完全に理解できていませんでした。 弟子たちは、①自分たちの弱さを認めました。 そしてマリアとともに、②約束された聖霊の力と導きを求めて心から祈ったのです。
聖霊が降臨すると、彼らは男も女も変わりました。 あれほど臆病だったペテロは、勇気を出して群衆の前でイエスのことを語りました。 マグダラのマリアは、フランスのマルセイユに行きイエスの言葉を伝えました。 聖霊は彼らを導き、強めてくださいました。
同じ聖霊が今日私たちを導き、強めてくださいます。
「イエスの道を歩むには、自分の力に頼るべきでしょうか、それとも聖霊が惜しみなく与えてくださる力に頼るべきでしょうか」、一人一人が自問してみましょう。
①弱さや出来ないことを認めましょう。
②力と導きと正しい言葉を聖霊に祈りましょう。
「行って、私の証人となりなさい」とイエスは私たちに語り掛けています。言葉と模範的な行いによって証ししましょう。
今日の聖書と続唱では、聖霊が私たちに人生の道に導きと力を与え、また苦しみの時には慰めを与えてくださると語られています。 聖霊は私たちに祈り方を教え(ローマ人への手紙 8:26)、優しい父なる神を「アッバ」と呼ぶように教え(ガラテヤ人への手紙 4:6)、イエスの教えを思い起こすように教えてくれます(ヨハネ 14:26)。 今日の第二朗読でパウロは語ります。 聖霊によって私たちに与えられる恵みは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。 「なんと素晴らしい!」
「聖霊よ、来てください。」 (翻訳担当:田澤)
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主の昇天 B年 2024年5月12日
聖書朗読:使徒たちの宣教 1:1-11 詩篇47 エフェソの教会への手紙 1:17-23 マルコ16:15-20
私達は皆、イエスキリストの弟子です。イエスご自身が私達をお選びになりました。私達が自分でイエスを選んだわけではありません。私達はイエスの招きに応えました。イエスは、昔の弟子達に言われたのと同じように、このように言われています。「神様が全ての人を愛しておられるという喜ばしい知らせを、宣言しなさい。私は、あなた方にこの使命を与えます。この使命を果たすために、私はあなた方と共に働く。」
今日の福音の最後に、「イエスは弟子達と共に働いておられた。」とあります。それは非常に励ましに満ちたメッセージです。何故なら、イエスは私達と今も一緒に働いておられるということだからです。 イエスは言っておられます。「私はいつもあなたと共にいる。」
イエスは天に昇られ、そして父なる神の右の座に座しておられます。イエスは父と聖霊と一致した神である、というのが聖書の言い方です。復活したイエスは2000年前のイスラエルで弟子達と共にいただけではなく、イエスは全世界で今も私達と共におられます。イエスは人間の代表者として、私達のために祈り、聖霊を送って下さいます。その聖霊は導きを強め、この地上で私達を励まし、慰めを与えてくれます。
神は愛であるという喜ばしい知らせを宣言する時には、私達は決して独りぼっちではありません。教皇フランシスコはこのように言っておられます。「キリストは生きて、いつも私達の傍におられます。 キリストは光を照らして、力づけ、解放して下さいます。」
私達は一人残らず全ての人が、それぞれの自分の小さな社会の中で、出来る限り、イエス様の証人になるようにと呼ばれています。イエス様が弟子達に彼らの使命を告げた時、彼らの反応はこのようなものでした。「私達にはそのような使命を果たすことは出来ません。私達はただの漁師です。私達には自信もないし、適格な言葉を言うこともできません。神が愛であるという喜ばしい知らせをどのように宣べ伝えていけばいいのか分かりません。」
イエスは彼らに、そして私達に言っておられます。「恐れてはならない。私はあなたと共にいる。わたしはあなたと一緒に働く。」
私達はそれぞれがイエス様によって、彼の平和、彼の愛、赦し、希望、そして、励ましの道具になるようにと求められています。私達は教会で、家で、仕事場で、学校で、出会う全ての人に対して、イエス様の平和の道具となりましょう。私達は、お父さんとして、お母さんとして、同級生として、また同僚の間でも、イエス様の弟子です。施設に入っている人、また寝たきりの人でも、人々のために祈ることが出来ます。
私達は神様が愛であるという良い知らせを言葉でも、又、自分が模範としても宣言することができます。具体的には、私達は人に対する親切や思いやりを示すこと、また傷つけられても、その人を赦すことが出来ます。また、私達は「良くやったね」とか、「有難う」ということが出来ます。ある時は人々にほほ笑みを通して伝えることも出来ます。私達は喜ばしい知らせを、沢山の小さな出来事を通して、日々の平凡な出来事を通して宣言することが出来ます。
決して、私は何もできないと言わないで下さい。
キリストは働いていらっしゃいます。私達もキリストと一緒に働きましょう。(翻訳担当:三村)
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復活節第6主日 B年 2024年5月5日
復活節第6主日B年 2024年5月5日
聖書: 使徒言行録10:25-48; 詩篇98; 一ヨハネ4:7-10; ヨハネによる福音書15:9-17
今日のミサの入祭の歌は「慈しみ深き友なるイエス(カトリック聖歌集#657)」です。
今日は、イエスが私たちに与えてくれる素晴らしい贈りものについて考えてみましょう。それは何でしょうか?友情です。イエスは私たち一人一人に言います。「あなたは私の友である。」(ヨハネ15:15)私たち一人一人自問してみましょう。「私はイエスと友人としての温かい関係を持っているでしょうか?」友人として、イエスは私たち一人一人に名前で呼びかけます。(イザヤ43 & ヨハネ10:3)
福音書におけるイエスの友人である具体例として、愛された友人であるラザロ、マルタ、マリアの家族があります。この家族はエルサレムの外れにあるベタニアという町に住んでいました。
イエスはこの三人を訪ね、語り、食事を共にしました。イエスにとって、それは気分転換でした。ラザロが亡くなったとき、イエスは二人の姉妹と一緒に悲しみに暮れました。これが深い友情です!
イエスは私たち一人一人に、同じような深く思いやりのある友情を示してくれます。
私はこれまでお説教の中で、イエスとの友情について何度も話しをしました。この温かい関係を理解することは、私たちの祈りに役立つと私は固く信じています。祈りの博士・アビラの聖テレジアは次のように書いています。「祈りは友であるイエスとの会話です。私たちはイエスから愛されていることを知っています。」
イエスは、聖書の基本的な考えである「友」という言葉を使います。アブラハムは神様の友でした。モーセも神様の友であり、二人は神様に対し友として語りました。
また、イエスも知っていた旧約聖書のシラ書第6章では、「忠実な友は安全な隠れ場です。そのような友を見つけると、宝を見つけたことになる。これ以上価値のあるものはない。」と書かれています。イエスはそのような忠実な友です。
私たちは、イエスのような忠実な友に心をさらけ出すことができます。心配事、痛み、問題、ストレス、疲れをイエスに伝えることができます。もしかすると、私たちは心に空白があったり、神の愛を感じないかもしれません。そんなことでも大胆にイエスに伝えることができます。
もし人生で忠実な友を持っているなら、その贈り物に感謝しましょう。親しい友がいないか、あるいは友に裏切られた経験があるなら、祈りの中でイエスに出会いましょう。
私たちはイエスを友として選ぶのではありません。イエスが私たちを選びます。イエスは私たちにその友情に応えることを望み、他の人々とその温かさを分かち合うように求めています。
最後の晩餐で、友としての言葉を用い、イエスは弟子たちそして今日の私たちにも言います。「友のために命を捧げること以上の愛はない。あなたは私の友である。」(翻訳担当:薩田)
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復活節第5主日 B年 2024年4月28日
復活節の朗読聖書は、私たちにとって特に大切です。それは、復活されたイエスが、今日、私たちの中で、どのように働いておられるか、示しているからです。イエスは「マリア」と名前を呼びました-イエスは私たちを名前で呼んでくださいます。イエスはエマオへの道で、落胆した2人の弟子たちと共に歩みました-イエスは私たちが人生の道を歩むときの同伴者です。イエスは信仰が弱くてもトマスを受け入れました-イエスは、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。イエスは私たちの優しい羊飼い-私たちはイエスが導き守ってくださる羊です。これらの場面は、私たちがイエスと、どのようにつながっているか、示しています。私たちには温かい関係があるのです。
今日の福音のキーワードは、9回繰り返し出てくる、「つながる」です。イエスは私たちに「ぶどうの木」と「枝」のたとえを話されています。
イエスのたとえ話を読んだり聞いたりするとき、私たちは、「そのたとえ話の、私にとっての教訓は何だろうか?」と心を向けて、考えるよう求められています。
ぶどうの木は、山梨県ではよく見かけますが、横浜市ではめったに見かけません!そこで、イエスの時代、そして現在における、ぶどうの木とその枝について考えてみましょう。
ぶどうの木は土の奥深くに根を張ります。樹液(または生命)は幹に上り、枝に回ります。最初、緑の葉が出て、それからぶどうが実ります。毎年秋になると、樹液がたくさん回るよう、枝を剪定します。そうすることで、より多く、ぶどうが実ります。でも、もし枝が幹とその樹液から切り離されたら、その枝はただ枯れて死ぬだけで、命がありません。
イエスは、私たちに命を与えてくださる、ぶどうの木です。もし私たちがイエスとつながっているなら、人生の旅路の間、命、エネルギー、方向性、希望を持つことができます。
そしてイエスは、私たちに与えてくださる賜物を、分かち合うよう求めておられます。それが『実を結ぶ』ことです。
イエスは亡くなる前の最後の晩餐で、私たちにこのたとえ話をされました。「つながる」という言葉が9回も使われており、このメッセージの大切さが表れています。
私たちは、どのようにつながっていられるのでしょう?私たちが祈るとき、そして聖体拝領でイエスが私たちのところに来てくださるとき、私たちはイエスと出会えます。イエスとつながっているということは、私たちがイエスと親密で温かい関係を持っている、ということです。イエスは、人生の道を私たちと歩んでくれる、私たちの神様です。イエスは私たちに生命、エネルギー、導き、励ましを与えてくださいます。イエスが私たちに与えてくださる賜物を、他の人々と分かち合いましょう。今週は、誰かに、優しい励ましの言葉を、あるいは心からの微笑みを贈りましょう。
「私はぶどうの木、あなたは私の枝」
(翻訳担当:相田)
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復活節第4主日 B年 2024年4月21日
聖書朗読:使徒たちの宣教 4:8-12 詩篇118 一使徒ヨハネの手紙 3:1-2 ヨハネ10:11-18
私達の神様は、私達一人一人を、神様との親しい交わりを持つようにと招いて下さっています。これは今日の聖書朗読のテーマです。第2朗読の中でこのように書かれています。洗礼の時、神様の命が私達の中に入り、私達は神様の子供になります。神様は私達の父 – 私達一人一人をご自分の子供として非常に深く愛して下さる、とても優しい父親になります。私達は神様を父、アッバ(お父ちゃん)と呼びます。これは非常に近しい温かいつながりです。その温かいつながりは現実の事です、たとえ話ではありません。事実なのです。
今日の福音の中で、私達の神様であるイエスは、私達一人一人に生きた声で次のように言われます。「私は良い牧者である。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」
元々のギリシャ語の福音では「知る」という動詞は非常に強い言葉です。そして深い意味があります。それはただ単に頭で知るということではなくて、心での深いつながりを持つということです。
この温かいつながりを説明するため、イエスは羊飼いと羊のたとえ話を私達に与えて下さいました。イエスはご自分の羊を知っておられます。私達の神、良い牧者であるイエスは、ご自分の羊である私達一人一人を守り、救う為に、ご自分の命を捧げるまでも愛して下さいます。(命を捧げるという言葉は、今日の福音の中に5回も出てきます)
横浜の街はビルやコンクリートばかりで、羊は珍しいです。これから、イエス様の時代の羊飼いと羊のことを考えましょう。イエス様の時代、羊の群れは普通10頭から20頭位でした。そして、羊飼いは普通、雇人ではなく、飼い主の息子さんでした。ですから、その羊は特別でした。夜、羊飼いは囲いの門の所で寝ます。そして朝になると、彼らの名前を呼んで、餌と水の所へ連れていきます。羊は羊飼いの声を知っています。何故なら、生まれた時、それぞれの子羊に羊飼いは特別な名前をつけるからです。ですから、それぞれの羊は、羊飼いの声を知っていて、羊飼いと羊の間には温かいつながりがありました。羊飼いは、その羊の好き嫌いや、強い点、弱い点も全て知っていました。羊は自分のものだったからです。羊は安全を感じていました。羊飼いは羊を彼らの天敵、オオカミや鷲から守るための特別な杖を持っていました。
イエスは私達の良い牧者です。けれども、これはメッセージのあるたとえ話です。私達は動物ではなく、人間です。
人間としてイエスは私達一人一人を名前で呼ばれます。イエスは私達を見守り、導いて下さいます。イエスは私達が何が好きなのか、その好き嫌いをも、又、良いところも弱さをも知っておられます。イエスは私達を愛し、ありのままに受け入れて下さいます。イエスは私達を深く愛し、私達の為に、ご自分の命をもお捧げになりました。私達はこの愛に応えましょう。
この優しいイエスとつながりを持って、祈りの中でイエスに話しましょう。イエスが求めておられるこの温かい交わりを味わいましょう。そして他の人達を教会という群れに連れてきましょう。
追伸:今週、聖書を開いて、詩編23番「主はわれらの牧者」をゆっくりと祈りましょう。(翻訳担当:三村)
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復活節第3主日 B年 2024年4月14日
聖書: 使徒言行録 3:13-19 詩編4 1ヨハネ 2:1-5 ルカ 24:35-48
ルカの福音書24章は、キリストとともに人生の道を歩む私たちへの励ましに満ちています。 私たちは「パンを裂く」(御ミサで)イエスに出会い、聖書の中でイエスの声を聞きます。 今日の福音書の中でずっと昔に亡くなられ復活した主に、聖書を理解するために私たちの心を開いてもらいましょう。聖歌「ガリラヤの風かおる丘で」を歌いながら、
「夕暮れのエマオへの道で
弟子たちに告げられた
救いの御言葉を
私にも聞かせてください」
さて、2階の部屋にいるあの弟子たちの小さなグループの雰囲気を想像してみましょう。 彼らの指導者イエスは、無実にもかかわらず、犯罪者として十字架につけられ死んだのです。彼らは、自己中心的でイエスがローマ兵に捕らえられたときに逃げてしまった臆病者でした。 その後のリーダーであるペトロは、イエスのことを三度知らないと言いました。 弟子たちは失望とともに、恥ずかしさ、罪悪感、自責の念でいっぱいでした。
そのとき、扉には鍵がかかっていたにもかかわらず、復活したイエスが彼らの真ん中に現れます。 「亡霊だ!」 全員が恐れでいっぱいでした。 彼らは、亡霊は死後に現れて、生前に自分を傷つけた人々に復讐し、罰を与えると信じていました。 イエスは人間のことをよく知っていて、こう呼びかけます。 「私の手や足を見なさい。 まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。 - 亡霊には肉も骨もない。」 信じた人もいましたが、まだ疑いと恐れを抱いている人もいました。 弟子たちに安心感を与えるために、イエスは焼いた魚を食べてみせます。 亡霊は食べ物を食べません。 イエスはとても思いやりのある方です。
この場面は、イエスが私たち人間の恐れや疑いをどれほど理解しているかを示しています。 それは私たちの神は罰を与える神ではないことを表しています。私たちのイエスが優しく、思いやりがあり、いつくしみに満ちていることがわかります。 その偉大な愛に応えてくれるのを待っている忍耐強い神です。 それは無条件で、私たちに対して「もし」という言葉を使いません。 決して「あなたが良い人であれば、あなたを愛します」とは言われません。 いつも「ありのままのあなたを」愛してくださいます。
今は神の栄光と力の中にありますが、復活したイエスはまだ人間の体を持っていました。 イエスの手と足には、十字架に打ち付けられた釘跡の傷がまだ残っていました。 どうしてでしょうか? それは、本当に同じイエスであることを弟子たちに示すためです。 しかし、別の理由があります。 私たち人間は、心に傷を負っていることがよくあります。 人間関係や出来事に傷ついたり、時には、私たち自身の心が傷を引き起こすこともあります。 復活したイエスの傷は、私たちの傷をイエスのもとに持っていこうという目に見える招きです。 イエスは、次のような言葉で力強く招きます。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」 復活の主イエスは、私たち一人一人のそばにいて、弟子たちに与えられたのと同じ励ましを与えてくださいます。 確かに、イエスに従う私たちは神から賜物を与えられているのです。
今日の福音の最後の言葉で、イエスは神から与えられた賜物を他の人と分かち合うように求められました。 私たちの小さな社会でイエスの証し人になるよう求めています。 そして、イエスが私たちに何かをするよう求めたとき、いつもその要求を実行するための力を与えてくれます。
疲れていませんか、ストレスがありませんか、熟睡できていませんか? もしそうなら、詩篇4篇を祈ってください。イエスはこの詩篇の実現です。 詩篇4篇は今日の答唱詩編です。 夜の祈りの詩篇です。(翻訳担当:田澤)
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復活節第2主日 B年 2024年4月7日
