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主日の説教

主日の説教

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年間第14主日 B年 2018年7月8日

聖書朗読:Ⅱコリント12:7-10 詩編123 マルコ6:1-6

私たちの信仰に「奥義」があります。イエス様はどのようにして、神でありながら真の人間なのでしょうか?これが奥義です!しかし、イエス様は100%真の神であり、100%真の人間であり、「自分を無にして…人間と同じものになられました」とフィリピの信徒への手紙2章7節に記されています。この「無にして」は、原語であるギリシャ語では「KENOSIS」です。イエス様は(神様でありながら)、天の栄光と力を脇に置いて、この世にお降りになりました。真の人間となられたイエス様は、ご自分の力ではなく、父なる神様の力に頼りました。奇跡を行う力も父なる神様からいただきました。
イエス様を知る上で最も大切なことは、イエス様が人間になられた時に、人間の本質を(限界も含めて)すべてその身に帯びて来られたということです。イエス様は、人間の弱さ、誘惑(罪以外は)をすべて体験なさいました(ヘブライ人への手紙4章15節~5章2節)。これは、私達の祈りの相手であるイエス様を知るために、とても大切です。イエス様は、苦しみ・拒絶による傷・裏切り・心の痛みを体験なさった、私たちの同伴者です。ですから私たちは、恐れることなく大胆にイエスに近づきましょう。

今日の福音を例に考えてみましょう。イエス様は故郷であるナザレトにお戻りになりました。途中の村々では、ペトロの姑、らい病の人、中風の人、先週の福音に出てきたヤイロの娘、出血の止まらない女性を癒し、治されました。イエス様のなさった優しい神様の教えは人々の心に届き、イエス様は評判の説教者になっていました。今日の福音でイエス様は故郷の会堂で「神の愛」を教え、これを聞いた人々は「このような知恵と奇跡の力はどこからきたのだろうか」と驚きました。これは正しい疑問です。(そして、正しい答えは『神様から来た』です)
しかし、傲慢で偏見を持っていた彼らは「この人は、ただの大工ではないか」と言いました。イエス様に一番近い、親戚や友人たちもイエスを拒絶したのです。あなたは拒絶された経験はありますか?誰かのためにしてあげたことを、当たり前のような態度で感謝されない経験、受け入れてもらえない経験はないですか?100%人間であるイエス様は、実際に「拒絶」を経験なさいました。イエス様は、特に私たちが傷つき苦しんでいる時に、私たちの傍で同じように感じておられます。今日も、生きている声でイエス様は私たち一人ひとりにこう仰います。「疲れている者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげよう」と。(北尾)

年間第13主日 B年 2018年7月1日

聖書朗読:知恵1:13-2:24; 詩編 30; マルコ 5:21-43
 過去や今の生き方において失望を感じたことがありますか。人生の半分しか生きていない感じがしていませんか。強い信仰を持っていますか。今生きていることに喜びを感じていますか。今の生き方を楽しんでいますか。活力を失っていませんか。
 神様は私たちに命を与えてくれます。天国での永遠の命ばかりでなく、今現在の命もです(第一朗読 知恵の書)。
 詩編30はこのテーマを引き継ぎます。「神よ、あなたは死の国からわたしを引きあげ、危ういいのちを助けてくださった。… 夜が嘆きに包まれても、朝は喜びに明けそめる。神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、わたしの助けとなってください。あなたは嘆きを喜びに変えた。」私たちがこの世に生きる間、この神様からの命はもたらされます。
 福音書の二つの奇跡は、イエスが12歳の少女と12年間出血に苦しんでいた女性に新しい命を与えたことを示しています。これらの二つの奇跡は二千年前の歴史的なできごとです。すべての奇跡には苦しんでいる人へのイエスの慈しみがその背景にあります。今日でもイエスの慈しみを味わうことができます。イエスに触れましょう。イエスに出会いましょう。
 多くの人はイエスを身体に触れていましたが、出血の女性のみ心の中でイエスに触れました。苦しみの中で女性は本当のイエスに出会いました。私たちは祈りの中で本当にイエスに触れているのでしょうか。祈りを通じてイエスに出会う時間を作っているのでしょうか。イエスに出会うために福音書を読んでいるでしょうか。ミサの中では自分自身の言葉でイエスに語り掛ける沈黙の時間があります。困難なことばかりでなくイエスが与えてくれた良いことにも感謝の言葉を述べましょう。また自宅でもイエスと語りましょう。イエスはあなたのそばにおられます。
 イエスは私たちに触れ精神的な活力という新しい命をくださいます。イエスはわたしたちにイエスの命をもとに他の人に触れあうことを求めています。(薩田)

