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主日の説教

主日の説教

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年間第24主日 C年 2019年9月15日

聖書朗読:出エジプト記32:7-14 詩編51 テモテへの手紙(1)1:12-17 ルカ15:1-10
 私達は神様に語り掛けます。私達は、イエス様と共に人生の道を歩みます。私達は、聖霊の導きを受けます。しかし、私達が祈る時、私達の神様に対するイメージはどんなものでしょうか?実際神様はどのような存在でしょうか?神様は全く曖昧で、遠くにいて私達を裁く神様でしょうか?それとも私達の神様は、身近で、気遣ってくれる優しい神様でしょうか?もし私達が神様から離れてしまったら、喜んで神様の元へ引き戻してくれるでしょうか?
 3つの聖書朗読と答唱詩編は、私達の神様をよく説明しています。出エジプト記では、私達の神様は赦し、私達を守るために無制限の約束をされています。詩編51では、私達の神様は慈しみと憐み、共感と赦しに満ちています。聖パウロはテモテへの手紙で、神様の恵みと愛、限りない忍耐について語っています。そして福音書においてイエス様は、神様が私達弱い人間をいかに喜びをもって見守ってくださっているかを示しています。私達は自分自身に問いかけましょう。これらの言葉は神様に対する私達のイメージを表していますか?
ルカ福音書の15章は3つのたとえ話で、私達の神様が弱い人間である私達をどのように見守って下さっているかを描いています。
① 迷える子羊の話 ②無くした銀貨の話 そして③放蕩息子が父の家に帰り、喜んで迎え入れられる話
 この3つのたとえ話に込められたメッセージは、「すべての人、一人一人が神様にとっては大切だ」ということです。
たとえ話の中で、羊飼いは、夜、彼の羊を安全な囲いの中に入れます。そこで彼は一匹の羊がいないことに気づきます。彼は99匹の羊を囲いの中に残して出かけ、夜通し1匹のいなくなった羊を探し回ります。そしてそのいなくなった羊を見つけた時、羊飼いは大いに喜んで、羊を叱ることはしません。彼は羊を肩にかついで家に連れて帰ります。イエス様、私達の神様は私達の羊飼いです。イエス様は彼の羊をそれぞれ名前で呼び、導き、私達を守って下さいます。
信頼をもって神様のもとへいきましょう。私達の神様を信じましょう。
私達の優しい神様を他の人達と一緒に分かち合いましょう。(三村)

年間第23主日 C年 2019年9月8日

聖書朗読:知恵の書9.13-18 詩編90 ルカ14.25-33

今日の答唱詩編90に「主よ、残された日々を数えることを教え、知恵に向かう心を与えてください。」とあります。
私たちは、あとどれくらい生きられるのでしょうか?それは誰にもわかりません!そうです、私たちの人生は短いのです!では、この短い人生の目的は何でしょう。品物を所有すること?権威や名誉を得ること?老後の安心を確保すること?これらの一時的なもの以上に価値あることが人生にあるでしょうか?はい、これらをはるかに超えて価値あるものがあります!
神様は私たち人間を創造し命を与えてくださいました。私たちがこの世で神様と共に幸福に過ごし天国でも永遠の安息を得るようにお定めになりました。イエス様が人生の歩み方を示してくださいましたから、私たちは天国に入ることができます。
天国での永遠の安息への道を示してくださったことは、私たちの神様であるイエス様からの贈り物です。私たちはこの道をイエス様と手を携えて歩みます。イエス様はこの道を歩み続ける勇気と力を与えてくださいます。イエス様は、人生の目的を理解するための「知恵」という贈り物をくださるのです。
福音書でイエス様は、私たちは(人間ゆえに)苦しみにあうと話されます。苦しみは人間であることの一部です。イエス様は苦しみを「私たち自身の十字架」と呼びます。ですから、イエス様と一緒に人生の道を歩むために、「腰をすえて考えてみましょう」(ルカ14.28)。
つまり私たちは自分を中心にすることをやめ、神様と他の人のことを考えることが求められています。そこで重要なのは、私たちは独りで自分の十字架を背負うのではないということ。イエス様が共に担ってくださるのです。

そして福音でイエス様はこうも仰います。「私の弟子になるためには、あなたは父、母、妻、子供、兄弟姉妹を憎まなければならない」。この言葉を額面通りに取らないでください!イエス様がマリア様を憎んだことはありません。イエス様お母さんであるマリア様を心から愛していました。
この言葉は、イエス様を私たちの人生の中心に置くという挑戦を意味しています。もしそれが出来たなら私たちはこの人生で、そして天国で永遠の平安を得ることができるでしょう。
そして私たちは父・母・子供・兄弟姉妹たちを、より深く愛するようになるのです。(北尾)

年間第22主日 C年 2019年9月1日

聖書朗読:シラ書3.17-29詩編詩68ヘブライ12.18-24ルカ14.7-14

聖書の中で共に食卓を囲むことは、神様と私たち人間の親しい交わりを表しています。福音にはイエス様がマタイやザアカイと、またカナの婚礼で新婚の夫婦と、そしてエマオで二人の弟子たちと共に親しく食事をしている姿が描かれています。十字架につけられる前夜、イエス様は12人の弟子と特別な食事をなさいました。「最後の晩さん」は、最初のミサでした。
2000年後の今日、イエス様は一緒に食事をするよう私たちに招待状をお送りになります。別の言い方をするなら、イエス様はご自身との、とても親密な交わりに私たちを招いておられます。
「イエス様との親しい交わり」―この美しい言葉をよく考えましょう。私たちの神様であるイエス様は、これからの1週間を生きるための力と導きと勇気を与えてくださいます!
「イエスの食卓に招かれた者は幸い」
ミサの中には、見過ごしてしまうかもしれない、とても重要な「動き」があります。それは「パンを割(さ)く式」です。最後の晩さんでイエス様はパンを割かれました。これは、私たち皆が、同じ一つのイエス(の御からだ)に与っていることを示しています。イエスと結ばれた私たちは、互いに兄弟姉妹になります。私たちのミサは家族団欒(らん)の食事なのです。
ミサに与るときに、自分が他の人よりも優れていると思わないように(そのような振る舞いをしないように)しましょう。イエス様との、そして他の人との親しい交わりを喜んで味わいましょう。イエス様は私たちが謙虚になり、知らない人や受け入れられない人、嫌いな人をも受け入れることを願っておられます。これこそが福音のイエス様のメッセージです。
神様との親しい交わりは、私たちの日々の生活を素晴らしく、味わい深いものにします。イエス様は、私たちが他の人をありのままに受け入れることができるように私たちを勇気づけ、力を与えてくださいます。
「イエスの食卓に招かれた者(私たち)は幸い」 (北尾)

年間第20主日 C年 2019年8月18日

聖書朗読:エレミヤ 38:4-10; 詩篇40; ヘブライ 12:1-4; ルカ 12:49-53
貴方は今、悲しみ、失望、絶望の底にいるでしょうか?神に見捨てられたと感じていますか?寂しいですか?もしそうなら、エレミヤ書と答唱詩篇40は、まさにあなたのための言葉です!聖書を読むと、エレミヤはとても敏感な人だったことが分かります。彼の時代の人々は、彼自身も、彼が伝える神様からのメッセージも、両方、拒否しました。彼らは、彼が死ぬように、深い井戸に閉じ込めてしまいました。エレミヤが神様に叫ぶと、神様は彼の祈りを聞き、エチオピアからのアフリカ人を送って、彼を救い出されたのです。
私たちがわびしく孤独なとき、祈るのは難しいことです。「主よ、私を救ってください」と叫ぶことしかできません。今のロシアがソビエト連邦だった頃、指導者スターリンの娘であるスヴェトラーナは深く落ち込んでいました。彼女は(自分の母親と同じように)自殺を念願していました。そんな彼女に友人が詩篇を紹介すると、彼女は、自分の痛み、不安、拒絶、孤独、絶望、そして無価値感が、詩篇の中に表現されていることを発見したのです。今日の詩篇40:「主は私の叫びを聞かれた。私が主を待っていると、主は屈み、私の元に来て、死に至る穴から私を引き寄せた。神様は新しい歌を私の口に届けられた。ああ、神様、私の救い、私の助け。遅くならないでください。」
マラソンはオリンピックで有名ですが、古代ギリシャから始まった競争で、聖書の中で、私たちの人生の旅路のモデルに使われます。例えば、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか(第2朗読、ヘブライ 12:1)」のように。私たちの決勝点のテープは天国です。準備が必要です!マラソンでは準備しないと42キロ全てを走れません。天国も同じです!今日の聖書に「私たちの先頭にいるイエス様から目を離さないで」という極めて大切な言葉があります。
今日の福音は、イエス様の教え全体の中で捉えなければなりません。イエス様やルカの時代、特に迫害の時代には、家族は分断されていました。現代では、その問題は弱まっています。現代の私たちに対するイエス様のメッセージに答えるには努力が必要です:イエス様に従い、イエス様の道を、あなたの全て、100%の心を込めて、歩みましょう。(相田)

年間第19主日 C年 2019年8月11日

聖書朗読:知恵の書18:6-9 詩編33 ヘブライ人への手紙11:1-19 ルカ12:32-48
 私はよく高速の横羽線を車で走ります。外側は追い越し車線で、左側は遅い車線です。私が追い越し車線を走っていると、もっと早い車が私を追い越そうとします。私はストレスを感じます。そして遅い車線を行くときは、私は安全にそして安心して自分の向かう所に到着します。
この世での私達の人生は旅です。私達はそれぞれの道を選んでいます。もし私達が「速い車線」を選んだら、その道は忙しく、競争に満ちていて、私達は世俗的で一時的な成功を味わうかもしれません。しかし、私達は本当の平安や幸せを感じないでしょう。
 もし私達が神様に信頼する「ゆっくりとした車線」を選んだら、私達は安心した気持ちで平和のうちに歩めるでしょう。
 では、信頼する道とはどういう道でしょうか?私達はイエス様を見ることも聴くこともできません。しかし、イエス様は私達一人一人に特別な重要な約束をしました。「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ12章32節)イエス様は、私達と共に人生の道を歩むと約束しています。だから、「動揺することなく、安心していられた」(第一朗読 知恵の書18:6)神様の約束を信じましょう。
 アブラハムは私達に模範を示しています。神様はアブラハムに言いました。「私はあなたの盾になる」(それは、「私はあなたを守る」ということです。)神様の約束を信頼して、アブラハムはどこへ行くのかも知らずに出発しました。(ヘブライ人への手紙11:8)私達も今、どんな将来が待ち受けているか知りません。でも、神様が私達一人一人をいつも守るという約束に常に誠実であるということを信頼して、信じましょう。
 イエス様は福音の中で、「あなたの持ち物を売り払いなさい」と言っています。これは、人生の旅において、個人的な成功や物質に頼るのではなく、神様に頼りなさいということです。復活したイエス様が、私達と共にいて人生の道を歩んでくださいます。イエス様が私達を導き、守って下さいます。私達はその信頼の徴として貧しい人に施しをしましょう。私達は天国に富を積みましょう。~それは私達の地上での歩みもまた幸せにしてくれることでしょう。(三村)

年間第18主日 C年 2019年8月4日

聖書朗読:コヘレト 1:2;2: 21-23; 詩篇95; コロサイ 3:1-11; ルカ 12:13-21
私たちは、ほぼみんな、全国宝くじで1等に当選したいと思うでしょう!お金があれば、子供の学費を助け、自分の家を買い、休日を楽しみ、心配せずに引退することができます。何も間違ってはいません!でも、所有物、名声、地位が山ほどあっても、真の幸福は得られないことに心をとめましょう。持ち物では、永続的な幸福は、決して得られません。私たちの真の心と魂は、もっと深いあるものを求めています。神様だけがこの憧れを満たすことができるのです。
聖アウグスチヌスは、若い頃、そして30代に、人生の喜びと名声を多く経験しました。自叙伝の中で、彼は次の祈りを記しています:「主 神よ!あなたは私たち人間を あなたに向かう者としてお造りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うまで 安らぐことができません。」
今日の福音で、イエス様は私たち一人一人に、非常に基本的で個人的な質問をされます:「あなたは人生で何を第一に考えますか?仕事?持ち物?成功?出世?あなたが死を迎える時、これら、この世の事すべてが何になるのでしょう。天国に、滅びることのない宝を積みなさい。」今日の聖パウロの書簡に「地にあるものではなく、天にあるものを考えなさい。」とあります(コロサイ3:2)。
繰り返しますが、お金、持ち物、そして野心は、悪いものではありません。イエス様のたとえ話の農夫は、農夫としては良いです。彼は私たちの多くと同じように、引退を考えた。それもOKです。では、なぜ彼は愚かだったのでしょう?彼は貪欲で、自分のことだけを考えました。彼は他の人に分かち合ったり助けたりしませんでした。 彼が自分のことだけを考えて「自分に言ってやるのだ.」 と言う様子を見てください。この男は神様を忘れ、隣人を忘れてしまったので、愚かなのです。彼の優先順位は間違っていました。品物で心は満たされません。心を満たせるのは神様だけです。私たちの死の時に、私たちが積み上げたものは誰のところに行くのでしょう?!神様の前で、神様が気にかけることで豊かになりましょう(ルカ12:21)。
第一に優先なこととして、神様と本当の友となり、他の人と分かち合いましょう。(相田)

年間第17主日 C年 2019年7月28日

聖書朗読:創世記18:20-32; 詩編138; コロサイ2:12-14; ルカ 11:1-13

 今日の聖書朗読は祈りについてです。祈りについて最も大切な考え方は、祈りの本質は神様とのつながりであるということです。聖書の中で次のように書かれています。祈りとは唱える言葉ではなく、わたしたちと神様との友情である。創世記では、暖かさとユーモアでアブラハムは神様と友達として語っています。聖書にはアブラハムは神様の友達であることが書かれています(ヤコブの手紙2:23、イザヤ41:8)。出エジプト記33:11では、モーゼは神様と友達として語り合っています。
 イエスは祈る時には、神様は優しく、親切で、理解のある父親であることを思い出すように勧めています。信頼と暖かさを持ち子供のように祈りましょう。わたしたちの心の姿勢が重要なのです。
 イエスは、「神様に求めなさい。そうすれば与えられる」と言われます。私は小学生の時、一年間一生懸命祈りました。神様に中学の入学試験で一番にしてくださいと祈りました。授業料が免除になるからです。私は一番になれませんでした。わたしたちの愛する父である神様はいつも祈りに応えてくれることを教わっていました。しかしこのとき私は自己中心的で、応えるということは求めているものを与えてくれることだと思っていました。(このときは少なくとも一番になりたい学生は20人以上いました。)しかし数年後、願い事の祈りは必ず叶えられることを実感しました。愛する父である神様は私たちに悪いものは与えません(例えば聖書では、ヘビやサソリです)。わたしたちを愛し何が最善であるかをご存知な神様は他の物をくださいます。しかしわたしたちは神様のくださるものを理解できないため、しばし失望します。イエスがモデルです。「アッバ父よ。この苦しみをわたしから取り除いてください。しかしあなたのみ手にゆだねます。」(マルコ14:36 ルカ22:42)(薩田)

年間第16主日 C年 2019年7月21日

聖書朗読:創世記18:1-10 詩編15 ルカ10:38-42

40年前に聖地を巡礼したとき、私はマルタとマリアの家のあるべタニアの教会を訪問しました。
教会の壁面に、今日の福音の場面の大きなモザイク画があります。このモザイクは私に拭うことのできない強い印象を与えました。そこではイエス様とマルタが話しています。マリアはイエス様の足もとに座って話を聴いています。私はこの場面を見て、こう思いました(あるいはイエス様が私に語られたのでしょうか)「イエス様と話すこと、そしてイエス様が語られることを聴くこと。
なるほど、これは祈りだ!」
祈りの教会博士であるアビラの聖テレジアは、祈りを次のように定義しています。「祈りとは、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と語り合う、親しい友としての交わりにほかなりません」祈りは、私たちが親友に心を許して話すのと同じように、自分自身の言葉でイエスに話すことです。マルタのように、イエス様に文句を言っても大丈夫です!しかし、いつもイエス様の声に耳を傾けてください。福音を通してイエス様が私たちに語りかけている時には特に。
マルタのように話し、マリアのように聴きましょう。

あなたは、誰かから強く注意されたことがありますか?普通の反応は「大きなお世話だ!」というものでしょう。同時に内心「そんなことを言っていいのは私の親友だけだ!」と思うでしょう。
イエス様は私たちの親友であり、そのイエス様が私たちにこう尋ねておられます。
「この世のことに、忙しくし過ぎていませんか?ストレスや心配ごとで押しつぶされそうになっていませんか?私が与える助けを求めるための『静かな祈りの時間』を忘れてはいませんか?」
イエス様はマルタにとても優しく接します。二度彼女の名前を優しくお呼びになります。イエス様は今日も同じです。イエス様は私たちに優しく接します。同時に私たちに祈るように促しておられます。
聖ペトロは手紙の中で私たちにこのように勧めています。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(Ⅰペトロ5章7節 )
イエス様は私たち一人ひとりに、こう語りかけておられます。「わたしは戸口に立って叩く。
わたしの声を聞き、戸を開くなら、わたしは中に入って、その人と食事をともにする」
(黙示録3:20)
心を開いて祈り、イエス様を私たちの人生に招き入れましょう。(北尾)

年間第15主日 C年 2019年7月14日

聖書朗読:申命記30:10-14 詩編 コロサイの教会への手紙1:15-20 ルカ10:-37

イエス様の「善きサマリア人」のたとえ話を新しい視点で見てみましょう!
まず背景です。傷を負ったその人は、エルサレムからエリコへ下って行くところでした。エルサレムは丘の上にあり、エリコは海抜が海面より低く、1066メートルの下り坂です。それは淋しく、
木もない、岩の多い砂漠の道です。そこには盗賊たちがいました。その道は荒れ果てていて危険でした。
 盗賊がそのユダヤ人の旅人を襲い、彼が持っているもの、食べ物や着物、全てを奪ってしまいました。その場面を想像してみましょう。彼は裸で傷を負って血まみれで、意識もなく、道の傍らに倒れていました。(まさに「半死半生」の状態です)
 一人の祭司、彼は宗教の専門家、その祭司が傷ついたその男を見つけます。
でも彼は何も感じず、そして、何もしない。彼は言い訳をして立ち去る。彼は多分、「忙しい」し、それに、その男を知らないと考えた。
 それから、地方の神殿で奉仕をする指導者の男がその傷ついた男のところにやってきた。彼もまた、何も感じず、何もしなかった
その次に、社会的地位のない、異邦人である一人のサマリア人が傷ついたその男を見つけた。彼は同情心に深く心を動かされた。彼はロバから降りて、その男の傷を優しくワインで消毒し、傷に油を塗って癒した。そのサマリア人は、エリコで急ぎの仕事があったが、しかし、彼は自分の時間とお金を彼の為に遣った。彼の深い憐みがそうさせたのです。
イエス様は私達に今も問いかけていらっしゃいます。
私達は傷ついた人と共に感じていますか?いじめられた中学生の男の子の気持ちがわかりますか?彼は傷つき、孤独で、絶望の中にありました。彼はビルの4階から飛び降りて自殺したのです。そう、私達には何もできない。しかし私達は感じているでしょうか?毎日の生活の中で、私達は傷ついている人、孤独な人を見て感じているでしょうか?私達は言い訳をしているでしょうか?例えば、私はその人を知らないとか、私は遠慮しますとか、私は恥ずかしいとか。私は心から「有難う」と言っているでしょうか?私は励ましを与えているでしょうか?一人で淋しく暮らしている誰かに電話を掛けるでしょうか?深い憐みのない信仰は、まやかしです。サマリア人、私達もあの
サマリア人のように行いましょう。(三村)

年間第14主日 C年 2019年7月7日

聖書朗読:イザヤ66:10-14; 詩編66; ガラテア6:14-18; ルカ10:1-20
 一週間ほど前のこと、赤ちゃんが一人ぼっちで、アパートで飢え死にした、というNHKニュースがありました。その赤ちゃんが、2日間、泣いているのが隣人に聞こえていたそうです。何と、悲しいことでしょう!一方で、日曜日のミサで、お母さんが、かわいい大きな目をした、とても幸せそうな赤ちゃんを腕に抱きしめて、聖体拝領にやってきました。この赤ちゃんは、平和と心の温かさに包まれていました。
 今日の第一朗読に、次の言葉がありました:「主なる神は言われる。母がその子を慰めるように、わたしはあなた方を慰める。あなたたちは抱いて運ばれ、膝の上であやされる。」(イザヤ66:13)
 個人の心の平和、そして家族や職場、学校、国の中で平和を味わうことは、私たち人間にとって、心からの、深い憧れです。イエス様は私たちに平和をくださいます。イエス様の誕生の夜から、メッセージは「平和」でした。イエス様は、ザアカイに、ペトロに、罪に苦しむ女に、平和をくださいました。復活された後には、弟子たちに「平和を」とあいさつされました。今日の福音では、イエス様は「この家に平和があるように」と言うようにと、72人の弟子たちを送り出しました。イエス様は、現代の私たちに、同じ平和をくださいます。最後の晩餐では、「あなた方に私の平和を与える。私の平和はこの世の平和のようではない。だから、心を煩わせたり、恐れてはならない。」とイエス様は言われました(ヨハネ14:27)。イエス様の約束は、現代の私たちにも生きて、有効なのです。
 イエス様が用意される平和を味わうことを、望みますか?もしそうなら、静かな時間を作って祈り、貴方を、(たとえ、大人であったとしても)幼子の様に面倒を見てくださる神様に会ってください。神様が貴方のことを知っている、という事実に、思いを巡らせてみてください。神様は貴方に、貴方の名前で呼びかけます。神様は、ありのままの貴方を、一人の人として愛されています。こうしたことを何度もしていると、少しずつ、神様の平和が、貴方の心に沈み込んでいきます。さあ、イエス様に、平和について話しかけてみましょう。
 イエス様は、私たちを、人々への神様の平和の道具として、家族、親類、友人たちの元に遣わされます。人々に、笑顔と、親切な言葉、励まし、そして、感謝の言葉を贈りましょう。私たちの小さな社会の中に、平和の種をまきましょう。そうすれば、イエス様が報いてくださいます。(相田)

年間第13主日 C年 2019年6月30日

聖書朗読:列王記 19:16-21; 詩編 16; ガラテア教会への手紙 5:1,13-18; ルカ 9:51-62
 キリストの道の基本的な真理は、「イエスは、この世とわたしたち人間を創られた神である。」(ヨハネ1:3-4)ということです。御子は、神性を脇に置き人となられました。人間になったということは重要なことです。イエスは人間としての様々なことを経験されました。人間としての弱さを経験されました。イエスは侮辱と裏切りにより傷つき、孤独を味わいました。今日の福音書にはイエスの孤独について多く書かれています。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕するところがない。」(ルカ9:58)
 ここで孤独について考えましょう。電子メール、スマホ、インスタグラム等のデジタル時代の今日、人々はかつてないほど孤独を味わっているとたくさんの記事が書かれています。ある専門の医師は、「孤独は、一日にタバコを15本吸うことより体に悪い。」と言っています。この分野の専門医たちは、「乳児から高齢者までだれでも時々孤独を覚える」と言います。しかしわたしたちは、自分が孤独に感じることを認めません。逃げる手段があるからです。忙しくしたり、不要な買い物、お酒、薬、テレビ、ペット、ゲーム、スマホ、趣味などです。もちろん、これらそのものは何も悪いものではありません。どのように利用するかが大切なのです。過度に依存することは問題です。
 わたしたちは孤独を感じることを認めましょう。家族の中やたくさんの人の中で孤独を感じることもあるでしょう。次のようにすることが重要です。祈りの中で孤独を経験したイエスに語りかけ、自分とイエスに「わたしたちは孤独である」ことを認めましょう。
 人間の孤独を経験し理解している神であるイエスは生きている声で、「疲れた者重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)「あなたは私の友である。」と語りかけます。
 孤独の感情は、イエスへの親しみを呼び起こします。わたしたちの愛と親しみへの深いあこがれは神様だけが満たすことができます。イエスはわたしたちにさらに求めます。孤独な人、一人暮らしの人と交わり、安らぎ、励まし、希望を与えるようにと。(薩田)