聖書: 使徒言行録 4:32-35; 詩編118; 1 ヨハネ 5:1-6; ヨハネ 20:29-31
わたしたちにとって神様とはどのような方でしょうか。弱い人間であるわたしたちに、神様はどのような態度を取られているでしょうか。神様の道を外れたり、無視した時、神様はわたしたちを見捨てたり、罰したりするでしょうか。この質問はとても大切で本質的なものです。よく考えて正直に答えましょう。
今日の答唱詩編118節でわたしたちは、「神のあわれみは永遠 神の慈しみは絶えることがない」と歌い聴きます。これは神の愛は無条件であるという意味です。神様の道を外れたり、無視したり、拒んだりしても、神様はわたしたちを罰したり、無視したり、拒むことはありません。
わたしたちの神様は100%の愛を注いでくれます。神様は忍耐強く、神様の素晴らしくまた美しい愛にわたしたちが応えることに神様は希望を持たれています。
今日の福音書では、わたしたちはこの美しい教えの具体例を見ます。
イエスは復活後弟子たちの前に現れました。イエスがローマ兵に捕まった時に弟子たちは逃げたので、自分たちに仕返しをするために幽霊が来たと弟子たちは思いました。幽霊ではなく復活した本物のイエスでした。イエスは弟子たちを落ち着かせ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。ふたたびイエスを見られたので弟子たちは喜びで一杯でした。イエスのおかげで、彼らの心にはふたたび希望がわきました。
その時弟子のひとりであるトマスはその場に居ませんでした。失望や喪失に出会いひとりになりたかったのです。その後トマスは仲間の温かさが欲しくなり、弟子たちのところへ戻りました。弟子たちが「わたしたちは主を見た」というと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見なければ、わたしは決して信じない」と言いました。トマスは頑固で疑い深かったのです。
イエスはふたたび現れました。この時はトマスも弟子たちと一緒に居ました。ここに人間の弱さに対する神様のあわれみと理解への具体例を見ることができます。イエスはトマスを叱ることも罰することもしませんでした。イエスは優しく寛大でした。優しい声でイエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」と言われました。イエスの慈しみと愛に対しトマスは深い信仰を持って「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。イエスは忍耐強くトマスが愛に応えるのを待っていました。
トマスにしたのと同じように、イエスは今日わたしたちにも向き合っています。聖書の中の大切な言葉「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることがない方です」(ヘブライ13:8)をいつも思い出しましょう。
「神様の愛と慈しみは終わることがありません」わたしたちはとても恵まれた者であることを理解し、他の人と神様の愛を分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)
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復活の主日 B年 2024年3月31日
聖書:使徒言行録 10:34-43;詩編 118;1コリント 5:6-8;ヨハネ 20:1-9
福音書を読むと、私たちの神である、優しく憐れみ深いイエスに出会います。一人息子を亡くしたナイムの未亡人を憐れむイエスの姿。孤独なザアカイと触れ合うイエス。亡くなったラザロの二人の姉妹と一緒に泣いておられるイエスの姿。彼らはイエスの友人だったのです。
これらは、2000年前、中東の小国でそのような人々に出会ったイエスの姿です。
まったく同じイエスが今日も生きて、私たちの中にいらっしゃいます-ご復活のおかげで。復活したイエスは今日も生きておられます。イエスは私たちを支え、導き、励まし、友情と愛を与えてくださる。それこそが、復活が今日の私たちに意味することなのです。復活したイエスは、私たちと共に人生の道を歩んでくださいます。イエスは私たちの旅の仲間です。私たちは決して孤独ではありません。地上でのイエスの最後の言葉はこうでした:「私はあなたと共にいる。」励ましと愛に満ちたこの言葉を、イエスは生きた声で言われます: 「私はあなたと共にいる。私はいつも、あなたのすぐそばにいる。」
私が復活の本当の意味を深く理解するようになったのは、茅ヶ崎で助任司祭をしていた時でした。私の「聖書を祈る」クラスに3人の老紳士がいました。田辺さんはその一人でした。田辺さんの奥さんは亡くなっていて、娘さんと婿さんと3人で暮らしていました。そんな中、婿さんは会社の仕事で3年間、アメリカで働くことになりました。それで田辺さんは一人暮らしとなりました。ある日、田辺さんが夕飯を食べていると、聖書クラスの友人がやってきました。その友人が 「田辺さん、一人の食事で寂しくないですか?」と言うと、田辺さんは、こう答えたのです「一人なんかじゃないよ。イエス様と一緒に食事をしているのだから。」
これが復活の意味するところです。私たちと同じ人間性を経験された私たちの神であるイエスは、復活され、私たちのそばでいつも生きておられるのです。祈りのときばかりでなく、私たちが何をするときでも、いつもです。
祈りの中で、このようなイエスと日々触れ合いましょう。毎朝、イエスに一日を共に歩んでくださるよう、お願いしましょう。
そして、復活したイエスの優しさを他の人々と分かち合いましょう。(翻訳担当:相田)
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受難の主日(枝の主日)B年 2024年3月24日
聖書: マルコ 11:1-10 イザヤ 50:4-7 詩編22 フィリピ 2:6-11 マルコ 15:1-39
日曜日は聖週間の初日です。 木曜日に最後の晩餐、金曜日にイエスの御受難、そして31日の日曜日に復活を記念します。
今日は受難の主日、または枝の主日と呼ばれます。 枝を持って祝福しながら、私たちはイエスがロバに乗ってエルサレムに入った様子を思いつつ、祭壇に向かって進みます。 イエスがロバを選んだのは、平和の象徴だからです。 馬は戦争の象徴です。私たちの心の中の平和、家庭の平和を与えてくださるようイエスに願いましょう。そして世界のために開かれた心で祈ってください。ウクライナ、ガザ、イスラエル、スーダン、イエメン、そしてミャンマーの平和と飢餓によって死に直面している何百万人もの人々のために。
イザヤの預言の聖書朗読は「苦難の僕の歌」と呼ばれています。 苦しみを受けるイエスはこの預言を成就します。 イエスの背中は鞭で傷つけられています。 兵士たちはイエスに唾を吐きかけるという最大の侮辱を行いました。 イエスも人間であり、これらの侮辱、裏切り、恩知らずを深く感じています。
以下はとても大事なことです。 痛み、傷、侮辱だけにとどまらず、もっと重要なのは、これらの傷の背後にある愛です。 イエスが今日私たちに与えてくださる愛。
神は僕に「疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。」 (イザヤ書50:4) イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と言われます。 イエスは苦しみを経験されており、私たちが苦しみの中にあるとき、必ずそばにいてくださいます。
しかし、私たち人間は、苦しみ、心配、病気のときに、イエスが近くにいるとは感じないことがよくあります。 私たちは何の慰めもなく空虚な気持ちになります。 これは人間的な経験です。 イエスは十字架上で詩篇22篇を祈りました。 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」 苦しみに遭い、何の慰めもなく虚しさを感じたとき、神に不平を言うのは健全なことです。そんな時、イエスが私たちを支えているとは感じないかもしれませんが、イエスは私たちのそばにおられます。 詩篇22篇にあるように、徐々に希望がもたらされ、私たちの主イエスがいかに親切で力強いかを、他の人に伝えることができるようになります。
マルコの福音書では、キレネ人のシモンが、イエスの十字架を運ぶのを手伝うよう兵士たちに強制されています。 けれど、このような不思議な出来事の中で、シモンは優しいイエスに出会います。 シモンと彼の二人の息子はイエスの弟子となり、初代教会で働きます。
聖週間には、マルコの福音書に記されているイエスの苦しみについて深く考えましょう。 イエスは私たちを愛してくださっています。 イエスの苦しみを通して、私たちは父なる神に愛される子どもとなります。 イエスに「ありがとう」と言いましょう。そして、イエスからの恵みを他の人たちと分かち合いましょう。 (翻訳担当:田澤)
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四旬節第5主日 B年 2024年3月17日
聖書朗読:エレミヤ31:31-34 詩篇51 ヘブライへの手紙5:7-9 ヨハネ12:20-33
丁度先週、ある司祭は私に、「『契約』というのは難しい言葉です。大勢の信者たちも分からないと思います。」と言いました。私は「何と残念なことだ!」と思いました。
今日の第一朗読のエレミヤの預言において、短い4つの節の中に契約と言う言葉は4回出てきます。エレミヤは私達に、「新しい契約」がくると告げています。
私達はこの非常に重要な言葉に注目して、その意味をよく考えましょう。私達はそれを「相互の約束」と言います。それは、二人の人が互いに合意をして約束を交わすことです。そして、その互いの約束を言葉だけではなく、目に見える徴として、二人の契約者は彼らの判を契約書に押します。
例えば、ある人は大工さんを頼んで家のリフォームをします。大工さんは仕事の内容を細かく決めて、施工をすることを約束します。家主は決まった値段を払う約束をします。このお互いの約束(契約)は「朱肉」と呼ばれる赤い物質で色付けた各々の印鑑を、両方の契約者が押すことによって保証されます。これは血の色です。昔の血判です。ですから、実に『契約』は日本的な習慣です。
神様による人間との最初の荘厳な契約は、アブラハムとその子孫になされました。イエスは今の私達一人一人に新しい神聖な約束をされました。イエスは今日の朗読の中のエレミヤの預言を実現されているのです。イエスは最後の晩餐の時に次のように仰いました。「これは私の新しい永遠の契約の血である」
この説教の中で私はできるだけ、神様が私達一人一人にして下さっている神聖な契約の背景を説明したいと思いました。次に話すことは、私達一人一人の人生において、非常に大切な、そして素晴らしい事です。
洗礼の時に、神様ご自身が私達一人一人に命を与え、教会を通して、そして聖書を通して、荘厳な約束をして下さいます。神様の約束はこのようです。神様は約束します。「あなたは私の子どもです。私はあなたを愛している。私の目にあなたは尊い、だから恐れてはならない。私はあなたを大事にして、一生涯あなたを見守ります。私の契約は無条件です。たとえあなたが私を忘れることがあっても、私を否定したとしても、私は決してあなたを罰しない。私はあなたが私の元に戻ることを期待して待っています。」
イエスは十字架上の血によって、この約束に判を押します。イエスは亡くなることによって、私達に命を与えて下さる。けれど私達は、それはお互い約束、相互の約束だということを思い起こしましょう。「私の神、私はあなたの約束を信頼します。私はできるだけあなたの助けに頼って、イエスが教えてくださる人生の道を歩みたいと思います。私の優しい神様、ご存知のように、私は弱い人間です。たとえ罪を犯しても、私はあなたのもとに帰ることが出来ます。あなたは私の罪を拭って下さる。(詩編51)
皆さん、私達はその約束を戴いて、本当に恵まれたものです。神様の望みはその恵みを他人と分かち合うようにということです。(翻訳担当:三村)
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四旬節第4主日 B年 2024年3月10日
聖書: 歴代誌下 36:14-23; 詩編 137; エフェソ 2:4-10; ヨハネ 3:14-21
今日の聖書朗読全体を通して、神様は「わたしはあなた方ひとりひとりを深く愛している」と語られています。
福音書では、人間をお創りになった神様は、わたしたちをとても愛しており、幸せをもたらすためにひとり子をこの世に遣わしたことが書かれています。その愛はこの世全体のためです。神のひとり子であるイエスは、神の友となるため、またわたしたちひとりひとりを愛している父の子どもとなるために、贈り物として与えられました。わたしたちは神様から素晴らしい贈り物を頂きました。神様はひとり子であるイエスを送り出しました。イエスは自分の命を犠牲にし、わたしたち皆がその贈り物に授かれるようにしました。
第二朗読では聖パウロは、イエスを知り、出会うことは本当に神様からの贈り物であることをはっきりと言っています。これはわたしたち自身の力によるものではありません。イエスはわたしたちひとりひとりに言います。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)わたしたちは神様の愛に包まれています。これは全て神様からの贈り物です。贈り物をもらう時は、礼儀としてお礼を言います。神様からの贈り物へ感謝しましょう。またイエスへもお礼を言いましょう。
最近、ある方から小さな贈り物を頂きました。それは庭にある家庭菜園で使えるものです。わたしはとても嬉しく思い、心からお礼を言いました。
四旬節の終わりに近づく時、神様からのすばらしい贈り物のことを考えましょう。祈りの中で、心から神様へお礼を言いましょう。
第一朗読での人々のように、わたしたちは時々苦しみに出会います。歴代誌の中の人々はバビロンへ連れ去られました。自由にして欲しいという人々の叫びを神様はお聞きになりました。しかしそれには時間がかかりました。わたしたちも同じです。希望と信頼を持って、祈りそして待ちましょう。神様はわたしたちを愛しています。神様はわたしたちの祈りを聞いています。イエスは苦しみの中に共に居ます。平和は来ます。神様は、励まし、希望、力を与えてくれます。「主は曙のように必ず現れる」(ホセア6:3)
わたしたちキリスト信者は、神様からとても素晴らしい贈り物を頂きました。その贈り物を他の人と分かち合うことを神様は望んでいます。神様の贈り物は他の人と分かち合うためのものです。(翻訳担当:薩田)
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四旬節第3主日 B年 2024年3月3日
聖書: 出エジプト20:1-17;詩編19;1コリント1:22-25;ヨハネ2:13-25
四旬節中の祈りとして、ふさわしい祈りがあります。家の祭壇や壁、祈る場所から十字架を取り出して、手に持ってください。そして、10分間、十字架をじっと見つめてください。十字架は、イエスが私たち一人一人を愛しておられること、そして、私たちを愛しておられるからこそ、ご自分の命を捨てられたことを教えてくれます。
この祈りは、第二朗読の聖パウロの言葉を具体的に行うものです。パウロの言葉を今の世の中にあてはめてみましょう。十字架を見て「怖い」「残酷だ」と言う人がいます。また、「死んだ神だ!考えられない」と言う人もいます。また、十字架を見慣れすぎて、イエスの十字架の死のメッセージや意味を見失う人もいます。
私たちの心に新しい命を吹き込みましょう。すべての人のために、イエスの生きた愛を味わいましょう。イエスは私たち一人ひとりのために、ご自分の命と死を捧げられました。その死のおかげで、私たちは今、神との温かい関係を持てるのです。神は遠い存在ではありません。神は近くにいて、私たちに温かい関係を与えてくださるのです。
私たちの神、イエスは死んだ神ではありません。イエスは死にましたが、新しい命を得てよみがえられました。私たちの神であるイエスは、私たち一人ひとりのそばに生きておられます。私たちは、友人と友人のように、イエスと語り合うことができるのです。
イエスと友人として親密に語り合った具体的な例に、サマリアの井戸で出会った女の話があります (ヨハネ4:1-14)。神であるイエスは、私たちのすべてを知っておられ、それでも、いつもありのままの私たちを受け入れてくださいます。
今日の福音朗読の中に、怒っているイエスが描かれています。その怒りはイエス自身のためではなく、神殿の中で品物を買うのに高い値段を請求されている貧しい人々のためです。神殿の祭司たちは金儲けのために宗教を利用していました。これは神と貧しい人々の両方を傷つけていたのです。イエスは当時も今も正義を望んでいらっしゃいます。(翻訳担当:相田)
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四旬節第2主日 B年 2024年2月25日
聖書: 創世記 22:1-18; 詩編 116; ローマ 8:31-34; マルコ 9:2-17
イエスはわたしたち人間をお創りになった真の神様です(ヨハネ1:1-10)。また、神様は道に迷うわたしたち人間を憐れんでいます。神のひとり子はわたしたちと同じ人間になりました。聖パウロは、「キリストは自分を無にして、人間と同じ者になられました」(フィリップ2:6-8)と書いています。
イエスは、真の人間でしたので、わたしたちと同じ経験をされました。イエスは、寒さ暑さを感じ、また疲れることもありました。誘惑を受け、時には孤独を感じていました。恩知らずや裏切りにより傷つきました。
わたしたちと同じように、苦しみ、痛み、死への恐れと不安を感じていました。そのような時は、イエスは静かな所へ行き祈りました。神様はイエスに、勇気、励まし、力をお与えになりました。イエスは愛である神様を信じました。
今日の福音書では、イエスが静かな場所に行く場面を見ます。3人の弟子と山に登る前にイエスは言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」わたしたちも皆同じ状況になったら、不安になり恐怖を感じます。
イエスは神である父に祈りました。父は言われました。「これはわたしの愛する子」その意味は、「あなたは愛されている。ひとりではない。わたしが共に居る」ということです。
