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主日の説教

主日の説教

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年間第27主日 B年 2018年10月7日

聖書朗読:創世記 2:18-24; 詩編 128; マタイ 10:2-16
 今日の聖書は、結婚生活についてです。イエス様の時代、男はとても簡単な理由で妻を離婚することができました!例えば、料理が下手だとか、姑に口答えしたとか、といったことで、です!そうした社会では男が支配し、妻たちはいつも不安にしていました。今日の創世記の物語の深い意味と、イエス様の教えは、これです:神様の前で、夫と妻は人として平等です。夫と妻とは違いますが、平等です。その違いは互いを補うものです。二人は調和して一緒に幸せな家庭を作るのです。
 結婚式の典礼が二人を幸せな結婚生活に導きます。
誓いの言葉: 
わたしたちは夫婦として
順境においても逆境においても
病気のときも健康のときも
生涯たがいに愛と忠実を尽くすことを誓います
結婚する二人を祝福する司祭の祈り: 
神よ 二人が喜びにつけ悲しみにつけ 賛美と祈りを忘れず
仕事に対してはあなたの助けに支えられ、
困難にあっては慰めを見出すことができますように アーメン
祈り: 
わたしたちの助けであり 力である神よ
あなたはお定めになったことを
節理を通して成し遂げられます
ふたりを結ばれたあなたの愛が
ふたりの一致を強め
愛の実りを結ばせてくださいますように

 結婚生活は、他の人生と同じように、難しいときがあるかもしれません。続けていくのに、人の強さだけでは十分ではありません。神様の助けと力が必要です。神様は私たちを愛し、私たちが助けを求めるときには喜んで助けてくれます。上の祈りに 「二人が祈りを忘れず」 とあるように、私は結婚の準備をする二人のための講座で、アシジの聖フランシスコの 「平和の祈り」 を一緒に祈るように求めます。
自分のことは後回しにして人のことを考えましょう。(相田)

年間第26主日 B年 2018年9月30日

聖書朗読:民数記Ⅱ:25-29 詩編19 マルコ9:38-48

第一朗読(民数記Ⅱ)に、神様がイスラエルの民の代表者であるモーセを通して、70人をお選びになったことが記されています。神様はこの70人に特別な「恵み」をお与えになりました。しかし、70人とは別の2人も、同じ「恵み」を頂き、それを使いました。これに対し、ヨシュアは「やめさせてください、あの2人は我々の仲間ではありません!」と訴えました。
福音の中には、病気をいやすという特別の恵みをイエス様から頂いた12人がいますが、この12人以外にもイエス様の名の下(もと)に病人を癒した人がいます。「彼が病人を癒すのをやめさせてください!」モーセもイエス様も同じようにその訴えを退けました。
この話は今日、私たちにどんなメッセージを伝えているでしょうか?
イエス様は、私たちの「排他的な心」に注意を与えます。自分の仲間でない人が善い行いをしていたら、非難するのではなく喜びましょう。喜ぶだけではなく、称賛し、その人のことを神様に感謝しましょう!
イエス様は私たちに「誰でも受け入れる」という挑戦をお与えになります。性格の違い、政治や宗教の違い、価値観の違い、国籍の違いもあるで
しょう。教養のある人、無教養の人もいます。神様は私たちをお創りになりました。神様はすべての人間、一人ひとりを愛しておられます。神様は私たちをありのままに受け入れてくださいます。私たちも、他の人をありのままに受け入れましょう。それが、イエス様が私たちに望んでおられることです。私の愛する神様は、弱い私を弱いままで受け入れてくださるのです。他の人たちを、神様に感謝して受け入れましょう。
人は皆、それぞれに異なる才能を持っており、その才能は神様からのお恵みです。私は、自分を他の人と比べてはいないでしょうか?ほかの人をうらやんだり、偏見を持ったりしていないでしょうか?
ほんの少しの親切な行いや言葉で、偏見を打ち消すことが出来ます。(福音の中の「人に差し出すコップ一杯の水」は小さな善行の象徴です)
イエス様は「自分と違うところのある人たちや仲間でない人たちを受け入れるように」と言われます。その教えを実行する力と勇気をイエス様に願いましょう。(北尾)

年間第25主日 B年 2018年9月23日

聖書朗読:知恵 2:12-20; 詩編 54; ヤコブ 3:16-4:3; マルコ 9:30-37

 アヴィラの聖テレサは教会博士と呼ばれています。「祈りとは私たちを愛してくれるイエスとの対話です。」とテレサは言います。神であるとともに私たちと同じようにこの世で人間を経験された、イエスに私たちは祈ります。イエスは100%神であり、100%人間です。テレサは、祈りの初めに人間としてのイエスを思い描くように勧めています。イエスに語りかけましょう。月曜日に開催されている一粒会大会において、小さな少年から次の質問を受けました。「神父様。寂しくはないですか?」私は「はい寂しいです」と答えました。私は孤独を感じました。しかしこの孤独の気持ちをイエスへの祈りの題材として用いました。自己憐憫に陥るより、神であるイエスが人間として感じた孤独を思いました。イエスは故郷のナザレでは受け入れられませんでした。そして人々から石を投げられ追い出されました。イエスは故郷を失ったのです。孤独と悲しみの中で、「人の子には枕する所もない」と言われました。イエスは故郷を失ったことに深い喪失感を味わいました。私は孤独を感じることを通じ、イエスに深く出会いそして孤独が消えました。私は親友がそばにいるように感じました。皆さんもこのように祈ってみてください。
 今日の福音では、自分は裏切られ死に追いやられるとイエスは言われています。これは二回目の発言です。この発言に対し弟子たちからの反発を感じていました。イエスは嫉妬した長老がイエスを殺そうとたくらんでいることを知っていました。人間であるイエスは恐怖を感じていました。皆さんは将来を心配していますか?イエスのところに行きましょう。イエスは私たちと同じ人間の経験をしたので、人間の心を理解します。イエスは言います。「私のところに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)
 イエスは弟子たちから励ましを受けることはありませんでした。弟子たちは、強い野心とお互いの競争心でいっぱいでした。イエスは言います。「子供のように競争心を持たないものだけが平安を得るのだ。」  (薩田)

年間第24主日 B年 2018年9月16日

聖書朗読:イザヤ50:5-9; 詩編 116; マルコ 8:27-35   
今日の福音で、イエス様はペトロにたずねました:「あなたは私を誰だと思うか。」生きている声で(福音を通して)、イエス様は今日あなたにそして私にたずねています。
私たち一人ひとりが2つの理由で、心からの答えを述べる必要があります:
① 自分自身の個人として信仰。イエス様のイメージがぼやけていれば、信仰と祈りもぼやけています。
② 他人に対して – 誰かが「イエスさんは何者か」とたずねたら。どう答えますか。誰かが「あなたはなぜクリスチャンか」とたずねたら。
私の答えはこうです:「イエスさんは100%神で、同時に100%人間です。地上で33年間生活しましたが、今日も私と一緒に生きていらっしゃいます。人生の旅路を私と一緒に歩いてくださいます。私は決して孤独ではありません。これは私にとって大きな励ましです。人生に味わいを与えてくれます。特に病気や悩みの時に(言い換えれば、イエス様は私の『十字架』を一緒に運んでくださるのです)。」
イエス様は200年前の福音でのように、今日も同じです。ナインでは、やもめの寂しさを感じとりました。ペトロは失敗しましたが、ペトロの人間的弱さと失敗を受け入れました。イエス様は近づきやすく、話しかけやすい方です。イエス様は福音の時代と同じです。
これが私のイエス様、私の神です。イエス様は友達です。でも木の登ったザアカイのように、イエス様と出会うより深く方法を探しています。(中里)

年間第23主日 B年 2018年9月9日

聖書朗読:イザヤ 35:4-7; 詩編 146; ヤコブ 2:1-5; マルコ 7:31-37
 人の話を聞くとき、私たちは2通りの聞き方をします:①言葉を聞くけれども聞き流してしまい、心に受け止めない聞き方。 ②聞いた言葉を心の中に響かせる:本当に聞く聞き方。
 今日の福音で、イエス様は耳が聞こえない人の耳を聞こえるようにします。この奇跡は2000年前の出来事というだけではありません。今日、私たちは、私たちの心の耳が聞こえるようにイエス様に祈るのです。私たちは皆、心の耳が聞こえないのですから。
 日本の典礼聖歌388番「ガリラヤの風かおる丘で」は皆に好まれています。4番までの歌詞に、イエス様の生涯から4つの場面が描かれています。それぞれが、とても意味深い言葉で締めくくられています。――「イエス様!私にも開かせてください。」  私たちにさせる、という意味の言葉が使われています。
1番: マタイ 5:1-10。 イエス様は丘の上で教えられます。世俗の富ではなく、神様に全て寄り頼む人(心に乏しさを感じる人)は幸せになる。人をいたわる人は幸せになる。平和のために働く人は幸せになる。――「イエス様、この恵みのみことばを私にも聞かせてください。」
2番:マタイ 14:22。 12人の弟子が大嵐の中、小舟に乗っています。弟子たちはまぶしい光を見て、幽霊だと思ってしまいます。でも、それはイエス様で、「安心しなさい。私、イエスだ。恐れるな。」と言われます。――「人生の嵐の中、イエス様、あの力のみことばを聞かせてください。」
3番:ルカ 24:32。 イエス様は十字架で、私たちのために苦しんでいます。イエス様のとなりの十字架に架けられた人が「私を思い出してください」と言うと、イエス様は「今日、あなたは私と一緒に天の国にいる。」と答えます。――「イエス様、私たちが死に臨むとき、あの救いのみことばを聞かせてください。」
4番:ルカ 23:43。 イエス様は十字架で死にました。二人の打ちひしがれた弟子たちが故郷に帰っています。そこに復活されたイエス様が加わります。でも、彼らには、それが復活されたイエス様だとはわかりません。イエス様は聖書の言葉を二人に説明します。二人は新しい意味で聖書を理解します。――「イエス様、私たちの耳を開いて、生命のみことばを聞かせてください。」                (相田)

年間第22主日 B年 2018年9月2日

聖書朗読:申命記4:1-8 詩編15 ヤコブの手紙1:17-27 マルコ7:1-23

「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」(第一朗読 申命記)

すべてを止めて!静かに!これらの最も大切なみことばを深く味わいましょう。私たちの神様は遠く隔たった空のかなたにおられる方ではありません。これらの言葉は、旧約聖書の時代の人々に向かって発せられたものですが、新約の時代に生きる私たちにとって、今日さらに深い意味を持ちます。私たちの神様は、ご自分の神性を脇に置いて真の人間となられました。ですから、イエスの時代から、私たちの神様は私たちと「人間性」を共有していると言えます。神様は人間の弱さを経験なさいましたから、私たちの弱さを理解してくださいます。復活されたイエスは、私たちの横で人生の旅路を共に歩いておられます。イエスは私たちの同伴者です。私たちの神であるイエスは、私たちが呼び求めるその時、私たちの真横におられます。