洗礼者聖ヨハネの誕生 B年 2018年6月24日

聖書イザヤ 49:1-6; 詩編 139; 使徒言行録 13:22-26; ルカ 1:57-66、80
 今日は、洗礼者聖ヨハネの誕生を祝います。洗礼者ヨハネには、約束の救い主イエス様を人々が迎える準備をする、という使命が神様から与えられていました。そうです、聖ヨハネはたしかに特別ですが、手の届かない人と思わないでください!聖ヨハネは、私たち普通のキリスト者が手本とすべきモデルです。私たちは一人のこらず、この世で果たすべき特別な使命を、神様から与えられています。今日の朗読の聖書から、神様からの呼びかけに対する答え方を学びましょう。
 イザヤは、神様は遠く離れた方ではないと言っています。私たちの神様は、私たちを、一人一人、名前で呼びかける方です。神様は、愛のこもった声で、一人一人の名を呼びます(イザヤ 49:1)。詩編139には、慈しみに満ちた神様が、両親を通して私たちに生命を与え、私たちを造ったとあります。ですから、神様は、私たちの弱さを全てよく知っておられ、それでもなお、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。神ご自身が、私の心身を決めたのです。ですから、他の人と比べて自分を低く見るようなことや、自分を嫌ったり、劣等感を持ったりすることは、やめましょう。私を作られた神様が、私を美術作品のように貴重と思われているのですから、その神様の見方に従いましょう!
 神様は、私たちそれぞれに、この世で果たす、ある特別な使命を授けています-例えば、父、母、祖父、祖母、そして、結婚しない人にも特別な使命を。ですから、私たちには、家庭の主婦、事務所や工場での仕事、先生や学生のように、するべきことがあります。そして、友情や励ましや様々なことを他の人に与えます。神様に示されたこれらの使命を見ると、特別な味わいがあります。そして、これが重要なのですが、神ご自身が、これらの使命を果たす強さを与えてくれるのです。「わたしの神こそ、わたしの力」-今週は、イザヤ49:5のこの励ましの言葉を深く味わいましょう。(相田)

年間第10主日 B年 2018年6月10日

聖書:創世記3:9-16、詩編130、,Ⅱコリント4:13-5:1、マルコ3:20-35
今日の第2朗読でパウロは、この地上で私たちの生活がとても短いことを伝えています。この地上での私たちの住みか(肉体)は(死によって)無くなりますが、神様は私たちのために、終わることのない家を天国に建ててくださいました。私たちの死はすべての終わりではありません。神様と共に、平和と幸福の内に生きる、新しい命の始まりです。
人生の旅路で、私たちは苦しみや試練、誘惑に会うでしょう。私たちは神様の愛に応えず、罪を犯し、失敗してしまいます。自分の虚栄心を認めましょう。(第一朗読の創世記のように)誰かのせいにしないでください!私たちが自分の弱さを謙遜に認めれば、神様の慈しみと愛、そしてゆるしを味わうことができます。今日の答唱詩篇-130-は素晴らしく、励ましとなります。
福音にはイエス様が経験された、いくつかの苦しみが書かれています。イエス様は「神の愛」を伝えるために、この地上に来られました。しかし、真っ先にイエス様を受け入れるべきだったのに、祭司たちはイエス様を否定しました。彼らはイエス様のなさった奇跡を見ることも受け入れることも拒否したのです。さらに、イエス様ご自身の身内も「イエスは気が変になった」と考え、「家に帰って普通の大工になりなさい」と言いました!ヨハネの福音に書かれているように「言(イエス)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1章11節)のです。イエス様は100%神でしたが、同時に100%人間でした。イエス様は「受け入れられない」ことをしみじみと感じる経験をなさいました。
私たちが、受け入れてもらえない、嫌われる、認めてもらえないなどの辛い体験をしたら、イエス様に話しにいきましょう。イエス様は私たち人間のことを分かっておられます。
イエス様は「拒絶」を使って(通して)、今日私たちにこのことを伝えています「あなたは私の家族、私はあなたの兄弟です。私のもとに来なさい、休ませてあげよう。共に人生の道を歩みましょう。私は、あなた達人間の弱さに力を与え、天国で永遠の喜びを与えます。」神様は私たちを愛しておられます。その愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