キリストの聖体 C年 2019年6月23日

聖書朗読創世記14:18-20 詩編110  第1コリント11:23-26 ルカ9:11-17

10年前典礼の講習会で私はとても印象深い話を聞きました。それは「私達の日曜日の集い-
その歴史と意味」についてでした。イエス様が亡くなった後から、弟子たちは日曜日に集まっていました。(ユダヤ教の集まりは土曜日でしたが)。キリスト者たちは、聖なる宴の為に集まって
いました。彼らはイエス様が最後の晩餐で彼らに与えられた「これを私の記念として行いなさい。」という教えに従っていました。
1世紀のミサも私達の2千年後のミサも、最後の晩餐と同じ教えに基づいています。そこには
聖書朗読、詩編、聖歌があり、イエス様が再びパンを取り、割って「これは私の体である」と仰います。聖書の中の「体」は「ソーマ」という言葉で、それは、生きている人間そのもの、イエス様ご自身を意味します。
イエス様は聖餐式の中で、私達に食物(パン)を象徴としてご自身をお与えになります。
普通、毎日の食物は栄養を与え、私達の体にエネルギーと力を与えてくれます。私達は食べ物を
吸収します。ご聖体は私達の心に、栄養とエネルギーと力を与えてくれます。イエス様が与えて下さる力によって、私達は信頼と希望と目的を持って人生の道を歩むことができるのです。
私達は共同体として日曜日の集いを行います。私達は共に、聖体拝領の中で同じイエス様を
戴きます。
私達は集い、神聖な食事を共にします。私達は、聖餐式の中で同じ聖なるパンを分かち合います。聖書の中の食事は、神様と人との親しさの象徴です。そして又、お互いの交わりと一致の象徴でもあります。それは、多様性における一致です。日本語的な言い方では、「同じ釜の飯を食う」と
いうことです。イエス様は今日も、私達と一緒にパンを割いていらっしゃいます。私達は、
イエス様の友情を味わって、人生の旅を力強く歩めるようにイエス様の力を戴きましょう。
「イエス様の食卓に招かれたものは幸い。」  (三村)

三位一体の主日 C年 2019年6月16日

聖書朗読 箴言8:22-31詩篇8ロマ5:1-5ヨハネ16:12-15

私たちは唯一の神様を堅く信じています。そしてまた、唯一の神様の中に、父と子と聖霊がおられることも信じています。多くの人は「それは不可能だ」「三位一体を理解するのは難しい」と言い、三位一体について考えることから逃げます。でもそれは悲しいことですし、もったいないと私は思います。
三位一体は神様の私たちへの愛です。三位一体は唯一の神様の「内なる命」でもあります。
人間には「内なる命」の偉大さと意味を理解することができません。それは「奥儀」と呼ばれます。イエス様は私たちに三位一体をお示しになりました。
三位一体とは神様の愛、すなわち愛そのものである神様ご自身と、私たち人間への愛です。三位一体の意味を理解しようとせず、この奥儀の内に入り、私たち一人ひとりに与えられる神様の愛を味わいましょう。

洗礼の秘跡で「父と子と洗礼の名によってあなたに洗礼を授けます」という言葉が使われます。洗礼によって私たちは温かく愛に溢れた家、神様の命に招き入れられます。三位一体の主日である今日、立ち止まってこの愛について思いめぐらし、味わいましょう。自分自身にこう言いましょう 「神様は私を愛してくださる。私は父と子と聖霊に愛されている」「…天を仰ぎ、あなたが作られた月と星を眺めて思う…」神様は私たち人間をお創りになり、すべてを治められる神様は私たちを愛しておられます(詩編8)。
父である神様 私たちは神様のことを「アッバ(親愛なるお父さん)」と呼びます。私たちは神様の子どもです。神様は私たちを大事にしてくださり、私たち一人ひとりを名前でお呼びになります。天の父は穏やかで優しく愛情深く、私たちをありのままに受け入れてくださるお父さんです。
子である神様は、神様が私たちをどれほど愛しているかをお示しになるために人間となられました。イエス様は私たちを愛し、ご自分の命を犠牲になさいました。イエス様は人間の弱さを経験なさいましたから、私たちをよく理解しておられます。イエス様は私たちと一緒に人生の旅路を歩いてくださっています。
聖霊である神様は、私たちを愛で包んでくださいます。聖霊は私たちを導き、力づけ、照らし、励まし、勇気と慰めを与えてくださいます。
三位一体の愛を味わいましょう。そしてこの愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

聖霊降臨の主日 C年 2019年6月9日

聖書朗読:使徒言行録2:1-11; 詩編104; ローマ8:8-17; ヨハネ 14:15-26
 キリストの道を歩むうえで、最初の、そしてとても基本となる第一歩は、人間の弱さを謙虚に認めることです。(そして、この大切な一歩は、私たちが人生を通して、何度も何度も、繰り返さなければなりません。)
 私たち人間は弱く、自分自身の力だけでキリストの道を歩むことはできません。私たちは弱い。 それを認めましょう!
 でも、弱さを認めることは、第一歩にすぎません!次の一歩は、イエス様に助けを求めることです。イエス様は、私たちを助け、力づけ、励まし、導くため、聖霊を送ると約束されました。ですから、苦しい時、イエス様に聖霊を遣わしてくださるよう求めるのです。私たちは、キリスト教信者の生活を、一人で送ろうとしているでしょうか?
 聖書は、ギリシャ語で書かれていますが、使われているのは文語体ではなく、日々の暮らしの言葉です。ギリシャ語で聖霊を表す言葉は、パラクレートスです。これはとても特別な言葉です。日本語でも、英語でも、その本当の豊かな意味を、一つの言葉で表すことはできません。ときに「弁護者」と訳されます。これは一つの意味です。私たちは聖霊(弁護者)に、そばにいて、導きと守りをくださるように求めます。しかし、パラクレートスには、私たちの人生に、助け、励まし、安らぎ、勇気を与える方という意味もあります。
 聖書では、聖霊は私たちを教え、イエス様のメッセージを思い出させます(ヨハネ14:26)。聖霊は祈り方を知らない私たちに、祈り方を教えます(ローマ8:26)。聖霊は、神の子であることの深い意味を教えます。私たちは子供なので、親しみをこめた呼び名「アッバ(お父ちゃん)」と、神様を呼べるのです(ローマ8:16)。聖霊は私たちに人生に処する力を与えてくれます。
 もし、私たちが自分だけの力に寄り頼むなら、イエス様の命の道を歩むことはできません。私たちは倒れ、失敗します。聖霊を求め、そばにいて、導き、力、励まし、安らぎ、助けを下さるよう寄り頼みましょう。(相田)

主の昇天 C年 2019年6月2日

聖書朗読:使徒たちの宣教 1:1-11; 詩編47; ルカ24:46-53
 今日の聖書朗読の、使徒たちの宣教と福音書は同じ著者によるものです。聖ルカです。使徒たちの宣教ではイエスの昇天を、福音書では「イエスは弟子たちから離れ、天に上げられた」ことが書かれています。「イエスが天に上げられた」ことの意味は、「イエスがこの世に降りてきた」ということです。イエスがパレスチナの地に存在していたという事実は二千年前に終わっています。イエスは今日わたしたちと一緒に生きています。イエスはかつて人間でした。今では特定の場所と時間にしか存在できないという人間としての束縛は無くなりました。イエスは神様としてわたしたちと生きています。イエスは同伴者としてわたしたちの人生を共に歩いています。教皇フランシスコは、「復活されたイエスはわたしたちを愛し、光、力づけ、解放を与え私たちと共に歩んでいます。」(福音の喜び#164)ですから主の昇天の祝い日は、感謝の祝い日です。イエスよ、ありがとうございます。
 主の昇天は希望の祝い日です。天国に入ることはわたしたちの人生の目的です。天国では私たちを愛している神様と永遠にいることができます。死は人生の終わりではなく、神様との人生の始まりなのです。このことは、毎日の生活に、意義、味わい、希望を与えてくれます。
 主の昇天は宣教の祝い日です。キリスト信者はこの世で最も素晴らしい宝を頂いています。人生の旅路の目的地が天国であることを知っています。そこへ行く手段も知っています。イエスが同伴者なので、必要な助けを全て与えられています。わたしたちは祝福されています。しかし自問してみましょう。なぜ神様はわたしたちを選びこのような宝物をくださったのでしょうか。この答えは非常に重要です。この宝物を他の人と分かち合うためです。イエスは私たちに地の果てまでイエスの証し人になるように求めています。(使徒たちの宣教1:8)家庭、学校、職場で証し人を始めましょう。思いやり、親切、平和を示しましょう。(薩田)

復活節第6主日 C年 2019年5月26日

聖書朗読:使徒言行録15:1-2,22-29詩編67黙示録21:10-14,22-23ヨハネ14:23-29
 私は日曜日の説教で、いつもは1つのテーマだけについて話しますが、今日は例外として、5つのテーマについて話します。
第1のテーマ:今日の聖書朗読の使徒達の宣教の中で、「聖霊と私達は・・決めました」(使徒たちの宣教15章28節)とあります。イエス様の弟子たちは、大事な選択をしなければなりませんでした。 彼らは聖霊の導きを頼んで祈り、問題を話し合い、そして一つの選択をしました。私達が選択するとき、私達もこの模範に倣いましょう。神様は喜んで私達の平凡な生き方の中にいつも招き入れられてくださいます。
第2のテーマ:詩編67、私は毎朝この詩編67を唱えます。この詩編のお蔭で私はまだ日本にいます。私は日本(全ての国、日本はその中の一つです)の為に祈りたい、そして、日本の人々、特にこの小教区の皆さんの為に祈りたいです。これはとても美しい詩編です。
第3のテーマ:第2朗読のヨハネの黙示21章の中で、ヨハネの夢が語られています。ヨハネは幻の中で『新しいエルサレム』を見ました。そこにはもう神殿はありません!(旧約時代の神殿は人々が神様と出会う場所でした。)でも、新約では、復活したイエス様ご自身が神殿なのです。そして、イエス様が私達一人一人の心の中にお住まいになります。このメッセージは今も、福音書の中でイエス様ご自身によって何度も繰り返されています。(ヨハネ14章23節)「父と私はあなた達を愛し、あなた達のところに行って一緒に住む」イエス様は私達一人一人をありのままに受け入れて下さり、実際に私達一人一人の心の中に住んでおられるのです。そして、神様と私達をとても親密にして下さるのです。私達の心の中にイエス様がいて下さるように、イエス様にお願いしましょう。
第4のテーマ:このテーマは第1のテーマと関係があります。イエス様は福音書の中で、聖霊がイエス様とイエス様の道について私達に教え続けているとおっしゃっています。私達にイエス様の事をより深く悟らせて下さいと聖霊に頼みましょう。
第5のテーマ:イエス様は私達に真の、深い平和を与えて下さいます(どんなに苦しみの時にでさえも)。イエス様が与えて下さる平和は、イエス様がいつもありのままの私達を愛して下さることに基づいています。私達はイエス様の平和の道具になりましょう。
皆さん、主の平和。           (三村)

復活節第5主日 C年 2019年5月19日

聖書朗読:使徒言行録14.21-27 詩編145 黙示録21.1-5 ヨハネ13.31-35
今日の福音でイエス様は仰います。「わたしがあなたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」しかしそれは難しく時には不可能のように感じられます。私(たち)を傷つけ、心に深い傷を残した人がいます。私と異なる意見を持つ人は多いし、私とは正反対の性格の人もいます。煩い人もいるし、顔を合わせたくない人、自己中心的な人や鈍い人、人を見下したり人を利用したりする人など、色々な人がいます。どうしたらそのような人を、イエス様が仰るように愛することができるのでしょうか?それは不可能です!人間の力ではできないと認めましょう!ではどうやって? 私に何ができるでしょう?
まず「愛」という言葉を考えましょう。イエス様が命じておられるこの「愛」は、人に対して温かい気持ちを持つという意味ではありません。短所を含めて、その人をありのままに謙虚な気持ちで受け入れる、ということです。
これから紹介する3つのステップは、イエス様のなさり方で人を受け入れる(愛する)ために大切です。
① いつくしみ深く理解に満ちた神様の前で自分の過ち、欠点、弱さそして失敗を認めましょう。 (詩編145「神は恵みとあわれみに満ち、怒るにおそく、いつくしみ深い」参照)
② 神様があなたをどれだけ愛し、あなたを(あなたの失敗もすべて含めて)受け入れてくださっているか、祈りの内に考えましょう。イエス様は私たちのために命を捧げてくださいました。「神が人と共に住み…彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」のです(第2朗読ヨハネの黙示)。イエス様ご自身が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言っておられるので、この第二のステップは大切です。
③ このように祈りましょう。「私の神であるイエス様、あなたはありのままの私を受け入れ、愛してくださいます。私が○○さんをありのままに受け入れることができるように助けてください。あなたの助けが必要です。あなたの力がなければ、○○さんを愛するようにというあなたの言いつけに従うことは不可能です。私は○○さんを愛したいのです」
イエス様の仰る意味で人を愛したいと願うことは大切です。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(北尾)

復活節第4主日 C年 2019年5月12日

聖書朗読:ヨハネ 10:27-30; 詩編 100 & 詩編 23
 今日の、復活節第4主日の福音は短いですが、なぐさめに満ちています。しかしながら、そのなぐさめの背後に、私たちキリスト教信者にとって、命に関わるほど重大な挑戦が用意されています。一人一人、自分自身に向き合い、この重大な問い-「私はイエス様と深い交わりをもっているだろうか?」を問いかけてみましょう。
「私は私の羊を知っている」というイエス様の、この27節の言葉で、「知る」という言葉に特別な聖書的意味が込められています。「知る、ということは、ただ知識として知るのではなく、両者の深い交わりを意味している」のです。
 もう一度、一人一人が、「私は、私の羊飼い、イエス様と深い交わりをもっているだろうか?」と問いかけてみましょう。イエス様から、私たちそれぞれに、一人残らず、愛、友情、支え、導きが差し出されています。その申し出を私は受け入れているでしょうか?
 イエス様の時代、ほとんどの羊飼いには、10~20頭の羊しかいませんでした。羊は、若い小羊の頃から、いつも世話をされ、守られてきました。羊は、自分の羊飼いと親密になります。夜には、多くの羊飼いが、自分の羊を、普通は石垣で囲まれて一つの門しかない、共同の安全な場所に連れて行くのが習慣でした。朝になると、門が開かれ、それぞれの羊飼いが自分の羊を呼ぶのです。羊は彼の声がわかり、彼の周りに集まります。そして、羊飼いが先に立って歩き、水場やえさのある場所に導いていくのです。
 イエス様が私を呼んでいます。その声を私は聞いているでしょうか?現代では、私たちを呼ぶ多くの声があります。スマートフォンからの声、テレビからの声、ソーシャルメディアからの声!これらの声がたいへんな雑音となり、イエス様の静かな声を聞き損じてしまうのではないでしょうか?詩編46:10に、「静まって、わたしこそ神であることを知れりなさい。」とあります。忙しい日々のスケジュールの中にあって、短くでも静かな時を持ち、イエス様と深く交わりましょう。傍らにイエス様がいてくださることで、私たちの日々の生活が素晴らしい味わいに彩られます。
                          (相田)

復活節第3主日 C年 2019年5月5日

聖書朗読:使徒たちの宣教5:27-41;詩編30; ヨハネの黙示5:11-14; ヨハネ21:1-19
 有名な人の伝記では、一般的に長所は強調されますが短所は書かれません。しかし福音書では逆です。ペトロはイエスの弟子たちの頭でした。ペトロの弱さ、失敗、過ちが強調されています。何故でしょうか。わたしたち弱い人間がイエスとともに人生を歩む際の励ましの象徴としてペトロが描かれているからです。ペトロはわたしたちと同じ弱い人間です。
 最後の晩餐では、イエスは12人の弟子は自分を見捨てることを予言しました。ペトロは、他の11人の弟子と比べ、自分のほうが強い人間であると思っていました。イエスはペトロが3回自分を否定することを予言します。イエスはペトロに、この過ちと経験は神の慈しみと許しによるもので、ペトロが将来他の人への同情心を持つためであると説明されています。(ルカ22:31-34)
 ペトロはイエスに従っていることを否定しました。さらにイエスを知らないと言っています。3回の否定の後、偽りの裁判の真っただ中にいたイエスは振り返りペトロを見つめました。ペトロはイエスの顔が、慈しみ、理解、愛、受け入れに満ちていることを感じました。
 自分自身に問いかけてみましょう。わたしたちは他の人と比較し、自分のほうが優れていると思っていないでしょうか。自分の失敗が、失敗した人への理解と共感になっているでしょうか。
 ペトロはイエスを見捨てました。復活の後、イエスはペトロを叱りませんでした。イエスはペトロに、「ペトロ、あなたはわたしを愛しているか」と3回問いかけました。これは、わたしたちの神様の優しさ、人間の弱さに対する理解と許しを表しています。ペトロに対する扱いは、神様がどのようにわたしたち人間を扱うかを表しています。
 復活されたイエスから今日生きている声で、わたしたち一人一人に「○○さん、あなたはわたしを愛しているか」と問いかけられています。この大切な問いかけにどのように答えたら良いのでしょうか。わたしたちはイエスを好きでしょうか。祈りの時間を使っているでしょうか。毎日の生活の中で優先しているでしょうか。イエスがくれた愛を他の人と共有しているでしょうか。
イエスは神様です。(薩田)

神のいつくしみの主日 C年 2019年4月28日

聖書朗読:使徒言行録5:12-16詩篇118黙示録1-19ヨハネ20:19-31
今日の詩編118の最初の節は 「恵み深い神に感謝せよ。そのあわれみは永遠。『神のいつくしみは絶えることがない』」(詩編118:1‐4)です。
この節では、私たち弱い人間に対する神様のなさりかた、振る舞いが言葉で伝えられています。これに対して福音の中でイエス様は同じメッセージを私たちに行いで示されています。
トマスは使徒として3年間イエス様と共に過ごしましたが、イエス様が十字架につけられて死んだことにひどくショックを受けました。イエス様が今、生きておられることを信じられませんでした。トマスの信仰は弱く、彼は疑り深かったのです。トマスが他の弟子たちと一緒にいるとき、復活された主であるイエス様が現れます。イエス様はとても穏やかで理解に満ちた態度でした。トマスを叱ったり罰したりしませんでした。トマスはイエス様のいつくしみに、深い信仰から出るすばらしい行いでこう応えました。「わたしの主、わたしの神よ」
弟子たちのリーダーだったペトロは臆病になり、イエスを知らないし、弟子であったこともないと、3回否定しました。復活されたイエス様はペトロに優しく3度尋ねます。「ペトロよ、あなたはわたしを愛しているか?」
ペトロはイエスのいつくしみにこう応えます。「主よ、わたしは、あなたを愛しています」
聖書にはこう書いてあります。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13章8節)
今日、祈りを通して復活されたキリストに出会いましょう。イエス様は私たち人間の弱さを理解しておられ、私たちの失敗をお叱りになりません。イエス様は私たちがいつくしみに応えるようにと招いておられます。イエス様に言いましょう。「イエス様、あなたはわたしの主、わたしの神」そして、ペトロのように言いましょう。「イエス様、わたしはあなたを愛しています。」
トマスは彼の神であるイエス様との個人的な出会いを体験しました。私たちも同様に神様と出会うことができます!祈りを通してイエス様と出会うことは私たちの日常生活を味わい深いものにします。そしてイエス様は、私たちが神様のいつくしみを他の人たちと分かち合うことを望んでおられます。(北尾)

復活の主日 C年 2019年4月21日

聖書朗読:使徒言行録10:34-43; 詩編 118; コロサイ 3:1-4; ヨハネ 20:1-9
 新子安にある私たちの教会には、1階玄関に、日本人美術家・松田日出雄の手になる、小さなステンドグラスの窓があります。そこには、復活したイエスが、輪郭で表された二人の人、一人は男、もう一人は女、と手をつないで歩む様子が描かれています。二人はイエスと一緒に歩んでいます。この二人は、貴方であり私なのです。
 この様子は、現在の私たちにとっての復活の意味を表しています。私たちの神であるイエスは、生きており、人生の道を私たちと共に歩んでいます。この人生の私たちの旅路において、私たちが一人で歩むことは、決してありません。復活した主が、私たち一人一人を、活きた声で呼んでいるのです。マグダラのマリアに「マリア」と呼びかけたように、一人一人の名前で呼んでいます。そして、イエスは、私たち各々に「恐れるな、私が貴方と共にいる。私の目に、貴方は価高く、貴く、私は貴方を愛している。」(イザヤ 43:1-5)と仰っています。
 私たちの神イエスは、天国での神の栄光をわきに置き、私たちのように人間となりました。この時から、神は私たちに近い方となりました。イエスはたいへんな苦しみを味わいました。イエスは、私たちが苦しいとき、そばにいてくれる神です。イエス自身が苦しみを味わったので、私たちが苦しいとき、イエスが理解してくれるのです。イエスは私たちの力であり、私たちの励ましです。イエスが死んでから死者の中からよみがえった復活は、私たちの希望です。
 私たちの神であるイエスは、復活したのですから、今も生きて私たち各々のそばにいます。イエスは生きているのです。私たちはイエスに話せます。私たちの心や本音をうちあけられるのです。友としてイエスと話すことが、祈りです。イエスは私たち一人一人に「私は貴方を友と呼ぶ」(ヨハネ 15:15)と言われています。私たちの生活は忙しいですが、一日一日を、その日一日私たちを導き守るように求めることで始めましょう。少なくとも、イエスとのそんな短い会話で、一日を始めましょう。そうすれば、その日全体が特別な味わいになります。夜には、イエスに支えを感謝し、ときには失敗を残念に思う気持ちを伝えましょう。そして、この頂いている愛を、他の人と分かち合いましょう。(相田)

受難の主日(枝の主日) C年 2019年4月14日

聖書朗読イザヤ50.4-7 詩編22 フィリピ2.6-11 ルカ23.Ⅰ-49

今日から聖週間の最も厳粛な典礼に入ります。聖週間はイエス様の苦しみを心に留めるよう呼びかけます。イエス様は苦しみを通して、復活という栄光の冠を受けられました。(復活祭)
イエス様は今日、私たち一人ひとりに生きた声で話されます。「私はあなたと共にいる」と。
今日の集会祈願に「主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにする」とあります。日々の生活の中で苦しむとき、イエス様は私たちと共にいて、私たちの苦しみを分かち合ってくださいます。イエス様は苦しむ私たちの同伴者です。
イエス様ご自身も苦しまれました。私たちの神、イエス様は苦しみを身をもって経験しておられるので、私たちを理解することがお出来になり、私たちは助けと励ましを求めてイエス様のもとに行くことができます。兵士たちはイエス様の背中を鞭で打ち、嘲り、彼の顔に唾を吐きかけました。(第一朗読イザヤ書)。イエス様は、すべての慰めが虚しいという経験をなさいました(神は沈黙しているかのようでした)。 "わたしの神、どうして私を見捨てられるのか! “(詩編22)。しかし、イエスは父である神様を深く信頼していました:「父よ、私わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
これが、神性を脇に置いて人間と同じものになられた私たちの神です。(第2朗読フィリピの教会への手紙)。私たちのイエス様は100%人間であり、100%神様です。私たちの神であるイエス様は人間性を体験なさいましたから、私たちの苦しみを理解しておられます。イエス様は私たちと共におられ、一緒に歩いてくださいます。私たちは、確信を持ってイエス様のところに行かれます。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われます。
聖書学者たちは、イエスの横の十字架にかけられた犯罪人(回心した)の祈り「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」について指摘しています。ここは、聖書の記述の中で称号なしにただ、「イエス」と呼ばれている唯一の箇所だそうです。
苦しみはイエス様を私たちの親しいものにします。私たちも「イエスよ!」と祈りましょう。イエス様は私たちと共におられます。
イエス様は私たちの人生の同伴者です。(北尾)