私たちは主を呼び求めるでしょうか?イエスに祈っているでしょうか?祈りには2種類あります。
① 決まった言葉で祈るとき。この祈りは特に皆で一緒に唱えるときに、最も重要です。今日の福音でイエスは、この祈りは単に口先だけではなく心の底から唱えなるものでなければいけないと仰います。祈りを唱える際には、その内容を意識・意図して口にしなくてはいけないのです。
② また、私たちは、私たちを愛してくださる友であるイエスとの対話の中で、自分の言葉でイエスに祈ります。この祈りが最も重要です。祈りの中で私たちは友であるイエスに会い、感謝し、私たちと他の人たちを祝福してくださるように願います。また、時には何も言わず友達同士のように、ただ一緒に座っていることもできます。イエスの愛を味わうだけです。ここで再確認しましょう。イエスは祈りは心からのものでなければならないと言われます。
そして、この2種類の祈り(共に唱える祈りとイエスとの対話)は、実を結ばなければなりません。私たちは自己中心であることをやめ、特に孤独で苦しんでいる人、貧しい人々のところに行きましょう。今日の第二朗読の「みなしご」と「やもめ」は、福音の「貧しい人々」の代表者です。
                         (北尾)

年間第21主日 B年 2018年8月26日

聖書朗読:ヨシュア 24;1-18; 詩編 34; ヨハネ 6:60-69
 聖書は常に現在のことを語っています。つまり二千年から三千年に起こった出来事は今日と関連があるのです。
 今日の第一朗読において、ヨシュアは人々を約束の土地に連れて来ました。人々は定住し、40年間の荒れ地の厳しい生活の後それなりに繁栄しました。荒れ地では唯一で真理の神様に忠実でした。しかし安楽になると、神を忘れがちになりました。つまり神様に慣れてしまったのです。ヨシュアは12の部族をすべて集め、問いかけました。「あなたたちは誰を選ぶのか。富の神バールか、それとも唯一で真理の神をか。」これまでずっと唯一で真理の神様が愛し守ってくれたことを省み、人々は「私たちは唯一で真理の神を選びます」と答えました。
 ここで私が聖書は永遠に現在のことを語っていると言ったことを振り返ってみます。現在の今の私たちに、ヨシュアが行った同じ問いかけが投げかけられています。
 福音書の中では、イエスは人々に「イエスは神であり、父からお遣わしになられた」といいう非常に理解することが難しい教えを述べています。イエスは自分自身をご聖体としてお与えになりました。多くの人たちは、「このような教えは受け入れることができない。あなたから離れる。」と言いました。イエスは12人の弟子のほうを向き、「あなたたちも離れていくのか。誰を選ぶのか。」と言われた。弟子を代表してペテロは、イエスが命、人生の意味そして心の平和を与えてくれたことを省み、「私たちはあなたを選びます。あなた以外の誰のところに行きましょう。」と答えました。私たちは祈りの中で繰り返しイエスに出会い、「イエスよ。私はあなたを選びます。」と言わなければなりません。(薩田)

年間第20主日 B年 2018年8月19日

聖書朗読:箴言 9:1-6; 詩編 145; ヨハネ 6:51-58   
40年前、私はカファルナウムのシナゴクの廃墟に座り、とてもゆっくりとヨハネ福音書の6章を読んでいました。
今でも40年前に受けたショックを覚えています。少しずつ違った言葉でイエス様は5回いっています:「私の肉は本当の食べ物」最後の晩餐(そして毎回のミサ)で:「このパンは私の体である」
それから言います:「私の肉を食べるものは誰でも、私の内におり、私は彼の内に生きる」 (ヨハネ 6:56) わたしたちは聖体の内のイエス様をうけ、人生の旅路を歩く命とエネルギーと力を受けます。
私たちは人喰いでしょうか?決して、決して、決して。復活したエス様はパンの形でわたしたちのところに来ます。ふつうのパンは体の栄養になります。ご聖体は心の霊的栄養と力となります。
今日の福音(ヨハネ 6:51-58)を読んで、読み返して、それからもう一度ゆっくりと読み返しましょう。最初のショックが神であるイエス様の力と考え深さへの驚きに変わります。 それから、感謝に変わります。こんなに大きな贈り物にイエス様に「ありがとう」と言いましょう。ご聖体の中のイエス様は人生の旅路を歩くときの力と勇気を与えます。最後の晩餐の時にイエスさんは私たち一人一人にいいました:「私はあなたたちを友と呼ぶ」イエス様の温かい友情は素晴らしい慰めです。本当に、晩餐に呼ばれた私たちは幸せです。(中里)

年間第19主日 B年 2018年8月12日

聖書朗読:列王記上 19:4-8; 詩編 34; ヨハネ 6:41-51
 「米は力だ」 この面白い言葉が、東海道線の国府津駅近くの精米所の外にある看板に、大きく書かれています。米は日本の主食です。その米が、私たちの体に力を与えてくれる、ということを表しています。
 もし、2000年前、イエス様の時代に看板があったら、同じ意味を込めて、「パンは力だ」と書かれていたことでしょう。
 私たち人間には、力と命のエネルギーを与えてくれる食物が必要です。
 高校生のころ、同級生とハイキングに行った時のことです。私は寝坊してしまい、朝ご飯抜きで、ようやく集合に間に合いました。最初はお腹が空いている程度でしたが、そのうち力が足らなくなり、めまいもするようになってしまいました。もう、それ以上、進めません。同級生たちは、一休みしてくれて、皆それぞれ、何か食べました。おかげで、私はエネルギーを回復することができました。まさに、食べ物はエネルギーであり、力であり、欠かせない栄養なのです。
 イエス様が下さるご聖体は、パン(つまり食べ物)の形をしています。この聖なるパンは、イエス様ご自身です。この聖なるパンによるエネルギーと心の力のおかげで、私たちは人生の旅路で、イエス様のあとを歩んでいくことができるのです。私たちの新子安教会の玄関の窓にある、小さな四角いステンドグラスを、もう一度、よく見てください。イエス様が、私たちの手をとり歩いています。イエス様が、私たちの力なのです。
 ご聖体でイエス様が私たちに下さる力と勇気は、今日の第一朗読(列王記上19:4)にあらかじめ示されています。邪悪な王妃イゼベルがエリヤを殺そうとします。エリヤは荒れ野に逃げ、空腹をかかえ、すっかり元気を無くして、「もう十分です。わたしの命を取ってください。」と言いました。そのエリヤは、天使からの食べ物を食べ、力と励ましを受けて、旅を続けたのです。
 この地上での時は、私たち人間にとって非常に大切であることを、しっかり受け止めましょう。永遠の生命に入る準備なのです。でも、このとても大事な準備には、私たち人間の努力だけでは十分ではありません。神様の助けが必要です。イエス様が、ご聖体で、その助けと力をくださいます。「私は、天から下ってきた生きたパンである」-イエス様の言葉です。(相田)

年間第18主日 B年 2018年8月5日

聖書朗読:出エジプト16:2-15; 詩編 78; ヨハネ 6:24-35
 今日の第一朗読(出エジプト記16章)を見ましょう。これは、ユダヤ人がエジプトでの過酷な奴隷状態から逃れた直後の場面です。彼らは荒れ野でモーセに「飢え死にしそうです!」と不平を言いました。主は天から白い粉のようなものを降らせました。ユダヤ人たちはそれを見て「これはいったい何だろう?」と訝しがりました。ヘブライ語では「マン・ハ」または「マンナ」と発音します。この「これはいったい何だろう?」を今日の祈りのテーマとして考えてみましょう。
 一つ目に、食卓に着いた時。「これはいったい何だろう?」と考えましょう。主の祈りの中で、「天におられる私たちの父よ…私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈りますね。私たちの日々の食卓に上る食物は、多くの人の労働の実りです。しかし、それらは基本的に神様からの頂きものです。神様に感謝しましょう。「食前の祈り」は美しく、ふさわしい祈りです。
 二つ目に、ごミサの聖体拝領の前に。自分自身に問いかけましょう。「これは何だろうか?」
この神聖な糧はイエス様ご自身です。イエス様は私たち一人ひとりに、生きている声で言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(今日の福音:ヨハネ6:35)
 立ち止まって静かに自分自身を見つめると、私たちは、心の奥にある深い飢えと深い渇きに気付きます。私たちは皆、奥深い希望を持っており、イエス様は、ご自身こそが私たちのこの最も深い憧れを満たしてくださる方だと教えておられます。
 ご聖体のうちにおられるイエス様は、何より素晴らしい贈り物です。ご聖体は人生を喜びのうちに歩むための支えであり、力であり、勇気です。私たちのこの希望と喜びを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

年間第17主日 B年 2018年7月29日

聖書朗読列王記 4:42-44; 詩編 144; ヨハネによる福音書 6:1-15

 古代教会では、ヨハネによる福音書6章をミサについて教えるために用いていました。
 わたしたちはイエスの言葉を聞くために今日このミサに集っています。聖書朗読を聞きます。聖書を通じイエス自身が語られます。
 わたしたちは人生の糧を頂くためにミサに授かります。5つのパンを増やし5000人の男性(さらに少なくとも5000人の女性と子供たち)に与えることで、イエスは自然を超える力を持っていることを示されました。ミサではイエスの力により、パンはイエスご自身へと変化します。これがご聖体たるゆえんです。「命のパン」このパンはイエスご自身です。
 今日の福音書の意味深い場面において、イエスは感謝し、パンを割き、集まっている人たちに与えました。これはまさに今日のミサでイエスが行われていることです。自分に問いかけてみましょう。イエスがくださった贈り物をわたしたちはわかっているでしょうか?ご聖体という贈り物をくれたイエスに感謝しているでしょうか?他の人と共に唱える祈りには心がこもっているでしょうか?それとも機械的に唱えているだけでしょうか?
 今日の福音書の朗読には2つの小さいけど興味深い次の点があります。
①少年は5つの小さなパンと2つの干した魚という自分の食べ物を提供しました。少年はイエスに気前よく差し出しました。イエスは少年に報いました。自分自身と日々の仕事を差し出すことはミサの一部分です。
②食事をして満腹した後、イエスは12人の弟子に残り物を集めるように命じました。福音書(また第一朗読のエリシャでも)では、残り物を集めたら12のかごがいっぱいになりました。このことは、聖書において神様の気前の良さを表しています。新子安教会では月の初めにお米を集めて困っている人たちに届けています。私たちは神様に感謝しているでしょうか?また他の人に物惜しみしていないでしょうか?(薩田)