キリストの聖体 B年 2018年6月3日

聖書:出エジプト記 24:3-8; 詩編 116; ヘブライ人への手紙 9:11-15; マルコ 14:12-26
 
今日の3つの聖書朗読のキーワードは「契約」です。契約は、人と人(もしくは組織)どうしで行われる重要な約束です。お互いが約束するのです。
 文化によっては、血を用いることで、契約をより確実なものとします。例えばアメリカン・インディアンの間では、部族長どうしが親指を少し切りそして血を混ぜることで契約はさらに重要なものとなります。血の兄弟となり平和が作られるのです。江戸時代の日本では、血判が行われていました。
 イエスは最後の晩餐で種無しのパンを取り「これはわたしの体である」と言われました。ギリシャ語の原典では、体は‘ソマ’すなわち‘私自身’と書かれています。聖体拝領するとき、私たちはイエスご自身が私たちの心の中に入ってくると信じています。
 ご聖体の中のイエスは、福音書で出会う優しいイエスと全く同じです。イエスは、優しく、話しやすく、わたしたち人間の弱さを理解される方です。イエスはありのままのわたしたちを受けいれてくれます。イエスはわたしたち一人一人を愛してくださいます。
 最後の晩餐でイエスはぶどう酒の入った杯を取り、「これは新しい契約の私の血である」と言われました。血とは命です。もし病気の人がほかの人から輸血を受け病気を快復すれば、新しい命を受けたことになります。
 契約とは相互の約束です。イエスはわたしたち一人一人と神聖な約束をしています。イエスは約束します。「私はいつもあなたと共にいる。あなたから離れたり縁を切ることは決してない。私はあなたを守る。」このイエスとの約束をよく考えましょう。そしてイエスに約束しましょう。「イエスよ。あなたを信頼します。わたしの人生をあなたの手に委ねます。」
 カルバリの地で十字架の上での血により、イエスは契約を確実なものにされました。
 主の食卓に招かれたものは幸い。(薩田)

三位一体の主日 B年 2018年5月27日

聖書:申命記 4:32-40; 詩編 33; ローマ 8:14-17; マタイ 28:16-20
 「キリスト教の神様」とか「仏教の神様」、あるいは「イスラム教の神様」のような言い方を聞くことがあります。でも私たちは、ただ一人の神様がいると信じています。イエス・キリストが、このただ一人の本当の神様について教えてくれたと信じています。他の宗教は、神様について部分的に啓示しています。この啓示は違う訳ではありませんが、部分的-つまり真実の全てという訳ではありません。しかし、私たちキリスト教徒は、一つの本当の神様の内なる生命の中に、父と子と聖霊がおられると信じています。「一つの中に三つ」-これは矛盾でしょうか?いいえ、これは奥義です。これが全能の神ご自身の内なる生命なのであって、私たち人間には、この深みは知りえないのです。
 私は個人的には、20年ほど前までは、三位一体について、あまり考えていませんでした。理解できなかったので、三位一体について考えたり祈ったりすることを避けていました。東京の上野毛での黙想会で祈りの分かち合いをしているときに、私に回心がやってきました。よく学んでいる人の話を理解できないでいると、ある人がこんな風に言ったのです:「私は私たちの信仰の奥義を大切に思います。祈りの中で、私はただ、三位一体、つまり父と子と聖霊の中に入り、そこにある愛を味わい、楽しく過ごしています。」これを聞いた私の心に、「なるほど!」という思いが大きく響きました。
 イエス様は、三位一体の神様について教えてくださいました。優しく、思いやりのある「アッバ(お父ちゃん)」がいる。父なる神は、本当にご自身の子どもとして、私たちを大切にしてくださいます。御子は、私たちと同じように人となり、神様がどれほど私たちを大切にしているかを示されました。イエス様は自分の命を犠牲にして、平安と幸福、そして、私たちの人生に意味をもたらしてくださいました。聖霊は温かい愛で、私たちを導き、力づけ、慰めてくれます。さあ、皆さん、祈りを通して、この素晴らしい愛の中に入っていきましょう。そして、他の人々と愛を分かち合いましょう。(相田)
 