また神様は付け加えました。「これに聞け」この意味は、「イエスに従いなさい」です。わたしたちは弱い人間なので、皆苦しみに出会い不安を抱きます。これは人生の一部で避けることはできません。このような時、自分の中に閉じこもり、じっと我慢することはしないでください。心を鎮めイエスの所へ行きましょう。人間であったイエスは、天に昇り父なる神の右に座っておられます。わたしたちの神様は、人間として苦しみ、悩みましたが、今はわたしたちのために取り執してくださいます(第二朗読)。イエスは同じように招いてくださいます。「わたしのところへ来なさい …」わたしたちの神であるイエスに信頼しましょう。
神様を信頼することは第一朗読の創世記のテーマです。神様は人間を犠牲にすることは嫌いです。神様はアブラハムの息子の命を望んでいませんでした。父親であるアブラハムの神様への信頼を求めていました。
わたしたちのために苦しんだ優しいイエスへと導くパンフレットがあります。「十字架の道行」です。祈りのため、特に四旬節の期間、このパンフレットを使用してください。家庭で「十字架の道行」を祈ってください。イエスがわたしたちのために苦しんだその裏にある愛を感じてください。(翻訳担当:薩田)
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四旬節第1主日 B年 2024年2月18日
聖書:創世記 9:8-15 詩編 25 1ペトロ 3:18-22 マルコ 1:12-15
神様は、私たちの洗礼の際、ご自身の教会を通して、とても大切な言葉を語られます。神様は私たち一人一人の名前で呼んで言われます。「あなたはわたしの子、私はあなたを愛しています。 私の愛はいつもあなたとともにあるという厳粛な誓いを立てます。」 そして私たちは神様に応えます。「神様、あなたは私を愛してくださっています。だから私はあなたを信頼し、一生涯イエスの道を歩むことを約束します。」
この相互の約束は、契約と呼ばれます(最初の聖書朗読で6回、詩編で2回使用されています)。
私たちの御ミサの最も聖なる部分で、イエスは私たちにこう言います。「これは新しい永遠の契約の血である。」
神様は私たち一人一人をありのままに愛してくださいます。 これは、灰の式の際に私たちが信じるように求められている福音-良い知らせ-です。
何年も前、私は太平洋にあるフィジー島で教会を手伝いました。 司祭はインドの生まれでした。 彼は私に、カーストの最下位に属するクリスチャンのグループについて話しました。 彼らは何世紀にもわたって社会から締め出されていました。 彼らの心には、自分たちは価値のない人間だという劣等感が植え付けられていました。 しかし、イエスの考えはそうではないと彼らは感じたのです。 1つのグループは鏡の前で祈りを捧げます。 彼らは自分自身を注意深く見つめ、「神様はありのままの私を愛してくださいます」と祈りました。 このような祈りの背景にあるのはイザヤ書43章です。 神様は私たち一人一人にこう言います。「私の目には、あなたは大事なもの、私はあなたを愛しています。」 このような祈り(鏡の前の祈り)は美しいです。 この四旬節に彼らの祈りをやってみましょう。
神様: 神様は私を創造し、私たちが弱いことを知っています。 神様は、ありのままの私たちを受け入れ、愛してくださっています。 私たちの神様は慈悲に満ち、憐れみ深い。
愛 : 神様の愛は温かく、無条件で私たちに注がれ、たとえ私たちが神を忘れていたとしても、決して止まることはありません。
私 :私たち人間はとても弱く、すぐに神様を見失い、忙しさの中で、道に迷ってしまします。
福音の中で、私たちはイエス、つまり私たちと同じ人間になった神様を見ます。 イエスは激しい誘惑に遭われます。 イエスは私たちの人間性を経験され、今もいつも私たちとともに人生の道を歩んでいます。 (答唱詩篇には「道」が5回出てきます。)
私たちの額に付けられた灰の印のように、「回心して、良い知らせを信じなさい」という言葉を心に刻みましょう。 (翻訳担当:田澤)
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年間第6主日 B年 2024年2月11日
聖書朗読:創世記3:16-19 詩篇32 コリントの教会への手紙10:31-11:1 マルコ1:40-45
イエスの復活は私達の信仰の大黒柱です。復活のお蔭で、私達の神様は親しく近づきやすくなりました。復活したイエスはいつも私達の傍におられます。私達はそのイエスと祈りの中で友達として話すことが出来ます。
今日のマルコ福音書の1章の中で、私達はイエスの奇跡を見ます。けれどもその物語の裏に私達は祈り方を教えられます。
私達は祈る時、イエス様に面とむかって話しをします。でも私達が祈る相手であるこのイエスは、どういうお方なのでしょうか。神であるイエスは、弱い人間である私達に対してどんな態度をお取りになっているでしょうか?イエスは私達の内面的な感情を理解しているでしょうか?
福音書の中で、あるライ病者はイエスを呼んで助けを求めます。(私は尊敬を込めてライ病という言葉を使います) イエスはライ病者に出会い、彼の皮膚にできたできものを見ただけではなく、ライ病者の心の寂しさをも見ます。イエスはライ病者に対して、深い、深い、大変深い憐れみを感じます。
もともとのギリシャ語の福音書の中で、マルコが使っているこのギリシャ語の言葉(スプランク二ゾマイ)は、福音書の中では12回だけしか使われていない珍しい言葉です。12回ともすべてが、イエスの心について、または、イエス自身によって語られた、たとえ話の中で使われています。その意味はイエスの心の奥深いところからくる憐れみです。それは相手に対するはらわたをえぐられるような深い憐れみ、共感を意味しています。これこそ私達の神様なのです。「イエスは昨日も、昔も今日も永遠に変わりません。」(ヘブライ書)イエスは罪びとに対しても同じ深い憐れみを持っていらっしゃいます。(ルカ15章)
では今度は、私達が祈る時のイエス様に対する態度を考えてみましょう。ライ病者は、切羽詰まり、信頼と希望を持ってイエス様のところへ行ってひざまずきました。ライ病者は助けを求めました。そして、イエスが手を出して彼に触れました。この「触れる」ということは、イエス様と私達一人一人との親しい交わりのシンボルです。私達も希望を持ってイエス様のところに行って、その憐れみと友情を味わいましょう。私達の忙しい毎日の中で、イエス様との静かな時間を持ちましょう。そしてイエス様の深い、深い、とても深い慈しみを味わいましょう。その励ましを他の人達と分かち合いましょう。
あとがき:私は和歌山でシスター・ヒラリー(愛徳姉妹会)と出会いました。彼女は35年間ハンセン病患者の病院で働きました。シスターは私に言いました。実際の皮膚病よりも、孤独や差別、家庭から追い出されることの方がもっと深い苦しみです。私も、御殿場の神山復生病院で、患者さんが同じように言っているのを聞きました。イエス様はそのような心を理解し、深い、深い憐れみを示して下さいます。(翻訳担当:三村)
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年間第5主日 B年 2024年2月4日
聖書: ヨブ 7:1-7; 詩編 147; 1コリント 9:16-23; マルコ 1:29-39
東京の上野公園にロダンの「考える人」という像があります。日本でとても人気があり、レプリカもたくさんありますね。
今日は、人のいない静かな場所での祈りについて考えましょう。静かな心を作ります。復活のイエスがそばにおられることを、意識して思い出しましょう。そして、正直に、自分自身と向き合い、例えば次のような質問を投げかけてみましょう: 「私は幸せですか?安らかでしょうか?それとも重い心で悩まされているでしょうか?問題をかかえて沈んでいるでしょうか?自分の生き方に満足しているでしょうか?自分の人生の旅路がどこに向かっているのか、わかっているだろうか。私は恐れているでしょうか?私の人生は短い・・・。」これらは、第1朗読の聖書でヨブが自分に向けている問いと同様な問いです。神は答唱詩編でヨブと私たちに答えます。「主は失意の人々を支え、すべての傷をいやされる。」そして、復活したイエスは、生きた声で私たちにこう言われています:「疲れている者、重荷を負っている者よ、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
ヨブの訴えは神への祈りであることを忘れないでください。もし私たちが虚しさを感じたり、落ち込んだりしたら、その状態についてイエスに語りかけましょう。神が私たちに耳を傾けてくださらないと感じたら、そのこともイエスに話してください。神に対して怒りを感じたり、神の愛、あるいは神の存在すら疑わしく思えるなら、イエスにあなたの心の状態について話してください。イエスは人間の心の動きを理解しておられます。イエスは、私たちの祈りが、飾り気のない、ありのままの姿であることを望んでおられます。「私のもとに来なさい」というイエスの招きに応えましょう。
福音書の中で、イエスが憐れみをもって病人や不安な人々に手を差し伸べられています。イエスは私たちと同じ様に感じて下さいます。イエスの奇跡は、イエスの教会の始まりとなり、イエスの教えが神からのものであることを示しています。
私たちは今日、これらの奇跡の背後にある憐れみを味わうことができます。考えてみましょう!考える人になりましょう。祈りの中でイエスと出会い、愛と励ましと目的をいただきましょう。これらの賜物を他の人々と分かち合いましょう。他の人と分かち合うことで、私たちは平安を見出すでしょう。それが、イエスが私たちの心の中で働いてくださる方法なのです。(翻訳担当:相田)
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年間第4主日 B年 2024年1月28日
聖書:申命記 18:15-20; 詩編95; マルコ 1:21-28
今日の第一朗読を読むと、旧約聖書の時代のひとたちの神様への向き合い方がわかります。モーセが神様に出会いその声を聴くことは普通のことだと考えていました。しかし、一般の人たちは、神様の声を聞きたくありませんでした。恐かったのです。神様の声は山火事のように感じおびえていました。神様は兄弟のような人間である預言者を送り、神の愛を伝えることを約束されました。イエスは預言の実現でした。
イエスに出会ったわたしたちは、本当の意味で祝福された者です。イエスを通して神様の話しを聞くことができます。イエスは神でありまたわたしたちと同じ人間である兄弟です。
第二朗読の新約聖書では、自信を持ってわたしたちは恵みの源である神様へ近くことができることを教えています。神様はわたしたちを大切に接しまた助けてくださいます。(ヘブライ4:15-16)祈りの中でイエスのところに行きましょう。イエスは、「疲れた者 重荷を負うものはわたしのところへ来なさい」とお招きになります。
福音書では、イエスは申命記の預言の実現であることがわかります。イエスの教えは新しくまた権威がありました。優しくもありました。イエスは、神様はわたしたちひとりひとりを愛してくれるということを教えてくれます。神様は罰する神ではありません。神様は恐ろしくありません。逆に、優しく、親切で、人間の弱さを理解される方です。神様は慈しみに満ちた方です。イエスの教えには権威があります。その教えは神様からきたものだからです。今日の福音書の中では、イエスの優しい声を聞くことができます。聖書を開きイエスの励ましのメッセージを聞きましょう。イエスの言葉を思いめぐらしましょう。
神様からのメッセージを証しするために、イエスは病人を癒しました。その人は病に縛られていました。イエスはその人を自由にしました。解放したのです。
わたしたち人間は心の中に様々な束縛があります。例えば、恨みや他人を赦せない心です。ある人は、様々な誘惑、アルコール、ギャンブル、スマホ、過食などへの依存、またうつや劣等感などの束縛などを持っています。束縛が何であれ、イエスのところへ行き自由、解放、平和を頂きましょう。
わたしたちはとても優しいイエスに出会いました。自信を持ってイエスのところへ行きましょう。またイエスの贈り物を他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)
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年間第3主日 B年 2024年1月21日
聖書:ヨナ 3:1-10 詩編 25 1コリント 7:29-31 マルコ 1:14-20
イエスがガリラヤ湖にいたとき、四人の漁師を見て彼らを呼びました。 「私について来なさい。 人間をとる漁師にしよう。」 (マルコ 1:17)
それは2000年前の出来事ですが、今日、復活されたイエスは私たち一人一人に同じように呼びかけています。 現在、日本ではキリスト教徒は人口の1%未満です。 私たち一人一人は、暗闇の中の小さくても一つのろうそくの灯になるよう呼ばれています。 共同祈願にあるように、「神の国の福音を力強く告げ知らせてください。」
イエスは私たちの生活の中で何度も何度もこの呼びかけを繰り返します。この呼びかけはペトロにもヨナにも繰り返されました。 私たちの人生には段階があります。そして、それぞれの段階でイエスは言います。 「どこまでも私について来なさい。」 私たちはイエスの道を歩み、神様が私たちに与えてくださった賜物を分かち合うよう呼ばれています。 今日の答唱詩篇25篇の言葉で祈りましょう。 「神よ、あなたの道を示し、その小道を教えてください。」
時々、私たちはイエスとその道を忘れて、自分の道を選ぶかもしれません。 私たちは時々忙しすぎたり、スマートフォンやSNSに気を取られて、イエスの優先順位を低くしてしまうこともあるでしょう。 それでも、イエスは私たちを罰せず、何度も私たちに呼びかけ、私たち弱い人間に対して辛抱強く接してくださいます。
今日のヨナの第一朗読は神様の優しさの一例です。 実際、神様が私たちに呼びかけるとき、その言葉は美しく、大きな励ましとなります。 それは、神様が私たちをどれほど愛しているか、人間の弱さをどれほど理解しているかを示しています。愛に満ちた神様は、たとえ私たちが神様を忘れていたとしても、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。 神様の辛抱強さは、私たちがその呼びかけに応え、戻っていく動機となります。
ヨナは旧約聖書に登場するたとえ話です。 4幕の演劇のようです。 当時のヨナはとても心の狭い者でした。 彼はニネベの人々のような異教徒は神様の愛の外にいると考えていました。
第1幕:神様はヨナに東のニネベの街に行くよう呼びかけます。ヨナは神様の呼びかけに応じたくないので、西へ向かう船に乗ります。 そして船は難破してしまいました。
第2幕:ヨナは、3日間海の暗闇(魚の腹)の中にいました。 そしてヨナは陸地に到着します。
第3幕:神様は再びヨナを呼びます。 (これは今日の最初の朗読です) ヨナはやっと神様の呼びかけに(あまり積極的ではなかったが)応え、ニネベに行きます。そしてニネベの人々は回心します。
第4幕:ヨナがまだ神様の業を受け入れていないことがわかります。 そこでヨナは思いめぐらし始めます。 ここで、このたとえ話は突然終わります。 ヨナは神様の愛を受け入れたでしょうか? それが課題(チャレンジ)です。 神様の言葉が今日私たちに与えられています。 私たちはヨナの最後の行を自分の心で書かなければなりません。
「私について来なさい。 人間をとる漁師にしよう。」 私たちはその呼びかけに応えますか? もし応えれば、私たちは平安を味わうことができます。イエスは言われました「百倍のものを得る」と。(翻訳担当:田澤)
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年間第2主日 B年 2024年1月14日
聖書朗読:サムエル記上3:3-19 詩篇40 コリントの教会への手紙6:13-20 ヨハネ1:35-42
私達はごミサの中で「イエスの食卓に招かれた人は幸い」という言葉を聞きます。
私達はご聖体においてイエス様を戴いて、イエス様に近づくことができます。それはイエス様ご自身が私達を招いて下さったからです。又イエス様は私達に仰っています。「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのである。」(ヨハネ15章16節)
福音の中で私達はイエス様が大勢の人々にお招きを与えているのを見ます。この人々をただ2千年前の歴史的な人物だとだけ捉えるのはやめましょう。これらの招かれた人々は、実は今日の私達です。
具体的な例として、今日の福音の中のアンデレは私達一人一人です。イエス様は「あなたは何を求めているのか?」と私達一人一人にお聞きになっているのです。答えを出す前に、心の中で深く思い巡らしましょう。自分自身に問いかけましょう。「この人生において、私は一番何を求めているのだろうか?」と。
アンデレは「あなたはどこに泊まっておられるのですか?」と尋ねます。イエス様は、招きを与えながら最も大事な答えをします。「来なさい。そうすれば分かる。」私達もイエス様に会うために行きましょう。ミサの中で、又個人の祈りの中でイエス様に出会い、このお招きに応えましょう。イエス様との出会いはアンデレの人生を変えました。その時から、彼の人生は意味のあるものになりました。それは私達にとっても同じです。
福音の中にはイエス様からの沢山の優しいお招きがあります。ここにもあります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(ヨハネ7章37節)私達は心の渇きを感じていますか?例えば、心の中で平和に対して、又、愛されるものになることや尊敬されること、アットホームなくつろいだ感じでいることに強い望みを感じていますか?私達の神であるイエス様だけが、私達の心の中の深い渇きを本当に満たすことが出来ます。私達はイエス様のお招きに応えて、イエス様のところへ行きましょう。
ある時、イエスの弟子達は非常に忙しくて食事をする時間がありませんでした。イエス様は彼らを招いて、そして私達にも仰います。「人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」(マルコ6章31節)私達も忙しい生活を送っていますが、祈りの中でイエス様に出会う静かな時間を持ちましょう。イエスは私達に穏やかな安らぎを与えて下さり、ストレスはなくなるでしょう。やってみましょう!イエス様に出会うでしょう。
もう一つのお招き、「私に留まりなさい。私もあなた方の中に留まる。」(ヨハネ15章4節)この美しいお招きに応えましょう。