年間第16主日 B年 2018年7月22日

聖書朗読:エレミヤ 23:1-6; 詩編 23; マルコ 6:30-34
 今日朗読の聖書のテーマは、私たちの牧者としてのイエス様です。私たちは、イエス様に愛され、優しく導かれ、見守られる羊なのです。イエス様によって、エレミヤの預言、そして詩編23が実現されました。
 私たちの牧者であるイエス様は、今日、私たちがイエス様と一緒に、静かな所で憩うように導かれます。祈りの中でイエス様と話すことを通して、精神的なエネルギーを回復させ、日々の生活に味わいを感じられるのです。
 イエス様は、今、日本の私たちを見ています!私たちの生活の中に、物質的豊かさや出世への偏りを見ています。でも、それだけではなく、深い心の飢えや、心の渇きを、日本の中に見て感じています。たった今も、イエス様は私たちに深い慈しみを感じておられます。私たちの所に来て助けようとされていますが、それには、私たちが心の中でイエス様を迎えようとしなければなりません。
 今週、日々が忙しい中でも、静かに、ゆっくり、とてもゆっくりと、詩編23(主は我らの牧者)を読み、祈りましょう。詩編23は、イメージを描いている詩です。言葉通りに読むのではなく、その雰囲気の中に入っていきましょう。自分が砂漠の中で迷子になった羊だと想像してみてください。とても、のどがかわき、疲れているでしょう。もし、闇の中にいるなら、勇気を出しましょう。優しい牧者であるイエス様がそばにおられるのですから。イエス様は、私たちを悪から守ってくださいます。さあ、親切な羊飼い、牧者であるイエス様の家に入りましょう。イエス様の家にいれば平安で、安全です。
 イエス様は、彼の羊である私たち一人一人に、家族、親戚、友人、出会う人すべての中に入り、親切で優しく導いてくれる牧者であるイエス様の愛と慈しみを分かち合うよう呼びかけています。さあ、平和と喜び、そして愛の道具となりましょう。私たちの日々の生活に、イエス様が意味を与えてくださいます。(相田)

年間第15主日 B年 2018年7月15日

聖書朗読:エフェソ1:3-14; 詩編 7:12-1マルコ16:7-13
聖パウロはエフェソへの手紙で:「愛してくださる父である神は愛する子どもになるよう私たちを選び、祝福と賜物を惜しみなく注いでくださった。」「なぜ神は私たちを選んだのでしょうか。この賜物を他人と分かち合うために選んだのです。(決して、エリート集団となるためではありません。)」私はとても普通だといえるでしょう。私には分ちあう資格がありません。そうです。資格がなく弱いことを認め、神の助けに信頼しましょう。アモスと12使徒は私たちのモデルです。
紀元前750年に、北王国(イスラエル)に行き、神の道をはずれた人々に呼びかけるため、アモスという農夫を呼び出しました。景気がいい時に、神よりも物質的なものを選びました。世の知恵から見れば、アモスは預言者にふさわしくない。違う王国(ユダ)に住む貧しい農夫にすぎない。しかし、神はその雄弁と力に頼れと彼に言います。神は彼を送りました ― 力と能力を与えて。
イエスは漁師と徴税人を12使徒に選びました。イエスの道を教える学識や雄弁といった資格を持っていません。でも送ったのがイエス自身なので、使命を果たすための力と言葉も与えました。物質的なものに頼らないよう言いました ― パン、財布、お金、着替えを持つなと。イエスは言います:「私の平和の道具になりなさい。私はいつもそばにいて力を与える。いうべき正しい言葉を与えよう。」「ほほえみは平和のはじまり。」(マザー・テレサ)
イエスは私たち一人一人に私たちの小さな社会に証人、預言者、宣教師となるよう送ります。私たちはイエスが惜しみなく注いだ賜物を分かち合います – 家で、職場で、学校で、アパートで、店で出会うすべての人と。たとえば、温かい微笑みをスーパーのレジ係りに感謝するでしょうか。いじめられている人を支え、勇気づけるでしょうか。イエスの送り物は毎日のためです。私たちを助けてくださいます。(中里)

年間第14主日 B年 2018年7月8日

聖書朗読:Ⅱコリント12:7-10 詩編123 マルコ6:1-6

私たちの信仰に「奥義」があります。イエス様はどのようにして、神でありながら真の人間なのでしょうか?これが奥義です!しかし、イエス様は100%真の神であり、100%真の人間であり、「自分を無にして…人間と同じものになられました」とフィリピの信徒への手紙2章7節に記されています。この「無にして」は、原語であるギリシャ語では「KENOSIS」です。イエス様は(神様でありながら)、天の栄光と力を脇に置いて、この世にお降りになりました。真の人間となられたイエス様は、ご自分の力ではなく、父なる神様の力に頼りました。奇跡を行う力も父なる神様からいただきました。
イエス様を知る上で最も大切なことは、イエス様が人間になられた時に、人間の本質を(限界も含めて)すべてその身に帯びて来られたということです。イエス様は、人間の弱さ、誘惑(罪以外は)をすべて体験なさいました(ヘブライ人への手紙4章15節~5章2節)。これは、私達の祈りの相手であるイエス様を知るために、とても大切です。イエス様は、苦しみ・拒絶による傷・裏切り・心の痛みを体験なさった、私たちの同伴者です。ですから私たちは、恐れることなく大胆にイエスに近づきましょう。

今日の福音を例に考えてみましょう。イエス様は故郷であるナザレトにお戻りになりました。途中の村々では、ペトロの姑、らい病の人、中風の人、先週の福音に出てきたヤイロの娘、出血の止まらない女性を癒し、治されました。イエス様のなさった優しい神様の教えは人々の心に届き、イエス様は評判の説教者になっていました。今日の福音でイエス様は故郷の会堂で「神の愛」を教え、これを聞いた人々は「このような知恵と奇跡の力はどこからきたのだろうか」と驚きました。これは正しい疑問です。(そして、正しい答えは『神様から来た』です)
しかし、傲慢で偏見を持っていた彼らは「この人は、ただの大工ではないか」と言いました。イエス様に一番近い、親戚や友人たちもイエスを拒絶したのです。あなたは拒絶された経験はありますか?誰かのためにしてあげたことを、当たり前のような態度で感謝されない経験、受け入れてもらえない経験はないですか?100%人間であるイエス様は、実際に「拒絶」を経験なさいました。イエス様は、特に私たちが傷つき苦しんでいる時に、私たちの傍で同じように感じておられます。今日も、生きている声でイエス様は私たち一人ひとりにこう仰います。「疲れている者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげよう」と。(北尾)

年間第13主日 B年 2018年7月1日

聖書朗読:知恵1:13-2:24; 詩編 30; マルコ 5:21-43
 過去や今の生き方において失望を感じたことがありますか。人生の半分しか生きていない感じがしていませんか。強い信仰を持っていますか。今生きていることに喜びを感じていますか。今の生き方を楽しんでいますか。活力を失っていませんか。
 神様は私たちに命を与えてくれます。天国での永遠の命ばかりでなく、今現在の命もです(第一朗読 知恵の書)。
 詩編30はこのテーマを引き継ぎます。「神よ、あなたは死の国からわたしを引きあげ、危ういいのちを助けてくださった。… 夜が嘆きに包まれても、朝は喜びに明けそめる。神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、わたしの助けとなってください。あなたは嘆きを喜びに変えた。」私たちがこの世に生きる間、この神様からの命はもたらされます。
 福音書の二つの奇跡は、イエスが12歳の少女と12年間出血に苦しんでいた女性に新しい命を与えたことを示しています。これらの二つの奇跡は二千年前の歴史的なできごとです。すべての奇跡には苦しんでいる人へのイエスの慈しみがその背景にあります。今日でもイエスの慈しみを味わうことができます。イエスに触れましょう。イエスに出会いましょう。
 多くの人はイエスを身体に触れていましたが、出血の女性のみ心の中でイエスに触れました。苦しみの中で女性は本当のイエスに出会いました。私たちは祈りの中で本当にイエスに触れているのでしょうか。祈りを通じてイエスに出会う時間を作っているのでしょうか。イエスに出会うために福音書を読んでいるでしょうか。ミサの中では自分自身の言葉でイエスに語り掛ける沈黙の時間があります。困難なことばかりでなくイエスが与えてくれた良いことにも感謝の言葉を述べましょう。また自宅でもイエスと語りましょう。イエスはあなたのそばにおられます。
 イエスは私たちに触れ精神的な活力という新しい命をくださいます。イエスはわたしたちにイエスの命をもとに他の人に触れあうことを求めています。(薩田)

洗礼者聖ヨハネの誕生 B年 2018年6月24日

聖書イザヤ 49:1-6; 詩編 139; 使徒言行録 13:22-26; ルカ 1:57-66、80
 今日は、洗礼者聖ヨハネの誕生を祝います。洗礼者ヨハネには、約束の救い主イエス様を人々が迎える準備をする、という使命が神様から与えられていました。そうです、聖ヨハネはたしかに特別ですが、手の届かない人と思わないでください!聖ヨハネは、私たち普通のキリスト者が手本とすべきモデルです。私たちは一人のこらず、この世で果たすべき特別な使命を、神様から与えられています。今日の朗読の聖書から、神様からの呼びかけに対する答え方を学びましょう。
 イザヤは、神様は遠く離れた方ではないと言っています。私たちの神様は、私たちを、一人一人、名前で呼びかける方です。神様は、愛のこもった声で、一人一人の名を呼びます(イザヤ 49:1)。詩編139には、慈しみに満ちた神様が、両親を通して私たちに生命を与え、私たちを造ったとあります。ですから、神様は、私たちの弱さを全てよく知っておられ、それでもなお、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。神ご自身が、私の心身を決めたのです。ですから、他の人と比べて自分を低く見るようなことや、自分を嫌ったり、劣等感を持ったりすることは、やめましょう。私を作られた神様が、私を美術作品のように貴重と思われているのですから、その神様の見方に従いましょう!
 神様は、私たちそれぞれに、この世で果たす、ある特別な使命を授けています-例えば、父、母、祖父、祖母、そして、結婚しない人にも特別な使命を。ですから、私たちには、家庭の主婦、事務所や工場での仕事、先生や学生のように、するべきことがあります。そして、友情や励ましや様々なことを他の人に与えます。神様に示されたこれらの使命を見ると、特別な味わいがあります。そして、これが重要なのですが、神ご自身が、これらの使命を果たす強さを与えてくれるのです。「わたしの神こそ、わたしの力」-今週は、イザヤ49:5のこの励ましの言葉を深く味わいましょう。(相田)

年間第11主日 B年 2018年6月17日

聖書:エゼキエル17:22-24; 詩編92; マルコ4:26-34
 今日、立ち止まって、静かに内にある本当の自分に直面しましょう。自分に次のように問いましょう:「私の将来はどんなものだろう」
 さあ、今日の聖書を見ましょう。エゼキエルは異国の地(バビロン)で囚人-奴隷になっているという暗闇の中にいる絶望した人々に神のメッセージを運びました。エゼキエルのたとえは絶望した人々に神が新たな命を与えることを告げました。エゼキエルは神のメッセージを告げました:「希望を持て。私はお前たちを愛している。」「希望を持て。私を信じよ。私はお前たちを愛し、守る。」
 神様は今日も、同じ勇気づけるメッセージを私たちに送っています。
 ある人は年を取って、疲れてエネルギーがなくなり、がっかりしています。今日の詩編92は年寄りに勇気と希望と慰めを与えます。「主に感謝をささげるものは…年をとっても実を結び、生き生きと生い茂る。」これは神に結ばれて生きるとき、体は老いても心は若い喜びと希望に満ちていることを意味します。何という約束でしょう。何という将来でしょう。
 エゼキエルのたとえは巨大な杉の木からとられた挿し芽でした。挿し芽がふたたび地に植えられると、時と共に新たな命を得て大きな木になります。イエスさまも同じようなたとえを話します。一粒の麦を地に植えると、麦が新たな命を得るという神の計画です。同じように、からし種は砂粒ほどの大きさです。でも種は内に命を持っており、木になります。その木に鳥が巣を作ります。神は自然の中に働いていらっしゃいます。神を私たち一人一人の中でも働いていらっしゃいます。神は私たち愛してくださいます。守ってくださいます。今日の聖書は、私たちの将来のために慰めと希望を与えてくれます。愛してくださるか神に信頼しましょう。素晴らしい心づかいに感謝しましょう。年を取って死が近づいていても、「私たちは信頼に満ちている。」(第2朗読)神は私たち一人一人を100%愛してくださいます。これが私たちの希望の基礎です。この希望を他人と分かち合いましょう。(中里)