聖霊降臨 B年 2018年5月20日

聖書使徒たちの宣教1-11; 詩編 104; ヨハネ15:16-16:15
 使徒たちの宣教1:14で、使徒とイエスの母マリアと多くの男女を含む120人が2階で祈っていたことを読んだ。この120人を想像してみよう。彼らは最初の教会です。9日前に、イエスは昇天しました。最後の命令として、イエスはこの120人に他人に神の平和と愛をもたらすために、自分自身の家庭と世界の果てまでにも行くようにといいました。焦点の9日後、このグループはイエスを殺したユダヤの指導者への恐れでいっぱいでした。証人になることはまったくできないと感じていました。こう感じたので、聖霊に一生懸命祈りました。イエス様は勇気と導きをあたるために聖霊をそばに送ることを約束なさいました。彼らは祈り、のぞみを持って待ちました。
大きな風の音を聞き、一人一人の頭の上に炎を見ました。イエスが約束された聖霊が来たのです。恐れを忘れ、臆病さは消えました。正しい言葉が与えられました。これは2000年前のことです。
今日も私たちはイエスの証人として呼ばれています – 自分の家庭で、住んでいるところで、職場で、友達の中で、学校で。イエス様は私たち一人一人が証人となり、平和の道具となるよう求めています。しかし、よく心に留めましょう! イエス様は助けて、聖霊を私たち一人一人に送ってくださいます。聖霊は私たちにイエス様のこの仕事のための力と導きと勇気を与えてくださいます。それに合ったことばも。
聖霊はイエス様のための働きで力と導きを与えてくださいます。毎日の平凡な仕事でも。たとえば、母や父として、労働者として、学生として。自分の弱さと無力さに知識を願いましょう。イエス様に聖霊を送るよう願いましょう。(中里)

主の昇天 B年 2018年5月13日

聖書:使徒言行録1.1-11 マルコ16:14-20
2000年前、イエスは弟子たちに、「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われました。今日、イエスは生きている声で私たちにこう言われます。「あながたは、自分自身の小さな社会(所属しているグループ)に行って『神は愛である』という福音を分かち合いなさい。」
今日の福音「全世界に行って福音を…」と命じられる直前の箇所であるマルコ16章14節には、こうあります。「イエスはその不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」
弱い信仰とかたくなな心にもかかわらず、イエスは彼らに福音を宣べ伝えることを委ねられました。いいえ!「にもかかわらず」ではなく「のため」でした。聖書全体を通して神様のために働くために呼ばれた人々の共通点は、自分(人間))の弱さを知り、力と勇気をくださる神様に頼っていることです。例えば、アブラハム、モーセ、ギデオン、イザヤ、エレミヤ、聖母マリア、ヨゼフ、ペトロなど。
今日のみことばがとても重要である理由は、20節の「主は彼らと共に働き」にあります。私たちが自分の小さな社会(家族、学校、職場、友人など)で、「神はすべての人を愛してくださる」という福音を分かち合うとき、主イエスはあなたと私の間に働いておられます。
しかし、私たちの信仰生活と日常生活は別々の世界ではなく、一つです。私たちには誰でも、母親、父親、独身者、学生、子供という使命があり、また、(広い意味での)退職した人々や、寝たきりの人、引きこもりの人たちにも必ず何かの使命があります。
「日曜日だけの信者」にならないでください!イエスをあなたの日常生活に招いてください。祈りを通してイエスとつながっていてください。自分一人の力では使命を果たすことはできないと、イエスに助けを求めてください。私たちの神、イエスは私たちと共に働きたいと思っておられます。そのことが私たちの人生と使命を励ましに満ちた「味」にしてくれます!イエスは今日も生きていて私たちと一緒におられます。この贈り物を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

復活節第6主日 B年 2018年5月6日

聖書朗読:1 ヨハネの手紙 4:7-10; 詩編 98; ヨハネによる福音書 15:9-17
 「神の言葉は生きており、力を発揮しています」(ヘブライ人への手紙4:12)。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのないお方です」(ヘブライ人への手紙13:8)。これら二つの聖書の言葉は、イエスは今日も私たち一人一人に生きている声で、「私はあなたは友と呼ぶ」という背景があります。
 イエスの時代の“友”という言葉は、現在私たちが使う“友”という言葉よりずっと深い意味があります。
 この“友”という言葉の深い意味を理解することは重要です。これはイエスとの個人的なつながりと関係があるからです。イエスとの友情は神への祈りに影響を与えます。
 聖書の背景として、イエスは私たち一人一人に友という言葉を使います。例えば、アブラハムは神の友であり、友として神に話しかけた。(ヤコブの手紙2:23)「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」(出エジプト記33:11)「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。」(シラ書6:14)イエスはラザロ、マルタ、マリアの友達でした。イエスは二人の姉妹とともにラザロの墓で涙を流されました。(ヨハネ11:35)イエスは私たちの友達で、わたしたち一人一人に名前で呼びかけます。(イザヤ43:2、ヨハネ10:3)
 聖アウグスティヌスは、「友であるイエスは私たちのすべてを知っており、そしてありのままの私たちを受け入れてくださる」と書いています。
 イエスとの友情の教えはとても重要です。イエスは、わたしたち一人一人に親しい交わりを強く望んでいることを語っています。イエスの友情という教えは、またどのように祈るかを示しています。教会博士のアビラの聖テレジアは、「祈りは友であり私たちを愛しているイエスとの会話です。」と言っています。イエスの言葉を聴き実行に移しましょう。祈りの中で、ほんとうのそして着飾らない心をイエスに注ぎましょう。イエスとの暖かな友情を感じ、ほかの人たちと分かち合いましょう。(薩田)