四旬節第5主日 C年 2019年4月7日

聖書朗読イザヤ43:16-21; 詩編126; フィリップの教会への手紙 3:8-14; ヨハネ8:1-11
 私はかつて、少年時代に万引きで警察に捕まった人に出会いました。その汚名は生涯残ったそうです。これは人間のやり方です。しかし、よく覚えておいてください、神様は違います。わたしたちの神様はすべてを許してくださいます。わたしたちの神様は罰する神様ではありません。わたしたちの神様は人間の弱さを理解されます。わたしたちの神様は慈しみとあわれみの方です。心から回心し神様に許しを求めるならば、神様は罪を許し、喜びを与えて下さいます。イエスは、愛と和解による許しの秘跡を与えて下さることを約束してくださいます。
 本日の聖書朗読の箇所は、古くから復活祭で受洗される方の直前の準備のためのものです。また、既に洗礼を受けているわたしたちに対し、洗礼の約束を更新するためのものでもあります。
 四旬節中のミサのテーマを見てみましょう。
① 第三主日では、「実がならいないイチジクの木を切り倒せ。」と持ち主は言いました。「手入れをしてみます。少し時間をください。」と園丁(すなわち神様)は言った。
② 放蕩息子が帰って来た時に走り出した父(神様)のたとえ話。
③ 今日の朗読。イエスが神様の慈しみと理解を行動で表した箇所。愛の眼差しで、イエスは優しくその女性を許されました。
わたしたちは、本当のイエスを知っているのでしょうか?(第二朗読 フィリップの教会への手紙 3:8)。
 このような特別に選ばれた朗読箇所を通じ、教会はとても大切なメッセージを語っています。つまり、わたしたちの神様は「あわれみに満ち、慈しみ深い方である」ということです(詩編145:8)。自分の心に正直に問いかけましょう。神様の慈しみは自分の心の中心でしょうか。本当にイエスのことを良く知っているのでしょうか(フィリップの教会への手紙 3:8)。
 福音書朗読に出てきた女性は大きな罪を犯しましたが許されました。(放蕩息子もです)では、小さな罪を犯した人は許されないのでしょうか。とんでもない。神様の慈しみはすべての人のためのものです。
イエスは身を起こしてその女性をじっと見つめられた(ヨハネ 8:10)。イエスはザアカイを見上げました(ルカ19:1)。イエスは、ペテロが否定するのをご覧になられました(ルカ22:66)。イエスの眼差しは、皆の人生を変えました。祈りの中で、慈しみの眼差しを自分に向けてくれるようにイエスに直に頼みましょう。そして外へ出て他のひとたちとイエスの慈しみを分かち合いましょう。(薩田)

四旬節第4主日 C年 2019年3月31日

聖書朗読ルカ 15章; 詩編 34
 四旬節にお勧めしたいことがあります。聖書を開き、ルカ福音書15章にある、神様の無条件の愛についての3つのたとえ話を、ゆっくり、時間をかけて読むことです。失われた羊、失われた銀貨、そして失われた息子のたとえ話です。「放蕩息子」と呼ばれるこのたとえ話の中の、上の息子を見てみましょう。私たちは彼とよく似ているかもしれません!そうです、父親の言いつけを守ります、が、義務的でうわべのことで、父親を尊敬もしていないし愛してもいない。父親にあからさまに失礼な態度を示しました。弟のことを「貴方のあの息子」と言い、家に入って父親に会おうとしませんでした。彼の心は、硬くて冷たく、許そうとしません。でも、彼の最大の問題は、父親が彼をとても愛していることに気づいていないことでした。彼自身の考えに凝り固まり、父親の愛が見えていなかったのです。
 父親の無条件の愛に注目してください。父親は、家から出てきて、上の息子に会い、話をしました。そして、「わが子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と、大きな意味のある言葉をかけます。
 これら3つのたとえ話を通してイエス様が示されるのは、父である神様が、私たち一人一人を、ありのままで、愛していることです。下の息子の帰りを、希望をもって待ちながら、父親がどんな風に、遠くの道を見つめ続けていたのか、考えてみてください。息子を見るや、家を走り出て、彼を抱きしめたのです。「わが子よ!おかえりなさい」(この時代の父親は走ったりしません。手ひどく侮辱した子に、このようなあたたかい歓迎をしたりしませんでした。でも、父なる神様は、この世のそうした父親とは違います。私たちを無条件で愛してくださるのです。)
 このたとえ話を、もう一度、ゆっくり読んでください。イエス様の深い教えに思いを巡らすために、時々休んで祈ってみてください。父なる神様は、私たち一人一人に活きた声で言われます:「わが子よ、お前を愛している。お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」
 この神様の愛を他の人と分かち合いましょう。(相田)

四旬節第3主日 C年 2019年3月24日

聖書朗読出エジプト記3:1-15 詩編103  1コリ10:1-12ルカ13:1-9

野球や高跳び、棒高跳びなど競技の世界では、3度失敗すると失格になり、選手は交代や退場となります。3度の失敗で罰が与えられるのです。
しかし私たちの神様のなさり方は、この人間的なやり方とは違います。今日の福音のたとえ話でいちじくの木は実をつけません。
「切り倒せ」と園の主人は言います。しかし、園丁(神様のことです)は今年もこのままにして、チャンスをくださいと頼みます。

どの国の文化にも、何か悪いことが起こったとき、例えば事故、病気、地震など、この災害は神からの罰だという迷信があります。イエス様は今日の福音で2つの災いの例を挙げ、神様は決して罰を与える方ではないと強く教えられます。それどころか、神様はいつも私たちにさらなる機会を与えてくださいます。神様は辛抱強く私たちの回心を待っておられます。ペトロはイエス様を「知らない」と3回否定しましたが、イエス様は愛をもって回心したペトロを受け入れました。

今日(主日)の朗読箇所は私たちに、神様に対するイメージを深く考えるよう求めています。神様は私たち一人ひとりを愛し、「モーセ!モーセ!」とお呼びになったように、私たち一人ひとりに名前で呼び掛けられます。(出エジプト記3:4、イザヤ書43:1)
私たち一人ひとりは神様にとって特別な存在です。私たちが祈るとき、特に私たちが苦しみ、助けを求めて叫ぶ声は神様に届いています。神様は、今日こう言われます。「私はあなたの叫ぶ声を聞いた。あなたのもとに行き、あなたを救おう。」神様はモーセに話されたときと同じことを、今日私たちに話されます。
福音のたとえ話では、実をつけないいちじくの木に、もう1年の猶予が与えられています。しかし、イエス様は期限を設けません!これはイエス様が「今」、悔い改めるように私たちに告げられているという意味です。これ以上祈る必要がありますか? いえ、今です!私たちが親切で思慮深い人となるためには限られた時間しかないのです。たった今、回心しましょう!

今日の詩編103章をゆっくりと味わいましょう。「神は恵み豊かにあわれみ深く、怒るにおそくいつくしみ深い。主は私たちの罪に応じてあしらわれることなく…”(9-10)。
私たち一人ひとりにいただいた神様の愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

四旬節第2主日 C年 2019年3月17日

聖書朗読 創世記15:5-18; 詩編 27; フィリピの教会への手紙 3:17-4:1; ルカ9:28-36
毎日曜日のミサの第一朗読は通常旧約聖書が読まれます。第二朗読は普通は聖パウロの手紙が読まれ、福音書へと続きます。第一朗読と福音書は同じテーマです。また第一朗読と福音書の間には、答唱詩編があります。詩編は150編から構成されており、聖書朗読のなかで最も美しい部分です。詩編は神様ご自身から触発された祈りです。答唱詩編に注目しましょう。答唱という名前から想像されるように、第一朗読のメッセージに対する私たちの返答です。
今日の朗読をみてみましょう。創世記15章の朗読は復活徹夜祭における洗礼志願者の準備として古くから選ばれています。(もちろん既に受洗した信徒への新たな準備の意味もあります。)創世記15章は神様のアブラハムに対する厳粛な契約です。神様は約束されました。「私はあなたを愛し、心に掛ける。あなたは私の友である。」洗礼の際わたしたち皆に、同じく素晴らしい約束をされました。
詩編27は神様の約束に対する私たちの答え(契約への賞賛)です。これは神様の契約における信頼を表す詩編です。
27・1神はわたしの光、わたしのすくい、わたしはだれもおそれない。
神はわたしのいのちのとりで、わたしはだれをはばかろう。
主よ、あなたはわたしのそばにおられ、わたしを守ってくださいます。わたしは勇気をもって歩んでいけるのです。
4わたしは神に一つのことを願いもとめている。
生涯神の家を住まいとし、あかつきとともに目ざめ、神の美しさを仰ぎ見ることを。
  主よ、わたしに下さった信仰の恵みはあなたの住まいの中の大切な恵みです。あなたは人生という旅路へ勇気を与えてくださいます。
7神よ、わたしの声を聞き、わたしをあわれみ、こたえてください。
わたしの心はささやく、「神の顔を尋ねもとめよ。」
イエスよ、あなたの愛の深さを悟れるように願います。わたしの心はわたしに語りかけます。「復活した主に出会うことを探し求めよ」主よ、来てください。
今週はこの答唱詩編をゆっくりと唱えましょう。(薩田)

四旬節第1主日 C年 2019年3月10日

聖書朗読 申命記 26:4-10; 詩編 91; ローマ 10:8-13; ルカ 4:1-13
 「回心して、福音を信じなさい」-額に灰で印をするときのこの言葉で、四旬節が始まります。これは、うっとうしい儀式というより、むしろ、希望と神様からの愛に満ちた儀式なのです。
 額の灰の印は、「この世での私の人生の意味は何でしょうか?私は人間で、死ぬでしょう?私は今、天国での来世が無いかのように生きているでしょうか?私の心は、物質中心、出世中心、名誉中心になっていないでしょうか?私は本当にイエス様について生きているでしょうか?同伴者であるイエス様を意識して、私は人生の旅路を歩めているでしょうか?」といったことを考えさせます。
 最初、このような問い(とそれらへの答え)にがっかりしてしまうかもしれません。「回心して」と言われるとのは、こうした根本的な問いについて深く考えることを意味するからです。
 そして、次に、これがとても大切なのですが、「福音を信じなさい」と言われます。これが、喜び、希望、愛が前面に来るところです。「福音」は私たち一人一人が、無条件に-つまり、ありのままで-神様に愛されている、という希望に満ちたメッセージです。でも、私たちの神であるイエス様は、もっと良くなるように求めています。ご自分が示された道を歩むよう、私たちに求めます。それは、地上の今ここでも、天国でも永遠に、幸福と平安に続く道です。
 福音書で、私たちは砂漠にいるイエス様に出会います。イエス様は、真に迫った誘惑を経験しました。ですから、私たちが誘惑に出会うとき、イエス様がそばにいてくれるのです。
 聖書では、砂漠は、私たちが神様に出会う場所です。私たちの気を散らす物質が無く、とても静かです。四旬節の間、神様に出会えるように、心を静かにしましょう。ともにいてくださるイエス様と一緒に、自分自身に、上の根本的な問題を問いかけてみましょう。イエス様は私たちののがれ場で、悩みの時に共にいてくださいます(詩編91)。この四旬節、イエス様が示された人生の意味を、他の人々と分かち合ってみましょう。(相田)

年間第8主日 C年 2019年3月3日

聖書朗読 シラ書27:4-7詩篇92ルカ6:39-45

神様は私たちをお創りになり、私たちの口に舌を与えてくださいました。神様はまた、私たちに 言葉の力もお与えになりました。それは私たちが自分の考えや思いを表現し、他の人に伝える力を持っているということです。動物は短くうなったり、吠えたりするだけです!

今日朗読された旧約聖書のシラ書と新約聖書でのイエス様は、厳しい言葉で傷つけるためではなく、他の人を助けるためにこの素晴らしい言葉の賜物を使うように、私たちを導いています。
「心の思いは話を聞けば分かる。」(シラ書27:6)
「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:45)。
私たちはどのように話をしているのか反省し、自分自身に問いかけてみましょう。
私は人の悪口を言うでしょうか?噂話をするでしょうか?人に冷たい態度で接したり、皮肉な言葉で話したりしますか?嘘をついたり大げさに話したり、心にもないお世辞を言うでしょうか?
私は人々を助けるために言葉を使っているでしょうか。「ありがとう」と口に出していますか(他の人に助けてもらうことを当たり前だと思っていないでしょうか)。人を褒め、本人に「よくやりましたね」と声をかけるでしょうか(その際、嘘や口先だけのお世辞はいけません)。思いやりのある言葉を他の人にかけていますか?私の言葉は他の人に勇気と励ましを与えているでしょうか。
隣人を愛するために、私たちは言葉を使います。私たち人間は他の人の欠点と弱さに、つい目が行きます。しかし、自分自身にも欠点や弱点があることをわかっていますか?他の人を批判するとき、私たち自身の弱点が現れています。(福音の中でイエス様は「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、自分の目にある丸太に気づかないのか」というユーモアのあるイメージで話されます!)
私たちが誰かを指さす(非難する)とき、残り3本の指は私たち自身を指していることを忘れないでください!)

イエス様は私たちに、言葉を「良く」使うようにと言われます。私たちが優しい言葉で話すための導きを、イエス様に願いましょう。(北尾)

年間第7主日 C年 2019年2月24日

聖書朗読 サムエル記 26:2-23; 詩編 103; ルカによる福音6:27-38
 今日の答唱詩編をゆっくりと味わいましょう。「神は恵み豊かに、あわれみ深く、怒るに遅く、いつくしみ深い。」神は、罪に基づき私たちを扱うことなく、また失敗により報復することもありません。西と東が離れていることが当たり前なように、神は私たちの罪を取り除いてくださいます。主は、わたしたちは何から作られているかご存知です。わたしたち塵から作られています。
 この力に満ちた言葉は、わたしたちの優しい神様は我々弱い人間をどのようにご覧になっているかを教えてくれます。
 イエスは「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と言われます。イエスは私たちに次にような難しいことを求めています。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたがたに危害を加える者を許しなさい。」
 イエスのこの言葉を聞くとき、皆心に痛みを覚えます。イエスの言葉を実行することは不可能だと感じるからです。そうです、人間の力だけでは不可能です。人間の限界を認めましょう。イエスに愛と許しの力と勇気を与えてもらうようお願いしましょう。
 イエスの言葉の意味を知ることは重要です。「敵」という言葉は、深く憎んでいる人という意味だけではなく、自分と合わない人という意味もあります。会うと心が冷えてしまう人という意味です。敵という言葉には幅広い意味があります。
 「愛」という言葉はより重要です。新約聖書はギリシャ語で書かれました。ギリシャ語には愛という言葉は4つの使い方がされています。①夫婦の愛、②家族愛、③友達同士の愛、④ギリシャ語で「アガペー」という言葉です。この言葉は初期のキリスト教徒の間でよく使われました。その意味は、あなたを傷つけ悪口を言う人をありのままに受け入れ、将来にわたりその人の平和と幸せを望むということです。イエスはわたしたちにイエスの力に頼り、わたしたちの敵に「アガペー」で臨むように求めています。(薩田)

年間第6主日 C年 2019年2月17日

聖書朗読 エレミア書17:5-8; 詩編1; 第1コリント15:16-20; ルカ6:20-26
 今日の聖書朗読の中で、エレミアもイエスも私達に毎日の生活における生き方を示しています。それは、どのように神様を信じ、信頼するかです。
 第一朗読のエレミア書と詩編1では、砂漠の中の2本の木のたとえ話があります。一方の木は外からは一見丈夫に見えますが、その根は非常に浅い。だから干ばつがくると、木にとって命である水を得ることができないので、干上がって枯れてしまう。もう一方の木は、地中深く根を下ろし水源までいっぱいに根を広げている。だからこの木は、干ばつの時においても緑を保ち実をつけることができる。深い所にある水から命を得るからです。
 ある人々はこの浅い根を持つ木のようです。物や財産が最初に来る。このような人達にとって、この世での心の優先事項は、心地よさ、学校での良い成績、人気を得ることや良いチームに入ること等々です。しかし、そういう根の浅い、物質に頼る人は、心が満たされません。何か躓きや苦しみが起きた時、たとえ私達と共にそこに生きていても心は空っぽです。
聖書は(今日のエレミア書とイエスの話において)、命と平和をもたらすような別の生き方をさせようとしています。この人は、他の人とおなじように働いていますが、しかし毎日仕事をするさなかで、神様を深く信じています。彼、あるいは彼女は、人間の弱さを知り、神の助けと力を必要としているので、神様に信頼を置いているのです。この人は深く根をおろしているので、神様ご自身から命を得ています。
 人間が弱く、神様の助けに頼る存在だということを謙虚に認めることが、聖書的な意味での貧しくなるということです。多くの金持ちは自分自身に十分な能力があり、神は必要ないと考えています。彼らの物質的な物への愛着は、霊的な感覚を鈍らせます。心に必要なことが無視されています。一方、貧しい人々は、世間的な財産は本当に少ししか持っていませんが、しかし彼らは、「私達には神様の力があります」と言うことができるのです。私達が聖書的な貧しくなるということを学ぶことができますように―それだけが幸せにそして平安を得るための道です。「祝福されよ、主に信頼する人は」(エレミア)=「貧しい人は、幸いである」
だから、イエス様を信じましょう。  (三村)

年間第5主日 C年 2019年2月10日

聖書朗読 イザヤ 6:1-8; ルカ 5:1-11
 べテロ(後の聖ペトロ)は、漁で生計を立てていました。魚を獲るのに一番良い時間は夜だと知っていました。明るい日差しの中では魚は獲れないのです。ぺテロは夜通し漁を続けましたが、たったの一匹も獲れませんでした。失敗したのです。
イエス様は、ペトロの舟を浮かぶ説教台として使いました。話の後、イエス様はペトロに「水の深いところ、深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を獲りなさい」と言いました。ペトロは日中の漁は無駄だと知っていましたが、大工であるイエス様の言葉に謙虚に従いました。イエス様は、ペトロの失敗を責めるのではなく、励ましたのです。ペトロはイエス様と共に行き、報われました。新しい命とエネルギーを見つけたのです。
私たちは皆、人生で、大なり小なり失敗をします。例えば、(友人やチームメンバーとして)選ばれたいと思っていますが、他の人が選ばれてしまいます。自分の声を聞いてほしいと思いますが、他の人が大きな声で話し注目を集めてしまいます。ベストを尽くしても、たびたび負けてしまいます。失敗です。一生懸命準備して受験に挑戦しても失敗することがあります。結婚生活で努力しても失敗することがあります。精一杯努力して子育てした親が、子供から全て拒絶されることがあります。親は何度も失敗したと感じます。でも、私たちの神、イエス様は、「あなたの落ち度だ。責めを負いなさい。」 などと言われることはありません。実際のところ、本当の失敗は、倒れてしまうことではなく、立ち上がろうとしないことです。
ペトロは失敗しましたが、イエス様は、「あなたの落ち度だ」と言って責めたりしませんでした。決して!イエス様は、「ペトロ、もう一度、漕ぎ手を取って、深みに進みなさい。」と言われました。
イエス様は、今日も私たちに同じことを言われます!責めること無く、ただ「もう一度、一緒に始めましょう」と。
失敗の後、立ち止まって、祈ると、全ての失敗の背後に神様からの呼び掛けがあることに気づきます。神様はもう一度始めることを呼び掛け、「恐れないで。私があなたと共にいるのだから。もう一度、深みに漕ぎ出しなさい」とおっしゃいます。
日本のことわざで「失敗は成功のもと」とあるように、失敗で自分を責めたりしないように。私たちの優しい神様は、私たちを責めたりしません。本当のところ、失敗の後、私たちは神様ご自身(そしてその助けと力)に会えるのです。試してみて下さい!(相田)

年間第4主日 C年 2019年2月3日

聖書朗読 エレミヤ1.4-5 Ⅰコリント12.31-13,13.4-13ルカ4.21-30

第一朗読のエレミヤはとても人間的な預言者です。当時の人々は彼と彼の教えを拒絶したので、
エレミヤはとても辛い思いをし、彼は大変傷つきました。
しかし神はこう言われます。「恐れるな、わたしがあなたと共にいて、救い出す」
神様は今日、私たちに同じことを言われます。
福音の中でイエス様も、友達や親戚から拒絶されています。イエス様は真の人間だったので、
同じように辛い思いをし、傷つきました。
しかし、イエス様は同時に真の神様でもあり、私たちはイエス様に祈ります。
イエス様は仰います。「恐れるな、私はあなたが苦しむ時、あなたと共にいる」
孤独を感じた時、傷ついた時、誰かに拒絶された時、私たちはイエス様も同じ苦しみを味わわれたことを知っているので、イエス様の所に行くことが出来ます。イエス様はこれらの苦しみを理解しておられます。
ナザレの人々は、なぜイエス様を拒んだのでしょうか。彼らは、ただの大工の息子を自分たちの師として受け入れることが出来ませんでした。そして、神様は全ての人―すなわちナザレの人々が部外者と見なしていた異邦人さえも含めた全ての人―を愛しておられるというイエス様の教えを受け入れることが出来なかったのです。人々の視野はあまりにも狭く、排他的でした。
第二朗読でパウロは、イエス様の仰る「愛」とはどのようなものであるかを私たちに語っています。 「愛」という言葉は安易に使われ過ぎて、その深い意味を失っています。私自身の人々への「愛」はどのようでしょうか。狭く、排他的でしょうか?利己的で限定的ではないですか?
パウロの書簡のこの部分をゆっくり読んで、自分の良心に照らし合わせて確かめてみましょう。他人に対する「愛」を広げましょう。

神様は私たち一人一人を愛してくださいます - その温かさを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

年間第3主日 C年 2019年1月27日

聖書朗読ネヘミヤ 8:2-10; ルカ 1:1-4;4:14-21
 
これから話す、現代の例え話について考えてみてください。お金持ちの地主がいて2区画のアパートを持ち、そこに70家族が住んでいました。どの家族も貧しく、沢山の人々に仕事がありませんでした。皆が増え続ける借金をかかえ、アパートの家賃を半年分払っていませんでした。この地主の秘書が全ての世帯を回り、子供が何人いるか調べ、健康状態や、祖父母が何人いるか、借金の大きさも聞いて回りました。この調査は住民たちに恐れと不安を引き起こしました。「私たちは家から追い出されるのではないか?私たちには行く所が無い。」と思ったのです。さらに、業者がその土地を欲しがっているといううわさがあったので、地主の代理人との話し合いのために地域の集会所に出席するようにという通知が皆に届いた時には、皆の恐れはいよいよ高まっていました。
その話し合いには、皆が沈んだ気分でやって来ました。皆が希望は無いと感じていたのです。代理人は立ち上がって言いました:「あなたたちは皆大きな借金があって家賃を払っていません。でもアパートの地主は親切で皆の苦しみが分かります。皆さんに良い知らせがあります。地主は全ての借金を無かったことにします!皆さんに新しいスタートをしてほしいそうです。彼は親切で、皆さんを信頼しています。」
誰も口を開きません。アパートの住民たちが、この言葉の意味を理解するのに時間がかかったのです。そして、互いに抱きあい、この上無い喜びに涙を流す人もいました。「この親切で救われた。」皆、家に帰り、輝く青空、木々の緑、花々の美しさを、まるで初めて見るかのように感じました。本当に、毎日の暮らしに美しい新たな味わいが生まれたのです。  (例え話はここまで)

今日の福音で、イエス様は神が人間となった目的を説明されています。それは、神様は私たち一人一人を愛されている、という良い知らせを私たちに伝えるためなのです。神様は子供の面倒をみてくれる優しいお父さんです。私たち一人一人をありのまま、受け入れてくれます。「神様はありのままの私を愛してくれる」 今週は、これを、繰り返し繰り返し考え、ゆっくり自分に言ってみましょう。あなたの日々の暮らしに新たな味わいが生まれます。(相田)