年間第10主日 B年 2018年6月10日

聖書:創世記3:9-16、詩編130、,Ⅱコリント4:13-5:1、マルコ3:20-35
今日の第2朗読でパウロは、この地上で私たちの生活がとても短いことを伝えています。この地上での私たちの住みか(肉体)は(死によって)無くなりますが、神様は私たちのために、終わることのない家を天国に建ててくださいました。私たちの死はすべての終わりではありません。神様と共に、平和と幸福の内に生きる、新しい命の始まりです。
人生の旅路で、私たちは苦しみや試練、誘惑に会うでしょう。私たちは神様の愛に応えず、罪を犯し、失敗してしまいます。自分の虚栄心を認めましょう。(第一朗読の創世記のように)誰かのせいにしないでください!私たちが自分の弱さを謙遜に認めれば、神様の慈しみと愛、そしてゆるしを味わうことができます。今日の答唱詩篇-130-は素晴らしく、励ましとなります。
福音にはイエス様が経験された、いくつかの苦しみが書かれています。イエス様は「神の愛」を伝えるために、この地上に来られました。しかし、真っ先にイエス様を受け入れるべきだったのに、祭司たちはイエス様を否定しました。彼らはイエス様のなさった奇跡を見ることも受け入れることも拒否したのです。さらに、イエス様ご自身の身内も「イエスは気が変になった」と考え、「家に帰って普通の大工になりなさい」と言いました!ヨハネの福音に書かれているように「言(イエス)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1章11節)のです。イエス様は100%神でしたが、同時に100%人間でした。イエス様は「受け入れられない」ことをしみじみと感じる経験をなさいました。
私たちが、受け入れてもらえない、嫌われる、認めてもらえないなどの辛い体験をしたら、イエス様に話しにいきましょう。イエス様は私たち人間のことを分かっておられます。
イエス様は「拒絶」を使って(通して)、今日私たちにこのことを伝えています「あなたは私の家族、私はあなたの兄弟です。私のもとに来なさい、休ませてあげよう。共に人生の道を歩みましょう。私は、あなた達人間の弱さに力を与え、天国で永遠の喜びを与えます。」神様は私たちを愛しておられます。その愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

キリストの聖体 B年 2018年6月3日

聖書:出エジプト記 24:3-8; 詩編 116; ヘブライ人への手紙 9:11-15; マルコ 14:12-26
 
今日の3つの聖書朗読のキーワードは「契約」です。契約は、人と人(もしくは組織)どうしで行われる重要な約束です。お互いが約束するのです。
 文化によっては、血を用いることで、契約をより確実なものとします。例えばアメリカン・インディアンの間では、部族長どうしが親指を少し切りそして血を混ぜることで契約はさらに重要なものとなります。血の兄弟となり平和が作られるのです。江戸時代の日本では、血判が行われていました。
 イエスは最後の晩餐で種無しのパンを取り「これはわたしの体である」と言われました。ギリシャ語の原典では、体は‘ソマ’すなわち‘私自身’と書かれています。聖体拝領するとき、私たちはイエスご自身が私たちの心の中に入ってくると信じています。
 ご聖体の中のイエスは、福音書で出会う優しいイエスと全く同じです。イエスは、優しく、話しやすく、わたしたち人間の弱さを理解される方です。イエスはありのままのわたしたちを受けいれてくれます。イエスはわたしたち一人一人を愛してくださいます。
 最後の晩餐でイエスはぶどう酒の入った杯を取り、「これは新しい契約の私の血である」と言われました。血とは命です。もし病気の人がほかの人から輸血を受け病気を快復すれば、新しい命を受けたことになります。
 契約とは相互の約束です。イエスはわたしたち一人一人と神聖な約束をしています。イエスは約束します。「私はいつもあなたと共にいる。あなたから離れたり縁を切ることは決してない。私はあなたを守る。」このイエスとの約束をよく考えましょう。そしてイエスに約束しましょう。「イエスよ。あなたを信頼します。わたしの人生をあなたの手に委ねます。」
 カルバリの地で十字架の上での血により、イエスは契約を確実なものにされました。
 主の食卓に招かれたものは幸い。(薩田)

三位一体の主日 B年 2018年5月27日

聖書:申命記 4:32-40; 詩編 33; ローマ 8:14-17; マタイ 28:16-20
 「キリスト教の神様」とか「仏教の神様」、あるいは「イスラム教の神様」のような言い方を聞くことがあります。でも私たちは、ただ一人の神様がいると信じています。イエス・キリストが、このただ一人の本当の神様について教えてくれたと信じています。他の宗教は、神様について部分的に啓示しています。この啓示は違う訳ではありませんが、部分的-つまり真実の全てという訳ではありません。しかし、私たちキリスト教徒は、一つの本当の神様の内なる生命の中に、父と子と聖霊がおられると信じています。「一つの中に三つ」-これは矛盾でしょうか?いいえ、これは奥義です。これが全能の神ご自身の内なる生命なのであって、私たち人間には、この深みは知りえないのです。
 私は個人的には、20年ほど前までは、三位一体について、あまり考えていませんでした。理解できなかったので、三位一体について考えたり祈ったりすることを避けていました。東京の上野毛での黙想会で祈りの分かち合いをしているときに、私に回心がやってきました。よく学んでいる人の話を理解できないでいると、ある人がこんな風に言ったのです:「私は私たちの信仰の奥義を大切に思います。祈りの中で、私はただ、三位一体、つまり父と子と聖霊の中に入り、そこにある愛を味わい、楽しく過ごしています。」これを聞いた私の心に、「なるほど!」という思いが大きく響きました。
 イエス様は、三位一体の神様について教えてくださいました。優しく、思いやりのある「アッバ(お父ちゃん)」がいる。父なる神は、本当にご自身の子どもとして、私たちを大切にしてくださいます。御子は、私たちと同じように人となり、神様がどれほど私たちを大切にしているかを示されました。イエス様は自分の命を犠牲にして、平安と幸福、そして、私たちの人生に意味をもたらしてくださいました。聖霊は温かい愛で、私たちを導き、力づけ、慰めてくれます。さあ、皆さん、祈りを通して、この素晴らしい愛の中に入っていきましょう。そして、他の人々と愛を分かち合いましょう。(相田)
 

聖霊降臨 B年 2018年5月20日

聖書使徒たちの宣教1-11; 詩編 104; ヨハネ15:16-16:15
 使徒たちの宣教1:14で、使徒とイエスの母マリアと多くの男女を含む120人が2階で祈っていたことを読んだ。この120人を想像してみよう。彼らは最初の教会です。9日前に、イエスは昇天しました。最後の命令として、イエスはこの120人に他人に神の平和と愛をもたらすために、自分自身の家庭と世界の果てまでにも行くようにといいました。焦点の9日後、このグループはイエスを殺したユダヤの指導者への恐れでいっぱいでした。証人になることはまったくできないと感じていました。こう感じたので、聖霊に一生懸命祈りました。イエス様は勇気と導きをあたるために聖霊をそばに送ることを約束なさいました。彼らは祈り、のぞみを持って待ちました。
大きな風の音を聞き、一人一人の頭の上に炎を見ました。イエスが約束された聖霊が来たのです。恐れを忘れ、臆病さは消えました。正しい言葉が与えられました。これは2000年前のことです。
今日も私たちはイエスの証人として呼ばれています – 自分の家庭で、住んでいるところで、職場で、友達の中で、学校で。イエス様は私たち一人一人が証人となり、平和の道具となるよう求めています。しかし、よく心に留めましょう! イエス様は助けて、聖霊を私たち一人一人に送ってくださいます。聖霊は私たちにイエス様のこの仕事のための力と導きと勇気を与えてくださいます。それに合ったことばも。
聖霊はイエス様のための働きで力と導きを与えてくださいます。毎日の平凡な仕事でも。たとえば、母や父として、労働者として、学生として。自分の弱さと無力さに知識を願いましょう。イエス様に聖霊を送るよう願いましょう。(中里)

主の昇天 B年 2018年5月13日

聖書:使徒言行録1.1-11 マルコ16:14-20
2000年前、イエスは弟子たちに、「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われました。今日、イエスは生きている声で私たちにこう言われます。「あながたは、自分自身の小さな社会(所属しているグループ)に行って『神は愛である』という福音を分かち合いなさい。」
今日の福音「全世界に行って福音を…」と命じられる直前の箇所であるマルコ16章14節には、こうあります。「イエスはその不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」
弱い信仰とかたくなな心にもかかわらず、イエスは彼らに福音を宣べ伝えることを委ねられました。いいえ!「にもかかわらず」ではなく「のため」でした。聖書全体を通して神様のために働くために呼ばれた人々の共通点は、自分(人間))の弱さを知り、力と勇気をくださる神様に頼っていることです。例えば、アブラハム、モーセ、ギデオン、イザヤ、エレミヤ、聖母マリア、ヨゼフ、ペトロなど。
今日のみことばがとても重要である理由は、20節の「主は彼らと共に働き」にあります。私たちが自分の小さな社会(家族、学校、職場、友人など)で、「神はすべての人を愛してくださる」という福音を分かち合うとき、主イエスはあなたと私の間に働いておられます。
しかし、私たちの信仰生活と日常生活は別々の世界ではなく、一つです。私たちには誰でも、母親、父親、独身者、学生、子供という使命があり、また、(広い意味での)退職した人々や、寝たきりの人、引きこもりの人たちにも必ず何かの使命があります。
「日曜日だけの信者」にならないでください!イエスをあなたの日常生活に招いてください。祈りを通してイエスとつながっていてください。自分一人の力では使命を果たすことはできないと、イエスに助けを求めてください。私たちの神、イエスは私たちと共に働きたいと思っておられます。そのことが私たちの人生と使命を励ましに満ちた「味」にしてくれます!イエスは今日も生きていて私たちと一緒におられます。この贈り物を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