他にも沢山のお招きがあります。でも最後はこの優しいお招きを考え、そして応えましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)
自分の心に正直に向かって問いかけましょう。私はイエス様のお招きに応えているでしょうか?または、私の心の耳は、この世の雑音の為に聞こえなくなっているでしょうか?私はイエス様に出会うことを渇望しているでしょうか?イエス様に出会って、毎日の生活を送る為の支えを得たいと、その深い必要性を感じているでしょうか?私はイエス様との静かな祈りの時間を持っているでしょうか?イエス様は特に聖書を通して、今もここで私達にお話しになります。イエス様は、神が「サムエル!サムエル1」と呼んだように、私達一人一人を名前で呼んで招いておられます。私達もアンデレがしたように、このイエス様からの大きな贈り物を他の人達と分かち合いましょう。(翻訳担当:三村)
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主の公現 B年 2024年1月7日
聖書: イザヤ 60:1-6; 詩編 72; エフェソ 3:2-6; マタイ 2:1-12
私の個人的な経験ですが、幼児洗礼を受け、家庭でも学校でもキリスト教の雰囲気の中で育った私は、クリスチャンであることが好きでした。でも、ある程度、信仰するのが当然と思っていました。自分が神から祝福されていることは知っていましたが、それがどれほどのものなのか実感はしていませんでした!それから日本に来ました。結婚準備のため教会に来たカップルたちに出会った時、私は自分たちの人生の中心的なものは何かと尋ねました。特に男性は、好きな野球チームとか、勤めている会社とか、趣味とか、ある人は「スーパーマリオ」、ある人は「スマホ」と答えました。どれもそれなりにいいものですが、あまりに表面的で一過性のものでした。それで、私は自分の信仰とクリスチャンとしての生き方をより大切にするようになりました。そして、中心的な関心事を明確にすると、彼らも、魂のレベルではなく、肉体のレベルでしか生きていないことに気づいてくれました。だから私はまだ日本にいるのです!
イエス誕生の夜、天使に導かれて羊飼いたちがイエスに会いに行きました。羊飼いたちは、自分たちを救ってくれる神の使いが来ることを長い間待ち望んでいたユダヤ人たちでした。羊飼いたちはユダヤ民族を表しています。
そして今日の福音では、天に導かれ、星をたよりに3人の賢者がイエスに出会います。この3人は異教徒で、ユダヤ人ではありませんでした。この3人は、私たちの象徴です。
福音書が、イエスがすべての国や民族のための方であることを、興味深く具体的に語っているのです。それが主の公現の意味です。
ですから、これが2000年前の一回きりの出来事ではないことをお分かりいただけたと思います。イエスは「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」と言われました(ヨハネ15:16) 。イエスに出会うことは、この世で最高の贈り物です。イエスは私たちの日々の生活に希望、支え、愛、導き、心のエネルギーを与えてくださる。イエスは悲しみや苦しみの中に慰めを、人生の旅路に励ましを与えてくださいます。私たちは祝福されているのです。
3人の賢者は、感謝の気持ちを表すため、イエスに黄金、乳香、没薬を贈りました。
黄金の代わりに、私たちはイエスに短い祈りの時間を捧げましょう。イエスに出会ったこと、このつながりはとても大切です。イエスは私たちのそばを歩いておられます。イエスは私たちを招いておられます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)
乳香の代わりに、日々の仕事、勉強、趣味、娯楽、そしてテレビやスマートフォンの視聴も捧げましょう。
没薬の代わりに赦しを捧げましょう。私たちは傷ついたり、恨んだり、偏見を持ったりしていないでしょうか。私たちの弱いところもイエスに捧げ、イエスに癒していただきましょう。
そして、3人の賢者や羊飼いのように、イエスが私たちに与えてくださった大きな祝福を分かち合いましょう。(翻訳担当:相田)
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聖家族 B年 2023年12月31日
聖書:創世記 15:1-6,21:1-3 詩編 105 ヘブライ11:8-19 ルカ 2:22-40
「盾」という普通の言葉が聖書の中で使われるとき、その意味は深くなり、励ましの言葉となります。 「盾」は、特に詩篇で多く出てきます。 盾は通常、石、槍、矢、剣から身体を守るために兵士 (現代では警察) が使います。 盾は人々を守り、自分自身の安全も守ります。
「盾」は聖書の創世記(今日の朗読)に初めて登場します。 神はアブラハムに、父親の家、自分の財産、安全な生活を手放すように求め、新しい国に行き、そこで家族を作るようにと告げました。 この要求にアブラハムは恐れを抱きます。 しかし、神は約束しました。 「恐れるな、アブラハムよ。わたしはあなたの盾である。」(創世記15:1) 神はアブラハムに「私があなたを守る」と言われているのです。 「アブラハムは神の約束を信頼し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ人への手紙11:8)。 神は常に約束を守ってくださる方です。 アブラハムは神を信頼しました。(詩篇 105) 良い時も悪い時も、虚しいと感じる時も、喜びの時も、アブラハムは神の約束を信頼しました。 聖書に書かれているとおり、「アブラハムは神の友」となりました。 (イザヤ書 41:8、ヤコブの手紙 2:21)
数千年後の新約聖書では、私たちは信仰によって、アブラハムの子孫と呼ばれています。
神はアブラハムに固い約束をされましたが、イエスは私たち一人一人に対してその約束を新たにされました。 これを神の聖なる契約(Covenant Promise)といいます。
全能の神が私たち一人一人に、常に私たちとともにいて、私たちを守るという厳粛な誓いを立てたのは本当に驚くべきことです。 神はイエスを通して私たち一人一人にこう言われます。 「恐れるな! 私はあなたの盾である。」
これは神の聖なる契約(Covenant Promise)です。 神は私たちに約束し、私たちもその約束に応えるよう求められているのです。 私たちも約束しましょう。 「慈しみ深い神よ! 私はあなたを信頼します。」
マリアは私たちの信頼の模範です。 多くの悲しみの剣が彼女の心を貫きました。 マリアはイエスをすきま風の吹く馬小屋で生みました。 マリアは突然外国へ逃げなければなりませんでした。 マリアは12歳のイエスが居なくなり探し回りました。 マリアはイエスが十字架に釘付けにされて、痛ましい死を遂げるのを見ました。 それらすべての苦しみに接して、神がなぜこのように働いているのか、人間として疑問に思いました。 それでもマリアは、自分を守ってくださる盾として神を信頼しました。 「マリアは神の約束を信頼したのです。」 マリアは詩篇を祈りました。 詩篇139篇にはこうあります、 「神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる。」 (詩篇 139) (聖歌集 #53)
私たちの人生における信頼は非常に重要です。 神は私たち一人一人の名前を呼び、一人一人を愛して、一人一人にこう言います、 「恐れるな! 私はあなたの盾である。」 (翻訳担当:田澤)
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主の降誕(夜半のミサ) 2023年12月24日
聖書 イザヤ書 9:1-3 詩篇 96 テトス 2:11-14 ルカ 2:1-
2000年の間、教会はいわゆる「教会用語」を使ってきました。 その中でも特別な言葉は「インマニエル」です。 これはヘブライ語で、イエス様ご自身が使われた言葉です。 福音書はギリシャ語で書かれていますが、この言葉は、ヘブライ語のままで残っています。それは、このヘブライ語が私たちの信仰にとって非常に特別で深い意味を持っているからです。
「インマニュエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味です。 私たちはクリスマスにそのことを祝うのです。 私たちの神は天の栄光を離れ、私たちと同じ人間になられました。 ですから、私たちは「神は私たちと共におられる」と言えるのです。
人間となられた神はイエスです。 私たちは今日イエス様の誕生を祝います。
私たち人間は誰しも、心の奥底に闇を抱えています。同様に私たちの家族、国、世界も何らかの闇を抱えています。 イエス様は暗闇に光をもたらします。(これが第一朗読イザヤ書のテーマです)そしてイエス様は私たちの未来に希望を与えてくださいます。第二朗読でパウロが言っているように、イエス様は私たちに恵みに満ちた希望をお与えになります。確かに、神は私たちと共におられます。
私たちの神は、人間の心と姿を持ち(引き受けて)、私たちに近づいてくださいました。 私たちの神は私たちから遠く隔たったところにおられる「どなたか」ではありません。 私たちの神は私たちと共におられるのです。
私たちの神は人間になられ、それは神が私たちの人間の弱さを理解していることをはっきりと示しています。 私たちの神であるイエス様は、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。 私たちの神は罰を与える神ではありません。 私たちの神は穏やかで、親切で、慈しみに満ちた方です。
私たちの神、人間になられたイエスは、心配、痛み、苦しみを身をもって経験なさいました。 たとえ苦しみに遭っても、神が私たちと共におられることを決して忘れてはなりません。 イエスは勇気と励ましを与えてくださいます。
私たちは今、人生の道を歩んでいます。 私たちの神であるイエスが私たちと共におられます。 イエスは私たちに寄り添い、勇気、導き、護り、愛を与えてくださいます。 私たちは決してひとりぼっちではありません。 イエスは私たちの人生の同伴者です。 神は私たちと共におられます。
人間となられた私たちの神からの特別な恵みは「平和」です。 私たち一人一人の心、家族、親戚、職場、学校、そして世界に平和を。 イエスは「平和の君」です。 イエスがお生まれになった夜、天使からのメッセージは「地には平和あれ」、 そして、イエスのこの世での最後の言葉は「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」でした。
私たちの神様がどれほど近くにおられ、温かい方であるかを悟り、神様と話し合いましょう。 神様との話し合いは「祈り」です。 あなた自身の言葉で挨拶しましょう。 毎日、イエスに短い「こんにちは」を言ってください。 この繋がりは大切です。 このイエスとの繋がりが、私たちの日常生活に意義と味わいを与えてくれるでしょう。
私(ケンズ)は、皆さんが、私たちの神様がそばにおられることを悟り、私たち一人一人にどれほど優しく愛情深いかを実感できるように祈ります。
イエスの降誕おめでとうございます!主の平和! (翻訳担当:北尾)
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待降節第4主日 B年 2023年12月24日
聖書朗読:サムエル記下:7-16 詩篇89 ローマの教会への手紙16:25-27 ルカ1:26-38
第一朗読と詩編89の中で、約束された救い主はダビデ王の子孫であることが語られています。ナザレのマリアは、その子孫です。彼女を通して約束された救い主が、人間となって私達の間に生活するために来られました。しかし神様の働き方は、必ずしも私達が考えるようなものではありません。きっと、神が約束された救い主は、首都であるエルサレムに生まれるに違いない!きっと、神は力ある名門の一族を選ぶに違いないと思ったでしょう。しかし神はその知恵をもって、小さな、遠い田舎の村、ナザレに住む、若くて、いいなずけのいる娘のマリアを選びました。
神様はマリアを選びました。しかし神は私達人間に自由意志を与えています。神様は天使をマリアの同意を得るために遣わします。「マリア!あなたは約束された救い主の母になりますか?」福音書にはマリアがこの言葉に“大変困惑した”とあります。そしてマリアは深く考え込みました。「どうしてそのような事がありえましょうか?」すると神様は天使を通して言います。「恐れることはない、神があなたと共にいる。」それは、その使命を果たす為に、神様が勇気、力、導きを与えるという意味です。神ご自身からの約束を受けて、マリアは神の約束に全面的な信頼を置き、「神様のお望み通りに、この身になりますように。」と言います。そうして、神の子が人間となりました。マリアの深い信仰を通して、神様がどんなに私達人間に対して深い愛を抱いているかを示す為に、神様が天の国から下っていらしたのです。マリアの信仰を通して、私達は今イエスを喜ぶことが出来るのです。
これは偉大な場面です。そして私達一人一人は小さな場面の一部です。神様は、他の人と神様の愛を分かちあうという使命を果たすようにと、私達一人一人を選んでおられます。- 私達の小さな社会の中で、神様が一人一人の上に注いでいる美しい愛の証人となるように呼ばれているのです。自分自身に問うてみましょう。「私は神様の愛の道具になることに賛成しているでしょうか?」しかし、弱い人間として、自分ではその使命を果たすことが出来ないことを自覚することが大事です。繰り返し言います。弱い人間の力では、神が自分に望んでいる使命を自分だけで果たすことは出来ません。でも神様は私達一人一人に言っておられます。「恐れるな!わたしがあなたと共にいる。」これは、神様がマリア様に勇気、力、そして導きを与えられたのを同じように、神様が私達にも与えて下さるという意味です。
神様が私達一人一人に対して神聖な約束をして下さっていることを自覚しましょう。神様を信頼して言いましょう。「はい!神様!私はここにいます。どうぞ私をお使いください。」
ですから、イエス様が私達に示して下さったように、神様を信頼し、その助けを頼みながら人生の道を歩んでいきましょう。イエス様への短い朝の挨拶、それは短い祈りでもありますが、その中で、日々助けて下さるように願いましょう。人間性を経験されている私達の救い主である神、イエス様は、生きている声で私達一人一人に呼び掛けておられます。
「恐れるな!わたしはあなたと共にいる」 (翻訳担当:三村)
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待降節第3主日 B年 2023年12月17日
聖書:イザヤ 61:1-11; ルカ1:46; 1テサロニケ 5:16-24; ヨハネ 1:6-25
私は温室を持っており、そこでいろいろな植物を育てています。先週レタスの種を蒔きました。土は乾いており、種は枯れているように見えました。しかし、五日後に土から芽が出て来ました。緑色をしており生きていました。このことを見れたことはとてもすばらしいことです。新しい命。神様はわたしたちの心の中で同じような働きをされます。
今日のイザヤの預言には、「大地が草の芽を萌いでさせ 園が蒔かれた種を芽生えさせるように 主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」と書かれています。
“新しい命”とは何でしょうか。わたしたちはどう捉えるでしょうか。神様は、主はありのままの私たちを愛しているという福音を携え、ひとり子を世にお遣わしになりました。ナザレでの最初の説教で、その日からイザヤの預言が実現されたことをイエスは語っています。わたしたちの神であるイエスは、傷ついた心を包みこんでくれます。ストレス、多忙、重い責任で覆われているひとたちに、イエスは自由と平和を与えてくれます。イエスはわたしたちに平和、喜び、自由を与えてくださいます。
イエスに出会えたことは神様からの贈り物です。感謝し喜びましょう。イエスの母マリア様と共に、「力ある方が偉大なことをなさいました」と言うことができます(ルカ1:49)。また今日の第二朗読で聖パウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさ。」と強く勧めています。
「平和の神」という言葉は特別な意味があります。平和「の」は短い言葉ですが、神様は平和の源という意味です。平和は神様からの贈り物です。祈りの中で平和というすばらしい贈り物を神様に求めましょう。平和を味わえば喜びが与えられます。心、家庭、近所、職場、学校の中の平和と喜びを求めて祈りましょう。
この願いを求める祈りは平和と喜びを味わう第一のステップです。
第二のステップは、自己中心を捨てることです。マリア様と洗礼者ヨハネはともに、自分の都合には目もくれず、他人のための平和と喜びの道具となりました。もし平和を他の人にもたらすならすばらしい効果があります。わたしたち自身が平和と喜びを味わうことができます。これはアッシジの聖フランシスコの平和の祈りの心です。「愛されることよりも 愛することを」求めさせてください。
わたしがこれまでに出会った最も喜びに満ちたキリスト信者の一人は、車いすに乗った障がいを持った方です。彼女は藤沢に住んでいました。わたしはたずねました。「花子さん(仮名)どうしていつも微笑んで、喜んでいるように見えるのですか」彼女の答えに感動しました。「わたしと同じように車いすに乗っている人を励ましたいから」
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところがないものとして守られまうように」(1テサロニケ5:23)(翻訳担当:薩田)
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待降節第2主日 B年 2023年12月10日
聖書: イザヤ 40:1-11; 詩編 85(および23); マルコ 1:1-8
待降節は、イエスの誕生日に向けて心の準備をする時期です。福音書に、「主の道を整え、まっすぐにしなさい」という課題があり、「私は道である」というイエスの言葉があります。「道」は日本では特別な言葉です。筆で漢字を書くことは「書道」と呼ばれ、「剣道」や「柔道」、「神道」という言葉もあります。
「道」という言葉は、聖書でもよく使われます。今日の朗読のイザヤ書にはこうあります: 「道を整え、まっすぐにせよ。」羊飼いの詩篇23篇には、「主は憐れみ深く、私を正しい道に導いてくださる」とあります!