年間第2主日 C年 2019年1月20日

聖書朗読
皆さん、自分自身に問いかけてみましょう。
「私は、神様と親しく、温かい関係を持っているでしょうか。」
イエス様と私は親しい友達でしょうか。
これが今日の福音の投げかける課題です。
福音では真理を伝えるために具体的なたとえが使われています。
今日のヨハネの福音では、私たちが新約聖書の時代にいる「しるし」として
披露宴での奇跡が書かれており、それによって私たちは
親しみをもって神様と出会うことができます。
カナの結婚披露宴では用意されていた葡萄酒がなくなってしまいました。
これは「厳しい神」という旧約聖書の時代が終わったことを意味しています。
披露宴の親密で楽しい雰囲気の中で、ただの水が祝福に満ちた葡萄酒に変わりました。
新しい時代が始まりました。神様はもはや遠くにいる厳しい神ではありません。
今、神様は私たちの日常生活のすぐそばに来ておられます。
神様は温かく愛情に溢れています。
私たちが自分はそうあるべきだと思う姿ではなく、
私たちをありのままに受け入れてくださいます。
神様は私たちと喜びに満ちた親しい家族の食事をしたいと
望んでおられるのです。
神様は、私たち一人ひとりを名前でお呼びになります。
この部分を示す旧約聖書の箇所を読みます。
イザヤ書43の1.
「あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。」

イザヤ書62の2
「諸国の民はあなたの正しさを見
王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
主の口が定めた新しい名をもって
あなたは呼ばれるであろう。」
カナの婚礼の席でイエス様は皆と話をし葡萄酒を飲み、
食事をしました。その姿は神様の温かさを示しています。
イエス様が変えられた葡萄酒は最高の品質で、540リットル、
ボトルにして800本だったと聖書にあります。
これは、神様の贈り物はすべていつも最高で温かく、
限りがないことのしるしとして示されています。

今日、私たちは同じ神様に出会うことができます。
神様としてのイエス様は生きて私たちの近くにおられます。
温かい友情の交わりの中でイエス様に会いましょう。
祈りの中でイエス様と親しく話しましょう。
「ご聖体」をいただいてイエス様の温かい友情を味わいましょう。
イエス様は生きている声で私たち一人一人に語り掛けられます。
「あなたはわたしの友。」
「わたしはあなたのための場所を用意する。」
「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
恐れずに恥ずかしがらずに、神様からの温かく親密で素晴らしい
この贈り物を味わいましょう。(北尾)

主の洗礼 C年 2019年1月13日

聖書朗読イザヤ 40:1-11; テトス 2:11-3:7; ルカ 3:15-22

 イエス様の洗礼によって、私たち自身の洗礼の意味が示されます。
 洗礼の水が(普通は額に)注がれ、「父と子と聖霊の御名によって、貴方に洗礼を授けます。」と告げられました。これらは、イエス様ご自身によって与えられた言葉です(マタイ 28:19)。
 教会で洗礼式が行われる時に、その式を見てみましょう。(緊急時には、洗礼を望む人に、誰でも洗礼を授けることができます。)
 最初に、その人の名前が呼ばれます。「太郎(花子)、貴方に洗礼を授けます...」これで、聖書に描かれるならわしが思い起こされます。神様は「私は貴方を名前で呼ぶ。(イザヤ 43)」と言われ、イエス様は「私はそれぞれの羊を名前で呼び、導く。(ヨハネ 10:3)」とおっしゃいます。
 そして水が使われます。水は清めと生命をあらわしています。水は、人間や植物の命に欠かせません。私たちは、神ご自身の生命を授かります。
 洗礼によって、私たちは、父と子と聖霊の生命と愛の中に入ります。神様の愛の中に入るのです。15世紀のイコン画家アンドレイ・ルブリョフは三位一体を3人の天使として描きました。イコンの絵は、祈りに使われました。絵を見つめていると、描かれた雰囲気-愛にひたされます。私たちをありのままで受け入れてくださる神様の愛に入っていくのです。
 司祭は、受洗者に聖別された油を塗ります。油は強さと健康をあらわしています。神様は、心の強さと健康を与えてくださいます。
 司祭はロウソクに、大きくて白いご復活のロウソクの火から火をともし、「光の子として歩みなさい。」という言葉と共に、新しく受洗した人に渡します。まさに、神様は、この人生、この世界の暗闇の中、私たちに光をくださるのです。
 洗礼で、神様は公の約束(契約)をされます。神様は一人一人に「恐れるな、いつも私は貴方と共にいる。私が貴方を守る。」と言われます。
 私たちも約束します(契約は、いつも双方向です)。私たちは「神様、私は完全に貴方を信頼します。私の人生を貴方の手に委ねます。」と言います。洗礼で、思いやりと優しさ豊かな神様が、一人一人に活きた声で「貴方は私の大切な子。愛する子。」とおっしゃるのです。何と大きな慰め、何という励ましでしょう!(相田)

主の公現 C年 2019年1月6日

聖書朗読イザヤ60:1-6詩編72エフェソ3:2-6マタイ2:1-12

今日は主の公現の祝日です。神様はご自身を「国々」にお示しになりました。すなわちイエス様は、ユダヤ人だけでなく地球上のあらゆる国の救い主ということです。
聖書はこの真理を興味深く具体的な方法で伝えています。イエス様ご降誕の夜、まず羊飼いたちが馬小屋に導かれました。彼らはユダヤ人の代表でした。しかし、次に来たのはユダヤ人ではない3人の占星術の学者でした。彼らは異邦人の国々の代表でした。言い換えると救い主であるイエスは、すべての人に愛をお与えになるということです。
私=ケンズはユダヤ人ではありません。私はアブラハムの時代からのユダヤ人の国を神に感謝します。ユダヤ人の国は神様の愛の約束の守護者でした。イエス様はユダヤ人でした。イエス様は、ご自身が「神様の愛をあらゆる国の人々に与えるためにこの地上に生まれた」と強調なさいました。私は、非ユダヤ人として、信仰の偉大な賜物を神様に感謝します。私たちは神様の愛を知り、その愛の中で毎日生きています。それは素晴らしい贈り物です。
3人の占星術の学者はイエス様に贈り物を持ってきました。私たち一人ひとりも、イエス様に感謝の気持ちを伝え、贈り物を捧げましょう。
イエス様にどんな贈り物をすることができますか?祈りの中でイエス様と話しましょう。孤独な人、寂しい人に思いやりと優しさを示しましょう。私たちが恨みを抱いている人に対する許しを、イエス様に贈りましょう。善い行いを見たら、その人に「よくやった!」と声をかけ称賛しましょう。そして、私たちがイエス様に捧げることができる興味深い贈り物が他にもあります。私たちは、心配事、苦しみ、自分自身の弱さをイエス様と共有することができます。イエス様は私たちの親友です。イエス様は、私たちが私たちの人生をイエス様と分かち合うことを望んでおられるのです。
私たちは神様の愛に囲まれ、イエス様は私たちと共に人生の道を歩んでくださいます。
イエス様が与えてくださった力に、より頼みましょう。
この偉大な贈り物を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

主の降誕 C年 2018年12月24日

聖書朗読イザヤ 9:1-6 & 52:7-10; 詩編 98; ルカ 2:1-14; ヨハネ 1:1-18
 
 私たちの教会の門の掲示板に、聖書の言葉「神は愛である」(ヨハネ1 4:8)を掲げています。
 この言葉は真実であり、神様はその英知で、私たちのために具体的な例を示されました。
 神様は私たち人間を創造されました。神様は私たち人間の知性がどのように働くかを理解されています。神様についての真実をよく理解するには、私たちには具体的な例が必要なのです。このように深く理解されているので、神様ご自身が、私たちと同じような人間性を持たれました。神様は天国の栄光をわきに置いて、地に降りてこられたのです。聖霊の神的な力によって、マリアは子を宿しました。その子は、イエスと名付けられ、まことに100%神であり、同時に100%人間でした。「御言葉は肉となり、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ 1:14)のです。
 イエス様の人生は人間の赤ん坊として始まりました。そして成長しました。大人となって、人々に対するイエス様の姿勢がわかります。イエス様は人々と共に喜びました(例えば、カナでの若いカップルの結婚式で)。人々が悲しむときイエス様は共に泣きました(例えば、ナインの村で一人息子を亡くした未亡人と共に、また、兄弟であるラザロを亡くしたマルタ、マリアの姉妹と共に)。イエス様はザーカイと共に虚しい気持ちを深く感じ、また、らい病の人々や、眼の見えない人々の苦しみも深く感じていたのです。これらは、私たちの神であるイエス様の優しく、思いやりのある心のほんの一部の例です。イエス様は今も、まさに同じように私たちに向き合ってくださいます。「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わらない」(ヘブライ 13:8)のです。
 イエス様は今も生きておられ、私たちの近くにいらっしゃいます。私たちの神であるイエス様は、私たち人間の生活を経験し、私たちを理解してくださいます。そして、「疲れた人、重荷を負っている人は皆、私の元に来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ 11:28)と優しく招いてくださいます。さあ、イエス様の元に行きましょう。(相田)

待降節第4主日 C年 2018年12月23日

聖書朗読ミカの預言5;1-4詩篇80ルカ1; 39-45

京都の清水寺で発表された2018年の漢字は「災」でした。
あなたは「災い」を経験していますか?それは、苦しみですか?ストレスでしょうか。あなたは落ち込んでいますか?気分が滅入って平和を味わいたいのなら、今日の福音の朗読箇所を読んでください。ゆっくりと祈りながら。神様はあなたに心の安らぎを与えてくださいます。(これは救い主からのクリスマスプレゼントになるでしょう!)
第1朗読(ミカの預言5)は、救い主の誕生の700年前のことです。エルサレムは包囲されていました。この危険な状況にもかかわらず、王様、祭司、そして金持ちは貧しい人々を圧迫していました。しかし、これらの「小さき者」は神様に信頼をおいていました。
預言者ミカは、神様を信頼する人々に神様の言葉を伝えます。「希望を持ちなさい!あなた方の平和はベツレヘムから来る。私はあなた方の神、あなた方の善き牧者になる」神様の言葉は、今日、私たちに対しても同じように生きています。正直に自分自身と向き合い、「私は神様を信じ、神様の助けに頼っているだろうか?」と問いましょう。私たち人間が自分たちの弱さを知り、人生を平安のうちに歩めないことを認めるとき、神様に助けを乞い願うことは、真実なものとなります。神様に私たちの「災い」に対する助けを願うことは、祈りの中で特に大切です。
詩編80編の「願い」を見ましょう。「あなたの力を現しわたしたちを救いに来てください。」私は謙虚に神様の力、平和、そして導きを求めているでしょうか?
福音(ルカ1)でのマリア様は、救い主の誕生の準備の模範です。受胎告知の後、天使はマリア様に、年配のいとこ(エリザベト)が身ごもっていることを伝えます。マリア様は自分の都合を考えませんでした。エリザベトが助けを必要としていたので、マリア様はすぐに出発しました。145キロ、少なくとも6日間歩いてエリザベトの家に到着し、エリザベトに慰め、平和と助けをお与えになりました。
①あなたの周りに孤独な人がいませんか?(もしかしたらあなた自身の家に!)
②あなたは誰かが「災い」に苦しんでいるのを知っていますか?痛みやうつ病などに苦しみ、助けを必要としている人を知っていますか?
③その人たちに、私は思いやり、励まし、そして優しさを差し出すでしょうか?
これら3つの質問を考え行動で応えましょう。
そうすれば、あなたは「災」を「平和」に変える救い主に出会うでしょう。(北尾)

待降節第3主日 C年 2018年12月16日

聖書朗読: ゼファニアの預言3:14-18; イザヤ12:2-6; フィリピン教会への手紙4:4-7; ルカ 3:10-18
 人は不安と問題を抱え大きな重荷を負うことがあります。その時他の人から「心配しないで」と突然言われたとします。そこに同情心が無ければ心配はさらに深まります。人間は電灯を消すように不安を無くすことはできません。しかし今日のフィリッピン教会への手紙では聖パウロは、「思い煩うのはやめなさい。主は近くにおられます」と言います。第一朗読のゼファニアの預言でも同じです。「恐れるな…お前の主なる神はお前のただ中におられる。」今生きて私たちのそばにいるイエスは、「恐れるな。私はあなとともにいる」と言われています。イエスは勇気、力、喜びを与えてくれます。
 イエスは私たちとともに人生を歩んでくださいます。イエスは、ご自身の力、助け、勇気、励ましを与えてくれます。私たちは人間としての弱さを認め、イエスからの助けを願いまた頼っているでしょうか。今日の朗読では聖パウロはこの助けをイエスに祈るように教えています。
 イエスがそばにおり、絶えず助けてくれることを知れば、私たちの不安は無くなります。不思議なことですが、苦しみの中でもとても深い喜びを味わうことができます。この喜びは私たち一人一人が神様にとって特別な存在であるということに基づいています。私たちは一人一人神様の愛に包まれています。この特別な喜びは“信仰の喜び”と呼ばれています。苦しみの中でも神様から愛されている喜びを味わうことができます。
 フランシスコ教皇は他の人々に微笑みかけるように言われます。マザーテレサは「微笑は平和の始まり」と言われました。
 私たちは心からの励ましを他の人にもたらしているでしょうか。他の人の不安に真剣に耳を傾けているでしょうか。福音の喜びを分かち合っているでしょうか。それとも自己中心的になり、自分の不安にのみ囚われていないでしょうか。祈りの中でイエスに出会い、喜びの恵みを求めましょう。そして外に出てその喜びを分かち合いましょう。(薩田)

待降節第2主日 C年 2018年12月9日

聖書朗読:バルクの予言 5:1-9; フィリピの教会への手紙 2:4-11; 詩篇 126; ルカ3:1-6

 12月になりました。冬です。夕方5時には暗くなります。寒いです。葉は地面に落ち木々は裸です。日本人の人口は減少しています。しかし高齢者の数は増えています。貿易戦争は拡大しています。聖書の中で象徴として用いられている言葉の暗い荒野の中に私達は今います。今日の福音書(ルカ3:1-6)の中で、洗礼者ヨハネが私達の救いの第一幕に登場します。(第二幕はイエスです)私たちには希望があります。主イエスよ来てください。
 心の中に荒野があるでしょうか。エネルギーは落ちてませんか。心の空白はあるでしょうか。うまく行かない気持ち、苦い思い、弱い信仰、人を許せない気持ち、暗さなどがあるでしょうか。
 待降節の期間中に、心の中の荒野を認め、希望を持ってイエスを待ち望みましょう。わたしたちは救い主イエスを必要としているのです。今日の第一朗読のバラクの予言では、人々は絶望のどん底にいました。美しい神殿は破壊されました。人々は故郷から遠い場所で囚人となっていました。預言者バラクを通して神様は詩的な言葉で言います。「悲しみの衣をまとうな。輝く衣をまとえ。東を見よ。太陽は上り、救いが訪れる。」夜明けが必ず来るように、神は必ず現れます。(ホセア6:3)
 神様は今日も同じように働かれています。強い希望を持ち待ちましょう。祈りましょう「主イエスよ、来てください。」
 福音書では、ルカは救いの時が始まったことを詳しく書いています。キリスト教は歴史的な部分があります。救い主イエスは現実の世界で働かれています。救い主イエスは日々の生活の中で働いています。イエスはわたしたちの心の中で働き、荒野を緑にし、生き生きとします。今週静かな時間を持ち祈りましょう。イエスの存在の中で、心の中の暗い荒野を認め、強い希望を持ち「主イエスよ 来てください」と祈りましょう。希望を家族、友達、職場や学校の仲間と分かち合いましょう。(薩田)

待降節第1主日 C年 2018年12月2日

聖書朗読: エレミヤ 33:14-16; 詩編 25; ルカ 21:25-36
 今日から待降節が始まります。教会の典礼の中で、希望の恵みを強調する季節です。希望は未来に関係しています。あなたは自分の未来のことを考えると、どう感じるでしょうか?
 第一朗読のエレミヤ書の人々は、深く絶望しています。エルサレムにある彼らの美しい神殿は徹底的に破壊され、人々は遠いバビロンに追放されていました。神は、預言者エレミヤを通して次のように語られます。「私はあなた方に恵みの約束をした。私は約束を守る。あなた方は救われる。希望を持って、私を信じなさい。」 優しい神様は、このようにされるのです-昔も、今、私達にも、です。さあ、未来に希望を持ちましょう!
 神ご自身が、私達ひとりひとりに、洗礼のときにしてくださった約束は、とても大切です。神の約束は、こうです:「私はいつもあなた方と共にいる。いつも、あなた方を支え、守る。」 この約束は、私達が希望を持つ土台です。今日の詩編 25 に、「神をおそれる人に神は心を開き、聖なる約束を示される。」とあります。
 福音には、混乱の中にある世界が示されます。人々は苦しんでいます。イエス様は、当時も今も私達におっしゃいます:「身を起こして頭を上げなさい。あなた方の救いの時が近いからだ。」(ルカ 21:28)
 あなたは苦しんでいるのでしょうか?心配事があるのでしょうか?悲しい、または寂しいのでしょうか?危機の中にあるのでしょうか?あなたの人生はめちゃくちゃなのでしょうか?とても忙しくて、ひどく緊張しているのでしょうか?福音の中で、こうした人々に、イエス様はこうおっしゃいます。「人の子(イエス様)の前に立つことができる強さを求めて、祈りなさい」(ルカ 21:36) イエス様は「重荷を負う者は皆、私の元に来なさい。休ませてあげよう。」と言われます。苦しい時、ありのままで、イエス様の元に行きましょう。かき乱された心を開き、イエス様が来て下さるという希望を持って。「毎朝、日が昇るのと同じ様に、神様は必ず来てくださいます。」(ホセア 6:3) これが、私達の未来への希望の土台なのです。

王であるキリスト B年 2018年11月25日

聖書朗読ダニエル7:13-14詩編93 黙示録1:5-8ヨハネ18:33-37
今日の第2朗読に、「イエス・キリストは死者の中で最初に復活した方…私たちを愛し…神である主はこう言われる『わたしはアルファであり、オメガである』」とあります。これは何を意味するのでしょうか?ギリシャ語でアルファは最初、オメガは最後の文字です。キリスト者はアルファとオメガの2文字を、始めも終わりもない神の永遠の命のシンボルとしてごく初期から使ってきました。この2つの文字は、悪に勝ち復活されたイエスにも当てはまります。これらの文字は復活のろうそくにも描かれています。私たちの永遠の神であるイエス様はいつも私たちの傍におられます。
自分自身に尋ねてみましょう。イエス様は、私の始まりであり、終わりでしょうか。具体的に…「おはようございます」とイエス様に言って一日を始め、「ありがとう」と言って終わらせていますか?食前にイエス様に祝福を願い、食事の終わりに感謝のことばを口にしましょう。職場や家で仕事を始めるとき、学校で勉強を始めるとき、イエス様にお導きを願いましょう。そして感謝で終わらせましょう。パソコンを開くときに助けを願い、閉じるときに感謝しましょう。母としてまたは妻として食事の準備をするときイエス様に助けを願い、お料理を出すときに感謝しましょう。旅に出るときに安全を願い、家に帰り着いたら無事を感謝しましょう。入院するときは健康を願い、退院するときには感謝しましょう。

このように、人生はたくさんの「始め」と「終わり」で構成されています。私たちは将来(未来)のことがわからず、未知の世界に足を踏み入れるのです。ですから、これらの「始まり」と「終わり」のとき、いつも私たちの傍にいてくださるようにイエス様に願いましょう。言うまでもなく、イエス様は始まりと終わりの「あいだ」にもいつも共にいてくださいます。私たちの人生をすべてイエス様の御手に委ねましょう。そうすれば、イエス様は私たちの心の「王であるキリスト」になります。私たちがこの世を去るとき、一番近くにいてくださるのはイエス様なのです。(北尾)

年間第33主日 B年 2018年11月18日

聖書朗読ダニエル 12:1-3; 詩編16; マルコ13:24-32
 聖書には合計73の書簡と手紙があります。文章のスタイルも多様です。例えば、歴史(現代へのメッセージも)、たとえ話、黙示文学です。今日の朗読のダニエル書とマルコの福音は黙示文学です。現代の私たちには理解することが難しいものです。言葉通りに読むと、そこに込められたメッセージを理解できません。黙示文学は想像とシンボルに満ちています。例えば竜、子羊、鷲などです。空想の世界のようです。黙示文学の目的とメッセージは、苦しんでいる人に希望、励まし、強い決意を与えることです。理解が難しいから避けるのではなく、そこに込められたメッセージに重きを置きましょう。そのメッセージとは神は苦しみの時にそばにおられ、そして天国という報酬を与えてくださるということです。人生の終わりまで、希望と勇気を与えてくれます。
 答唱詩編16:5-9は神からの希望と励ましのメッセージを告げています。この祈りは苦しみの中で用いることができます。「神よ あなたはわたしの道を開くかた。わたしは絶えず神を思う。神はわたしのそばにおられ、わたしは決してゆるがない。わたしの心は喜びに満ちあふれ、からだはやすらかにいこう。」そして詩編16節は次のように続きます。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の手から永遠の喜びをいただきます。」
 今日の聖書は難しいものですが、暗く、悲しく、気分を落ちこませるものではありません。希望と励ましを与えるものです。死の悲しみは天国での幸せという明るい希望を与える通過点です。イエスは、「恐れるな。私はあなたと人生の道を共に歩む。私は同伴者だ。」と言われます。お互いに手を取り合い、天国への道を歩みましょう。(薩田)

年間第32主日 B年 2018年11月11日

聖書朗読:列王記第一17:10-16; 詩篇146; マルコ12:38-44
カトリック教会では、ミサで「奉献」という言葉を使います。列王記17:10-16と福音書の未亡人は、奉献の精神を持っている人々の例です。奉献とは心の姿勢です。
福音書を見てみましょう。神殿で、金持ちが賽銭箱に大きなコインを入れるときに、まるでブロンズのトランペットを鳴らすように大きな音を立てて、皆の注意を自分たちに引き付けました。この金持ちたちは、自分たちが神殿にこんな多額の寄付をすることを皆が知って、自分たちの徳がどれほど高いのか考えてもらいたいと思いました。気前の良い寄付をしたにもかかわらず、彼らに「奉献」の姿勢はありませんでした。人に見せるための行いで、捧げ物に心がこもっていなかったのです。
貧しい未亡人は、持っている最後の二枚のコインを入れました。一枚のコインを神に捧げて、残りの一枚を自分のために取っておいたのではありません。持っているもの全てを捧げたのです。この未亡人は「奉献」の意味が分かっていました。二枚の硬貨は、彼女自身の全てを表しているのです。
福音書の未亡人の姿は、イエス様の「心の貧しい人々は幸い・・・」という教えの良い例です。この様に貧しいと、私たちを世話してくださるという神様の約束に、完全により頼みます。神様の手に自分の全てを委ねるのです。つまり、神様を信頼するということです。
この「奉献」の気持ちで日曜のミサに集えば、私たちのミサは深い意味を持つでしょう。日曜のミサで神様に祈りを捧げることで、月曜から土曜までの日々の仕事と生活の全てを捧げることになるのです。学校での勉強、遊び、家の仕事、職場での仕事、あるいは引退している場合には引退後の暮らし、もし、病気や痛みの日々を送る場合には、その日々を、私たちは神様に捧げます。イエス様が私たちに従うよう招く道は、日曜だけでなく、私たちの毎日の生活のためです。この奉献の意識があれば,日曜のミサが生き生きするだけでなく、日々の暮らしが喜びの味わいに包まれます。
このように自分自身を捧げるには、神様への信頼が欠かせません。神様は私たちを顧みるという厳粛な約束をされました。イエス様は:「私は、いつもあなたと一緒にいて、あなたを守ります。」と言われます。信頼して、このように祈りましょう:「神様、慈しみ深い父よ、あなたの子供として、私の人生を、あなたの手にお任せします。」 -奉献の意識がわきあがります。(相田)