復活節第6主日 B年 2018年5月6日

聖書朗読:1 ヨハネの手紙 4:7-10; 詩編 98; ヨハネによる福音書 15:9-17
 「神の言葉は生きており、力を発揮しています」(ヘブライ人への手紙4:12)。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのないお方です」(ヘブライ人への手紙13:8)。これら二つの聖書の言葉は、イエスは今日も私たち一人一人に生きている声で、「私はあなたは友と呼ぶ」という背景があります。
 イエスの時代の“友”という言葉は、現在私たちが使う“友”という言葉よりずっと深い意味があります。
 この“友”という言葉の深い意味を理解することは重要です。これはイエスとの個人的なつながりと関係があるからです。イエスとの友情は神への祈りに影響を与えます。
 聖書の背景として、イエスは私たち一人一人に友という言葉を使います。例えば、アブラハムは神の友であり、友として神に話しかけた。(ヤコブの手紙2:23)「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」(出エジプト記33:11)「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。」(シラ書6:14)イエスはラザロ、マルタ、マリアの友達でした。イエスは二人の姉妹とともにラザロの墓で涙を流されました。(ヨハネ11:35)イエスは私たちの友達で、わたしたち一人一人に名前で呼びかけます。(イザヤ43:2、ヨハネ10:3)
 聖アウグスティヌスは、「友であるイエスは私たちのすべてを知っており、そしてありのままの私たちを受け入れてくださる」と書いています。
 イエスとの友情の教えはとても重要です。イエスは、わたしたち一人一人に親しい交わりを強く望んでいることを語っています。イエスの友情という教えは、またどのように祈るかを示しています。教会博士のアビラの聖テレジアは、「祈りは友であり私たちを愛しているイエスとの会話です。」と言っています。イエスの言葉を聴き実行に移しましょう。祈りの中で、ほんとうのそして着飾らない心をイエスに注ぎましょう。イエスとの暖かな友情を感じ、ほかの人たちと分かち合いましょう。(薩田)

復活節第5主日 B年 2018年4月29日

聖書:使徒言行録 9:26-31; 詩編 22; 一ヨハネ 3:18-24; ヨハネ 15:1-8
 イエス様は今日の福音で、ぶどうの木と枝のたとえ話をされています。イエス様はぶどうの木の大元の幹、私たちはその枝で、イエス様ご自身から命、栄養、実りをいただいています。このたとえ話は、その背景がたいへん重要です!これらの言葉はイエス様の最後の意志、約束なのです。ですから、このメッセージは、弟子たちにとって、また、今の私たちにとって、特別に大切なものなのです。イエス様が、このメッセージを話されたのは、最後の晩餐のときでした。翌日には死んでしまう、という日です。イエス様が、弟子たちの足を洗い、ペテロの否認とユダの裏切りを予告された席です。弟子たちが全員、ヨハネを除いて、イエス様の元から逃げ出してしまう直前です。そのような人間の弱さをかかえて、神の国はどうして続いたのでしょうか?!こんな弱い人たちが、どうしてイエス様のことを遠い国々にまで宣教できたのでしょう?こんな弱い人たちが、イエス様が示された道をどうして歩むことができたのでしょう?イエス様といつも親密につながっていること。これこそが、それを可能にしたのです。
 ぶどうの木と枝のたとえ話は、このことを伝えているのです。イエス様とつながり、その助け、導き、そして力に寄り頼むことで、私たちは人生の道のりをイエス様と一緒に勇気をもって歩むことができるのです。イエス様との親密なつながり無しでは、失敗してしまうでしょう。
 弟子たちは失敗しました。でも、その失敗を通して、神であるイエス様について、とても多くのことを学びました。私たちも、イエス様が無条件に私たちを愛し慈しんでくださることを学びましょう。私たちはイエス様から離れてしまうかもしれませんが、イエス様は決して私たちを放ってはおきません。神であるイエス様は、私たちの弱さ、罪や失敗を全て知ったうえで、ありのままの私たちをいつも愛してくださいます。たとえ、私たちがイエス様から離れたとしても。私たちに対するイエス様の愛は無条件なのです。
 今週は静かな時間を作り、私たち一人一人に対するイエス様の愛を味わいましょう。私たちが、ぶどうの木の枝のように、イエス様につながっていれば、イエス様の心が私たちの毎日の暮らしの全ての行いに流れ込んできます。さあ、毎朝、次の様に祈りましょう: 「イエス様、あなたは私とともにいてくださいます。あなたはぶどうの木で、私はその枝です。私はあなたに寄り頼みます。」  このような祈りによって、私たちの日々に、よき味わいがもたらされます。(相田)

復活節第4主日 B年 2018年4月22日

聖書:ヨハネの手紙13:1-2; 詩編 23; ヨハネ10:11-18
 今日のミサの第2朗読で:「御父がどれほど私たちを愛してくださるか…私たちが神の子と呼ばれる…事実また、その通りです。」(1 ヨハネ 3:1)と読まれました。 福音では:「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。…私は羊のために命を捨てる。」(ヨハネ 10:14-15) と読まれました。
2つの朗読のテーマは神との温かい交わりです。どちらでも神から特別に愛された子です。わつぃたちの神イエスは私たちを愛する人間して扱いますが、その愛の交わりを説明するのにたとえを使います。イエスは羊飼いで私たちはその羊です。
横浜は370万人の人口がありますが、牧場はありません*。羊を知りません。羊を想像してイエス様が私たちにおくった深いメッセージを学ぶことが大切です。私たち一人一人が神にありのままで愛されています。
イエス様の時代には、羊飼いは持ち主の息子のことが多かったのです。羊飼いは自分の羊を世話しました。給料だけのためではありません。羊の群れは平均10-20頭でした。子羊が生まれるとその名前を付けます。羊飼いはオオカミから羊を守ります。青草と水辺に導きます。羊飼いと羊の間には親密な関係があります。羊は羊飼いを愛し信じます。羊飼いがいると安心です。イエス様は私たちの羊飼いです。イエス様は私たち一人一人をその名で呼びます。(優しい呼びかけが聞こえますか? 耳を澄まして聞きましょう!) やさしい神様はいつも私たちのそばにいます。イエス様は詩編23の実現です。「主はわれらの牧者」
イエス様はその愛を他人と分かちあうように求めています。神の愛の安全と温かさへと他人を招くよう求めています。
*「こどもの国」の中にある雪印こどもの国牧場には羊もいます。(中里)

復活節第3主日 B年 2018年4月15日

聖書:使徒言行録 3:13-19; 詩編 4; (一)ヨハネの手紙 2:1-5; ルカによる福音書 24:35-48
 今日の福音書(ルカによる福音書 24:35-48)は、イエスが死から復活した後の場面です。イエスの弟子たちは大きな部屋に集まっていました。イエスが殺されたため、皆落胆に沈んでいました。そればかりでなく、イエスを見捨てた恥ずかしさでいっぱいでした。ペテロは公衆の前でイエスを知らないと言い切りました。イエスは皆の前に現れ、「あなたがたに平和があるように」と祈られました。イエスが死んだことを弟子たちは知っていたので、これは亡霊だと思いました。その時代では、悪いことをした人に死からよみがえった亡霊が取りつき復讐すると信じられていました。イエスは亡霊でなく、正真正銘のイエスでした。イエスは十字架にはりつけにされた時の手と足とわき腹にできた傷を見せました。イエスはまさにイエスでしたが、おもむきが違っていました。栄光に包まれていました。しかし弟子たちは依然としてイエスを亡霊と思い、恐れおののいていました。弟子たちを安心させるために、イエスは干した魚を食べました。亡霊は食べ物を食べないからです。これは私たちの神であるイエスの思慮と思いやりを示すひとつの例です。
 神として、イエスは弟子たちに聖書の深い意味を悟らせるという能力を与えました。わたしたち人間は聖書を読むことができますが、そこには言葉が書かれているだけです。深い意味を知ることで人生の中で平和を味わうことができます。私たちを照らす神からの力が必要なのです。
 イエスは復活してわたしたちの中におられます。イエスがそばにいます。イエスは罰するためでなく平和を与えるために弟子たちに現れました。わたしたちの神は罰する神ではありません。イエスは慈しみと理解力に満ちています。イエスは弟子たちの弱さと過ちに理解を示されました。イエスは彼らを許し平和を与えました。今日、イエスはわたしたちに対しても同じです。わたしたちの神は許しそして罪を取り去ってくださいます(第二朗読)。神は人間一人一人を愛しています。この愛を他の人々に示すことを、今日イエスはわたしたちに望まれています。家庭、職場、学校でイエスの愛の証人になりましょう。(薩田)

復活節第2主日(神のいつくしみの主日) B年 2018年4月8日

聖書:詩編118、使徒ヨハネの手紙5:1-6、ヨハネによる福音20:19-31
今日の答唱詩編に「恵み深い神に感謝せよ。そのあわれみは永遠。神のいつくしみは絶えることがない」(詩編118の1)とあります。「神のいつくしみの主日」である今日、私たち一人ひとりに注がれる神のいつくしみを心に留め、神に感謝しましょう。
ではご復活後のイエスの具体的な姿に示されている「イエスのいつくしみ」に注目してみましょう。イエスは今日も同じ姿でおられます。
① マグダラのマリアは悲しみに打ちひしがれ、さめざめと泣いていました。そこへイエスが現われ、「マリア」と名前をお呼びになりました。これこそ、いつくしみです。
② イエスが十字架につけられて亡くなられた後、二人の弟子達はエマオヘ帰りました。彼らは失望のどん底にありました。その途上にイエスが現われ、静かに二人に話しかけられました。これこそ、いつくしみです。
③ ペトロはイエスのことを「知らない」と否定しました。ペトロにお現れになった時、イエスはペトロを叱りませんでした。ただ、「あなたはわたしを愛しているか」とだけお尋ねになりました。これが、いつくしみです。
④ 今日の福音で、復活されたイエスは、恥ずかしさと恐怖に震えている弟子たちに「あなたがたに平和があるように」という祈りの挨拶をもって現われました。これが、いつくしみです。
⑤ さらに…弟子の一人であるトマスは、イエスが軍隊を率いてローマ帝国の占領軍を追い出すことを望んでいました。イエスが殺されてトマスの望みも無くなり、彼は弟子たちからも逃げ出しました。戻ってきても(イエスが来られた時にいなかったので)彼は「私はイエスが復活されたことを決して信じない!」と言いました。8日の後、イエスは再び現れました。イエスはトマスをお叱りになりませんでした。イエスは優しく、人間の弱さをよく理解しておられ、いつくしみに満ちておられました。イエスのこのいつくしみの結果、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の偉大な表明をしました。
イエスは私たちに、今日も同じいつくしみを注いでくださいます。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ人への手紙13:8)
今週、沈黙のうちにあなた自身の言葉で祈り、復活されたイエスに会いましょう。イエスのいつくしみを味わい、それを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