イエスは今日、生きた声で私たちに「私は道である」と言われます。これは、どういうことでしょうか?この言葉を深く考えてみましょう。イエスは、希望と平安をもって人生の道を歩む方法を示してくださいました。初期のキリスト教信者は、自分たちをキリストの道に従う者と表現しています。しかし、イエスは私たちにその道を示しただけで、去って行かれたわけではありません。イエスは、「私は人生の道を歩むあなたの傍らで、共に歩む」、そして「私は決してあなたを離れず、あなたを見捨てない」(ヘブル3:5)と言われているのです。イエスよ、今日、私たちが人生の道を歩むとき、導きと力と励ましを与えてください。現代の信仰者の祈りに「主よ、苦しみの道を歩む人々に希望の光を注いでください」とあります。
テレビや新聞で目にするニュースは、スキャンダル、刃物での襲撃、麻薬、火事、物価高、戦争の話題でいっぱいです。この暗闇の中、私たちは、イエスから、希望の光、平和への願いをいただいています。
キリストの道を歩む私たちは、本当に、神からの恵みを受けています。この待降節に、私たちがどれほど恵まれているか考えてみましょう。違う言い方をすると「私たちの道をまっすぐにしましょう」
しかし、自己満足に陥ってはなりません。私たちは、家族、職場、近所、学校など、それぞれの小さな社会で影響を与え、味わいとなるよう、神の恵みを受けているのです。
人生の道の目的地として天国があります。そこでは永遠の平和と幸福を味わうことができるのです。
「神は私たちを愛している」―これが「神の知らせ」(福音)です。(翻訳担当:相田)
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待降節第1主日 B年 2023年12月2日
聖書:イザヤの預言 63:16-19, 64:2-7 詩編 80 1コリント 1:3-9 マルコ 13:33-37
「神よ、私の父よ」と私たちは祈ります。 私たちの神を「父」と呼びかけることは、ある人にとっては抵抗があるでしょう。 彼らの父親は厳しすぎたり、離れた存在だったのかもしれません。 「地震、雷、火事、親父」、世の中の恐ろしいものを順に並べた表現が思い浮かびます。 イエスの時代にも、非常に厳格な父親がいました。 しかし、私たちが理解できる言葉で神を説明するために、イエスは「父」という言葉を選びました。 父を表す子どもたちの言葉「アバ」(おとうちゃん)。 この子どもの言葉は、厳格なパリサイ人たちにとっては衝撃的でした。 しかしイエスは、その言葉に込められた優しさや親しみこそが、天の父であると語られました。
私たちの父は、惜しみない愛情を子どもに注いでくださいます。 私たちは、神に愛された子どもなのです。 私たちは、この愛に満ちた父親を信頼し、言葉を交わし、親しくなるよう呼ばれているのです。
今日の第一朗読(イザヤ書 63、64章)にはこう書かれています。 「主よ、あなたは我らの父。 私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの御手の業。」(イザヤ64:7)。 とても優しい手つきの陶工が轆轤(ろくろ)で粘土を形作っていきます。 彼は、カップ、花瓶、皿、水差し、釉薬(うわぐすり)がかかっているものや、かかっていないものなど、さまざまな作品を完成させます。 陶工は自分の作品の一つ一つに誇りを持ち、それを持ち上げて、「よかった!」と言います。 しかし、陶工は、それぞれの作品がもろくて弱く、簡単に壊れてしまうことも知っています。 これは私たちの父なる神についての本当に美しいたとえ話です。 神は私たちを創造されました。 私たちの父なる神は、愛する子どもたちが弱いことをご存知です。 ですから、私たちは父なる神に愛された子として語りかけ、こう言いましょう。 「神よ、わたしに目を注ぎ、強めてください、手を差し伸べて。」 (今日の答唱詩篇 80)
洗礼によって、父なる神の子どもとなった私たちに、神は固い誓いを立ててくださいます。 「私はあなたを私の特別な子どもとして愛している。 私はいつもあなたと一緒にいる。 私はいつもあなたを守る。」 第二朗読でパウロは言います「神は真実な方です。」(1コリント1:9) この言葉には、たとえ私たちが神を忘れても、拒否したとしても、父なる神はいつも約束を守ってくださるという意味が込められています。
イエスは弟子たちに、父なる神について、たびたび話されました。彼らはイエスに、「父を見せてください」と言ったことがあります。 イエスは「あなたがわたしを見るとき、あなたは父を見るのです。」とお答えになりました。 イエスの優しい心は、今日の私たちに対する父の優しい心です。
ですから、「目を覚ましていなさい!」 それは、私たちの父なる神の慈しみに、思いをめぐらして祈ることです。 その愛を他の人たちと分かち合いましょう。(翻訳担当:田澤)
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王であるキリスト A年 2023年11月26日
聖書 エゼキエル書 34:11-17 詩篇 23篇 マタイ 25:31-46
今日の福音の中で、イエスは私たちに大事なメッセージを伝えてくださいます。私たちが死んだ後、イエスは私たちの人生を遡ってご覧になり、私たちに次のように尋ねます。「地上で暮らしていたとき、おなかがすいていた私に食べ物をくれましたか?喉が渇いていたときに水を? 旅人だった私に温かいもてなしを?病気で牢屋にいたとき、あなたは私を訪ねてくれましたか。」私たちはこう言うでしょう:イエスさま! 私はいつあなた自身に会いましたか? 「あなたが苦しんでいる人たちに何か良いことをしたのは、私自身に対してしたことなのです。」とイエスは答えます。 今の私たちにとって、なんと大きな挑戦でしょう。
日本で飢えているのは誰でしょうか? ホームレスの人以外に、心に大きな飢えを持つ人がとても多いです。イエスは私たちにこう尋ねるでしょう。「あなたは人々に温かい笑顔を見せ、『ようこそ』や『ありがとう』と言いましたか?」 そのような優しい言葉は寂しい人には非常に励ましとなります。
日本には水はたくさんありますが、大勢の人々が渇いた心を抱えています。 彼らは寂しくて悲しい人々です。 彼らに温かいもてなし、明るい挨拶、励ましの訪問や電話などの「水」を差しだしているでしょうか?
福音の「旅人」は、日本では誰にあたるでしょうか。移民労働者、近所に引っ越してきたばかりの人、または出稼ぎに来ている人である可能性があります。 私たちは彼らを温かく歓迎しますか、それともそこにいないかのように知らん顔をしますか?
日本では、入院している病人のほかにストレス、うつ病、依存症、悩み事に苦しんでいる人たちがいます。 イエスは私たちに、「あなたはこれらの人々に親切と支えを与えましたか」と尋ねるでしょう。
日本には、高い壁や窓に格子のある牢屋にいる人々がいますが、それ以上に心を病む人、寝たきりの人々もいます。
また部屋に閉じこもって人に会いたくない人、会えない人もいます。
言葉や行いによるいじめや嫌がらせを受けている人もいます。 日本には寂しい人がたくさんいます。 彼らに励ましの言葉をかけていますか?
マザー・テレサはこう言います。「この世界で最悪の病は、ハンセン病でもガンでも結核でもなく、寂しさです。現代社会の最大の悪は、このような孤独な人々に対する私たちの無関心と冷たい態度です。」
私たちが天国の門に着くと、イエスは私たちに(上記の)質問をなさいます。 私たちは何と答えるでしょうか。私たちはその「報い」を思い出しましょう。報いは永遠の命です。 味わいましょう!(翻訳担当:北尾)
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年間第33主日 A年 2023年11月19日
聖書:箴言31:10-31 詩篇128 テサロニケの教会への手紙5:1-6 マタイ25:14-30
今日の福音は私達の創造主である神の素晴らしい寛大さについて語っています。譬え話の中にはいつも、全く驚くべきポイントがあります。イエスの時代において、「1タラントン」は給金20年分の金と同等の価値がありました。1タラントンは大変大きな財産でした。
譬え話の中で、主人は財産を僕たちに信頼して預けます。1人の僕には5タラントンの財産を、他の僕には2タラントンの財産を、そしてもう1人には1タラントンを託しました。神様も私達に宝物をゆだねています。神様は私達一人一人に特別な贈り物を与えて下さっているのです。それは宝ものです!