年間第31主日 B年 2018年11月4日

聖書朗読:創世記 6:2-6; 詩編 18; ヘブライ 7:23-28; マルコ 12:28-34
 今日の福音(マルコ 12:28-34)では、律法学者がイエス様にとても大切な質問をします。「イエスよ、幸せな人生への最も大切な指針は何ですか?」 この質問と、イエス様の答えは、現代の私たちにも、とても大切です。イエス様は、「神を愛し、人を愛し、自分自身も愛しなさい」と答えます。
 「愛」という言葉は、映画で、テレビドラマで、歌の中で聞かれ、小説や詩や人生相談コラムにも出てきます。「愛」という言葉は、言葉の意味をかなり失ってしまい、安っぽくなってしまいました。ある晩、私が当時の名古屋教区の相馬司教と長く話をした時のこと、司教は、日本ではおそらく、「友情」という言葉が使えるのではないかと言いました。例えば、リジュの聖テレジアが死に瀕して、むなしく感じている時でさえ、「イエス様、私はあなたを愛しています」と祈ったのです。テレジアとイエス様は友達同士でした。
 さあ、自分自身に聞いてみましょう:「イエス様は友達ですか?イエス様を愛しているでしょうか?イエス様は私の人生の中心でしょうか?イエス様が一番でしょうか?」
 教皇フランシスコは、聖書を開いてイエス様について読むよう私たちに求めています。「スマートホンを開くのと同じくらい、聖書を開くでしょうか?」と教皇は問いかけています。イエス様を愛するなら、イエス様が友達なら、毎日毎日、イエス様との愛情のきずなを保ち、話すでしょう。これが祈りです。朝には、イエス様にあいさつをしましょう。夜には「ありがとう」と言いましょう。イエス様との愛(友情)が、私たちの毎日の生活に流れ込んできます。特に、イエス様が下さる助けと力のかげで、人に親切に、思いやり深くなれます。そして、とても難しい人さえも、ありのままに受け入れられるようになります。
 イエス様との友情によって、イエス様がどれほど私たちを -私たちがあるべきだと考える姿ではなく、ありのままの私たちを- 愛しているかが示されます。劣等感は消えてしまいます。このイエス様との友情を心に感じて言いましょう! 「おお、神様、内なる私を創造してくださり、心より感謝いたします」(詩編 139:13-14)と。(相田)

年間第30主日 B年 2018年10月28日

聖書朗読:エレミヤ31.7‐9、詩編126、ヘブライ人への手紙5.1‐6マルコ10.46-52

イエスは復活されました!
復活されたイエスは、今日私たちと共におられます。イエスの思いやりといつくしみは、今日も私たちに向けられています。イエスは生きておられ、違う形でバルティマイも今日、生きています。あなたが、そして私がバルティマイである、という意味においてです。聖書の中でバルティマイは、信仰の道を歩む者として私たちに示されています。バルティマイは私たちの信仰の旅路の模範です。
自分が「見えない者」であることを認めましょう。私たちは偏見を持っていませんか?他の人の意見を聞き入れますか?人の長所が「見えない者」になっていませんか?人の苦しみに無関心ではないですか?(彼らが遠慮して助けを求める声を上げられない時にも?)
神様の創られた美しい自然界に対しても、地球温暖化に対しても「見えない者」になっていませんか?「自分の問題ではないから」と考え、貧しい人やホームレスの人が見えていないのではないですか?真に永遠の価値を持つものが見えていますか?最も大事な問いかけは、今、私の近くにおられるイエスの計り知れない価値が見えているのか?ということです。

そうです!私は「見えない者」です。私はイエスと出会う必要があります。私は祈りの中で叫びます。「イエスよ、わたしを憐れんでください」イエスは私の祈りをお聞きになり、私のところに来られます。イエスは私に:「何してほしいのか」とお尋ねになります。さあ、この質問を黙想しましょう!心の奥底にある答えは何ですか?
私が人生で本当に欲しいもの、望みは何だろうか。この世の一時的な宝物か、永遠の宝か。
私たちは、祈りの中でイエスに「主よ、私の目を癒してください。目が見えるようになりたいのです。主よ、憐れみたまえ」と願うでしょうか。
私たちも、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われるイエスの言葉を聞いているかもしれません。ここで使われている「救った」という言葉は、イエスが私の人生にお入りになった、そして、バルティマイと同様に、イエスと共に人生の旅路を歩むことを意味しています。イエスは私たちの同伴者です。
私たちの目は開かれ、見える者となりました。イエスが私たちにお与えになった素晴らしい祝福を理解し、この賜物を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

年間第29主日 B年 2018年10月21日

聖書朗読:イザヤ書 53:10-11; 詩編 33; ヘブライ人への手紙 4:14-16; マルコ 10:35-45
 今日の説教は祈りです。祈りには2種類あります。
① 典礼の祈り すなわちミサ、教会の祈りです。既に文字として書かれている祈りです。
② 個人の祈り 自分の言葉での祈りです。
全てのキリスト者にとってどちらの祈りも必要です。片方が他と絡み合うのです。
 質問です。神様への祈りが丁寧すぎないのでしょうか。神様への崇拝は正しいことです。しかし過剰に崇拝してませんか。神様は全能なのでおそれ多いと考えていませんか。神様を遠くに感じ、思いやりがないようにも思うことがあるかもしれません。ある人には神様は罰する神のように感じているかもしれません。
 イエスは私たち皆に、「あなたは私の友である。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と呼びかけ、暖かい交わりへと招きます。イエスの招きに応えましょう。
 祈りの博士と呼ばれるアビラの聖テレジアは個人の祈りを次のように書いています。「友であるイエスはありのままの私たちを受け入れます。私たちは親友が語るように、イエスと親しい会話をします。」冷たさや罪、他人への恨みがあり自分はふさわしくないと感じるかもしれません。ありのままで着飾らず傷ついた状態で、自分のもとに来るようにイエスは望んでいます。イエスは私たちの罪を担っています。(第一朗読 イザヤ53:11)第二朗読は祈りに対し大切です。祈りではイエスに語りかけます。イエスはどのような方でしょうか。「イエスは人間性を経験されたから、私たちのすべての弱さを理解します。必要な時はいつでも、大胆に慈悲深い神様のみ前に近づきましょう。そこでは限りない思いやりと助けを頂きます」(ヘブライ人への手紙 4:15-16)
 毎朝、「おはようございます」とイエスに言いましょう。そして一日の導きを頼みましょう。寝る前は「おやすみなさい」と言い感謝しましょう。またイエスをもっと知る恵みが与えられるように頼みましょう。会話のような祈りは一日を味わい深いものとし、毎日の仕事がうまくいくことを助けます。イエスを知る恵みをほかの人と分かち合いましょう。今日は宣教の日曜日です。皆さん宣教をしましょう。(薩田)

年間第28主日 B年 2018年10月14日

聖書朗読:知恵7:7-11詩編90 ヘブライ4:12-13マルコ10:17-30

真の知恵は神様からの無償の贈り物です。聖霊が私たちに知恵を与えます。聖書の深い意味を理解するために、知恵が与えられています。聖書をゆっくりと祈りながら読んでいると、時折、心に響くものがあるでしょう。それが聖霊の働きによって与えられる知恵です。聖書の知恵は、大工さんが家を建てる時や女性が縫物をする時にも与えられています。つまり、知恵の贈り物は聖なる行いのためだけではなく、日々の生活すなわち家事や料理、職場、学校生活や余暇のために与えられているということです。毎日の生活の中に真の知恵をくださるように神様に願いましょう。知恵を求めて祈りましょう。
この地上での人生の目的を理解するために、聖霊からの知恵という特別な方法が必要です。なぜ私はこの地上にいるのでしょうか?最後の目的地はどこでしょうか?真の知恵は「神様が私の近くで共に人生の道を歩み、この世の命が終わったとき天国に入るように、私をこの地上にお遣わしになった」と教えてくれます。永遠の命と完全な幸福が私を迎えてくれます。この一時的な人生の中で、永遠の命のための準備をしながら過ごしているでしょうか?
今日の福音(マルコ10:17-30)で、青年は永遠の命を勝ち得たいと切望しています。イエス様は、永遠の命は神様からの贈り物であると言われます。しかし贈り物を受け取るために、私たちは他の人、特に貧しい人のことを考えなければなりません。この青年は、イエス様と共に人生の道を歩むという召命をいただきました。彼は人生のすべてをイエスに捧げるように求められました。しかし彼は、この世の富を愛しすぎているので、呼びかけに応えることができません。物質は悪ではないのですが、生活の中で私たちが本当の目的を実現し、その実現のために行動する際の妨げになる可能性があります。自分自身に問いかけてみましょう。私は今の快適さ、スマホ、ゲーム、スポーツやテレビ等々の物質に重きをおいて生きてはいないでしょうか?
イエス様は、イエス様に従うことは単に難しいのではなく、むしろ不可能である!と私たちに話されます。しかし神様の助けと知恵に頼るのならば、イエス様に従うことは可能であるだけでなく、永遠の命につながる喜びでもあるのです。(北尾)

年間第27主日 B年 2018年10月7日

聖書朗読:創世記 2:18-24; 詩編 128; マタイ 10:2-16
 今日の聖書は、結婚生活についてです。イエス様の時代、男はとても簡単な理由で妻を離婚することができました!例えば、料理が下手だとか、姑に口答えしたとか、といったことで、です!そうした社会では男が支配し、妻たちはいつも不安にしていました。今日の創世記の物語の深い意味と、イエス様の教えは、これです:神様の前で、夫と妻は人として平等です。夫と妻とは違いますが、平等です。その違いは互いを補うものです。二人は調和して一緒に幸せな家庭を作るのです。
 結婚式の典礼が二人を幸せな結婚生活に導きます。
誓いの言葉: 
わたしたちは夫婦として
順境においても逆境においても
病気のときも健康のときも
生涯たがいに愛と忠実を尽くすことを誓います
結婚する二人を祝福する司祭の祈り: 
神よ 二人が喜びにつけ悲しみにつけ 賛美と祈りを忘れず
仕事に対してはあなたの助けに支えられ、
困難にあっては慰めを見出すことができますように アーメン
祈り: 
わたしたちの助けであり 力である神よ
あなたはお定めになったことを
節理を通して成し遂げられます
ふたりを結ばれたあなたの愛が
ふたりの一致を強め
愛の実りを結ばせてくださいますように

 結婚生活は、他の人生と同じように、難しいときがあるかもしれません。続けていくのに、人の強さだけでは十分ではありません。神様の助けと力が必要です。神様は私たちを愛し、私たちが助けを求めるときには喜んで助けてくれます。上の祈りに 「二人が祈りを忘れず」 とあるように、私は結婚の準備をする二人のための講座で、アシジの聖フランシスコの 「平和の祈り」 を一緒に祈るように求めます。
自分のことは後回しにして人のことを考えましょう。(相田)

年間第26主日 B年 2018年9月30日

聖書朗読:民数記Ⅱ:25-29 詩編19 マルコ9:38-48

第一朗読(民数記Ⅱ)に、神様がイスラエルの民の代表者であるモーセを通して、70人をお選びになったことが記されています。神様はこの70人に特別な「恵み」をお与えになりました。しかし、70人とは別の2人も、同じ「恵み」を頂き、それを使いました。これに対し、ヨシュアは「やめさせてください、あの2人は我々の仲間ではありません!」と訴えました。
福音の中には、病気をいやすという特別の恵みをイエス様から頂いた12人がいますが、この12人以外にもイエス様の名の下(もと)に病人を癒した人がいます。「彼が病人を癒すのをやめさせてください!」モーセもイエス様も同じようにその訴えを退けました。
この話は今日、私たちにどんなメッセージを伝えているでしょうか?
イエス様は、私たちの「排他的な心」に注意を与えます。自分の仲間でない人が善い行いをしていたら、非難するのではなく喜びましょう。喜ぶだけではなく、称賛し、その人のことを神様に感謝しましょう!
イエス様は私たちに「誰でも受け入れる」という挑戦をお与えになります。性格の違い、政治や宗教の違い、価値観の違い、国籍の違いもあるで
しょう。教養のある人、無教養の人もいます。神様は私たちをお創りになりました。神様はすべての人間、一人ひとりを愛しておられます。神様は私たちをありのままに受け入れてくださいます。私たちも、他の人をありのままに受け入れましょう。それが、イエス様が私たちに望んでおられることです。私の愛する神様は、弱い私を弱いままで受け入れてくださるのです。他の人たちを、神様に感謝して受け入れましょう。
人は皆、それぞれに異なる才能を持っており、その才能は神様からのお恵みです。私は、自分を他の人と比べてはいないでしょうか?ほかの人をうらやんだり、偏見を持ったりしていないでしょうか?
ほんの少しの親切な行いや言葉で、偏見を打ち消すことが出来ます。(福音の中の「人に差し出すコップ一杯の水」は小さな善行の象徴です)
イエス様は「自分と違うところのある人たちや仲間でない人たちを受け入れるように」と言われます。その教えを実行する力と勇気をイエス様に願いましょう。(北尾)

年間第25主日 B年 2018年9月23日

聖書朗読:知恵 2:12-20; 詩編 54; ヤコブ 3:16-4:3; マルコ 9:30-37

 アヴィラの聖テレサは教会博士と呼ばれています。「祈りとは私たちを愛してくれるイエスとの対話です。」とテレサは言います。神であるとともに私たちと同じようにこの世で人間を経験された、イエスに私たちは祈ります。イエスは100%神であり、100%人間です。テレサは、祈りの初めに人間としてのイエスを思い描くように勧めています。イエスに語りかけましょう。月曜日に開催されている一粒会大会において、小さな少年から次の質問を受けました。「神父様。寂しくはないですか?」私は「はい寂しいです」と答えました。私は孤独を感じました。しかしこの孤独の気持ちをイエスへの祈りの題材として用いました。自己憐憫に陥るより、神であるイエスが人間として感じた孤独を思いました。イエスは故郷のナザレでは受け入れられませんでした。そして人々から石を投げられ追い出されました。イエスは故郷を失ったのです。孤独と悲しみの中で、「人の子には枕する所もない」と言われました。イエスは故郷を失ったことに深い喪失感を味わいました。私は孤独を感じることを通じ、イエスに深く出会いそして孤独が消えました。私は親友がそばにいるように感じました。皆さんもこのように祈ってみてください。
 今日の福音では、自分は裏切られ死に追いやられるとイエスは言われています。これは二回目の発言です。この発言に対し弟子たちからの反発を感じていました。イエスは嫉妬した長老がイエスを殺そうとたくらんでいることを知っていました。人間であるイエスは恐怖を感じていました。皆さんは将来を心配していますか?イエスのところに行きましょう。イエスは私たちと同じ人間の経験をしたので、人間の心を理解します。イエスは言います。「私のところに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)
 イエスは弟子たちから励ましを受けることはありませんでした。弟子たちは、強い野心とお互いの競争心でいっぱいでした。イエスは言います。「子供のように競争心を持たないものだけが平安を得るのだ。」  (薩田)

年間第24主日 B年 2018年9月16日

聖書朗読:イザヤ50:5-9; 詩編 116; マルコ 8:27-35   
今日の福音で、イエス様はペトロにたずねました:「あなたは私を誰だと思うか。」生きている声で(福音を通して)、イエス様は今日あなたにそして私にたずねています。
私たち一人ひとりが2つの理由で、心からの答えを述べる必要があります:
① 自分自身の個人として信仰。イエス様のイメージがぼやけていれば、信仰と祈りもぼやけています。
② 他人に対して – 誰かが「イエスさんは何者か」とたずねたら。どう答えますか。誰かが「あなたはなぜクリスチャンか」とたずねたら。
私の答えはこうです:「イエスさんは100%神で、同時に100%人間です。地上で33年間生活しましたが、今日も私と一緒に生きていらっしゃいます。人生の旅路を私と一緒に歩いてくださいます。私は決して孤独ではありません。これは私にとって大きな励ましです。人生に味わいを与えてくれます。特に病気や悩みの時に(言い換えれば、イエス様は私の『十字架』を一緒に運んでくださるのです)。」
イエス様は200年前の福音でのように、今日も同じです。ナインでは、やもめの寂しさを感じとりました。ペトロは失敗しましたが、ペトロの人間的弱さと失敗を受け入れました。イエス様は近づきやすく、話しかけやすい方です。イエス様は福音の時代と同じです。
これが私のイエス様、私の神です。イエス様は友達です。でも木の登ったザアカイのように、イエス様と出会うより深く方法を探しています。(中里)

年間第23主日 B年 2018年9月9日

聖書朗読:イザヤ 35:4-7; 詩編 146; ヤコブ 2:1-5; マルコ 7:31-37
 人の話を聞くとき、私たちは2通りの聞き方をします:①言葉を聞くけれども聞き流してしまい、心に受け止めない聞き方。 ②聞いた言葉を心の中に響かせる:本当に聞く聞き方。
 今日の福音で、イエス様は耳が聞こえない人の耳を聞こえるようにします。この奇跡は2000年前の出来事というだけではありません。今日、私たちは、私たちの心の耳が聞こえるようにイエス様に祈るのです。私たちは皆、心の耳が聞こえないのですから。
 日本の典礼聖歌388番「ガリラヤの風かおる丘で」は皆に好まれています。4番までの歌詞に、イエス様の生涯から4つの場面が描かれています。それぞれが、とても意味深い言葉で締めくくられています。――「イエス様!私にも開かせてください。」  私たちにさせる、という意味の言葉が使われています。
1番: マタイ 5:1-10。 イエス様は丘の上で教えられます。世俗の富ではなく、神様に全て寄り頼む人(心に乏しさを感じる人)は幸せになる。人をいたわる人は幸せになる。平和のために働く人は幸せになる。――「イエス様、この恵みのみことばを私にも聞かせてください。」
2番:マタイ 14:22。 12人の弟子が大嵐の中、小舟に乗っています。弟子たちはまぶしい光を見て、幽霊だと思ってしまいます。でも、それはイエス様で、「安心しなさい。私、イエスだ。恐れるな。」と言われます。――「人生の嵐の中、イエス様、あの力のみことばを聞かせてください。」
3番:ルカ 24:32。 イエス様は十字架で、私たちのために苦しんでいます。イエス様のとなりの十字架に架けられた人が「私を思い出してください」と言うと、イエス様は「今日、あなたは私と一緒に天の国にいる。」と答えます。――「イエス様、私たちが死に臨むとき、あの救いのみことばを聞かせてください。」
4番:ルカ 23:43。 イエス様は十字架で死にました。二人の打ちひしがれた弟子たちが故郷に帰っています。そこに復活されたイエス様が加わります。でも、彼らには、それが復活されたイエス様だとはわかりません。イエス様は聖書の言葉を二人に説明します。二人は新しい意味で聖書を理解します。――「イエス様、私たちの耳を開いて、生命のみことばを聞かせてください。」                (相田)

年間第22主日 B年 2018年9月2日

聖書朗読:申命記4:1-8 詩編15 ヤコブの手紙1:17-27 マルコ7:1-23

「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」(第一朗読 申命記)

すべてを止めて!静かに!これらの最も大切なみことばを深く味わいましょう。私たちの神様は遠く隔たった空のかなたにおられる方ではありません。これらの言葉は、旧約聖書の時代の人々に向かって発せられたものですが、新約の時代に生きる私たちにとって、今日さらに深い意味を持ちます。私たちの神様は、ご自分の神性を脇に置いて真の人間となられました。ですから、イエスの時代から、私たちの神様は私たちと「人間性」を共有していると言えます。神様は人間の弱さを経験なさいましたから、私たちの弱さを理解してくださいます。復活されたイエスは、私たちの横で人生の旅路を共に歩いておられます。イエスは私たちの同伴者です。私たちの神であるイエスは、私たちが呼び求めるその時、私たちの真横におられます。

私たちは主を呼び求めるでしょうか?イエスに祈っているでしょうか?祈りには2種類あります。
① 決まった言葉で祈るとき。この祈りは特に皆で一緒に唱えるときに、最も重要です。今日の福音でイエスは、この祈りは単に口先だけではなく心の底から唱えなるものでなければいけないと仰います。祈りを唱える際には、その内容を意識・意図して口にしなくてはいけないのです。
② また、私たちは、私たちを愛してくださる友であるイエスとの対話の中で、自分の言葉でイエスに祈ります。この祈りが最も重要です。祈りの中で私たちは友であるイエスに会い、感謝し、私たちと他の人たちを祝福してくださるように願います。また、時には何も言わず友達同士のように、ただ一緒に座っていることもできます。イエスの愛を味わうだけです。ここで再確認しましょう。イエスは祈りは心からのものでなければならないと言われます。
そして、この2種類の祈り(共に唱える祈りとイエスとの対話)は、実を結ばなければなりません。私たちは自己中心であることをやめ、特に孤独で苦しんでいる人、貧しい人々のところに行きましょう。今日の第二朗読の「みなしご」と「やもめ」は、福音の「貧しい人々」の代表者です。
                         (北尾)

年間第21主日 B年 2018年8月26日

聖書朗読:ヨシュア 24;1-18; 詩編 34; ヨハネ 6:60-69
 聖書は常に現在のことを語っています。つまり二千年から三千年に起こった出来事は今日と関連があるのです。
 今日の第一朗読において、ヨシュアは人々を約束の土地に連れて来ました。人々は定住し、40年間の荒れ地の厳しい生活の後それなりに繁栄しました。荒れ地では唯一で真理の神様に忠実でした。しかし安楽になると、神を忘れがちになりました。つまり神様に慣れてしまったのです。ヨシュアは12の部族をすべて集め、問いかけました。「あなたたちは誰を選ぶのか。富の神バールか、それとも唯一で真理の神をか。」これまでずっと唯一で真理の神様が愛し守ってくれたことを省み、人々は「私たちは唯一で真理の神を選びます」と答えました。
 ここで私が聖書は永遠に現在のことを語っていると言ったことを振り返ってみます。現在の今の私たちに、ヨシュアが行った同じ問いかけが投げかけられています。
 福音書の中では、イエスは人々に「イエスは神であり、父からお遣わしになられた」といいう非常に理解することが難しい教えを述べています。イエスは自分自身をご聖体としてお与えになりました。多くの人たちは、「このような教えは受け入れることができない。あなたから離れる。」と言いました。イエスは12人の弟子のほうを向き、「あなたたちも離れていくのか。誰を選ぶのか。」と言われた。弟子を代表してペテロは、イエスが命、人生の意味そして心の平和を与えてくれたことを省み、「私たちはあなたを選びます。あなた以外の誰のところに行きましょう。」と答えました。私たちは祈りの中で繰り返しイエスに出会い、「イエスよ。私はあなたを選びます。」と言わなければなりません。(薩田)

年間第20主日 B年 2018年8月19日

聖書朗読:箴言 9:1-6; 詩編 145; ヨハネ 6:51-58   
40年前、私はカファルナウムのシナゴクの廃墟に座り、とてもゆっくりとヨハネ福音書の6章を読んでいました。
今でも40年前に受けたショックを覚えています。少しずつ違った言葉でイエス様は5回いっています:「私の肉は本当の食べ物」最後の晩餐(そして毎回のミサ)で:「このパンは私の体である」
それから言います:「私の肉を食べるものは誰でも、私の内におり、私は彼の内に生きる」 (ヨハネ 6:56) わたしたちは聖体の内のイエス様をうけ、人生の旅路を歩く命とエネルギーと力を受けます。
私たちは人喰いでしょうか?決して、決して、決して。復活したエス様はパンの形でわたしたちのところに来ます。ふつうのパンは体の栄養になります。ご聖体は心の霊的栄養と力となります。
今日の福音(ヨハネ 6:51-58)を読んで、読み返して、それからもう一度ゆっくりと読み返しましょう。最初のショックが神であるイエス様の力と考え深さへの驚きに変わります。 それから、感謝に変わります。こんなに大きな贈り物にイエス様に「ありがとう」と言いましょう。ご聖体の中のイエス様は人生の旅路を歩くときの力と勇気を与えます。最後の晩餐の時にイエスさんは私たち一人一人にいいました:「私はあなたたちを友と呼ぶ」イエス様の温かい友情は素晴らしい慰めです。本当に、晩餐に呼ばれた私たちは幸せです。(中里)