復活の主日 B年 2018年4月1日

聖書:使徒言行録 10:34-43; 一コリント 5:6-8; ヨハネ 20:1-9
 私は、タナベさんというお爺さんから、とても大切なことを学びました。そのタナベさんについて、お話しします。タナベさんは息子さんと隣同志で住んでいて、夕食はいつも息子さんの家族と一緒でした。でも、息子さんが会社の転勤で、3年間、アメリカで働くことになりました。ある日のこと、お爺さんのタナベさんの隣人が、夕食を一人で食べているタナベさんを見て、「一人での食事では、とても寂しいでしょう」と言うと、タナベさんは、こう答えたのです:「いいえ、寂しいなんてことはありません。復活したイエス様と一緒に食事しているのですから」
 私は、お爺さんのタナベさんの答えを聞いて、なるほど、これが、イエス様の復活の意味なのだとピンときました。イエス様は死者の中から復活したのですから、もはや、時代にも、国にも縛られず、今、ここで、私たちと共に生きているのです。復活したイエス様は、今日、私たち一人一人に、生きている声で、「恐れるな!私があなたと共にいる」と、おっしゃっているのです。
 イエス様は、人生の道を、私たち一人一人の隣で歩み、旅しています。私たちは決して一人ではありません。孤独や苦しみに出会ったときこそ、この大切な真実を思い起こしましょう。
 私は、タナベさんに、彼の言葉に心動かされたことを説明し、お手本を他の人に伝えるために彼の名前を使わせてほしいと頼みました。16年前、彼の葬儀で、私はそのことを皆に語りました。
 イエス様は死者の中から復活し、今、私たちと生きているのですから、聖書でイエス様の言葉を読むと、それは生きた言葉となります。イエス様は私たち一人一人に、「恐れるな、私があなたと共にいるのだから」と語りかけているのです。
 イエス様の復活には、いろいろな意味がありますが、これも、その一つです。頭では分かっていましたが、タナベさんを通して、心で感じることができるように、神様が私に働きかけてくれたのです。(相田)

枝(受難)の主日 B年 2018年3月25日

聖書朗読:イザヤ 50:4-7; 詩編 22; フィリピ2:6-11; マルコ14:26-15:47
 この主日は伝統的に2つの名前があります: ①枝の主日。イエスが王としてしゅろの枝でエルサレムに歓迎された―復活を予期させる。イエスはまことに神。②受難の主日。イエスは私たちへの愛のために苦しみ死ぬ―彼はまことに人。
第1朗読でイザヤはメシア-救い主の苦しみを予言します。キリストは本当の人間の苦しみを体験するので、苦しみに疲れ果てた人を励ますことができます。パウロはフィリピの教会への手紙で、イエスはまことの神であるが、すべてを捨てて、つまり、神であることの栄光をわきにおいて、私たちのような真の人となり、本当に苦しむと私たちに語っています。
真の人間であることで、イエスは苦しみ会うときに感じる多くを経験しました。つまり、神が見捨てたという完全な空しさを。イエスは十字架上で詩編22を祈ります。「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか?」詩編は希望で終わります:「主は私の力、助け。」
マルコの受難という物語は非常に残酷ですが、ローマ軍の士官の「本当にこの人は神であった。」という宣言で終わっています。
マルコ福音、特に受難もの物語りの背景は今日私たちにも大切です。マルコが福音を書いた西暦1世紀のキリスト者は迫害されており、非常に苦しんでいました。そこでマルコは苦しむ人々に励ましのメッセージを与えました。「イエスは私たちのように本当の苦しみを経験した。イエスは私たちが苦しむとき私たちの真ん中にいる。」昔と同じように、イエス自身の具体的な言葉があります:「小さな群れよ、恐れるな。私はあなた方とともにいる。」聖書の中の永遠の現在形で、イエスはこの言葉を今日もおっしゃいます。
遠藤周作は「イエスの生涯」という本の中で、10章に書いています。「イエスは私たち人生の旅路の永遠の同伴者です。イエスは人間のすべての悲しみと痛みを経験しました。」イエスはおっしゃいます:「苦しみを味わった。あなたの痛みがどんなか知っている。だから、『苦しむ時、あなたのそばに私はいる。』といえる。」
これは苦しみとすさみの時に大きな希望を与えてくれる私たちは決して一人ではありません。今日もイエスは生きている声でおっしゃいます:「恐れるな、私はあなたと共にいる。」イエスが一緒に苦しむとき、イエスの苦しみの深い意味をよりよく理解できます!「一緒に」という言葉は重要です。これを味わいましょう。(中里)

四旬節第五主日 B年 2018年3月18日

聖書朗読: エレミア31:31-34, 詩編 51; ヘブライ人への手紙5:7-9; ヨハネ 12:20-33
 私は心からイエスは神であると信じています。また同時にイエスは真の人間であることも心から信じています。イエスは、100%神であり、100%人間なのです。
 真の人間として、イエスを死に追いやった指導者たちの敵対心をイエスは知っていました。彼らは自分を殺そうと計画していることをイエスは知っていました。人間と同じ恐怖と不安をイエスは体験なさいました。このことは将来に対し恐れを感じるときに私の慰めとなります。神様は私の心を理解してくださるとわかり、信頼を持て神様のところに行くことができます。イエスは同じ恐怖を抱きました。今日の福音書の中で、「わたしは心騒ぐ」と言われました。
 一粒の麦が地に落ちて死ねば新しい命をもたらす。十字架上で死ぬことで、イエスは私たちに永遠の命をもたらしました。この命では、イエスは(人生の原型である)希望を与えてくれます。
 イエスに従う者は、他人のために死ぬことを求められています。例えば、自分の考えをわきに置き、ほかの人の考えを聞くことを求められています。また時間をほかの人に使うことを求められています。さらに自分の都合ではなくほかの人のことを優先することを求められています。これらの行為は「小さな死です」。しかし新しい命をもたらします。
 わたしたちの多くはこの的を狙いますが、外してしまいます。(これが聖書の中での罪なのです)。心の反省をしましょう。
 聖書の中で最も美しい悔い改めの祈りは、詩編51です。
 神様はわたしたちが心から悔い改めるなら許しをくださいます。「あなたの罪を許そう。決して心に留めてはならない」

四旬節第4主日 B年 2018年3月11日

聖書朗読:歴代誌下36:14-23 詩篇137 エフェソの信徒への手紙2:4-10 ヨハネ3:14-21
今日(主日)の聖書を散歩しましょう。第一朗読では、バビロン捕囚から解放までの、神に選ばれた民であるユダヤ人のことがとても短く要約されています。彼らはまことの神を繰り返し否定しました。ここで強調されているのは、神が決して彼らをお見捨てにならなかったことです。捕囚の長い年月を通して、ユダヤ人たちはまことの神について2つの重要な真理を学びました。第一に、神の愛は無条件であること。彼らは自ら神を否定したのであって、神様からの罰ではなかったこと。第二に、人々はまことの神の働きはエルサレムの神殿にだけあると考えていましたが、後にまことの神は世界中に、すなわちバビロンでも、そしてペルシア王キュロスのような異邦人の支配者を通しても働いておられることを発見しました。
答唱詩編137は、捕囚に苦しむ人々の悲しみの歌です。第二朗読でパウロは、神はわたしたちをこの上なく愛し、独り子であるキリストを与えて下さったと教え、福音はこのように繰り返しています:「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3章16節)。神はイエスにおいて人となられました。私たちを責めたり罰したりするためではありません。イエスは私たちを癒し、救うために来られました。神は、愛と慈しみの神です。パウロは、私たちが神の賜物に値しないものであると教えています。私たちがいただく恵みは寛大な神からの無償の賜物です。神は私たちを愛しておられます。
福音でヨハネは2つの動詞を使用しています。「下る」と「上げる」です。イエスはニコデモへのお答えの中で、旧約聖書の不思議な出来事について触れています。ユダヤ人は40年間荒れ野を旅していました。ある時、毒蛇による災い(病)が彼らを襲いました。モーセは青銅でできた蛇を旗竿(十字架)の上に高く上げ、人々に竿を見上げて、神の助けと病からの回復を願うようにと話しました。イエスは天から下って来られ、竿(十字架)に上げられました。十字架上で苦しんでおられるイエスを見上げましょう。私たちも癒され救われるでしょう。神は私たちひとりひとりを愛しておられます。この癒しと愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

四旬節第3主日 B年 2018年3月4日

聖書朗読 詩編 19; 一コリント 1:22-25
 私には、ある人に命を助けてもらった生々しい思い出があります。それは60年たった今でも鮮やかな思い出です。その時、私は若い神父でした。30人の神学生たちと泳ぎに海に行った時のことです。波はとても高く、底には強い流れがありました。私は、そんな打ち寄せる波の中で泳ぐのは初めてでした。波に横向きに飛び込むと、底に向かって引き込まれました。私は心底うろたえ、おぼれると思いました。その時です、太平洋の島トンガから来た若い神学生が深く飛び込んできて、助けてくれたのです。私は感謝でいっぱいになりました。そして、とても不思議なことが起こりました。その日から、私たちの間に目に見えない絆ができたのです。10年たち、30年たって彼が司教になっても、その強い友情を感じていました。パトリック・フィナウが私の命を助けてくれた。私は今も彼に感謝しています。
 さて、皆さん、少し考えてみてください。私たちは皆、同じことを経験しています。イエス様が私たちを救うために、すすんで十字架の上で命を捧げたのです。私たち一人一人に、イエス様との間に目に見えない絆があるのです。今日の第二朗読の、聖パウロの言葉です:「私たちは、キリストが十字架にくぎ付けにされたことを延べ伝えますが、これはユダヤ人にとってはつまづきであり、異邦人にとっては愚かなことですが、私たちには、神の力であり、神の知恵なのです」(一コリント1:23)
 カトリック信者は、十字架を、まるで亡き両親を思い出すための写真のように、用います。この四旬節に、十字架を見、掲げましょう。十字架は酷く、恐ろしく見えます。でも、私たちは、2000年前のこの出来事の後ろに、愛を思い起こします。私たちを救い、私たちと一緒に人生を旅し、私たちのために天国の門を開くために、イエス様は自分の命を捧げました。最後の晩餐でのイエス様の言葉です:「友のために死ぬより大きな愛はない。あなた方は私の友である。」(ヨハネ15:13) さあ、この友情を心に受け止めて、イエス様に感謝しましょう。この愛を、他の人たちと分かち合おうではありませんか。(相田)

四旬節第2主日 B年 2018年2月25日

聖書朗読:創世記2:1-18; 詩編 116; ロマ 8:31-34; マルコ 9:2-10 18
 今週、山に登りましょう! 聖書では静かな山頂で、人々は神に会いました。例えば、アブラハム、モーゼ(シナイ山)、エリシャ(カルメル山)。今日の福音でペトロとヤコブとヨハネはイエスとともに高い山に行き、そこでは彼らだけでした。
イエスの12使徒のうち、ペトロとヤコブとヨハネは他人としてのイエスをよく知っていました。イエスは優しく、思いやりがあり、人間の弱さを知っていました。イエスが悩み、飢え、空っぽの心の人を強く慈しみ、どんなに深く感じていたかを分かっていました。しかし、イエスに従う人たちはまだイエスを単なる人間と見ていました! イエスが軍隊を率いて自分たちの国を占領し苦しめる憎むべきローマの兵隊を追い払うことを望んでいたでしょう。
この山の上で、3人は神としてのイエスを知りました。栄光と光がイエスから輝き出て、天からの声が:「これこそわが愛する子、これに聴け」といいました。
この3人の使徒は啓示を必要としていました。後に人間としてのイエスがゲッセマニで苦しみ、十字架上で罪人として死ぬのを見るからです。彼らにとってこれは理解できることでした。
しかし、今日の私たちにとって、このすべてはどんな意味でしょうか? イエスはすべての力を持つ真の神だが、苦しみ、痛み、裏切り、孤独、いじめ、失敗と見えることを経験した神であると私たちは考えています。イエスは私たち人間の苦しみを理解しています。イエスは私たちのそばにいます:「必要なときにはいつでも、あわれみ深い神の王座に勇気をもって近づくべきである。そこでおしみない慈しみを受け、助けを見つけるだろう。」(ヘブライ 4:16) 聖書のこの言葉はすばらしい励ましです。そして、今日の第2朗読は「神がそばにいれば、誰が私たちに逆らえよう」(ローマ8:31) 今日、私たちの神、イエスは父なる神の前私たちの代理者となる。「イエスは神の右に立ち、私たちを弁護する」 (ローマ 8:34) これはすばらしい神秘です。(中里)