ある人々は、大きな美しい贈り物が与えられています。それは5タラントンです。例えば音楽家、芸術家、陶芸家、彫刻家などの才能です。彼らは神からのその偉大な贈り物を他の人々の為に遣います。ある人々は私達のような普通の人間です - 私達は2タラントンか1タラントンを受け取っています。しかしそれも素晴らしい贈り物には違いありません。神様は寛大なのです。私達はその贈り物、私達の賜物、私達のタラントンをどのように遣いますか?聖書の中でもっとも悲しい文章の一つが「1タラントンを預かった者は地面に穴を掘り、主人の金を隠しておいた。」というものです。この譬え話の中で、イエスが私達に呼び掛けているのは、「1タラントンの宝物を私の為に遣っていますか?」ということです。箴言からの第一朗読は(2700年前の)ある妻を描いています。彼女の賜物は縫物をする能力でした。ある人は頭が良く、またある人は器用です。ある人は話し上手ですし、でも、ある人は聞き上手です。またある人は親しみ易い笑顔を持っています。ニュージーランドの私の幼稚園で、水頭症の男の子がいました。彼の穏やかな性格は、私達を苦しんでいる人対して親切であるようにしてくれました。
私達は例外なく、誰でもが神様から何かしらのタレント、賜物を与えられています。自分を他の人と比べないでください。あなたのタレント、賜物が具体的に何であるのかを見極めましょう。そして、その贈り物を下さっているのは神様なのですから、神様に感謝しましょう。そして、私達のタレント、賜物を他の人達と分かち合いましょう。神様がそれを私達に与えてくださっているのはまさにその為なのです。(翻訳担当 三村)
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年間第32主日 A年 2023年11月12日
聖書:知恵の書 6:12-16 詩編 63 1テサロニケ 4:13-18 マタイ 25:1-13
みなさんにお願いがあります! この御ミサのなかで、イエスに、私たちのために執り成し、聖霊を送って知恵の恵みを与えてくださいとお願いしてください。 聖霊からの知恵はこの世の知恵とは異なります。
聖霊は私たちの心の中で働いて、私たちが優しい神に愛されていること、一人ひとりの地上での日々の歩みは、天国での永遠の命と幸福のための準備であることを深く悟らせてくれます。
また、聖霊からの知恵は、復活の主イエスが人生の旅路において、いつも私たちのそばを歩き、導き、力、励ましを与え、最善を尽くしてイエスとともに人生の道を歩むことが、本当の、深い、永遠の平和をもたらすと教えてくれます。 そして、私たちの心は、幼い子どもが母親の腕の中にいるような安心を感じるでしょう。 (答唱詩篇63篇)
知恵は私たちをもっと深くいざないます。 私たちに与えられた神の恵みは、他の人への思いやりと親切によって人々と分かち合うためのものです。 それは「隣人愛」です。
神の知恵という恵みは、たとえば父親や母親、先生、生徒、退職した人、働いている人、主婦、としての人生における使命を果たせるように私たちを導きます。
神のメッセージである聖書は次のように述べています;「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」 (ヤコブ 1:5)
神の知恵という恵みに心から憧れを持ちましょう。 この憧れは今日の詩篇63篇に表現されています。
神の知恵は聖なる行いのためだけにあるわけではありません。 聖書は、神の知恵が普段の生活の中でどのように働くかを示しています。 たとえば、裁縫をする女性、家を建てる男性、船を安全に入港させる船長に対して。 また時には、私たちは難しい選択が必要な時もあるでしょう - 神に知恵のある導きを求めましょう。
神の知恵の恵みは、暗闇の中で私たちを導くランプの炎です。
祈りと他の人への親切によって、灯(ともしび)を油で満たしておきましょう。(翻訳担当:田澤)
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年間第31主日 A年 2023年11月5日
聖書: 1テサロニ 2:7-9; 詩編 131; マタイ 23:1-12
最後の晩餐で、イエスは12人の弟子の足を洗いました。当時、それは召使の仕事でした!イエスは先生で、12弟子は生徒だったのに,、です!これは私たちにとって謙遜の模範です。イエスの言葉です: 「わたしはあなたがたに模範を示した。私がした通りにしなさい。互いに足を洗い合うのです。」(ヨハネ13:15)
今日の福音で「仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とイエスは言われます(マタイ23:12)。
謙遜はイエスに従う者に欠かせません。謙遜とは何か考えてみましょう。そして、実践するためにはどうすればいいのかについても。
最初のステップ 私たちは人間で、弱い存在だということを認めましょう。私たちには神の助けが必要です。神の力と助けに頼りましょう。キリストの道を忠実に歩むことを目指しましょう。でも、私たちは、しばしば道を外れてしまいます(聖書で『罪』を表わす言葉です)。謙虚な人は、自分が良い点を持っていると認め、それを与えてくださった神に感謝します。神への感謝は、それら良い点が、神からの贈り物と認めることなので、私たちが謙遜でいるうえで重要なことです。例えば、音楽が得意な人、頭の回転が速い人、指先が器用な人、人の話を聞くのが上手な人、人をサポートするのが上手な人、教えるのが上手な人、助けるのが上手な人、看護するのが上手な人、人に親切にするのが上手な人などなど。どんな人にも良いところがあります。「自分には良いところがない」などと決して言ってはなりません。その謙遜は偽りです。私たちの教会の守護者である聖テレジアは、自分の共同体のために戯曲や美しい詩を作りました。彼女は「私は海辺の一粒の砂に過ぎません。でも、神が知り、愛しておられる砂の一粒です。」これが謙虚ということです。
第2ステップ 自分の良いところ、悪いところを受け入れ、自分を他人と比べないようにしましょう。広い意味で「席を譲る」ようにしましょう。
謙遜の反対は傲慢と偽善です。パリサイ人は高慢な偽善者でした。イエスは人間の弱さのために罪を犯した人々を理解し、優しくされました。しかし、偽善は、イエスは強く非難されました。偽善は自己中心的であり、謙遜はすべてが神の賜物であることを認めることです。
パリサイ人は2000年前のグループというだけではありません。私たちの多くは、心の中にファリサイ人の要素を持っています。私たちは賞賛を求め、見せびらかし、虚勢を張り、傲慢になり、他人を見下し、うぬぼれ、競争心を抱き、権威をひどく利用します。イエスは私たちに、謙虚に、正直に自分の心を見つめることを求めています。
謙遜の賜物を願って祈りましょう。今日の答唱詩編、詩篇131が良い支えとなるでしょう。
「心静かにわたしは憩う、
母の手に安らぐ幼子のように。
心静かにわたしは憩う、
神の前にある幼子のように。」
(翻訳担当 相田)
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年間第30主日 A年 2023年10月29日
聖書:出エジプト記 22:20-26; 詩編 18; 1テサロニケ 1:5-10; マタイ 22:34-40
わたしたちは、イエスが示した人生の道を歩んでいます。その道の目的地は天国です。
今日の福音書では、イエスは道しるべを与えてくれています。その道しるべに沿って歩けば、無事に天国へたどり着くことができます。
その道しるべとは、“愛”です。神を愛し、隣人を愛し、自分自身を愛しましょう。
目に見えない神を信じることは難しいことです。神様はこのことをご存じでしたので、ひとり子を世に遣わし、わたしたちと同じ人間となりました。イエスに出会うとき、人間となった神様に出会います。福音書では、優しく、思いやりがあり、親切で、人間の弱さを理解し、その弱さを喜んで受け入れるイエスの姿を見ることができます。イエスは苦しんでいる人を見ると、一緒に苦しみます。憐れみと共感はイエスの心です。イエスに出会うとき、神様に出会います。イエスはわたしたちの愛する神様です。神様はわたしたち一人一人を愛しています。その愛に応えましょう。
神であるイエスへの愛を表すことは大切なことです。祈りなかで神様との時間を作ることで神様への愛を示しましょう。またイエスに出会うため福音書を読みましょう。
次に進みます。イエスは「隣人を愛しなさい」と教えます。わたしたちの隣人とは、出会う人、知っている人です。第一朗読の出エジプト記には、「寄留者、寡婦、孤児」について書かれています。今のわたしたちにとっての「寄留者」とは難民です。聖書の中に書かれている寄留者、寡婦、孤児は貧しい人々の代表です。
“愛”とは親切で暖かい気持ちになることではありません。愛とは、ありのままに人を受け入れることです。イエスはさらに言いました。「あなたの敵を愛し、敵のために祈りなさい」振り返ってみましょう。わたしたちは他の人を受け入れているでしょうか。例えば人間関係が良くない人を受け入れているでしょうか。イエスが伝えたいことは、人を愛することはありのままにその人を受け入れることです。
最後となります。皆さんは自分を愛していますか。ありのままの自分を受け入れていますか。それとも劣等感を持っているのでしょうか。他人と比べていますか。わたしたちは皆人間です。完璧な人はいません。自分の短所、弱さ、できない事などを受けいれていますか。神様はありのままのわたしたちを受け入れてくださいます。
このような人生の道を歩むことはできるのでしょうか。もちろん人間の力だけでは歩けません。しかし、イエスは力、導き、励ましを与えてくださいます。イエスに頼ることでイエスの道を歩むことができます。イエスの力に頼りましょう。イエスは人生の同伴者です。(翻訳担当:薩田)
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年間第29主日 A 年 2023 年 10 月 22 日
聖書:イザヤ45:1-6 詩篇 97 Ⅰテサロニケ 1:1-5 マタイ 22:15-21
今日の『聖書と典礼』の表紙を見てください。イエスの時代、ローマの支配者に税金を納めるときに使ったコインです。コインに描かれている、ローマ人が神とみなした皇帝の肖像画に注目しましょう。 とても厳格だったファリサイ派の人たちは、正しいユダヤ教の信者はこのコインに触るだけで汚れた心になると教えました。 当時のヘロデ派はローマと皇帝を受け入れました。
この 2 つのグループは普段、犬猿の仲でした。しかし彼らが一致団結したのは、双方ともイエスをねたみ、憎んだからでした。 今日の福音書には、この 2 つのグループが一致してイエスを罠にかける様子が見られます。 罠は「板挟み」でした。 ローマに従わないと答えればローマに罰せられます。 イエスは今日の私たちにも深い意味を持つ答えを返されます。 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
今日の私たちにとって、この答えは、私たちが日本という国に対して忠実であると同時に、イエスが示してくださった道を歩むとき、イエスに対して忠実であることが両立することを意味します。 正しいキリスト者は正しい国民であることができます。 私たちは日本とその国民のために祈るのです。
神のみ言葉は私たちにこう告げています。「私たちが心静かに平安な毎日を送れるように、王と権力者のために祈りなさい…このような祈りは、すべての人が救われることを望んでおられる神に喜ばれるものです。」(パウロ、1テモテ2:2-4) 今日、日本に暮らす私たちにとっての「王」とは、(たとえその政策に同意しないとしても)私たちの政府と、その模範によって私たちに平和と一体感を与えてくれる天皇を意味します。
第1朗読のイザヤ書では、バビロンのキュロス王は真の神を知りませんが、神は彼を知っておられます。 キュロスは、49年間バビロンに捕囚されていた人々に自由と平和を与える神の道具として選ばれました。 神はお創りになったすべての人を愛しておられます。 私たちキリスト者は、他の人が神に愛されていることを実感できるように、愛の道具となることが求められています。 今日は「世界宣教の日」です。 第一バチカン公会議は、すべてのキリスト者が宣教師となること、すなわち、私たち一人ひとりがイエスの証人(あかしびと)となることを求めています。
(翻訳担当;北尾)
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年間第23主日 A年 2023年10月15日
聖書朗読:イザヤの預言25:6-10 詩篇23 フィリピの教会への手紙4:12-20 マタイ22:1-14
聖書においては、旧約でも、新約でも、食事のことがしばしば出てきます。これは「宴会のテーマ」と言われています。食事は神との楽しい交わりの具体的なシンボルです。神と私達人間は一緒に楽しい食事をすることが出来ます。
イエスはあの時代のユダヤ人の祭司長や長老達に食事についてのたとえ話をしました。彼らは神との親しい交わりは、ユダヤ人だけのものだ ― 特に彼らが作りだした律法をすべて守っているユダヤ人達だけの為にあると考えていました。罪人や異邦人たちは、神の愛を受けることは出来ないと考えていたのです。
イエスは彼らに、そして今日の私達に言っています。神様はそれぞれ一人一人を愛しておられます。ご自分がお造りになったからです。神様の愛は、すべての国の全ての人々、一人一人に対する無条件の愛です。また神様の愛は、正しい人の為、―そしてこれが大事なことですが、罪人の為でも、悪い人の為でもあるのです。
イエスはご自分が言う教えを実行しました。イエスは結婚したばかりの若いカップルと(ヨハネ2章)、又、徴税人のマタイと(マタイ9章)、高い木の上にいた時に友情の食事をするためにイエスによって招かれたザーカイと(ルカ19章)も親しい交わりを持って喜びに満ちた宴会をしました。そして、イエスは又、死ぬ前の夜に12人の弟子達と共に特別な晩餐をしました。その晩餐で、イエスは彼らを「私の友」と呼びました。(ヨハネ14-17章)そして、復活後、イエスは楽しい朝食をペトロと一緒に食べました。(ヨハネ21章)
今日の第一朗読でイザヤは、生き生きとした詩的な言葉で、私達人間との親しい交わりの食事を描いています。上等な食事とお酒だけがふるまわれ、そして、神はこの宴会で私達に慰めを与え、私達の目から涙をぬぐってくださいます。この宴会はすべての国の為です。私達の牧者であるイエスは、又、私達の為にも宴会を用意して下さいます。(詩編23)
誰でもがこのように、神との友情、愛、温かい交わりを味わうようにと招き入れられているのです。 ある者はこの招きを無視し、又、ある者はこの世の出来事に忙しいからと言って応えないでいます。
イエスは私達に、温かい交わりに神様が招いていることに応えるようにと優しく求めています。この要求は今の私達にもなされているのです!もしこれに応えようとしているなら、この神様の温かい愛と友情への招きについて、思い巡らしましょう。
私達はミサと聖体拝領 - ミサは神様との家庭的な食事です – において、イエスとの温かい交わりを味わいます。ミサでのこの体験は、家で祈る時に、私達の日々の生活の中に入ってきます。祈りは根本的に、友であるイエスとの温かい会話です。このように、この温かい関係が私達の日々の生活、仕事、勉強や隠居生活の中にも味わいをもたらします。この温かさを他の人々と分かち合いましょう。
主の食卓に招かれた者は幸せ。
マタイ22章11節~14節、イエスは別の日には違う譬え話を話されました。婚礼の上着はすぐ用意できます。洗ってあれば十分でした。でもそうせずに汚い上着のまま婚礼にくることは、王様に対しての意図的な侮辱になります。
私達はイエスに会うための心の服を準備しているでしょうか?(翻訳担当:三村)
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年間第27主日 A年 2023年10月8日
聖書: イザヤ 5:1-7; 詩編 80; フィリッピ 4:6-9; マタイ 21:33-43
わたしたちは、「イエスを知る」、「イエスに出会う」という言葉を使います。どちらも同じ意味です。この言葉の意味は、福音書を祈りながら読むことを通して、イエスと友だちになるということです。人間としてのイエスを知れば知るほど神様のこと、すなわち人間を愛し人間の弱さを理解される方、を深くわかるようになります。イエスは人間の心の中にある神様の愛です。
神のひとり子は人間になり、わたしたちはイエスを通して神様に出会います。わたしたちの神様であるイエスは100%の人間でした。ですから、イエスは普通の人間とまったく同じように感じ、反応し、誘惑を受けました。
人間になる際に父から与えられた最初の目的は、自由、希望、平和をユダヤ人へもたらすことでした。ユダヤ人は1,900年の間救い主を待ち望んでいました。イザヤ書やマタイによる福音書の今日の朗読個所に書かれているように、ユダヤ人の祭司や長老たちは天からのメッセージやイエスからのメッセージを受け入れませんでした。
イエスはユダヤという国へ救いをもたらすことを目的に人間になりました。人間としてのイエスの大きな失望を想像してみましょう。別の時には、イエスはエルサレムに対して涙を流しました。(ルカ19:41)
皆さんは朝露のように消えてしまった夢を持っていたと思います。仕事を失ったことがあるかもしれません。また強く望んでいたことがかなえられなかったこともあったかもしれません。また恩知らずの対応を受けたことも。同じ体験をしたイエスに出会いましょう。わたしたちは失望、失敗、心の傷を通してイエスに出会うことができます。イエスはわたしたちと一緒に感じ、わたしたちの弱さ、失敗、心の傷に同情してくれると聖書に書かれています。(ヘブライ4:15)
今日の福音書では、ユダヤ人の祭司や長老たちが神様のメッセージを受け入れなかったことに失望したイエスが描かれています。彼らはイエスを殺そうと計画していました。このことをイエスは知っていました。人間と同じようにイエスは死への恐怖心を持っていました。ゲッセマネの園ではイエスは大変怖がっていたのです。しかし父である神へ勇気を与えてくれるように祈り、そして与えられました。(マルコ14:34)イエスはわたしたちの祈りの模範です。
人間として様々な困難なことがあれば、それらを持ってイエスのところへ行きましょう。この祈りによって、親しく理解のある友であるイエスに出会うことができます。人生の旅路でイエスはいつも共にいてくださいます。
聖歌53番での歌詞や詩編139:18には次のように書かれています。「神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」(翻訳担当:薩田)
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年間第26主日 A年 2023年10月1日
聖書: エゼキエル 18:25-28; 詩編 25; フィリピ 2:1-11; マタイ 21:28-32