年間第19主日 B年 2018年8月12日

聖書朗読:列王記上 19:4-8; 詩編 34; ヨハネ 6:41-51
 「米は力だ」 この面白い言葉が、東海道線の国府津駅近くの精米所の外にある看板に、大きく書かれています。米は日本の主食です。その米が、私たちの体に力を与えてくれる、ということを表しています。
 もし、2000年前、イエス様の時代に看板があったら、同じ意味を込めて、「パンは力だ」と書かれていたことでしょう。
 私たち人間には、力と命のエネルギーを与えてくれる食物が必要です。
 高校生のころ、同級生とハイキングに行った時のことです。私は寝坊してしまい、朝ご飯抜きで、ようやく集合に間に合いました。最初はお腹が空いている程度でしたが、そのうち力が足らなくなり、めまいもするようになってしまいました。もう、それ以上、進めません。同級生たちは、一休みしてくれて、皆それぞれ、何か食べました。おかげで、私はエネルギーを回復することができました。まさに、食べ物はエネルギーであり、力であり、欠かせない栄養なのです。
 イエス様が下さるご聖体は、パン(つまり食べ物)の形をしています。この聖なるパンは、イエス様ご自身です。この聖なるパンによるエネルギーと心の力のおかげで、私たちは人生の旅路で、イエス様のあとを歩んでいくことができるのです。私たちの新子安教会の玄関の窓にある、小さな四角いステンドグラスを、もう一度、よく見てください。イエス様が、私たちの手をとり歩いています。イエス様が、私たちの力なのです。
 ご聖体でイエス様が私たちに下さる力と勇気は、今日の第一朗読(列王記上19:4)にあらかじめ示されています。邪悪な王妃イゼベルがエリヤを殺そうとします。エリヤは荒れ野に逃げ、空腹をかかえ、すっかり元気を無くして、「もう十分です。わたしの命を取ってください。」と言いました。そのエリヤは、天使からの食べ物を食べ、力と励ましを受けて、旅を続けたのです。
 この地上での時は、私たち人間にとって非常に大切であることを、しっかり受け止めましょう。永遠の生命に入る準備なのです。でも、このとても大事な準備には、私たち人間の努力だけでは十分ではありません。神様の助けが必要です。イエス様が、ご聖体で、その助けと力をくださいます。「私は、天から下ってきた生きたパンである」-イエス様の言葉です。(相田)

年間第18主日 B年 2018年8月5日

聖書朗読:出エジプト16:2-15; 詩編 78; ヨハネ 6:24-35
 今日の第一朗読(出エジプト記16章)を見ましょう。これは、ユダヤ人がエジプトでの過酷な奴隷状態から逃れた直後の場面です。彼らは荒れ野でモーセに「飢え死にしそうです!」と不平を言いました。主は天から白い粉のようなものを降らせました。ユダヤ人たちはそれを見て「これはいったい何だろう?」と訝しがりました。ヘブライ語では「マン・ハ」または「マンナ」と発音します。この「これはいったい何だろう?」を今日の祈りのテーマとして考えてみましょう。
 一つ目に、食卓に着いた時。「これはいったい何だろう?」と考えましょう。主の祈りの中で、「天におられる私たちの父よ…私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈りますね。私たちの日々の食卓に上る食物は、多くの人の労働の実りです。しかし、それらは基本的に神様からの頂きものです。神様に感謝しましょう。「食前の祈り」は美しく、ふさわしい祈りです。
 二つ目に、ごミサの聖体拝領の前に。自分自身に問いかけましょう。「これは何だろうか?」
この神聖な糧はイエス様ご自身です。イエス様は私たち一人ひとりに、生きている声で言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(今日の福音:ヨハネ6:35)
 立ち止まって静かに自分自身を見つめると、私たちは、心の奥にある深い飢えと深い渇きに気付きます。私たちは皆、奥深い希望を持っており、イエス様は、ご自身こそが私たちのこの最も深い憧れを満たしてくださる方だと教えておられます。
 ご聖体のうちにおられるイエス様は、何より素晴らしい贈り物です。ご聖体は人生を喜びのうちに歩むための支えであり、力であり、勇気です。私たちのこの希望と喜びを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

年間第17主日 B年 2018年7月29日

聖書朗読列王記 4:42-44; 詩編 144; ヨハネによる福音書 6:1-15

 古代教会では、ヨハネによる福音書6章をミサについて教えるために用いていました。
 わたしたちはイエスの言葉を聞くために今日このミサに集っています。聖書朗読を聞きます。聖書を通じイエス自身が語られます。
 わたしたちは人生の糧を頂くためにミサに授かります。5つのパンを増やし5000人の男性(さらに少なくとも5000人の女性と子供たち)に与えることで、イエスは自然を超える力を持っていることを示されました。ミサではイエスの力により、パンはイエスご自身へと変化します。これがご聖体たるゆえんです。「命のパン」このパンはイエスご自身です。
 今日の福音書の意味深い場面において、イエスは感謝し、パンを割き、集まっている人たちに与えました。これはまさに今日のミサでイエスが行われていることです。自分に問いかけてみましょう。イエスがくださった贈り物をわたしたちはわかっているでしょうか?ご聖体という贈り物をくれたイエスに感謝しているでしょうか?他の人と共に唱える祈りには心がこもっているでしょうか?それとも機械的に唱えているだけでしょうか?
 今日の福音書の朗読には2つの小さいけど興味深い次の点があります。
①少年は5つの小さなパンと2つの干した魚という自分の食べ物を提供しました。少年はイエスに気前よく差し出しました。イエスは少年に報いました。自分自身と日々の仕事を差し出すことはミサの一部分です。
②食事をして満腹した後、イエスは12人の弟子に残り物を集めるように命じました。福音書(また第一朗読のエリシャでも)では、残り物を集めたら12のかごがいっぱいになりました。このことは、聖書において神様の気前の良さを表しています。新子安教会では月の初めにお米を集めて困っている人たちに届けています。私たちは神様に感謝しているでしょうか?また他の人に物惜しみしていないでしょうか?(薩田)

年間第16主日 B年 2018年7月22日

聖書朗読:エレミヤ 23:1-6; 詩編 23; マルコ 6:30-34
 今日朗読の聖書のテーマは、私たちの牧者としてのイエス様です。私たちは、イエス様に愛され、優しく導かれ、見守られる羊なのです。イエス様によって、エレミヤの預言、そして詩編23が実現されました。
 私たちの牧者であるイエス様は、今日、私たちがイエス様と一緒に、静かな所で憩うように導かれます。祈りの中でイエス様と話すことを通して、精神的なエネルギーを回復させ、日々の生活に味わいを感じられるのです。
 イエス様は、今、日本の私たちを見ています!私たちの生活の中に、物質的豊かさや出世への偏りを見ています。でも、それだけではなく、深い心の飢えや、心の渇きを、日本の中に見て感じています。たった今も、イエス様は私たちに深い慈しみを感じておられます。私たちの所に来て助けようとされていますが、それには、私たちが心の中でイエス様を迎えようとしなければなりません。
 今週、日々が忙しい中でも、静かに、ゆっくり、とてもゆっくりと、詩編23(主は我らの牧者)を読み、祈りましょう。詩編23は、イメージを描いている詩です。言葉通りに読むのではなく、その雰囲気の中に入っていきましょう。自分が砂漠の中で迷子になった羊だと想像してみてください。とても、のどがかわき、疲れているでしょう。もし、闇の中にいるなら、勇気を出しましょう。優しい牧者であるイエス様がそばにおられるのですから。イエス様は、私たちを悪から守ってくださいます。さあ、親切な羊飼い、牧者であるイエス様の家に入りましょう。イエス様の家にいれば平安で、安全です。
 イエス様は、彼の羊である私たち一人一人に、家族、親戚、友人、出会う人すべての中に入り、親切で優しく導いてくれる牧者であるイエス様の愛と慈しみを分かち合うよう呼びかけています。さあ、平和と喜び、そして愛の道具となりましょう。私たちの日々の生活に、イエス様が意味を与えてくださいます。(相田)

年間第15主日 B年 2018年7月15日

聖書朗読:エフェソ1:3-14; 詩編 7:12-1マルコ16:7-13
聖パウロはエフェソへの手紙で:「愛してくださる父である神は愛する子どもになるよう私たちを選び、祝福と賜物を惜しみなく注いでくださった。」「なぜ神は私たちを選んだのでしょうか。この賜物を他人と分かち合うために選んだのです。(決して、エリート集団となるためではありません。)」私はとても普通だといえるでしょう。私には分ちあう資格がありません。そうです。資格がなく弱いことを認め、神の助けに信頼しましょう。アモスと12使徒は私たちのモデルです。
紀元前750年に、北王国(イスラエル)に行き、神の道をはずれた人々に呼びかけるため、アモスという農夫を呼び出しました。景気がいい時に、神よりも物質的なものを選びました。世の知恵から見れば、アモスは預言者にふさわしくない。違う王国(ユダ)に住む貧しい農夫にすぎない。しかし、神はその雄弁と力に頼れと彼に言います。神は彼を送りました ― 力と能力を与えて。
イエスは漁師と徴税人を12使徒に選びました。イエスの道を教える学識や雄弁といった資格を持っていません。でも送ったのがイエス自身なので、使命を果たすための力と言葉も与えました。物質的なものに頼らないよう言いました ― パン、財布、お金、着替えを持つなと。イエスは言います:「私の平和の道具になりなさい。私はいつもそばにいて力を与える。いうべき正しい言葉を与えよう。」「ほほえみは平和のはじまり。」(マザー・テレサ)
イエスは私たち一人一人に私たちの小さな社会に証人、預言者、宣教師となるよう送ります。私たちはイエスが惜しみなく注いだ賜物を分かち合います – 家で、職場で、学校で、アパートで、店で出会うすべての人と。たとえば、温かい微笑みをスーパーのレジ係りに感謝するでしょうか。いじめられている人を支え、勇気づけるでしょうか。イエスの送り物は毎日のためです。私たちを助けてくださいます。(中里)

年間第14主日 B年 2018年7月8日

聖書朗読:Ⅱコリント12:7-10 詩編123 マルコ6:1-6

私たちの信仰に「奥義」があります。イエス様はどのようにして、神でありながら真の人間なのでしょうか?これが奥義です!しかし、イエス様は100%真の神であり、100%真の人間であり、「自分を無にして…人間と同じものになられました」とフィリピの信徒への手紙2章7節に記されています。この「無にして」は、原語であるギリシャ語では「KENOSIS」です。イエス様は(神様でありながら)、天の栄光と力を脇に置いて、この世にお降りになりました。真の人間となられたイエス様は、ご自分の力ではなく、父なる神様の力に頼りました。奇跡を行う力も父なる神様からいただきました。
イエス様を知る上で最も大切なことは、イエス様が人間になられた時に、人間の本質を(限界も含めて)すべてその身に帯びて来られたということです。イエス様は、人間の弱さ、誘惑(罪以外は)をすべて体験なさいました(ヘブライ人への手紙4章15節~5章2節)。これは、私達の祈りの相手であるイエス様を知るために、とても大切です。イエス様は、苦しみ・拒絶による傷・裏切り・心の痛みを体験なさった、私たちの同伴者です。ですから私たちは、恐れることなく大胆にイエスに近づきましょう。

今日の福音を例に考えてみましょう。イエス様は故郷であるナザレトにお戻りになりました。途中の村々では、ペトロの姑、らい病の人、中風の人、先週の福音に出てきたヤイロの娘、出血の止まらない女性を癒し、治されました。イエス様のなさった優しい神様の教えは人々の心に届き、イエス様は評判の説教者になっていました。今日の福音でイエス様は故郷の会堂で「神の愛」を教え、これを聞いた人々は「このような知恵と奇跡の力はどこからきたのだろうか」と驚きました。これは正しい疑問です。(そして、正しい答えは『神様から来た』です)
しかし、傲慢で偏見を持っていた彼らは「この人は、ただの大工ではないか」と言いました。イエス様に一番近い、親戚や友人たちもイエスを拒絶したのです。あなたは拒絶された経験はありますか?誰かのためにしてあげたことを、当たり前のような態度で感謝されない経験、受け入れてもらえない経験はないですか?100%人間であるイエス様は、実際に「拒絶」を経験なさいました。イエス様は、特に私たちが傷つき苦しんでいる時に、私たちの傍で同じように感じておられます。今日も、生きている声でイエス様は私たち一人ひとりにこう仰います。「疲れている者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげよう」と。(北尾)

年間第13主日 B年 2018年7月1日

聖書朗読:知恵1:13-2:24; 詩編 30; マルコ 5:21-43
 過去や今の生き方において失望を感じたことがありますか。人生の半分しか生きていない感じがしていませんか。強い信仰を持っていますか。今生きていることに喜びを感じていますか。今の生き方を楽しんでいますか。活力を失っていませんか。
 神様は私たちに命を与えてくれます。天国での永遠の命ばかりでなく、今現在の命もです(第一朗読 知恵の書)。
 詩編30はこのテーマを引き継ぎます。「神よ、あなたは死の国からわたしを引きあげ、危ういいのちを助けてくださった。… 夜が嘆きに包まれても、朝は喜びに明けそめる。神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、わたしの助けとなってください。あなたは嘆きを喜びに変えた。」私たちがこの世に生きる間、この神様からの命はもたらされます。
 福音書の二つの奇跡は、イエスが12歳の少女と12年間出血に苦しんでいた女性に新しい命を与えたことを示しています。これらの二つの奇跡は二千年前の歴史的なできごとです。すべての奇跡には苦しんでいる人へのイエスの慈しみがその背景にあります。今日でもイエスの慈しみを味わうことができます。イエスに触れましょう。イエスに出会いましょう。
 多くの人はイエスを身体に触れていましたが、出血の女性のみ心の中でイエスに触れました。苦しみの中で女性は本当のイエスに出会いました。私たちは祈りの中で本当にイエスに触れているのでしょうか。祈りを通じてイエスに出会う時間を作っているのでしょうか。イエスに出会うために福音書を読んでいるでしょうか。ミサの中では自分自身の言葉でイエスに語り掛ける沈黙の時間があります。困難なことばかりでなくイエスが与えてくれた良いことにも感謝の言葉を述べましょう。また自宅でもイエスと語りましょう。イエスはあなたのそばにおられます。
 イエスは私たちに触れ精神的な活力という新しい命をくださいます。イエスはわたしたちにイエスの命をもとに他の人に触れあうことを求めています。(薩田)

洗礼者聖ヨハネの誕生 B年 2018年6月24日

聖書イザヤ 49:1-6; 詩編 139; 使徒言行録 13:22-26; ルカ 1:57-66、80
 今日は、洗礼者聖ヨハネの誕生を祝います。洗礼者ヨハネには、約束の救い主イエス様を人々が迎える準備をする、という使命が神様から与えられていました。そうです、聖ヨハネはたしかに特別ですが、手の届かない人と思わないでください!聖ヨハネは、私たち普通のキリスト者が手本とすべきモデルです。私たちは一人のこらず、この世で果たすべき特別な使命を、神様から与えられています。今日の朗読の聖書から、神様からの呼びかけに対する答え方を学びましょう。
 イザヤは、神様は遠く離れた方ではないと言っています。私たちの神様は、私たちを、一人一人、名前で呼びかける方です。神様は、愛のこもった声で、一人一人の名を呼びます(イザヤ 49:1)。詩編139には、慈しみに満ちた神様が、両親を通して私たちに生命を与え、私たちを造ったとあります。ですから、神様は、私たちの弱さを全てよく知っておられ、それでもなお、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。神ご自身が、私の心身を決めたのです。ですから、他の人と比べて自分を低く見るようなことや、自分を嫌ったり、劣等感を持ったりすることは、やめましょう。私を作られた神様が、私を美術作品のように貴重と思われているのですから、その神様の見方に従いましょう!
 神様は、私たちそれぞれに、この世で果たす、ある特別な使命を授けています-例えば、父、母、祖父、祖母、そして、結婚しない人にも特別な使命を。ですから、私たちには、家庭の主婦、事務所や工場での仕事、先生や学生のように、するべきことがあります。そして、友情や励ましや様々なことを他の人に与えます。神様に示されたこれらの使命を見ると、特別な味わいがあります。そして、これが重要なのですが、神ご自身が、これらの使命を果たす強さを与えてくれるのです。「わたしの神こそ、わたしの力」-今週は、イザヤ49:5のこの励ましの言葉を深く味わいましょう。(相田)

年間第11主日 B年 2018年6月17日

聖書:エゼキエル17:22-24; 詩編92; マルコ4:26-34
 今日、立ち止まって、静かに内にある本当の自分に直面しましょう。自分に次のように問いましょう:「私の将来はどんなものだろう」
 さあ、今日の聖書を見ましょう。エゼキエルは異国の地(バビロン)で囚人-奴隷になっているという暗闇の中にいる絶望した人々に神のメッセージを運びました。エゼキエルのたとえは絶望した人々に神が新たな命を与えることを告げました。エゼキエルは神のメッセージを告げました:「希望を持て。私はお前たちを愛している。」「希望を持て。私を信じよ。私はお前たちを愛し、守る。」
 神様は今日も、同じ勇気づけるメッセージを私たちに送っています。
 ある人は年を取って、疲れてエネルギーがなくなり、がっかりしています。今日の詩編92は年寄りに勇気と希望と慰めを与えます。「主に感謝をささげるものは…年をとっても実を結び、生き生きと生い茂る。」これは神に結ばれて生きるとき、体は老いても心は若い喜びと希望に満ちていることを意味します。何という約束でしょう。何という将来でしょう。
 エゼキエルのたとえは巨大な杉の木からとられた挿し芽でした。挿し芽がふたたび地に植えられると、時と共に新たな命を得て大きな木になります。イエスさまも同じようなたとえを話します。一粒の麦を地に植えると、麦が新たな命を得るという神の計画です。同じように、からし種は砂粒ほどの大きさです。でも種は内に命を持っており、木になります。その木に鳥が巣を作ります。神は自然の中に働いていらっしゃいます。神を私たち一人一人の中でも働いていらっしゃいます。神は私たち愛してくださいます。守ってくださいます。今日の聖書は、私たちの将来のために慰めと希望を与えてくれます。愛してくださるか神に信頼しましょう。素晴らしい心づかいに感謝しましょう。年を取って死が近づいていても、「私たちは信頼に満ちている。」(第2朗読)神は私たち一人一人を100%愛してくださいます。これが私たちの希望の基礎です。この希望を他人と分かち合いましょう。(中里)

年間第10主日 B年 2018年6月10日

聖書:創世記3:9-16、詩編130、,Ⅱコリント4:13-5:1、マルコ3:20-35
今日の第2朗読でパウロは、この地上で私たちの生活がとても短いことを伝えています。この地上での私たちの住みか(肉体)は(死によって)無くなりますが、神様は私たちのために、終わることのない家を天国に建ててくださいました。私たちの死はすべての終わりではありません。神様と共に、平和と幸福の内に生きる、新しい命の始まりです。
人生の旅路で、私たちは苦しみや試練、誘惑に会うでしょう。私たちは神様の愛に応えず、罪を犯し、失敗してしまいます。自分の虚栄心を認めましょう。(第一朗読の創世記のように)誰かのせいにしないでください!私たちが自分の弱さを謙遜に認めれば、神様の慈しみと愛、そしてゆるしを味わうことができます。今日の答唱詩篇-130-は素晴らしく、励ましとなります。
福音にはイエス様が経験された、いくつかの苦しみが書かれています。イエス様は「神の愛」を伝えるために、この地上に来られました。しかし、真っ先にイエス様を受け入れるべきだったのに、祭司たちはイエス様を否定しました。彼らはイエス様のなさった奇跡を見ることも受け入れることも拒否したのです。さらに、イエス様ご自身の身内も「イエスは気が変になった」と考え、「家に帰って普通の大工になりなさい」と言いました!ヨハネの福音に書かれているように「言(イエス)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1章11節)のです。イエス様は100%神でしたが、同時に100%人間でした。イエス様は「受け入れられない」ことをしみじみと感じる経験をなさいました。
私たちが、受け入れてもらえない、嫌われる、認めてもらえないなどの辛い体験をしたら、イエス様に話しにいきましょう。イエス様は私たち人間のことを分かっておられます。
イエス様は「拒絶」を使って(通して)、今日私たちにこのことを伝えています「あなたは私の家族、私はあなたの兄弟です。私のもとに来なさい、休ませてあげよう。共に人生の道を歩みましょう。私は、あなた達人間の弱さに力を与え、天国で永遠の喜びを与えます。」神様は私たちを愛しておられます。その愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

キリストの聖体 B年 2018年6月3日

聖書:出エジプト記 24:3-8; 詩編 116; ヘブライ人への手紙 9:11-15; マルコ 14:12-26
 
今日の3つの聖書朗読のキーワードは「契約」です。契約は、人と人(もしくは組織)どうしで行われる重要な約束です。お互いが約束するのです。
 文化によっては、血を用いることで、契約をより確実なものとします。例えばアメリカン・インディアンの間では、部族長どうしが親指を少し切りそして血を混ぜることで契約はさらに重要なものとなります。血の兄弟となり平和が作られるのです。江戸時代の日本では、血判が行われていました。
 イエスは最後の晩餐で種無しのパンを取り「これはわたしの体である」と言われました。ギリシャ語の原典では、体は‘ソマ’すなわち‘私自身’と書かれています。聖体拝領するとき、私たちはイエスご自身が私たちの心の中に入ってくると信じています。
 ご聖体の中のイエスは、福音書で出会う優しいイエスと全く同じです。イエスは、優しく、話しやすく、わたしたち人間の弱さを理解される方です。イエスはありのままのわたしたちを受けいれてくれます。イエスはわたしたち一人一人を愛してくださいます。
 最後の晩餐でイエスはぶどう酒の入った杯を取り、「これは新しい契約の私の血である」と言われました。血とは命です。もし病気の人がほかの人から輸血を受け病気を快復すれば、新しい命を受けたことになります。
 契約とは相互の約束です。イエスはわたしたち一人一人と神聖な約束をしています。イエスは約束します。「私はいつもあなたと共にいる。あなたから離れたり縁を切ることは決してない。私はあなたを守る。」このイエスとの約束をよく考えましょう。そしてイエスに約束しましょう。「イエスよ。あなたを信頼します。わたしの人生をあなたの手に委ねます。」
 カルバリの地で十字架の上での血により、イエスは契約を確実なものにされました。
 主の食卓に招かれたものは幸い。(薩田)

三位一体の主日 B年 2018年5月27日

聖書:申命記 4:32-40; 詩編 33; ローマ 8:14-17; マタイ 28:16-20
 「キリスト教の神様」とか「仏教の神様」、あるいは「イスラム教の神様」のような言い方を聞くことがあります。でも私たちは、ただ一人の神様がいると信じています。イエス・キリストが、このただ一人の本当の神様について教えてくれたと信じています。他の宗教は、神様について部分的に啓示しています。この啓示は違う訳ではありませんが、部分的-つまり真実の全てという訳ではありません。しかし、私たちキリスト教徒は、一つの本当の神様の内なる生命の中に、父と子と聖霊がおられると信じています。「一つの中に三つ」-これは矛盾でしょうか?いいえ、これは奥義です。これが全能の神ご自身の内なる生命なのであって、私たち人間には、この深みは知りえないのです。
 私は個人的には、20年ほど前までは、三位一体について、あまり考えていませんでした。理解できなかったので、三位一体について考えたり祈ったりすることを避けていました。東京の上野毛での黙想会で祈りの分かち合いをしているときに、私に回心がやってきました。よく学んでいる人の話を理解できないでいると、ある人がこんな風に言ったのです:「私は私たちの信仰の奥義を大切に思います。祈りの中で、私はただ、三位一体、つまり父と子と聖霊の中に入り、そこにある愛を味わい、楽しく過ごしています。」これを聞いた私の心に、「なるほど!」という思いが大きく響きました。
 イエス様は、三位一体の神様について教えてくださいました。優しく、思いやりのある「アッバ(お父ちゃん)」がいる。父なる神は、本当にご自身の子どもとして、私たちを大切にしてくださいます。御子は、私たちと同じように人となり、神様がどれほど私たちを大切にしているかを示されました。イエス様は自分の命を犠牲にして、平安と幸福、そして、私たちの人生に意味をもたらしてくださいました。聖霊は温かい愛で、私たちを導き、力づけ、慰めてくれます。さあ、皆さん、祈りを通して、この素晴らしい愛の中に入っていきましょう。そして、他の人々と愛を分かち合いましょう。(相田)
 