四旬節第1主日 B年 2018年2月18日

聖書朗読:創世記9:8-15、詩編25、マルコ1:12-15
 四旬節が始まりました。四旬節は教会にとって特別な期間です。イエスの復活まで四旬節は40日間続きます。よりより良い人になるようにまたイエスに従う者となるように、四旬節の期間中私たちは精神的な旅をします。全ての旅は第一歩から始まります。四旬節の旅の第一歩は灰の儀式です。この儀式は、私たち人間はみな死に、そして灰に帰る存在であることを教えます。これは暗い経験のように感じられますが、この儀式での特別な言葉は希望と光に満ちています。そのとても重要な言葉とは、「回心して福音を信じなさい」です。
 “悔改めなさい”とか“回心”とは、立ち止まりそしてこの地上での私たちの人生を振り返り新たなスタートを切りなさいという意味です。
 “喜ばしい知らせ”または“福音”とはイエス自身とイエスの教えによる喜びに満ちた教えです。
 教皇フランシスコは、教会への書簡(福音の喜び #164)において喜ばしい知らせを次のようにまとめています。「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うために命をささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます。」
 四旬節の期間中この重要な言葉を思い巡らしましょう。これはキリスト者としての中心的な言葉です。イエス・キリストすなわち人間となられた私たちの神様は、わたしたち一人ひとりをありのままに愛してくださいます。この愛を証明するためにイエスは命を犠牲にされました。イエスは死者から復活され、今なお日々私たちと共におられます。イエスはわたしたちのそばにおられ、わたしたちを守り、導き、力づけられます。イエスはわたしたちの心の闇に光を与えます。この喜ばしい知らせを信じ、次のように祈りましょう。「イエスよ。あなたを信じます。わたしの不信心を改めさせてください。」
 神の愛という喜ばしい知らせを他の人たちと分かち合いましょう。(薩田)

年間第6主日 B年 2018年2月11日

聖書朗読: マルコ1.40-45 1コリント10.31~11.1
福音書は歴史の本ではありません。私たちは今日、福音書で2000年前にこの地上に生きておられたイエスについて読みましたが、イエスは今日も生きておられます。イエスは私たちと同じ人間になられた神です。イエスは十字架につけられて死にましたが、3日後に復活されました。神であるイエスは私たちの中に生きておられ、福音書は(普遍の)現在形で書かれています。ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブ13.8)
今日の福音にハンセン病と呼ばれる重い皮膚病を患っている人が出てきます。彼の体はできものだらけです。この病気は深刻な伝染病とされていましたから、この病気にかかった人は、家族から隔離され、家を追い出されました。誰一人、彼に触れず、近づきさえもしませんでした。彼はとてもとても孤独でした。家族からも見放されていたのです。できものと傷だらけの体はひどく痛みましたが、心の傷はそれ以上の激しい痛みでした。
この重い皮膚病の人は大胆にイエスに近づき、清くしてほしいと乞い願い、イエスは手を差し伸べて彼に触れました。マルコはこの箇所で特別なギリシャ語の動詞を使っています。イエスはこの人に会ったとき「深く憐れまれ」ました。イエスはこの人の孤独で、拒絶されて深く傷ついた心を理解されたのです。この「深く憐れんで」(日本語の「断腸の思い」に近いことば)という動詞は、福音書で9回、イエスの心を表すために使われています。
イエスの心は、今日も2000年前のこの時と全く同じです。
①私たちの心の傷を認め、祈りの中で大胆にイエスに近づきましょう。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい」とイエスは言われます。今日、生きているイエスの愛といつくしみを味わいましょう。
②イエスの平和の道具になりましょう。あなたの近くに孤独や拒絶・裏切りにあって苦しんでいる人はいませんか?イエスの道具となって、その人に励ましと慰めを届けに行きましょう。(北尾)

年間第5主日 B年 2018年2月4日

聖書朗読: ヨブ 7:1-7; 詩編 22; マルコ 1:29-34; 詩編 147:3
 ヨブは絶望のどん底にいました。病気で孤独でした。友人たちに裏切られた思いで、不平を言っています。「人生や苦しみにどんな意味があるのか?」と問うています。でも、注意してください。これは神への祈りなのです!聖書には、このように、神への不平の祈りが多くあります。例えば、サミュエル上の1:1-22のハンナや、詩編22にも神への不平があります。神は、祈りの中では、私たちに、飾らない、本当の心を望んでいます。ですから、むなしく感じるとき、神にそう言いましょう!神に怒りを感じるなら、そう言いましょう。このような不平が、なぜ、祈りなのでしょう?それは、深く落ち込んでいるときこそ、私たちは神の慈しみを知るからです。その慈しみを感じることができないので、神に癒しを願い求めるのです。
 今日の福音で、イエスは、苦しんでいるペトロの姑の元に行きます(当時、高熱に苦しむことは、死に行くことを意味していました)。イエスはその手を取り、起こされたのです。それは小さな、復活のようでした。私たちの神、イエスは、人々と共に感じています。私たちと共に苦しむのです。
 あなたがもし苦しんでいるなら、心の中をイエスに打ち明けてください。不平を言ってください。そうすれば希望が与えられます。詩編22には、「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか?」とあります。
 イエスは、生きた声であなたに言うでしょう:「疲れた者、重荷を負った者は、私の元に来なさい。休ませてあげよう」(マタイ 11:28)
 イエスは、私たちの苦しみの祈りを聞いてくれます。私たちと一緒に苦しんでくれます。私は神父になってまだ若い頃、私たちの神、イエスが、一緒に苦しんでくださることを学びました。大島先生は、深い信仰を持ったカトリック信者でした。ガンのために、とても強い痛みに苦しんでいました。畳に敷いた布団に横たわり、十字架を握りしめ、そして、それをじっと仰ぎ見ていました。大島先生は痛みに苦しんでいましたが、同時に、イエスの平安と共にありました。私たちも、今日の詩編147:3の次の言葉を深く味わいたいと思います:
「神は失意の人を支え、その傷を癒される」(相田)

年間第4主日 B年 2018年1月28日

聖書朗読:申命記18:15-20; 詩編 95; マルコ1:21-28
 モーゼの時代に人々はいう:「主の声を聞けば、死ぬだろう」(申命記 18:16) だら、モーゼだけが恐れずに神に近づいた。「モーゼは神と顔と顔を合わせて友達のように話した 」
(出エジプト 33:11)
1,700年後に、約束された預言者、救い主であるイエス・キリストが神は愛であると権威をもって宣言した。今では、だれもが神に信頼を持って近づくことができます。神は「アッバ」愛するお父さんです。イエスさまに神の優しさといつくしみを見ます。私たちは誰でも今では神と顔と顔を合わせて話せます。イエスは権威を持って教えました。その権威は神ご自身から来ます。イエスの教えは当時の人々には新しいもので、深い印象を与えました。イエスの教えは私たちにも印象を与えるでしょうか?私たちは鈍くなっているでしょうか?
イエスからの神のメッセージを確かめるために、「汚れた霊」を持った男を癒しました。つまり、病気で苦しんでいる人を。聖書と典礼の12世紀の絵が足枷(かせ)をつけた男を示しています。苦しみのシンボルです。イエスは癒しました。今日でも、私たちは枷をかけられた心を持っています。いやし、自由にし、平和を与えるようにイエスに願いましょう。
「心の枷」― 私たちを傷つけた人を許せない、怒りの枷、うらみ、反感、嫉妬。
イエス様、私たちを自由にしてください。
「心の枷」― 誘惑、依存、うつ病、自己嫌悪、自己中心、劣等感など、など、など。
イエス様、私たちを自由にしてください。
イエス様への祈りの中で、自分の一つ一つの弱さを具体的に詳しくわからせてくださるよう、そして自由、励まし、平和を願いましょう。
聖書は:「イエスは私たちのすべての弱さを知り ― だから、必要な時にはいつでも、あわれみ深い神の王座の前に勇敢に出るべきだ。そこでおしみない慈しみで癒され、助けを見つける」といいます。(ベブライ4:15-16) 中里

年間第3主日 B年 2018年1月21日

聖書朗読:ヨナ書; 詩編 25; マルコ 1:14-20
ヨナ書(たったの3ページ半です)を全て読んで振り返ってみましょう。ヨナ書はたとえ話で史実ではありません。ユダヤ人の宗教と国が最もエリート主義的かつ排他的であった紀元前400年頃ヨナ書は書かれました。多くのユダヤ人は、ユダヤ人でない者は神から呪われていると考えていました。ヨナ書は狭い考えに対する見事な反論です。そのメッセージは今日のわたしたちにも当てはまります。
ヨナ書は4幕から構成される劇に似ています。ヨナという人は熱心なユダヤ教徒でした。ニネバは嫌われている異邦人のアッシリアの首都でした。
第1幕:東にあるニネバに神の言葉を伝える者として行くように、神はヨナを呼びました。ヨナは断り、西に行く船に乗り込みました。激しい嵐に合い、異邦人の船乗りは祈りました。ヨナは眠り込んでいました。
第2幕:ヨナはクジラに飲み込まれて助けられ、お腹の中でついに神に祈りました。そして乾いた土地の上に吐き出されました。神は再びヨナにニネバに行くように頼みました。
第3幕:ヨナはニネバの人に改心を呼びかけました。市民は皆改心しました。
第4幕:異邦人に対し、神は優しく、慈しみ深く、許しを与えるべきではないと考えていたヨナは、神に対し怒っていました。ヨナは自分の考えを切り替えることに苦闘していました。神の愛を受け入れ、神の友となったのでしょうか。聖書には書かれていません。わたしたち自身で結末を考えなければなりません。
 今日のわたしたちにとってヨナ書のメッセージとは何でしょうか。自問してみましょう。私の神は思いやりがあり、許しを与え、人間の弱さを理解することを本当に信じているのでしょうか。それとも、神は厳しくまた罰する方と考えているのでしょうか。神は無条件の愛です。特に苦難の際、神が労ってくださると信じているのでしょうか。神の愛と優しさを他の人に表しているでしょうか。神は人生の中で何度も繰り返し、神と他の人に近づくように呼びかけられます。今日の福音のように、ペテロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネたちのように、完全にイエスに従うようにという神からの招きに応えているのでしょうか。“主よ、あなたの道を私に示し あなたに従う道を教えてください”(詩編25:4)(薩田)