過去の人生で大きな罪を犯した人もいるかもしれません。今日の福音(マタイ21:28-32)のイエスのメッセージは、その人に、大きな慰めと励ましを与えてくれるでしょう。私たちが本当に申し訳ないと神に言うと、神はその罪を全面的に赦してくださいます。もし誰かがその罪について、恥ずかしく思ったり、罪悪と感じたり、嫌だと思っているなら、その思いを心の中から追い出してください。神が私たちの罪を赦してくださるとき、その罪は神の目には映らなくなるのですから。私たちは自分自身をも赦すことを学ばなければなりません。神が許して下さるのです!そうです、私たちは罪を思い出し、それを赦してくださった神に感謝することができるのです。
もちろん、罪人に対する神のこのような優しい態度は、小さな罪をたくさん抱えている人にも当てはまります。
私たちの罪は、神との親密な関係を味わう障害となりますが、イエスが「罪人の友」と呼ばれて喜ばれたことを思い出してください。
詩篇25:7-8に、次の祈りがあります。
「主よ、私の若き日の罪を思い出さないでください。
あなたの愛のうちに、私を思い出してください。迷える者に道を示してください。」
福音書には、聖ペテロが大きな罪人であったことが記されています。ペテロはイエスを知っていることさえ否定したのです。また、姦淫の女も、イエスによって優しく赦されました(ヨハネ8:11)。悪い評判の女に、イエスは言われました: 「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」(ルカ7:48)。そして、罪深い放蕩息子と、柔和で寛容な父親がいます(ルカ15-)。
神に本当に申し訳ないと告げましょう、そうすれば、罪は拭い去られます。赦しの秘跡は、神とのこの温かい関係の回復を確認するものなのです。
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10月1日は、私たち、新子安共同体の守護の聖人である聖テレジアの祝日です。テレジアは私たちのモデルです。テレジアは大きな有名な行ないをしたわけではありません。有名な聖人の生涯を本で読みました。ある聖人はハンセン病患者の世話をし、またある聖人は殉教者でした。テレジアは「私は小さな砂粒にすぎません。私は小さな子どものように、神の愛を信頼し、イエスのために、イエスと共に、日々の小さなことを行っています。」と言っています。テレジアは、このような生き方を「小さな道」と呼びました。人生の道を、大きく、長く、歩みはしませんでしたが、テレジアは小さな一歩を踏み出しました。私たち皆が歩むことのできる道が、ここにあります。(翻訳担当 相田)
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年間第25主日 A年 2023年9月24日
聖書:イザヤ 55:6-9 詩編145 フィリピ 1:20-27 マタイ 20:1-16
これは、私が中学一年生のときの個人的な経験です。日曜日の御ミサで、ぶどう園の労働者のたとえ話を聞きました。 労働者の中には午前6時に働き始めて午後6時まで(12時間)働いた人も、午後5時に来て1時間しか働かない人もいましたが、誰もが同じ賃金を受け取りました。「それは不公平だ」と私は思ったので、その時は、このイエスの教えが好きではありませんでした。
それから私はたとえ話について学びました。 たとえ話にある、普通ではあり得ないびっくりするような場面を考えていくと、意図された奇妙な点の背後にある深い意味に気づかされます。
このたとえ話は、労働者と使用者の労使関係とは全く関係がありません。 これは、すべての人間に対する神の慈しみのたとえ話です。
このたとえ話には二つのレベル、言い換えると二つの時代があります。
第1のレベル(イエスの時代)。 イエスは故郷ナザレで、神はすべての造られたものを愛していると教えました。 ユダヤ教の指導者たちはこの教えに強く反対し、イエスの殺害を企てました。 ファリサイ派の人々は、1900年前のアブラハムの時代から、ユダヤ人こそが神の特別な民であると考えていたからです。 「他のすべての異教徒は神に拒絶され、神は彼らを愛してくださらない。主はユダヤ人だけを愛したので、遅れてきた人は受け入れられない。」と教えていました。
第2のレベル(今の私たち)。確かに、ユダヤ人は神によって選ばれましたが、それは神の恵みを分かち合うために選ばれたのです。にもかかわらず、彼らは、狭く、排他的なために、それに気づきませんでした。
私は遅れてきた者です。1時間しか働いていません。ですから、私を選んでくださった神に毎日感謝しています。 私たちは皆、「1時間の労働者たち」です。私たち一人一人はキリストによって召されています。イエスは私たち一人一人に、「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」と言われます。 (ヨハネ 15:16)
イエスは、ある人は幼児のとき、ある人は学生のとき、ある人は大人になって、またある人は死に瀕しているときに選びます。 自分の洗礼の日を他人と比べないでください。 神はすべての人を100%愛しています。
そしてもちろん、神の愛はキリスト教徒だけに向けられたものではありません。 神はあらゆる造られたものを愛しています。 キリスト教徒はこの愛を知っており、神の愛を他の人たちと分かち合うよう求められています。
キリスト教徒への召し出しは、この世で一番大事な富です。私たちは、神の恵みを分かち合うために召され、選ばれたということを、いつも忘れないようにしましょう。 私たちは、神はすべての人を愛していることを、言葉や行い(あるいは優しいほほえみ)によって、何らかの形で人々に伝えることが求められています。 悲しいことに、誰もが自分が神に愛されていることを知っているわけではありません。
神は私たちに恵みをくださいました。神に「ありがとう」と言いましょう。 神様への感謝の気持ちが大切です。
「あなたは恵みとあわれみに満ち、怒るにおそく、いつくしみ深い。その恵みはすべてのものに及び、いつくしみは造られたすべてのものの上にある。」 (詩編145編)
(翻訳担当:田澤)
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年間第24主日 A年 2023年9月17日
聖書:シラ書 27-28; 詩編 103; ローマ教会への手紙 14:7-9; マタイ 18:21-25
“人の舌は他の人を傷つけることがあります”同じことを聖ヤコブも聖書の中の手紙(ヤコブ手紙3:8)で言っています。人間関係において、他の人が言う言葉で傷つけられることがあります。(また無言で傷つけられることもあります)この場合、わたしたちは恨んだり、許せない気持ちになりがちです。旧約聖書と福音書のいずれでも、わたしたちを傷つけた人を赦すように求めています。第一朗読のシラ書では、“隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば願い求めるとき、お前の罪は赦される(シラ書27:35)”と書かれています。
主の祈りでは、“天におられるわたしたちの父よ、…、わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分の負い目のある人を赦しましたように(マタイ6:12)”とイエスが教えています。
心が傷ついているとき、赦すことは難しいし時には不可能に思えます。確かに、人間の力だけでは、難しくまた不可能に思えます。しかし神様には不可能なことはありません。イエスへ助けを求めましょう。
赦すことを始めるための祈りのプロセスがあります。
①自分自身に問いかけます。“自分はその人を赦したいと思っているのだろうか”
②神様が慈しみの中でわたしたちを赦してくれたやり方を思い出しましょう。
③イエスの助けを求めましょう。そして求め続けましょう。
今日の福音書では、イエスは上の②と関連する分かりやすいたとえ話をしてくれています。
ある王が多額な借金(50年分の給料)を負っている家来の借金を帳消しにしてあげました。この家来が外に出て、三か月分の給料を貸している仲間の家来に出会いました。持ち物をすべて売って借金を返すことを要求しました。さもないと牢へ入れると脅しました。なんと不公平で思いやりがない人なのでしょうか。神様は違います。赦してくれます。だからわたしたちも人を赦しましょう。
今日の共同体のミサは敬老のためです。神様からの励ましや慰めが必要なとき、次の聖書の箇所が助けになります。
①民数記6:22 神ご自身がモーゼに祝福をお与えになりました。神様は同じ祝福を今日のわたしたちへもお与えなります。
②詩編23 イエスはわたしたちの良き牧者です。憩いの水場へ導き平和を与えてくださいます。
③イザヤ43:1-13 神様はわたしたち一人一人を名前で呼ばれます。神様にとってわたしたちは値高く、そして神様は恐れるなと言われます。
④福音書マタイ11:28-30 体や心が疲れた時イエスの招きに応えましょう。イエスは、「休ませてあげよう」とはっきりと言われます。(翻訳担当:薩田)
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年間第23主日 A年 2023年9月10日
聖書朗読:エゼキエル33:7-9 詩篇95 ローマ人への手紙13:8-10 マタイ18:15-20
私達は神、その一人子が私達のような人間になって来られたことを信じています。私達の神が肉となって来られた時から、神は私達人間に近い存在となりました。何故なら、イエスにおいて、神ご自身が、私達人間がいかに弱いものであるかを体験されたからです。イエスは十字架上で死にましたが、復活されました。復活によってイエスは今も私達の中に生きておられます。イエスは聖餐式の中におられ、聖書を通して生きた声で私達に語られ、そして私達が祈るために集う時はいつも私達の中におられます。今日の福音の中でイエスは仰っています。「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18章20節)
今日のミサにおいて、復活したイエスは私達と共に長椅子に座ってここにおられます。私達の集い、そこには色々な人格、様々に異なった育ちや学歴、国籍、異なる価値観や考え方をもった人がいますが、その中でイエスは私達と共に神に祈っておられます。「多様性の中の一致」に私達が結ばれるのは復活したイエスのお蔭です。私達のミサは、キリストと共に囲む家庭的な食卓です。私達は信仰において、兄弟姉妹としての絆をもっています。キリスト、そして兄弟姉妹とのそうした一致は、私達にこの1週間の励ましを与えてくれます。
今日の福音の中でイエスは、もしあなたが間違った道を歩んでいる人を見たなら、その人に穏やかに忠告するように言っておられます。その忠告は、怒りや失望からくるものではなく、愛からくるものでなければなりません。イエスは私達に、「裁くな!」と言っておられます。神ご自身は私達に優しいのです。「神は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」(マタイ12章20節)
具体的な例があります!子供たちや孫たちが誤った道を歩んでいるのをみた両親や、祖父母の皆さんに対してです。穏やかに!愛をもって!理解をするようにしてください!怒りは、その人を、間違った道へもっと強く向かわせるだけです。無言の忠告がより効果的なのです。その人をありのままに受け入れなさい。そして、その人の為に、祈り、祈り、祈りましょう。神の力に希望を持ちましょう。その人はいつかきっと正しい道を見つけるでしょう。
イエスは私達に仰います。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15章20節)そして、今日の第二朗読の中でパウロは言っています。「愛だけが隣人に悪を行わないことです。」(ローマ人への手紙13章9-10節)
神は忍耐強く私達を赦します。私達も忍耐強く人を赦しましょう。人間関係における和解は、イエスの道において大事な部分です。(翻訳担当:三村)
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年間第22主日 A年 2023年9月3日
聖書:エレミヤ 20:7-9;詩篇 63;ロマ 12:1-2;マタイ 16:21-27
イエスは真(まこと)の神です。 私たちをお創りになり、私たちに命をお与えになります。けれども、神の御子は天の栄光を脇に置いて、私たちと同じ真(まこと)の人間となられたのです。 イエスは真の人間として、恐怖、裏切りなどの心の傷、そして体の痛みも体験なさいました。
今日の福音書では、イエスが来るべき死の恐怖について考えているのが見られます。
衝動的な性格のペトロは、「主よ、そんなことがあってはなりません」とイエスに言いました。
わたし(ケンズ)はよく説教の中で次の言葉を使います。「イエスは私たちの人生の旅の同伴者」 復活したイエスは私たちのそばにおられます、特に苦しみに出会うときに。 イエスは真の人間として苦しみを体験しておられるので、私たちのことを深く理解することがお出来になります。 イエスは私たちとともにいて、同じように感じてくださいます。
私たちは弱い人間として、さまざまな種類の苦しみに遭います。 肉体的な痛みや病気、 孤独、人間関係の破綻、打ち砕かれた人生の夢、誘惑、失敗、憂鬱、裏切り、老い、気力のなさ、物忘れ、恐怖、不安などの心の苦しみもあります。私の知っている男性は短気で苦しんでいました。 イエスは、私たちの苦しみを「十字架」という言葉で呼んでおられます。
イエスは私たちにこの挑戦をお与えになりました。 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
私たち一人一人、自分自身に問いかけてみましょう。「私は本当にイエスに従う者となりたいでしょうか?」
イエスは私たちの苦しみを取り除くとは約束なさいません。 私たちが苦しみに出会うとき、イエスは私たちのそばにいて、一緒に苦しみ、勇気、希望、力、励ましを与えると約束してくださいます。 イエスは苦しみを経験されました。 繰り返しますが、イエスは私たちの同伴者です。 同伴者であるイエスはゲッセマネの園で苦しみの時にこう言われました。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)
第 1 朗読でエレミヤは苦しみを経験しましたが、神様が(彼を助けるために)近くに来る様子は見られません。 そこでエレミヤは文句を言いますが、その文句は「祈り」です。 彼の祈りは神様に受け入れられます。なぜなら、神様は祈りの中で、私たちがありのままの姿で神様のところに行くことをいつもに望んでおられるからです。 その祈りは実際に「希望」と「勇気」に導かれます。
苦しみに出会ったら、自分のことは考えず、自分を捨て、他の人を励ましましょう。(翻訳担当:北尾)
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年間第21主日 A年 2023年8月27日
聖書: イザヤ 22:19-23; 詩編 138; ローマ 11:33-36; マタイ 16:13-20
今日の福音で、イエスは12人の弟子たちに2つの質問をします。一つ目は 「人々は私を誰だと言っているか?人々は私のことを何者だと言っているのか?」――12弟子のリーダーとして、「洗礼者ヨハネが生き返ったとか、古代の預言者の一人だとか、いろいろな意見があります」とペトロが答えました。
そして、イエスは重要な第二の質問をします。「それは他の人たちの意見だ。あなた自身は、私をどう思うのか?」――「あなた、イエスは約束の救い主(メシア)。神の子です。」-そうペテロは答えました。
するとイエスは、「素直で良い答えだ。神の計らいであなたはそう答えた。」と言われました。
これを今、読む人々へ:これは2000年前の出来事ではありません。復活の主イエスは今日、私たち一人一人に同じ質問を投げかけておられるのです。
さて、ここで立ち止まり、深く考えてみましょう: 「私にとってイエスとは誰か?私はイエスを知っているだろうか?私はイエスに出会っているだろうか?」-イエスは私たちに問いかけます:「あなたは私を本当にあなたの友として、あなたの神として知っているか?」-静かに考えてみましょう: イエスに対して、謙虚に、そして何より正直に、答えてみましょう。
もし、イエスに出会ったと感じたら、イエスに感謝しましょう。これは神からの贈り物です-ペテロの場合と同じように。
でも、もしあなたがイエスに出会っていないと感じたり、あるいはイエスが曖昧で遠い存在だと感じたりしていても、心配する必要はありません!ただ、自分の言葉でイエスに自分の気持ちを伝えればいいのです。イエスはありのままの私たちを受け入れてくださる。イエスが求めるのは正直な返事です。
そのようなイエスとの会話が友情の始まりになるのです。
これから、イエスの問いに対する私の答えを分かち合おうと思います。
神が何らかの形で私に御子を見せてくださったことを感謝します。しかし、私はもっと深いところでイエスと出会いたい。私は毎日、12世紀イギリスの聖人、チチェスターの聖リチャードの祈りを祈っています。これはその祈りです:
「わが主イエス・キリストよ、あなたに感謝します。 私の友であり兄弟である、イエスよ、 あなたをもっとはっきりと知ることができますように。 あなたをもっと心から愛せますように。 一日一日、よりあなたに近づけますように。」
私たちは特に、福音書を祈りのうちに思い巡らすことによってイエスに出会うことができます。
イエスが来られるのは、毎朝、夜が明けるのと同じように確かです(ホセア6:3)。神の賜物を他の人々と分かち合いましょう。(翻訳担当 相田)
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年間第20主日 A年 2023年8月20日
聖書:イザヤ 56:1-7 詩編67 ローマ 11:13‐32 マタイ15:21-28
まず、今日の聖書朗読の背景について説明します。 イエスの時代、ユダヤ人の宗教指導者(長老)たちは、唯一の真の神はユダヤ教の信者だけに、愛と気遣いを与えられたと主張しました。 彼らはこう教えました「私たちユダヤ人は神に選ばれた人です。 私たちはエリートであり、異邦人は神に拒絶されています」。預言者イザヤの言葉や詩篇67篇、また、ヨナ書で神は異邦人に対して気遣いを示されたにもかかわらず、長老たちはそのように教えました。 彼らは異邦人に対する聖書の言葉に耳を傾けず、彼らの教えに適したものだけを選択していました。 彼らは排他的で外国人を見下していました。
ナザレでの最初の説教で、イエスはイザヤ書の言葉を引用しました。 「神はユダヤ人だけでなく、すべての人間を愛しています」と。 ナザレのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)の長老たちはイエスを追放し、石打ちで殺そうとしました。 また、今日の福音にあるように、イエスはあえて異邦の地に出向き、そこで信仰深い異邦人の女性と出会い、彼女の娘を癒されました。
確かに、ユダヤ人は神によって選ばれました。しかし彼らは神の愛を分かち合うために選ばれたのです。
「神よ、あなたのわざが世界に知られ、救いがすべての国に知られるように」 (詩篇67編)