聖霊降臨 B年 2018年5月20日

聖書使徒たちの宣教1-11; 詩編 104; ヨハネ15:16-16:15
 使徒たちの宣教1:14で、使徒とイエスの母マリアと多くの男女を含む120人が2階で祈っていたことを読んだ。この120人を想像してみよう。彼らは最初の教会です。9日前に、イエスは昇天しました。最後の命令として、イエスはこの120人に他人に神の平和と愛をもたらすために、自分自身の家庭と世界の果てまでにも行くようにといいました。焦点の9日後、このグループはイエスを殺したユダヤの指導者への恐れでいっぱいでした。証人になることはまったくできないと感じていました。こう感じたので、聖霊に一生懸命祈りました。イエス様は勇気と導きをあたるために聖霊をそばに送ることを約束なさいました。彼らは祈り、のぞみを持って待ちました。
大きな風の音を聞き、一人一人の頭の上に炎を見ました。イエスが約束された聖霊が来たのです。恐れを忘れ、臆病さは消えました。正しい言葉が与えられました。これは2000年前のことです。
今日も私たちはイエスの証人として呼ばれています – 自分の家庭で、住んでいるところで、職場で、友達の中で、学校で。イエス様は私たち一人一人が証人となり、平和の道具となるよう求めています。しかし、よく心に留めましょう! イエス様は助けて、聖霊を私たち一人一人に送ってくださいます。聖霊は私たちにイエス様のこの仕事のための力と導きと勇気を与えてくださいます。それに合ったことばも。
聖霊はイエス様のための働きで力と導きを与えてくださいます。毎日の平凡な仕事でも。たとえば、母や父として、労働者として、学生として。自分の弱さと無力さに知識を願いましょう。イエス様に聖霊を送るよう願いましょう。(中里)

主の昇天 B年 2018年5月13日

聖書:使徒言行録1.1-11 マルコ16:14-20
2000年前、イエスは弟子たちに、「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われました。今日、イエスは生きている声で私たちにこう言われます。「あながたは、自分自身の小さな社会(所属しているグループ)に行って『神は愛である』という福音を分かち合いなさい。」
今日の福音「全世界に行って福音を…」と命じられる直前の箇所であるマルコ16章14節には、こうあります。「イエスはその不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」
弱い信仰とかたくなな心にもかかわらず、イエスは彼らに福音を宣べ伝えることを委ねられました。いいえ!「にもかかわらず」ではなく「のため」でした。聖書全体を通して神様のために働くために呼ばれた人々の共通点は、自分(人間))の弱さを知り、力と勇気をくださる神様に頼っていることです。例えば、アブラハム、モーセ、ギデオン、イザヤ、エレミヤ、聖母マリア、ヨゼフ、ペトロなど。
今日のみことばがとても重要である理由は、20節の「主は彼らと共に働き」にあります。私たちが自分の小さな社会(家族、学校、職場、友人など)で、「神はすべての人を愛してくださる」という福音を分かち合うとき、主イエスはあなたと私の間に働いておられます。
しかし、私たちの信仰生活と日常生活は別々の世界ではなく、一つです。私たちには誰でも、母親、父親、独身者、学生、子供という使命があり、また、(広い意味での)退職した人々や、寝たきりの人、引きこもりの人たちにも必ず何かの使命があります。
「日曜日だけの信者」にならないでください!イエスをあなたの日常生活に招いてください。祈りを通してイエスとつながっていてください。自分一人の力では使命を果たすことはできないと、イエスに助けを求めてください。私たちの神、イエスは私たちと共に働きたいと思っておられます。そのことが私たちの人生と使命を励ましに満ちた「味」にしてくれます!イエスは今日も生きていて私たちと一緒におられます。この贈り物を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

復活節第6主日 B年 2018年5月6日

聖書朗読:1 ヨハネの手紙 4:7-10; 詩編 98; ヨハネによる福音書 15:9-17
 「神の言葉は生きており、力を発揮しています」(ヘブライ人への手紙4:12)。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのないお方です」(ヘブライ人への手紙13:8)。これら二つの聖書の言葉は、イエスは今日も私たち一人一人に生きている声で、「私はあなたは友と呼ぶ」という背景があります。
 イエスの時代の“友”という言葉は、現在私たちが使う“友”という言葉よりずっと深い意味があります。
 この“友”という言葉の深い意味を理解することは重要です。これはイエスとの個人的なつながりと関係があるからです。イエスとの友情は神への祈りに影響を与えます。
 聖書の背景として、イエスは私たち一人一人に友という言葉を使います。例えば、アブラハムは神の友であり、友として神に話しかけた。(ヤコブの手紙2:23)「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」(出エジプト記33:11)「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。」(シラ書6:14)イエスはラザロ、マルタ、マリアの友達でした。イエスは二人の姉妹とともにラザロの墓で涙を流されました。(ヨハネ11:35)イエスは私たちの友達で、わたしたち一人一人に名前で呼びかけます。(イザヤ43:2、ヨハネ10:3)
 聖アウグスティヌスは、「友であるイエスは私たちのすべてを知っており、そしてありのままの私たちを受け入れてくださる」と書いています。
 イエスとの友情の教えはとても重要です。イエスは、わたしたち一人一人に親しい交わりを強く望んでいることを語っています。イエスの友情という教えは、またどのように祈るかを示しています。教会博士のアビラの聖テレジアは、「祈りは友であり私たちを愛しているイエスとの会話です。」と言っています。イエスの言葉を聴き実行に移しましょう。祈りの中で、ほんとうのそして着飾らない心をイエスに注ぎましょう。イエスとの暖かな友情を感じ、ほかの人たちと分かち合いましょう。(薩田)

復活節第5主日 B年 2018年4月29日

聖書:使徒言行録 9:26-31; 詩編 22; 一ヨハネ 3:18-24; ヨハネ 15:1-8
 イエス様は今日の福音で、ぶどうの木と枝のたとえ話をされています。イエス様はぶどうの木の大元の幹、私たちはその枝で、イエス様ご自身から命、栄養、実りをいただいています。このたとえ話は、その背景がたいへん重要です!これらの言葉はイエス様の最後の意志、約束なのです。ですから、このメッセージは、弟子たちにとって、また、今の私たちにとって、特別に大切なものなのです。イエス様が、このメッセージを話されたのは、最後の晩餐のときでした。翌日には死んでしまう、という日です。イエス様が、弟子たちの足を洗い、ペテロの否認とユダの裏切りを予告された席です。弟子たちが全員、ヨハネを除いて、イエス様の元から逃げ出してしまう直前です。そのような人間の弱さをかかえて、神の国はどうして続いたのでしょうか?!こんな弱い人たちが、どうしてイエス様のことを遠い国々にまで宣教できたのでしょう?こんな弱い人たちが、イエス様が示された道をどうして歩むことができたのでしょう?イエス様といつも親密につながっていること。これこそが、それを可能にしたのです。
 ぶどうの木と枝のたとえ話は、このことを伝えているのです。イエス様とつながり、その助け、導き、そして力に寄り頼むことで、私たちは人生の道のりをイエス様と一緒に勇気をもって歩むことができるのです。イエス様との親密なつながり無しでは、失敗してしまうでしょう。
 弟子たちは失敗しました。でも、その失敗を通して、神であるイエス様について、とても多くのことを学びました。私たちも、イエス様が無条件に私たちを愛し慈しんでくださることを学びましょう。私たちはイエス様から離れてしまうかもしれませんが、イエス様は決して私たちを放ってはおきません。神であるイエス様は、私たちの弱さ、罪や失敗を全て知ったうえで、ありのままの私たちをいつも愛してくださいます。たとえ、私たちがイエス様から離れたとしても。私たちに対するイエス様の愛は無条件なのです。
 今週は静かな時間を作り、私たち一人一人に対するイエス様の愛を味わいましょう。私たちが、ぶどうの木の枝のように、イエス様につながっていれば、イエス様の心が私たちの毎日の暮らしの全ての行いに流れ込んできます。さあ、毎朝、次の様に祈りましょう: 「イエス様、あなたは私とともにいてくださいます。あなたはぶどうの木で、私はその枝です。私はあなたに寄り頼みます。」  このような祈りによって、私たちの日々に、よき味わいがもたらされます。(相田)

復活節第4主日 B年 2018年4月22日

聖書:ヨハネの手紙13:1-2; 詩編 23; ヨハネ10:11-18
 今日のミサの第2朗読で:「御父がどれほど私たちを愛してくださるか…私たちが神の子と呼ばれる…事実また、その通りです。」(1 ヨハネ 3:1)と読まれました。 福音では:「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。…私は羊のために命を捨てる。」(ヨハネ 10:14-15) と読まれました。
2つの朗読のテーマは神との温かい交わりです。どちらでも神から特別に愛された子です。わつぃたちの神イエスは私たちを愛する人間して扱いますが、その愛の交わりを説明するのにたとえを使います。イエスは羊飼いで私たちはその羊です。
横浜は370万人の人口がありますが、牧場はありません*。羊を知りません。羊を想像してイエス様が私たちにおくった深いメッセージを学ぶことが大切です。私たち一人一人が神にありのままで愛されています。
イエス様の時代には、羊飼いは持ち主の息子のことが多かったのです。羊飼いは自分の羊を世話しました。給料だけのためではありません。羊の群れは平均10-20頭でした。子羊が生まれるとその名前を付けます。羊飼いはオオカミから羊を守ります。青草と水辺に導きます。羊飼いと羊の間には親密な関係があります。羊は羊飼いを愛し信じます。羊飼いがいると安心です。イエス様は私たちの羊飼いです。イエス様は私たち一人一人をその名で呼びます。(優しい呼びかけが聞こえますか? 耳を澄まして聞きましょう!) やさしい神様はいつも私たちのそばにいます。イエス様は詩編23の実現です。「主はわれらの牧者」
イエス様はその愛を他人と分かちあうように求めています。神の愛の安全と温かさへと他人を招くよう求めています。
*「こどもの国」の中にある雪印こどもの国牧場には羊もいます。(中里)

復活節第3主日 B年 2018年4月15日

聖書:使徒言行録 3:13-19; 詩編 4; (一)ヨハネの手紙 2:1-5; ルカによる福音書 24:35-48
 今日の福音書(ルカによる福音書 24:35-48)は、イエスが死から復活した後の場面です。イエスの弟子たちは大きな部屋に集まっていました。イエスが殺されたため、皆落胆に沈んでいました。そればかりでなく、イエスを見捨てた恥ずかしさでいっぱいでした。ペテロは公衆の前でイエスを知らないと言い切りました。イエスは皆の前に現れ、「あなたがたに平和があるように」と祈られました。イエスが死んだことを弟子たちは知っていたので、これは亡霊だと思いました。その時代では、悪いことをした人に死からよみがえった亡霊が取りつき復讐すると信じられていました。イエスは亡霊でなく、正真正銘のイエスでした。イエスは十字架にはりつけにされた時の手と足とわき腹にできた傷を見せました。イエスはまさにイエスでしたが、おもむきが違っていました。栄光に包まれていました。しかし弟子たちは依然としてイエスを亡霊と思い、恐れおののいていました。弟子たちを安心させるために、イエスは干した魚を食べました。亡霊は食べ物を食べないからです。これは私たちの神であるイエスの思慮と思いやりを示すひとつの例です。
 神として、イエスは弟子たちに聖書の深い意味を悟らせるという能力を与えました。わたしたち人間は聖書を読むことができますが、そこには言葉が書かれているだけです。深い意味を知ることで人生の中で平和を味わうことができます。私たちを照らす神からの力が必要なのです。
 イエスは復活してわたしたちの中におられます。イエスがそばにいます。イエスは罰するためでなく平和を与えるために弟子たちに現れました。わたしたちの神は罰する神ではありません。イエスは慈しみと理解力に満ちています。イエスは弟子たちの弱さと過ちに理解を示されました。イエスは彼らを許し平和を与えました。今日、イエスはわたしたちに対しても同じです。わたしたちの神は許しそして罪を取り去ってくださいます(第二朗読)。神は人間一人一人を愛しています。この愛を他の人々に示すことを、今日イエスはわたしたちに望まれています。家庭、職場、学校でイエスの愛の証人になりましょう。(薩田)

復活節第2主日(神のいつくしみの主日) B年 2018年4月8日

聖書:詩編118、使徒ヨハネの手紙5:1-6、ヨハネによる福音20:19-31
今日の答唱詩編に「恵み深い神に感謝せよ。そのあわれみは永遠。神のいつくしみは絶えることがない」(詩編118の1)とあります。「神のいつくしみの主日」である今日、私たち一人ひとりに注がれる神のいつくしみを心に留め、神に感謝しましょう。
ではご復活後のイエスの具体的な姿に示されている「イエスのいつくしみ」に注目してみましょう。イエスは今日も同じ姿でおられます。
① マグダラのマリアは悲しみに打ちひしがれ、さめざめと泣いていました。そこへイエスが現われ、「マリア」と名前をお呼びになりました。これこそ、いつくしみです。
② イエスが十字架につけられて亡くなられた後、二人の弟子達はエマオヘ帰りました。彼らは失望のどん底にありました。その途上にイエスが現われ、静かに二人に話しかけられました。これこそ、いつくしみです。
③ ペトロはイエスのことを「知らない」と否定しました。ペトロにお現れになった時、イエスはペトロを叱りませんでした。ただ、「あなたはわたしを愛しているか」とだけお尋ねになりました。これが、いつくしみです。
④ 今日の福音で、復活されたイエスは、恥ずかしさと恐怖に震えている弟子たちに「あなたがたに平和があるように」という祈りの挨拶をもって現われました。これが、いつくしみです。
⑤ さらに…弟子の一人であるトマスは、イエスが軍隊を率いてローマ帝国の占領軍を追い出すことを望んでいました。イエスが殺されてトマスの望みも無くなり、彼は弟子たちからも逃げ出しました。戻ってきても(イエスが来られた時にいなかったので)彼は「私はイエスが復活されたことを決して信じない!」と言いました。8日の後、イエスは再び現れました。イエスはトマスをお叱りになりませんでした。イエスは優しく、人間の弱さをよく理解しておられ、いつくしみに満ちておられました。イエスのこのいつくしみの結果、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の偉大な表明をしました。
イエスは私たちに、今日も同じいつくしみを注いでくださいます。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ人への手紙13:8)
今週、沈黙のうちにあなた自身の言葉で祈り、復活されたイエスに会いましょう。イエスのいつくしみを味わい、それを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

復活の主日 B年 2018年4月1日

聖書:使徒言行録 10:34-43; 一コリント 5:6-8; ヨハネ 20:1-9
 私は、タナベさんというお爺さんから、とても大切なことを学びました。そのタナベさんについて、お話しします。タナベさんは息子さんと隣同志で住んでいて、夕食はいつも息子さんの家族と一緒でした。でも、息子さんが会社の転勤で、3年間、アメリカで働くことになりました。ある日のこと、お爺さんのタナベさんの隣人が、夕食を一人で食べているタナベさんを見て、「一人での食事では、とても寂しいでしょう」と言うと、タナベさんは、こう答えたのです:「いいえ、寂しいなんてことはありません。復活したイエス様と一緒に食事しているのですから」
 私は、お爺さんのタナベさんの答えを聞いて、なるほど、これが、イエス様の復活の意味なのだとピンときました。イエス様は死者の中から復活したのですから、もはや、時代にも、国にも縛られず、今、ここで、私たちと共に生きているのです。復活したイエス様は、今日、私たち一人一人に、生きている声で、「恐れるな!私があなたと共にいる」と、おっしゃっているのです。
 イエス様は、人生の道を、私たち一人一人の隣で歩み、旅しています。私たちは決して一人ではありません。孤独や苦しみに出会ったときこそ、この大切な真実を思い起こしましょう。
 私は、タナベさんに、彼の言葉に心動かされたことを説明し、お手本を他の人に伝えるために彼の名前を使わせてほしいと頼みました。16年前、彼の葬儀で、私はそのことを皆に語りました。
 イエス様は死者の中から復活し、今、私たちと生きているのですから、聖書でイエス様の言葉を読むと、それは生きた言葉となります。イエス様は私たち一人一人に、「恐れるな、私があなたと共にいるのだから」と語りかけているのです。
 イエス様の復活には、いろいろな意味がありますが、これも、その一つです。頭では分かっていましたが、タナベさんを通して、心で感じることができるように、神様が私に働きかけてくれたのです。(相田)

枝(受難)の主日 B年 2018年3月25日

聖書朗読:イザヤ 50:4-7; 詩編 22; フィリピ2:6-11; マルコ14:26-15:47
 この主日は伝統的に2つの名前があります: ①枝の主日。イエスが王としてしゅろの枝でエルサレムに歓迎された―復活を予期させる。イエスはまことに神。②受難の主日。イエスは私たちへの愛のために苦しみ死ぬ―彼はまことに人。
第1朗読でイザヤはメシア-救い主の苦しみを予言します。キリストは本当の人間の苦しみを体験するので、苦しみに疲れ果てた人を励ますことができます。パウロはフィリピの教会への手紙で、イエスはまことの神であるが、すべてを捨てて、つまり、神であることの栄光をわきにおいて、私たちのような真の人となり、本当に苦しむと私たちに語っています。
真の人間であることで、イエスは苦しみ会うときに感じる多くを経験しました。つまり、神が見捨てたという完全な空しさを。イエスは十字架上で詩編22を祈ります。「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか?」詩編は希望で終わります:「主は私の力、助け。」
マルコの受難という物語は非常に残酷ですが、ローマ軍の士官の「本当にこの人は神であった。」という宣言で終わっています。
マルコ福音、特に受難もの物語りの背景は今日私たちにも大切です。マルコが福音を書いた西暦1世紀のキリスト者は迫害されており、非常に苦しんでいました。そこでマルコは苦しむ人々に励ましのメッセージを与えました。「イエスは私たちのように本当の苦しみを経験した。イエスは私たちが苦しむとき私たちの真ん中にいる。」昔と同じように、イエス自身の具体的な言葉があります:「小さな群れよ、恐れるな。私はあなた方とともにいる。」聖書の中の永遠の現在形で、イエスはこの言葉を今日もおっしゃいます。
遠藤周作は「イエスの生涯」という本の中で、10章に書いています。「イエスは私たち人生の旅路の永遠の同伴者です。イエスは人間のすべての悲しみと痛みを経験しました。」イエスはおっしゃいます:「苦しみを味わった。あなたの痛みがどんなか知っている。だから、『苦しむ時、あなたのそばに私はいる。』といえる。」
これは苦しみとすさみの時に大きな希望を与えてくれる私たちは決して一人ではありません。今日もイエスは生きている声でおっしゃいます:「恐れるな、私はあなたと共にいる。」イエスが一緒に苦しむとき、イエスの苦しみの深い意味をよりよく理解できます!「一緒に」という言葉は重要です。これを味わいましょう。(中里)

四旬節第五主日 B年 2018年3月18日

聖書朗読: エレミア31:31-34, 詩編 51; ヘブライ人への手紙5:7-9; ヨハネ 12:20-33
 私は心からイエスは神であると信じています。また同時にイエスは真の人間であることも心から信じています。イエスは、100%神であり、100%人間なのです。
 真の人間として、イエスを死に追いやった指導者たちの敵対心をイエスは知っていました。彼らは自分を殺そうと計画していることをイエスは知っていました。人間と同じ恐怖と不安をイエスは体験なさいました。このことは将来に対し恐れを感じるときに私の慰めとなります。神様は私の心を理解してくださるとわかり、信頼を持て神様のところに行くことができます。イエスは同じ恐怖を抱きました。今日の福音書の中で、「わたしは心騒ぐ」と言われました。
 一粒の麦が地に落ちて死ねば新しい命をもたらす。十字架上で死ぬことで、イエスは私たちに永遠の命をもたらしました。この命では、イエスは(人生の原型である)希望を与えてくれます。
 イエスに従う者は、他人のために死ぬことを求められています。例えば、自分の考えをわきに置き、ほかの人の考えを聞くことを求められています。また時間をほかの人に使うことを求められています。さらに自分の都合ではなくほかの人のことを優先することを求められています。これらの行為は「小さな死です」。しかし新しい命をもたらします。
 わたしたちの多くはこの的を狙いますが、外してしまいます。(これが聖書の中での罪なのです)。心の反省をしましょう。
 聖書の中で最も美しい悔い改めの祈りは、詩編51です。
 神様はわたしたちが心から悔い改めるなら許しをくださいます。「あなたの罪を許そう。決して心に留めてはならない」

四旬節第4主日 B年 2018年3月11日

聖書朗読:歴代誌下36:14-23 詩篇137 エフェソの信徒への手紙2:4-10 ヨハネ3:14-21
今日(主日)の聖書を散歩しましょう。第一朗読では、バビロン捕囚から解放までの、神に選ばれた民であるユダヤ人のことがとても短く要約されています。彼らはまことの神を繰り返し否定しました。ここで強調されているのは、神が決して彼らをお見捨てにならなかったことです。捕囚の長い年月を通して、ユダヤ人たちはまことの神について2つの重要な真理を学びました。第一に、神の愛は無条件であること。彼らは自ら神を否定したのであって、神様からの罰ではなかったこと。第二に、人々はまことの神の働きはエルサレムの神殿にだけあると考えていましたが、後にまことの神は世界中に、すなわちバビロンでも、そしてペルシア王キュロスのような異邦人の支配者を通しても働いておられることを発見しました。
答唱詩編137は、捕囚に苦しむ人々の悲しみの歌です。第二朗読でパウロは、神はわたしたちをこの上なく愛し、独り子であるキリストを与えて下さったと教え、福音はこのように繰り返しています:「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3章16節)。神はイエスにおいて人となられました。私たちを責めたり罰したりするためではありません。イエスは私たちを癒し、救うために来られました。神は、愛と慈しみの神です。パウロは、私たちが神の賜物に値しないものであると教えています。私たちがいただく恵みは寛大な神からの無償の賜物です。神は私たちを愛しておられます。
福音でヨハネは2つの動詞を使用しています。「下る」と「上げる」です。イエスはニコデモへのお答えの中で、旧約聖書の不思議な出来事について触れています。ユダヤ人は40年間荒れ野を旅していました。ある時、毒蛇による災い(病)が彼らを襲いました。モーセは青銅でできた蛇を旗竿(十字架)の上に高く上げ、人々に竿を見上げて、神の助けと病からの回復を願うようにと話しました。イエスは天から下って来られ、竿(十字架)に上げられました。十字架上で苦しんでおられるイエスを見上げましょう。私たちも癒され救われるでしょう。神は私たちひとりひとりを愛しておられます。この癒しと愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

四旬節第3主日 B年 2018年3月4日

聖書朗読 詩編 19; 一コリント 1:22-25
 私には、ある人に命を助けてもらった生々しい思い出があります。それは60年たった今でも鮮やかな思い出です。その時、私は若い神父でした。30人の神学生たちと泳ぎに海に行った時のことです。波はとても高く、底には強い流れがありました。私は、そんな打ち寄せる波の中で泳ぐのは初めてでした。波に横向きに飛び込むと、底に向かって引き込まれました。私は心底うろたえ、おぼれると思いました。その時です、太平洋の島トンガから来た若い神学生が深く飛び込んできて、助けてくれたのです。私は感謝でいっぱいになりました。そして、とても不思議なことが起こりました。その日から、私たちの間に目に見えない絆ができたのです。10年たち、30年たって彼が司教になっても、その強い友情を感じていました。パトリック・フィナウが私の命を助けてくれた。私は今も彼に感謝しています。
 さて、皆さん、少し考えてみてください。私たちは皆、同じことを経験しています。イエス様が私たちを救うために、すすんで十字架の上で命を捧げたのです。私たち一人一人に、イエス様との間に目に見えない絆があるのです。今日の第二朗読の、聖パウロの言葉です:「私たちは、キリストが十字架にくぎ付けにされたことを延べ伝えますが、これはユダヤ人にとってはつまづきであり、異邦人にとっては愚かなことですが、私たちには、神の力であり、神の知恵なのです」(一コリント1:23)
 カトリック信者は、十字架を、まるで亡き両親を思い出すための写真のように、用います。この四旬節に、十字架を見、掲げましょう。十字架は酷く、恐ろしく見えます。でも、私たちは、2000年前のこの出来事の後ろに、愛を思い起こします。私たちを救い、私たちと一緒に人生を旅し、私たちのために天国の門を開くために、イエス様は自分の命を捧げました。最後の晩餐でのイエス様の言葉です:「友のために死ぬより大きな愛はない。あなた方は私の友である。」(ヨハネ15:13) さあ、この友情を心に受け止めて、イエス様に感謝しましょう。この愛を、他の人たちと分かち合おうではありませんか。(相田)