年間第2主日 B年 2018年1月14日

聖書朗読:サムエル記上3:3-19;詩篇40:ヨハネ1:35-42
イエス様は今日、私たちと共に生きておられます。イエス様は特に福音を通して、生きている声で私たちに語りかけます。今日イエスは私達一人ひとりに重要な言葉をかけられます。
「何を求めているのか?」
私が自分自身に直面して「人生で一番欲しいものは何だろう」と思い巡らすと、初めにイエス様に答えるのは「健康と視力を望みます」だと思います。しかし、さらに深く思い巡らせこう答えます。「私はあなたに出会って、あなたをもっと深く知りたい」イエス様も私におっしゃいます。「来て、見なさい」 これは優しく素晴らしい招待状です。
私は若いころからそして今でも聖アウグスチヌスの祈りが心に響いています。「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休まることはありません」
イエス様は私たち一人ひとりに「何を求めているのか?」と問いかけておられます。イエス様は私たち一人ひとりに、温かいもてなしを受けるためにイエス様のもとに来るよう招いておられます。具体的には祈りの中でイエス様と一緒に静かな時間を過ごすよう、私たちに勧めています。
祈りの中でイエス様に会いに行くとき、このように始めましょう。まず「主よ、私はここにいます。お話しください。私は聴いています。」と話し、しばらく沈黙します。沈黙の後、自分自身の言葉で願いをイエス様に伝えましょう。このように祈る時には聖書がとてもよい助けとなります。
現代社会で、私たちはとても忙しく、多くの音に囲まれています!私たちは心を騒がせる雑音を止める方法を学ばなければなりません。スマートフォンを別の部屋に置いておくとか…?
主は、祈りの中でご自分と会うようにといつも呼びかけておられます。主がサムエルを4回も呼ばなければならなかったことを忘れないで!神の呼びかけに敏感でいましょう。
今日の福音に出てくる2人の弟子たちは、イエス様と初めて会ったのが午後4時ごろだったことを後々まで覚えていました。
祈りの中でイエス様に会いましょう。そしてイエス様の平和と励ましを味わいましょう。今日の福音のアンデレがしたようにイエス様の平和と励ましを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

主の公現 B年 2018年1月7日

聖書朗読:イザヤ 60:1-6; 詩編 72; エフェソ 3:2-6; マタイ 2:1-12
今日は「主の公現」の祝日です。この祝日で、神様が御子をすべての国に現わされた出来事が思い起こされます。聖書には、後世の私たちに深い意味を持つ歴史的な出来事が、たびたび述べられています。例えば、ユダヤ人の人々は、約束の救い主を1000年も待ち望んでいましたが、イエス様に最初に会うように呼ばれたのは、祭司たちではなく素朴な羊飼いたちでした。この羊飼いたちがユダヤ人の代表でした。今日の福音には東方からやってきたユダヤ人ではない3人が登場します。この3人は、世界のすべての国を代表しています。この3人は貴方であり私なのです!
この3人は「賢人」と呼ばれています。どういうことかというと、この3人は自然-太陽、月、星について研究していて、創造主の人間を超えた力を知っていたのです。そして、大地の上での人生の意味について探索し、この力によって強められ導かれることを望んでいました。彼らは特別な星を見つけて、その導きに従い、その星は彼らをイエス様の元に導きます。彼らはこれを受け入れ、イエス様を彼らの神として敬愛します。イエス様は彼らの力となり案内者となったのです。心にいっぱいの感謝を表して、彼らはイエス様に贈り物を捧げました。
現代の私たちへのメッセージとチャレンジは次のようです:私たちは、星や月、花などを見て、これらの自然を創造した方について思いめぐらすでしょうか?それとも当たり前のこととしてしまうのでしょうか?私たちは神様を探し求めているでしょうか?私たちを導く星-聖書を読んでいるでしょうか?私たちは本当にイエス様に出会い、心に愛をもって受け入れているでしょうか?ご自身を私たちに表わしてくださったお恵みに感謝して、イエス様に贈り物を捧げているでしょうか?それはどんな贈り物でしょうか?イエス様が私たちに求める贈り物は、興味深いものです。私たちの疲れや重荷、イエス様への友情、私たちの弱さ、心の渇きを差し出すことを、イエス様は福音書の中で呼びかけています。時間をとって祈り、イエス様に出会うよう呼びかけられています。そして、私たちにくださった恵みを、他の人々と分かち合うことを、イエス様は私たちに呼びかけているのです。(相田) 

聖家族の祭日 B年 2017年12月31日

聖書朗読創世記18:1-6; ヘブライ11:8-11; ルカ 2:22-40
 「神に信頼せよ」何を意味しますか。聖書は信仰をこのように説明します:神はその人と荘厳な約束をし、その人を見守る。信仰は神の約束を信じ、それによって生きることである。 このような信頼は苦しみを避けるものではないが、それに意味を与える。聖書でアブラハムは信仰の模範である。
アブラハムは神に言われて、新しい家族を作るために、故郷を離れ、砂漠に入る。しかし彼は年を取っており、子供がなかった。砂漠は危険で水のない所だとも思っていた。神は言った:「アブラハムよ、恐れるな。私はともにいる。私はあなたの盾。」(盾は守るための武具なので、「盾」はここでは「神は守ってくださる」の意味。) 「アブラハムが神の呼びかけに従ったのは信仰によってであった……どこに行くかを知らないで出発した。」 (ヘブライ11:8) 言い換えれば、神の約束を信じたのである。アブラハムは将来を御手に委ねた。
今日、私たちはこのような信仰、このような信頼を必要としている。誰が自分の将来を知っているだろうか。誰もいない。神の約束を心にとめよう。神は私たち一人一人に言われる:「恐れるな。私はいつもあなたと共にいる。あなたを見守る。」そうです。まだ苦しみに会うが、神がそばにいてそれを克服できる。人生の旅は決して孤独ではない。
今日のミサの詩編105にその言葉がある:「神とその力を思いめぐらそう。いつもその御顔を求めよう。」祈りの中で神に会おう。
愛に満ちた父なる神はその子である私たちを見守るために力を使ってくださる。祈りの中で信頼をもって近づこう。
アブラハム、マリア、ヨゼフは信仰の模範であり、信仰と信頼が強くなるよう祈ろう。(中里)

クリスマス B年 2017年12月24日

聖書朗読:ルカ2:1-14
 みなさんにとってクリスマスとはどのような意味があるのでしょうか。
 神様から人間への最も頻繁に伝えられるメッセージの一つは、「恐れるな。私はあなたと共にいる。」です。キーワードは“共に”です。旧約聖書では、神様は与えられた仕事や召命をやりとげるために強さと勇気を与えられるという意味で用いられています。
 しかし馬小屋でのイエスの誕生はもっと根本的な意味を持っています。神ご自身は天の国の栄光を脇に置き、人となられました。イエスは100%神様で100%人間です。
 私たちの神であるイエスは、わたしたちと同じ人間の弱さを体験されました。イエスは、私たちがどのようにやり直ししたり、感じるかを知っておられます。またどのように喜び、苦しむかもご存知です。なぜでしょうか?それはイエスが人間と同じ苦しみを体験されたらです。言い換えれば、イエスは私たちと共にいらっしゃるからです。
 人生という旅路では、私たちは一人ではありません。神であるイエスが横におり、共に歩んでくれます。
 神様が人間になられた時から、神様はわたしたちに近く親しみやすい方となられました。
 私たちの神であるイエスは、わたしたち一人一人を名前で呼び言われます。「〇〇さん。恐れないでください。わたしはあなたと一緒にいます。」
 これがクリスマスの真の意味なのです。(薩田)

待降節第4主日 B年 2017年12月24日

聖書:サムエルⅡ7:1-16; 詩編 89; ルカ1:26-38
 「恐れるな、私はあなたと共にいる。」神はダビデ王とマリアにいわれた。ダビデにこう言われた:「すべての戦いであなたと共にいた。」詩編89の21と24節で、ダビデに言われた:「私の選んだ僕ダビデよ、いつもそばにいて助けと力を与えよう……ダビデはいつも私の愛に頼れる。」(同) 私たちとともにいるという神のこの約束はアブラハム、モーゼ、ギデオンと予言者たちにされた。マリアにもされ、地上でのイエスの最後のことば:「私はいつもあなたとともにいる」である。
この約束は聖書の有名は人にだけされたのではく、普通の人である私たちにもである。
このイエスからの勇気づける言葉を考えてみよう。イエスは私たち人間とともにいる。これがクリスマスのメッセージである。幼子イエスを馬船の中に見るとき意味することである。神ご自身が私たち共にいるために人となった。イエスは人生の旅路で私たちとの横を歩く。わつぃたちは決して孤独ではない。勇気と力を与えてくださる。イエスは「私たちと一緒に私たちの弱さを感じ……助けが必要な時に憐れみと恵みをえるために恵みの王座に信頼をもって近づけるようにされてくださる。」(ヘブライ4:15-16)
喜びも悲しみも人間性のすべてを分かちあってくださる。本当に私たちと共にいてくださる。平和をもたらすこのメッセージの実現がクリスマスの本当のメッセージである。
これがベツレヘムの馬小屋からのメッセージである!イエスは言う「恐れるな。私はあなたと共にいる。平和がクリスマスの贈り物である。私の平和を他人と分かち合いなさい。」(中里)

待降節第3主日 B年 2017年12月17日

聖書: イザヤ書第61章1-11ルカ1:46-54第1章5:16-24ヨハネ1:25
 「自己中心」はあなたの心を喜びから遠ざけます。自分を最優先にすることであなたの心にもたらされるのは暗闇です。自分のことを忘れて他の人を思いやることは、あなたの心に喜びと平和と光をもたらします。今日の福音に私たちの模範が示されています。
洗礼者聖ヨハネは当時とても人気のある説教者で、何千もの人が彼の話を聞きに来ました。彼には多くの弟子がいましたが、自分の使命は約束された救い主であるイエスの道を準備することであることを知っていました。洗礼者ヨハネはこう言っています:「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)
 自分が評価されることに執着せず、後進に道を譲ることが出来たら、私たちはそれを神様の贈り物として喜びをもって受け取ることが出来ます。私たちは自分の都合や楽しみを優先にして、他の人のことを忘れていませんか?私たちは別の人に席を譲ることが出来るでしょうか?
 イエスと福音の謙虚な精神に基づき、アッシジの聖フランシスによって実践された、世界的に人気のある有名な祈りは「平和の祈り」です
この祈りの中で、最も重要な言葉は、「神よ、私をあなたの道具にしてください(助け導いてください)」だと思います。「助けてください」はとても重要です。私たち弱い人間は、いつも自己中心に傾いていて、自分の力だけで、日常生活の中でこの祈りの精神を生きることは出来ません。私たちは神様に「助けてください(強めてください)、私たちの心のうちに働いてください」と乞い願います。
 この祈りを、待降節の間、毎日、ゆっくりと丁寧に祈りましょう。平和は、私たちに、家族、職場、地域、私たちの国、そして世界の一人ひとりに来ます。
 平和は私たちに喜びをもたらします。(北尾)

 

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