これから述べることは、私が個人的に感じていることです。 私はユダヤ人ではありません。 私は外国人です。 しかし、新約のイエスは私を選んでくださいました。 神は私に愛を示し、信仰の賜物を与え、御子イエスを示してくださいました。 私は神に深い感謝の気持ちを持っており、その賜物を他の人と分かち合いたいと思っています。 それが私が日本に来た理由であり、今も日本に滞在している理由です。
みなさんも選ばれたのです、分かち合うために選ばれたのです。 私たちは世界で最も恵まれた人々です。私たちの恵みを分かち合いましょう。 言葉と模範によって、暗闇の中の光となり、私たちの小さな社会の味のある塩になりましょう。
福音書には、イエスと異邦人の女性との興味深い会話が記されています。 聖書学者たちは、この会話は厳しいものではないと言っています。 むしろ人間味に溢れています。 母親はイエスに大胆に語りかけます。 私たちの祈りは形式的すぎませんか?丁寧すぎませんか? イエスは私たちの友人であり、友達として話したいとお望みになります。 ですから、友情を持って大胆にイエスのもとに来てください。 ありのままの姿で来てください。 イエスは私たちが恵みの座に来ることを望んでおられます。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。 ヘブライ人への手紙(これは聖書の言葉、神ご自身の言葉です!)にあるように、「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。 (ヘブライ人への手紙4:16)
(翻訳担当:田澤)
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年間第19主日 A年 2023年8月13日
聖書: 列王記 19:9-13; 詩編 85; マタイ 14:23-33
わたしたちの復活されたイエスは、今日生きている声でわたしたちに語りかけます。聖書の中のイエスの声は、生の声です。
今日の答唱詩編85節には、「神の語られることばを聞こう。神は平和を約束される」と書かれています。
第一朗読では次のことが書かれています。「神がわたしたち人間に話されるとき、(台風、地震、大きな火事の時のように)騒がしい声でも、オーバーな話し方でもありません。」神様の私たちへの声は、優しく穏やかな風に似ています。
以前あった、神様がわたしに語られたという体験についてお話します。三年間ある小教区で一人のシスターと一緒に働きました。その方は、教区から任命されていました。シスターは衝動的な性格でした。前もって考えることなく、話したり行動したりしていました。このことでわたしはとてもイライラしていました。一年経って、今日の福音書を読み、イエスがペトロを受け入れた事をいろいろと考えました。使徒ペトロは衝動的な性格でした。福音書の中では、ペトロの衝動的な性格の場面がたくさん見られます。ペトロの癖はイエスを困らせたに違いありません。しかし、イエスはありのままのペトロを受け入れました。この福音書の場面を通し、わたしはイエスと深く出会い、また平和のうちにそのシスターを受け入れることができました。
今日の福音書では、ペトロはイエスが水の上を歩いているところを見ました。衝動的に、「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」とペトロは言いました。イエスは「来なさい」と言われ、ペトロは数歩歩きましたが、高い波に気づきイエスへの信頼を失い、沈みかけました。イエスは手を伸ばし、沈みかけたペトロを助けました。イエスは穏やかに「ペトロ、なぜ疑ったのか」と言われました。ここでの教訓は、イエスは叱ることなく、薄い信仰、イライラさせる癖、そしてその後のイエスに対する否定をも受けいれたのです。
イエスは、まったく同じように、わたしたちを受けいれてくださいます。弱いわたしたちですが、信頼と希望を持ってイエスのところへ行きましょう。イエスは生きている声で、「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。心配するな。」と言われます。典礼聖歌388番の2番目の詞を頭に浮かべましょう。「嵐の日、波猛る海で、弟子たちを諭された。力の御言葉を私にも聞かせてください。」(翻訳担当:薩田)
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主の変容 A年 2023年8月6日
聖書朗読:ダニエルの預言7:9-14 詩篇97 使徒ペトロの手紙(二)1:16-19 マタイ17:1-9
主の変容それ自体を考える前に、以下の3つの聖書の箇所について思い巡らしてみましょう。
① 「神の子イエスは、あらゆる点において、私達と同様に試練に遭われたので、私達の弱さに同情出来る方です。だから、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4章14節-16節)
② 「キリストは人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2章5節-8節)
③ あるいは、聖ヨハネは簡潔にこのように述べています。「み言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1章14節)
これらのテキストは、イエス様が人間と同じような反応をする、真の真の人間であったのだということを、私達に告げています。そうです、イエス様は神であった、しかしイエス様は天の栄光の中にありながら、真の人間になられたのです。
変容の6日前、イエス様は長老達の憎しみと、そしてまた彼らの企みも分かっていたので、次のように仰いました。「私は多くの苦しみを受けて殺されるだろう。」(マタイ16章21節)私達人間は、痛み、苦しみ、病気に直面する時、怖れや不安、どうすることもできない無力さを感じます。
これはまさに真の人間であるイエス様が実際に感じたことなのです。イエス様はどうされましたか?イエス様は祈るために山に登られました。山の上で、イエス様は光に包まれます。そして神の声が聞こえます。「これは私の愛する子」(マタイ17章5節)。このようにして、イエス様は信頼と希望をもって苦しみを受け入れる勇気を戴いたのです。神は彼とともにありました。
私達が痛みや苦しみに出遭う時、怖れを抱くのは普通のことです。さあ、祈る為に‘山へ登りましょう’。同じ体験を乗り越えられた私達の神イエスのもとへ行きましょう。イエス様は私達と共に苦しんでおられ、そして共感していらっしゃいます。(‘山へ登る’という場、私達もその祈りの場に行ってイエス様と出会いましょう。)
大変意味深い違いをもつ、似たような出来事が、イエス様の苦難の始まりの夜に起きます。
暗闇に包まれた中、ゲッセマネの園の平らな場所で、イエス様は変容の時と同じ3人の弟子達と一緒にいて、深い怖れを感じています。イエス様は勇気を下さいと祈っています。父である神はイエス様に勇気をお与えになります。私達も‘園に行きましょう’、そこは、祈りの中でイエス様と出会う場です。イエス様は彼もその体験を持っているので人間の苦しみを理解しておられます。だから、私達は信頼してイエス様の元へ行くことができるのです。
先週、教皇フランシスコはオーストラリアからの巡礼者達に向かって話しました。教皇フランシスコはこのように仰っていました。「主、イエスはいつもあなた方の傍におられます。そうです、最も困難な時にもです。イエス様は決して共に歩むことに疲れることなく、いつも私達と共におられます。
イエス様が私達に下さっている勇気と希望を、他の人達と分かち合いましょう。
(翻訳担当:三村)
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年間第17主日 A年 2023年7月30日
聖書 列王記上3章5-12節 詩篇119 ロマ書8章23-30節 マタイ13章44-52節
これからする問いに、正直によく考えて答えてください。
「あなたが心の底から望んでいる『神様からの贈り物』は何ですか」
それが第一朗読で神様がソロモンにお尋ねになった問いです。
おそらく初めの望みには、(自分自身または他人の)健康、心配ごとからの解放、または人との平和な関係などの願いが浮かぶでしょう。 これらの願いは悪くはないのですが、より深く考えていきましょう。 神様との温かい関係があればこそ、私たちは真の平安と幸福を得ることができます。 聖アウグスティヌスが『告白』の中の祈りに「あなたは我々をあなたへと向けておつくりになった。その故、我々の心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです。」と記しているように。
神様とのこのような温かい関係は、私たちが持つことのできる、最も偉大で最も貴重な宝物です。 私たち一人ひとりが、自分は神様の子どもで、深く愛されていることを理解し実感できることは美しい宝物です。 神様は私たちに信仰の恵み(賜物)を与えたときに、この宝物を私たちに与えてくださいました。
イエスは 2 つの「たとえ話」の中で、畑を耕していたとき、鋤が宝物に当たった農夫の話をしています。(イエスの時代には、この国は戦場となっており、農民たちは、まず畑に貴重品を埋めて逃げていたので、これはよくあることでした。)農民は、畑を買うためにすべてを売り払います。
同じく美しい真珠の収集家。 彼は特別に美しい真珠を見つけ、それを買うためにすべてを売り払いました。 「すべてを売り払う」というのが今日のたとえ話のキーワードです。 私たちは信仰の賜物を何よりも大切にしていますか? 私たちにとってイエス様は一番でしょうか?
祈りの中でイエスに伝えましょう。 イエスは私たちの友人です。 イエスは私たちの神です。 神様だけが私たちの希望、夢、憧れを満たしてくださるのです。 私たちの信仰は神様からの贈り物です。 その信仰は私たちに平安、幸福、安心感を与えてくれます。
受洗のとき、私たちはその賜物をいただきました。 しかし、聖パウロは私たちにこう言います。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(2コリント4:7)
信仰という宝物を神様に感謝しましょう。 毎日の祈りを通して神様との交わりを大切にし、神様と温かい絆を育んでいきましょう。 そしてこの幸福と目的意識を他の人たちと分かち合いましょう。
追記: 第三のたとえ話は、イエスの教会には、国籍、考え方、教育の異なる様々な人々がいるということを物語っています。 イエスは私たちに、さまざまな人を受け入れるよう求めています。 神様はすべての人を愛しておられるのです。 (翻訳担当:北尾)
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年間第16主日 A年 2023年7月23日
聖書: 知恵 12:13-19; 詩編 86; ローマ 8:26-27; マタイ 13:24-43
「私たちの神、主よ、あなたは深い愛しみと寛容で私たちを治められます」-今日の第1朗読にこう書かれています。今日は、私たちの神が、私たち一人一人に、例外なく抱いておられる深い愛情について考えましょう。
イエスが同時代の人々に対して示された態度に、神の深い愛情と優しさを見ることができます(イエスは今も私たちに対して同じ姿勢です)。イエスは弟子ペテロの弱さと失敗を理解し、深い愛情を示して彼を赦されました。姦通の罪で当時の警察に捕らえられ、イエスの前に立たされた女もイエスは赦されました。イエスはとても理解があり、優しく、寛容でした。
イエスを疑った弟子トマスにもそうでした。「イエスは昨日も今日も、また永遠に変わらない方(ヘブライ13:8)」なのです。イエスは私たち人間の弱さを理解し、私たちの悔い改めを待ち望み、私たちを赦してくださるのです。
今日の福音のたとえでは、ある畑の持ち主が自分の畑に小麦を蒔きました。でも、小麦が育つと、その間に「毒麦」が混じっているのに気づきます。「毒麦」は花が咲くまでは麦のように見えます。農夫が「毒麦を抜きましょうか?」と畑の持ち主に言うと、「いや、二つの根は絡み合っているので、毒麦を抜けば、良い麦も抜けてしまう。だから、収穫の時までそのままにしておきなさい」と持ち主は言いました。
メッセージはこうです:私たちの神は罰する神ではありません。神は私たちの弱さを知っておられ、私たちが罪を犯しても忍耐強く私たちの悔い改めを待ってくださる。たとえ話の言葉を借りれば、私たちの神は優しく、収穫の時まで私たちを残してくださるのです。神にはすべてのことを行う力があるので、私たちが「毒麦」になったとき、神は私たちを良い麦に変えることができます。これが私たちへの挑戦です。さあ、新しいスタートを切りましょう。私たちの神は、私たちに優しく、深い愛しみに満ちておられるのです。
このように神は私たちに接してくださるのですから、私たちも同じように他者に接することが求められています。主の祈りに「父よ、私たちの罪を赦してください。私たちも、私たちに対して罪を犯す人を赦しますから。」とありますね。
神がどんなに深い愛しみで私たちを見つめておられるか思いをめぐらせ、その愛に応えましょう。私たちはいつでも新しいスタートを切ることができるのです。
追記: 教皇フランシスコは、祖父母と高齢者に手紙を書きました。若き日の聖母マリアと高齢のエリザベトが出会ったように、世代を超えて出会いましょう。二人は喜びと励ましを与え合いました。(翻訳担当 相田)
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年間第15主日 A年 2023年7月16日
聖書:イザヤ 55:10-11; 詩編 65; マタイ13:1-33
わたしたちキリスト信者はこの世で最も豊かな者です。なぜでしょうか。わたしたちの神様であるイエスが、信仰の種を心に蒔いてくださったからです。信仰の種は、日々の生活への意味と味わいを与えてくれます。復活されたイエスは、わたしたちと一緒に人生の旅路を歩んでいます。イエスは、力、導き、励ましを与えてくれます。
また、復活したイエスは特に聖書を通してわたしたちに語りかけます。聖書は特別な書物です。その中でイエスは、わたしたちに生きている声で語りかけます。ヘブライ人への手紙(4:12)の中で、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣より鋭く」と書かれています。
自分に問いかけてみましょう。「神様がわたしたちに語りかける話を聞くために聖書を開いているでしょうか。」もし聖書を開かないなら、とてももったいないことです。
おそらく時々、聖書の言葉や詩文が心に響くことがあると思います。好きな箇所がありますか。もしあるなら、それは復活された主イエスからの特別な贈り物です。
わずか1%の日本人がキリスト信者です。わたしたちは選ばれた者です。ただし、エリートとしてではありません。選ばれた理由は、神様からの贈り物を他の人たちと分かち合うためです。暗闇を照らし、地の塩つまり日本の社会へ味わいを与えることです。
わたしたちの神であるイエスは、心の中に信仰の種を蒔きました。イエスはわたしたちにその種を育て、実を結ぶように求めています。今日の福音書では、4つの応答があることを示しています。
①硬い土地に落ちた種のたとえ。そのような人は、信仰の種を受け取らず成長しないままでいる。
②痩せて石だらけの土地に落ちた種のたとえ。そのような人は、最初は熱心な信仰を持っているが、キリストへの熱意が冷めやがて無くなってしまう。
③アザミなどの雑草に覆われた種のたとえ。そのような人は、世の中の物、不安、多忙、出世、テレビやパソコンやスマホで時間を使いすぎることなどで、道から外れてしまいます。言い換えると、イエスが一番ではないのです。
④良い土地に落ちた種のたとえ。その人は、祈りの時間を作りイエスとつながることで、心の土壌を肥沃に保ちます。また神の語ることを聴くために、聖書を読み、祈ります。イエスが一番な人です。一緒に歩むイエスから、助け、力、導きを貰うので、仕事や生活が円滑に進みます。
長い祈りは必要ではありません。もっとも大切なことは、イエスと繋がることです。永井隆先生が良い例です。先生はX線医師としてとても多忙でした。毎朝先生は、聖書からみ言葉を選び、忙しい仕事の中で繰り返し思い出していました。わたしたちもやってみましょう。(翻訳担当:薩田)
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年間第14主日 A年 2023年7月9日
聖書 ゼカリヤ 9:9-10 詩篇 145 マタイ 11:25-30
私たちは本当に恵まれた者です! イエスは私たちの神様がどのような方であるかを教えてくださいました。 イエスはまた、神様が弱い人間である私たちに対してどのような態度を示されるかを教えてくださいます。 イエスは、私たちの神様はとても優しいお父さんであり、私たちは神様に愛されている子どもです、と仰いました。
私たちはイエスの教えを通して父である神様について学びます。 しかし私たちはイエスが人々に示した優しさ、思慮深さ、穏やかさ、そして私たちへの深い理解を通して、よりしっかりと学ぶことができます。 イエスの人間的な優しさを見ると私たちに対する神様の態度(在りかた)が分かります。 たとえ私たちが神様を忘れたり神様を拒んだりしたとしても、神様は決して私たちを忘れません。 神の愛は無条件です。 答唱詩篇 145で私たちは、この言葉で神に祈ります。
「神はめぐみとあわれみに満ち、怒るに遅く、いつくしみ深い」
イエスは、私たちと同じ「人間」になられた、私たちの神様です。 このことは、神様を私たちにごく近い存在にします。 復活されたイエスは、私たちのそばで、ともに人生の道を歩いてくださいます。 そしてイエスは心と心が通い合う友情を私たちと結んでくださいます。
今日の福音でイエスは、「わたしは謙虚な者」と言われました。 言い換えれば、イエスは私たちにこう仰います。「わたしは「人間」であることがどのようなものかを経験したので、あなたのことを理解できます。」
今日、生きている声で、聖書は私たちにこう告げています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
私たちの、忙しく競争社会には疲労、ストレス、心配事が溢れています。これが自分の現状であることを認めましょう。 そして、イエスのもとに行くことで これらの心配や重荷を解消しましょう。 イエスは「わたしのもとに来なさい」と言ってくださいます。 イエスのところに行き、祈りの中で話し合うことで イエスのこの素晴らしい招きに応えましょう。 私たちの疲れや心配ごとは祈りの材料になります。 そしてイエスは そのような祈りに優しく耳を傾けてくださいます。
60年以上前に私が日本に来たとき、重い軛(くびき)を負った牛が田んぼや畑で鋤(すき)を動かしていました。 軛はとても重いものです。しかしイエスの言う軛は二頭立ての軛です。 つまりイエスと私たち1人ひとりが1つの軛を負うのです。 苦しみに出会うとき私たちは孤独ですが、イエスは私たちとともに苦しみ、励ましを与えてくださいます。 このようにして私たちの重い荷物は軽くなります。
イエスはとても優しいかたです。 「わたしのもとに来なさい…」という素晴らしい招きに応えましょう。 そして私たちが出会う人々、特に苦しんでいる人々とその励ましを分かち合いましょう。(翻訳担当 北尾)
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