四旬節第2主日 B年 2018年2月25日

聖書朗読:創世記2:1-18; 詩編 116; ロマ 8:31-34; マルコ 9:2-10 18
 今週、山に登りましょう! 聖書では静かな山頂で、人々は神に会いました。例えば、アブラハム、モーゼ(シナイ山)、エリシャ(カルメル山)。今日の福音でペトロとヤコブとヨハネはイエスとともに高い山に行き、そこでは彼らだけでした。
イエスの12使徒のうち、ペトロとヤコブとヨハネは他人としてのイエスをよく知っていました。イエスは優しく、思いやりがあり、人間の弱さを知っていました。イエスが悩み、飢え、空っぽの心の人を強く慈しみ、どんなに深く感じていたかを分かっていました。しかし、イエスに従う人たちはまだイエスを単なる人間と見ていました! イエスが軍隊を率いて自分たちの国を占領し苦しめる憎むべきローマの兵隊を追い払うことを望んでいたでしょう。
この山の上で、3人は神としてのイエスを知りました。栄光と光がイエスから輝き出て、天からの声が:「これこそわが愛する子、これに聴け」といいました。
この3人の使徒は啓示を必要としていました。後に人間としてのイエスがゲッセマニで苦しみ、十字架上で罪人として死ぬのを見るからです。彼らにとってこれは理解できることでした。
しかし、今日の私たちにとって、このすべてはどんな意味でしょうか? イエスはすべての力を持つ真の神だが、苦しみ、痛み、裏切り、孤独、いじめ、失敗と見えることを経験した神であると私たちは考えています。イエスは私たち人間の苦しみを理解しています。イエスは私たちのそばにいます:「必要なときにはいつでも、あわれみ深い神の王座に勇気をもって近づくべきである。そこでおしみない慈しみを受け、助けを見つけるだろう。」(ヘブライ 4:16) 聖書のこの言葉はすばらしい励ましです。そして、今日の第2朗読は「神がそばにいれば、誰が私たちに逆らえよう」(ローマ8:31) 今日、私たちの神、イエスは父なる神の前私たちの代理者となる。「イエスは神の右に立ち、私たちを弁護する」 (ローマ 8:34) これはすばらしい神秘です。(中里)

四旬節第1主日 B年 2018年2月18日

聖書朗読:創世記9:8-15、詩編25、マルコ1:12-15
 四旬節が始まりました。四旬節は教会にとって特別な期間です。イエスの復活まで四旬節は40日間続きます。よりより良い人になるようにまたイエスに従う者となるように、四旬節の期間中私たちは精神的な旅をします。全ての旅は第一歩から始まります。四旬節の旅の第一歩は灰の儀式です。この儀式は、私たち人間はみな死に、そして灰に帰る存在であることを教えます。これは暗い経験のように感じられますが、この儀式での特別な言葉は希望と光に満ちています。そのとても重要な言葉とは、「回心して福音を信じなさい」です。
 “悔改めなさい”とか“回心”とは、立ち止まりそしてこの地上での私たちの人生を振り返り新たなスタートを切りなさいという意味です。
 “喜ばしい知らせ”または“福音”とはイエス自身とイエスの教えによる喜びに満ちた教えです。
 教皇フランシスコは、教会への書簡(福音の喜び #164)において喜ばしい知らせを次のようにまとめています。「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うために命をささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます。」
 四旬節の期間中この重要な言葉を思い巡らしましょう。これはキリスト者としての中心的な言葉です。イエス・キリストすなわち人間となられた私たちの神様は、わたしたち一人ひとりをありのままに愛してくださいます。この愛を証明するためにイエスは命を犠牲にされました。イエスは死者から復活され、今なお日々私たちと共におられます。イエスはわたしたちのそばにおられ、わたしたちを守り、導き、力づけられます。イエスはわたしたちの心の闇に光を与えます。この喜ばしい知らせを信じ、次のように祈りましょう。「イエスよ。あなたを信じます。わたしの不信心を改めさせてください。」
 神の愛という喜ばしい知らせを他の人たちと分かち合いましょう。(薩田)

年間第6主日 B年 2018年2月11日

聖書朗読: マルコ1.40-45 1コリント10.31~11.1
福音書は歴史の本ではありません。私たちは今日、福音書で2000年前にこの地上に生きておられたイエスについて読みましたが、イエスは今日も生きておられます。イエスは私たちと同じ人間になられた神です。イエスは十字架につけられて死にましたが、3日後に復活されました。神であるイエスは私たちの中に生きておられ、福音書は(普遍の)現在形で書かれています。ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブ13.8)
今日の福音にハンセン病と呼ばれる重い皮膚病を患っている人が出てきます。彼の体はできものだらけです。この病気は深刻な伝染病とされていましたから、この病気にかかった人は、家族から隔離され、家を追い出されました。誰一人、彼に触れず、近づきさえもしませんでした。彼はとてもとても孤独でした。家族からも見放されていたのです。できものと傷だらけの体はひどく痛みましたが、心の傷はそれ以上の激しい痛みでした。
この重い皮膚病の人は大胆にイエスに近づき、清くしてほしいと乞い願い、イエスは手を差し伸べて彼に触れました。マルコはこの箇所で特別なギリシャ語の動詞を使っています。イエスはこの人に会ったとき「深く憐れまれ」ました。イエスはこの人の孤独で、拒絶されて深く傷ついた心を理解されたのです。この「深く憐れんで」(日本語の「断腸の思い」に近いことば)という動詞は、福音書で9回、イエスの心を表すために使われています。
イエスの心は、今日も2000年前のこの時と全く同じです。
①私たちの心の傷を認め、祈りの中で大胆にイエスに近づきましょう。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい」とイエスは言われます。今日、生きているイエスの愛といつくしみを味わいましょう。
②イエスの平和の道具になりましょう。あなたの近くに孤独や拒絶・裏切りにあって苦しんでいる人はいませんか?イエスの道具となって、その人に励ましと慰めを届けに行きましょう。(北尾)

年間第5主日 B年 2018年2月4日

聖書朗読: ヨブ 7:1-7; 詩編 22; マルコ 1:29-34; 詩編 147:3
 ヨブは絶望のどん底にいました。病気で孤独でした。友人たちに裏切られた思いで、不平を言っています。「人生や苦しみにどんな意味があるのか?」と問うています。でも、注意してください。これは神への祈りなのです!聖書には、このように、神への不平の祈りが多くあります。例えば、サミュエル上の1:1-22のハンナや、詩編22にも神への不平があります。神は、祈りの中では、私たちに、飾らない、本当の心を望んでいます。ですから、むなしく感じるとき、神にそう言いましょう!神に怒りを感じるなら、そう言いましょう。このような不平が、なぜ、祈りなのでしょう?それは、深く落ち込んでいるときこそ、私たちは神の慈しみを知るからです。その慈しみを感じることができないので、神に癒しを願い求めるのです。
 今日の福音で、イエスは、苦しんでいるペトロの姑の元に行きます(当時、高熱に苦しむことは、死に行くことを意味していました)。イエスはその手を取り、起こされたのです。それは小さな、復活のようでした。私たちの神、イエスは、人々と共に感じています。私たちと共に苦しむのです。
 あなたがもし苦しんでいるなら、心の中をイエスに打ち明けてください。不平を言ってください。そうすれば希望が与えられます。詩編22には、「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか?」とあります。
 イエスは、生きた声であなたに言うでしょう:「疲れた者、重荷を負った者は、私の元に来なさい。休ませてあげよう」(マタイ 11:28)
 イエスは、私たちの苦しみの祈りを聞いてくれます。私たちと一緒に苦しんでくれます。私は神父になってまだ若い頃、私たちの神、イエスが、一緒に苦しんでくださることを学びました。大島先生は、深い信仰を持ったカトリック信者でした。ガンのために、とても強い痛みに苦しんでいました。畳に敷いた布団に横たわり、十字架を握りしめ、そして、それをじっと仰ぎ見ていました。大島先生は痛みに苦しんでいましたが、同時に、イエスの平安と共にありました。私たちも、今日の詩編147:3の次の言葉を深く味わいたいと思います:
「神は失意の人を支え、その傷を癒される」(相田)

年間第4主日 B年 2018年1月28日

聖書朗読:申命記18:15-20; 詩編 95; マルコ1:21-28
 モーゼの時代に人々はいう:「主の声を聞けば、死ぬだろう」(申命記 18:16) だら、モーゼだけが恐れずに神に近づいた。「モーゼは神と顔と顔を合わせて友達のように話した 」
(出エジプト 33:11)
1,700年後に、約束された預言者、救い主であるイエス・キリストが神は愛であると権威をもって宣言した。今では、だれもが神に信頼を持って近づくことができます。神は「アッバ」愛するお父さんです。イエスさまに神の優しさといつくしみを見ます。私たちは誰でも今では神と顔と顔を合わせて話せます。イエスは権威を持って教えました。その権威は神ご自身から来ます。イエスの教えは当時の人々には新しいもので、深い印象を与えました。イエスの教えは私たちにも印象を与えるでしょうか?私たちは鈍くなっているでしょうか?
イエスからの神のメッセージを確かめるために、「汚れた霊」を持った男を癒しました。つまり、病気で苦しんでいる人を。聖書と典礼の12世紀の絵が足枷(かせ)をつけた男を示しています。苦しみのシンボルです。イエスは癒しました。今日でも、私たちは枷をかけられた心を持っています。いやし、自由にし、平和を与えるようにイエスに願いましょう。
「心の枷」― 私たちを傷つけた人を許せない、怒りの枷、うらみ、反感、嫉妬。
イエス様、私たちを自由にしてください。
「心の枷」― 誘惑、依存、うつ病、自己嫌悪、自己中心、劣等感など、など、など。
イエス様、私たちを自由にしてください。
イエス様への祈りの中で、自分の一つ一つの弱さを具体的に詳しくわからせてくださるよう、そして自由、励まし、平和を願いましょう。
聖書は:「イエスは私たちのすべての弱さを知り ― だから、必要な時にはいつでも、あわれみ深い神の王座の前に勇敢に出るべきだ。そこでおしみない慈しみで癒され、助けを見つける」といいます。(ベブライ4:15-16) 中里

年間第3主日 B年 2018年1月21日

聖書朗読:ヨナ書; 詩編 25; マルコ 1:14-20
ヨナ書(たったの3ページ半です)を全て読んで振り返ってみましょう。ヨナ書はたとえ話で史実ではありません。ユダヤ人の宗教と国が最もエリート主義的かつ排他的であった紀元前400年頃ヨナ書は書かれました。多くのユダヤ人は、ユダヤ人でない者は神から呪われていると考えていました。ヨナ書は狭い考えに対する見事な反論です。そのメッセージは今日のわたしたちにも当てはまります。
ヨナ書は4幕から構成される劇に似ています。ヨナという人は熱心なユダヤ教徒でした。ニネバは嫌われている異邦人のアッシリアの首都でした。
第1幕:東にあるニネバに神の言葉を伝える者として行くように、神はヨナを呼びました。ヨナは断り、西に行く船に乗り込みました。激しい嵐に合い、異邦人の船乗りは祈りました。ヨナは眠り込んでいました。
第2幕:ヨナはクジラに飲み込まれて助けられ、お腹の中でついに神に祈りました。そして乾いた土地の上に吐き出されました。神は再びヨナにニネバに行くように頼みました。
第3幕:ヨナはニネバの人に改心を呼びかけました。市民は皆改心しました。
第4幕:異邦人に対し、神は優しく、慈しみ深く、許しを与えるべきではないと考えていたヨナは、神に対し怒っていました。ヨナは自分の考えを切り替えることに苦闘していました。神の愛を受け入れ、神の友となったのでしょうか。聖書には書かれていません。わたしたち自身で結末を考えなければなりません。
 今日のわたしたちにとってヨナ書のメッセージとは何でしょうか。自問してみましょう。私の神は思いやりがあり、許しを与え、人間の弱さを理解することを本当に信じているのでしょうか。それとも、神は厳しくまた罰する方と考えているのでしょうか。神は無条件の愛です。特に苦難の際、神が労ってくださると信じているのでしょうか。神の愛と優しさを他の人に表しているでしょうか。神は人生の中で何度も繰り返し、神と他の人に近づくように呼びかけられます。今日の福音のように、ペテロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネたちのように、完全にイエスに従うようにという神からの招きに応えているのでしょうか。“主よ、あなたの道を私に示し あなたに従う道を教えてください”(詩編25:4)(薩田)

年間第2主日 B年 2018年1月14日

聖書朗読:サムエル記上3:3-19;詩篇40:ヨハネ1:35-42
イエス様は今日、私たちと共に生きておられます。イエス様は特に福音を通して、生きている声で私たちに語りかけます。今日イエスは私達一人ひとりに重要な言葉をかけられます。
「何を求めているのか?」
私が自分自身に直面して「人生で一番欲しいものは何だろう」と思い巡らすと、初めにイエス様に答えるのは「健康と視力を望みます」だと思います。しかし、さらに深く思い巡らせこう答えます。「私はあなたに出会って、あなたをもっと深く知りたい」イエス様も私におっしゃいます。「来て、見なさい」 これは優しく素晴らしい招待状です。
私は若いころからそして今でも聖アウグスチヌスの祈りが心に響いています。「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休まることはありません」
イエス様は私たち一人ひとりに「何を求めているのか?」と問いかけておられます。イエス様は私たち一人ひとりに、温かいもてなしを受けるためにイエス様のもとに来るよう招いておられます。具体的には祈りの中でイエス様と一緒に静かな時間を過ごすよう、私たちに勧めています。
祈りの中でイエス様に会いに行くとき、このように始めましょう。まず「主よ、私はここにいます。お話しください。私は聴いています。」と話し、しばらく沈黙します。沈黙の後、自分自身の言葉で願いをイエス様に伝えましょう。このように祈る時には聖書がとてもよい助けとなります。
現代社会で、私たちはとても忙しく、多くの音に囲まれています!私たちは心を騒がせる雑音を止める方法を学ばなければなりません。スマートフォンを別の部屋に置いておくとか…?
主は、祈りの中でご自分と会うようにといつも呼びかけておられます。主がサムエルを4回も呼ばなければならなかったことを忘れないで!神の呼びかけに敏感でいましょう。
今日の福音に出てくる2人の弟子たちは、イエス様と初めて会ったのが午後4時ごろだったことを後々まで覚えていました。
祈りの中でイエス様に会いましょう。そしてイエス様の平和と励ましを味わいましょう。今日の福音のアンデレがしたようにイエス様の平和と励ましを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

主の公現 B年 2018年1月7日

聖書朗読:イザヤ 60:1-6; 詩編 72; エフェソ 3:2-6; マタイ 2:1-12
今日は「主の公現」の祝日です。この祝日で、神様が御子をすべての国に現わされた出来事が思い起こされます。聖書には、後世の私たちに深い意味を持つ歴史的な出来事が、たびたび述べられています。例えば、ユダヤ人の人々は、約束の救い主を1000年も待ち望んでいましたが、イエス様に最初に会うように呼ばれたのは、祭司たちではなく素朴な羊飼いたちでした。この羊飼いたちがユダヤ人の代表でした。今日の福音には東方からやってきたユダヤ人ではない3人が登場します。この3人は、世界のすべての国を代表しています。この3人は貴方であり私なのです!
この3人は「賢人」と呼ばれています。どういうことかというと、この3人は自然-太陽、月、星について研究していて、創造主の人間を超えた力を知っていたのです。そして、大地の上での人生の意味について探索し、この力によって強められ導かれることを望んでいました。彼らは特別な星を見つけて、その導きに従い、その星は彼らをイエス様の元に導きます。彼らはこれを受け入れ、イエス様を彼らの神として敬愛します。イエス様は彼らの力となり案内者となったのです。心にいっぱいの感謝を表して、彼らはイエス様に贈り物を捧げました。
現代の私たちへのメッセージとチャレンジは次のようです:私たちは、星や月、花などを見て、これらの自然を創造した方について思いめぐらすでしょうか?それとも当たり前のこととしてしまうのでしょうか?私たちは神様を探し求めているでしょうか?私たちを導く星-聖書を読んでいるでしょうか?私たちは本当にイエス様に出会い、心に愛をもって受け入れているでしょうか?ご自身を私たちに表わしてくださったお恵みに感謝して、イエス様に贈り物を捧げているでしょうか?それはどんな贈り物でしょうか?イエス様が私たちに求める贈り物は、興味深いものです。私たちの疲れや重荷、イエス様への友情、私たちの弱さ、心の渇きを差し出すことを、イエス様は福音書の中で呼びかけています。時間をとって祈り、イエス様に出会うよう呼びかけられています。そして、私たちにくださった恵みを、他の人々と分かち合うことを、イエス様は私たちに呼びかけているのです。(相田) 

聖家族の祭日 B年 2017年12月31日

聖書朗読創世記18:1-6; ヘブライ11:8-11; ルカ 2:22-40
 「神に信頼せよ」何を意味しますか。聖書は信仰をこのように説明します:神はその人と荘厳な約束をし、その人を見守る。信仰は神の約束を信じ、それによって生きることである。 このような信頼は苦しみを避けるものではないが、それに意味を与える。聖書でアブラハムは信仰の模範である。
アブラハムは神に言われて、新しい家族を作るために、故郷を離れ、砂漠に入る。しかし彼は年を取っており、子供がなかった。砂漠は危険で水のない所だとも思っていた。神は言った:「アブラハムよ、恐れるな。私はともにいる。私はあなたの盾。」(盾は守るための武具なので、「盾」はここでは「神は守ってくださる」の意味。) 「アブラハムが神の呼びかけに従ったのは信仰によってであった……どこに行くかを知らないで出発した。」 (ヘブライ11:8) 言い換えれば、神の約束を信じたのである。アブラハムは将来を御手に委ねた。
今日、私たちはこのような信仰、このような信頼を必要としている。誰が自分の将来を知っているだろうか。誰もいない。神の約束を心にとめよう。神は私たち一人一人に言われる:「恐れるな。私はいつもあなたと共にいる。あなたを見守る。」そうです。まだ苦しみに会うが、神がそばにいてそれを克服できる。人生の旅は決して孤独ではない。
今日のミサの詩編105にその言葉がある:「神とその力を思いめぐらそう。いつもその御顔を求めよう。」祈りの中で神に会おう。
愛に満ちた父なる神はその子である私たちを見守るために力を使ってくださる。祈りの中で信頼をもって近づこう。
アブラハム、マリア、ヨゼフは信仰の模範であり、信仰と信頼が強くなるよう祈ろう。(中里)

クリスマス B年 2017年12月24日

聖書朗読:ルカ2:1-14
 みなさんにとってクリスマスとはどのような意味があるのでしょうか。
 神様から人間への最も頻繁に伝えられるメッセージの一つは、「恐れるな。私はあなたと共にいる。」です。キーワードは“共に”です。旧約聖書では、神様は与えられた仕事や召命をやりとげるために強さと勇気を与えられるという意味で用いられています。
 しかし馬小屋でのイエスの誕生はもっと根本的な意味を持っています。神ご自身は天の国の栄光を脇に置き、人となられました。イエスは100%神様で100%人間です。
 私たちの神であるイエスは、わたしたちと同じ人間の弱さを体験されました。イエスは、私たちがどのようにやり直ししたり、感じるかを知っておられます。またどのように喜び、苦しむかもご存知です。なぜでしょうか?それはイエスが人間と同じ苦しみを体験されたらです。言い換えれば、イエスは私たちと共にいらっしゃるからです。
 人生という旅路では、私たちは一人ではありません。神であるイエスが横におり、共に歩んでくれます。
 神様が人間になられた時から、神様はわたしたちに近く親しみやすい方となられました。
 私たちの神であるイエスは、わたしたち一人一人を名前で呼び言われます。「〇〇さん。恐れないでください。わたしはあなたと一緒にいます。」
 これがクリスマスの真の意味なのです。(薩田)

待降節第4主日 B年 2017年12月24日

聖書:サムエルⅡ7:1-16; 詩編 89; ルカ1:26-38
 「恐れるな、私はあなたと共にいる。」神はダビデ王とマリアにいわれた。ダビデにこう言われた:「すべての戦いであなたと共にいた。」詩編89の21と24節で、ダビデに言われた:「私の選んだ僕ダビデよ、いつもそばにいて助けと力を与えよう……ダビデはいつも私の愛に頼れる。」(同) 私たちとともにいるという神のこの約束はアブラハム、モーゼ、ギデオンと予言者たちにされた。マリアにもされ、地上でのイエスの最後のことば:「私はいつもあなたとともにいる」である。
この約束は聖書の有名は人にだけされたのではく、普通の人である私たちにもである。
このイエスからの勇気づける言葉を考えてみよう。イエスは私たち人間とともにいる。これがクリスマスのメッセージである。幼子イエスを馬船の中に見るとき意味することである。神ご自身が私たち共にいるために人となった。イエスは人生の旅路で私たちとの横を歩く。わつぃたちは決して孤独ではない。勇気と力を与えてくださる。イエスは「私たちと一緒に私たちの弱さを感じ……助けが必要な時に憐れみと恵みをえるために恵みの王座に信頼をもって近づけるようにされてくださる。」(ヘブライ4:15-16)
喜びも悲しみも人間性のすべてを分かちあってくださる。本当に私たちと共にいてくださる。平和をもたらすこのメッセージの実現がクリスマスの本当のメッセージである。
これがベツレヘムの馬小屋からのメッセージである!イエスは言う「恐れるな。私はあなたと共にいる。平和がクリスマスの贈り物である。私の平和を他人と分かち合いなさい。」(中里)

待降節第3主日 B年 2017年12月17日

聖書: イザヤ書第61章1-11ルカ1:46-54第1章5:16-24ヨハネ1:25
 「自己中心」はあなたの心を喜びから遠ざけます。自分を最優先にすることであなたの心にもたらされるのは暗闇です。自分のことを忘れて他の人を思いやることは、あなたの心に喜びと平和と光をもたらします。今日の福音に私たちの模範が示されています。
洗礼者聖ヨハネは当時とても人気のある説教者で、何千もの人が彼の話を聞きに来ました。彼には多くの弟子がいましたが、自分の使命は約束された救い主であるイエスの道を準備することであることを知っていました。洗礼者ヨハネはこう言っています:「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)
 自分が評価されることに執着せず、後進に道を譲ることが出来たら、私たちはそれを神様の贈り物として喜びをもって受け取ることが出来ます。私たちは自分の都合や楽しみを優先にして、他の人のことを忘れていませんか?私たちは別の人に席を譲ることが出来るでしょうか?
 イエスと福音の謙虚な精神に基づき、アッシジの聖フランシスによって実践された、世界的に人気のある有名な祈りは「平和の祈り」です
この祈りの中で、最も重要な言葉は、「神よ、私をあなたの道具にしてください(助け導いてください)」だと思います。「助けてください」はとても重要です。私たち弱い人間は、いつも自己中心に傾いていて、自分の力だけで、日常生活の中でこの祈りの精神を生きることは出来ません。私たちは神様に「助けてください(強めてください)、私たちの心のうちに働いてください」と乞い願います。
 この祈りを、待降節の間、毎日、ゆっくりと丁寧に祈りましょう。平和は、私たちに、家族、職場、地域、私たちの国、そして世界の一人ひとりに来ます。
 平和は私たちに喜びをもたらします。(北尾)

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