復活節第5主日 B年 2018年4月29日

聖書:使徒言行録 9:26-31; 詩編 22; 一ヨハネ 3:18-24; ヨハネ 15:1-8
 イエス様は今日の福音で、ぶどうの木と枝のたとえ話をされています。イエス様はぶどうの木の大元の幹、私たちはその枝で、イエス様ご自身から命、栄養、実りをいただいています。このたとえ話は、その背景がたいへん重要です!これらの言葉はイエス様の最後の意志、約束なのです。ですから、このメッセージは、弟子たちにとって、また、今の私たちにとって、特別に大切なものなのです。イエス様が、このメッセージを話されたのは、最後の晩餐のときでした。翌日には死んでしまう、という日です。イエス様が、弟子たちの足を洗い、ペテロの否認とユダの裏切りを予告された席です。弟子たちが全員、ヨハネを除いて、イエス様の元から逃げ出してしまう直前です。そのような人間の弱さをかかえて、神の国はどうして続いたのでしょうか?!こんな弱い人たちが、どうしてイエス様のことを遠い国々にまで宣教できたのでしょう?こんな弱い人たちが、イエス様が示された道をどうして歩むことができたのでしょう?イエス様といつも親密につながっていること。これこそが、それを可能にしたのです。
 ぶどうの木と枝のたとえ話は、このことを伝えているのです。イエス様とつながり、その助け、導き、そして力に寄り頼むことで、私たちは人生の道のりをイエス様と一緒に勇気をもって歩むことができるのです。イエス様との親密なつながり無しでは、失敗してしまうでしょう。
 弟子たちは失敗しました。でも、その失敗を通して、神であるイエス様について、とても多くのことを学びました。私たちも、イエス様が無条件に私たちを愛し慈しんでくださることを学びましょう。私たちはイエス様から離れてしまうかもしれませんが、イエス様は決して私たちを放ってはおきません。神であるイエス様は、私たちの弱さ、罪や失敗を全て知ったうえで、ありのままの私たちをいつも愛してくださいます。たとえ、私たちがイエス様から離れたとしても。私たちに対するイエス様の愛は無条件なのです。
 今週は静かな時間を作り、私たち一人一人に対するイエス様の愛を味わいましょう。私たちが、ぶどうの木の枝のように、イエス様につながっていれば、イエス様の心が私たちの毎日の暮らしの全ての行いに流れ込んできます。さあ、毎朝、次の様に祈りましょう: 「イエス様、あなたは私とともにいてくださいます。あなたはぶどうの木で、私はその枝です。私はあなたに寄り頼みます。」  このような祈りによって、私たちの日々に、よき味わいがもたらされます。(相田)

復活節第4主日 B年 2018年4月22日

聖書:ヨハネの手紙13:1-2; 詩編 23; ヨハネ10:11-18
 今日のミサの第2朗読で:「御父がどれほど私たちを愛してくださるか…私たちが神の子と呼ばれる…事実また、その通りです。」(1 ヨハネ 3:1)と読まれました。 福音では:「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。…私は羊のために命を捨てる。」(ヨハネ 10:14-15) と読まれました。
2つの朗読のテーマは神との温かい交わりです。どちらでも神から特別に愛された子です。わつぃたちの神イエスは私たちを愛する人間して扱いますが、その愛の交わりを説明するのにたとえを使います。イエスは羊飼いで私たちはその羊です。
横浜は370万人の人口がありますが、牧場はありません*。羊を知りません。羊を想像してイエス様が私たちにおくった深いメッセージを学ぶことが大切です。私たち一人一人が神にありのままで愛されています。
イエス様の時代には、羊飼いは持ち主の息子のことが多かったのです。羊飼いは自分の羊を世話しました。給料だけのためではありません。羊の群れは平均10-20頭でした。子羊が生まれるとその名前を付けます。羊飼いはオオカミから羊を守ります。青草と水辺に導きます。羊飼いと羊の間には親密な関係があります。羊は羊飼いを愛し信じます。羊飼いがいると安心です。イエス様は私たちの羊飼いです。イエス様は私たち一人一人をその名で呼びます。(優しい呼びかけが聞こえますか? 耳を澄まして聞きましょう!) やさしい神様はいつも私たちのそばにいます。イエス様は詩編23の実現です。「主はわれらの牧者」
イエス様はその愛を他人と分かちあうように求めています。神の愛の安全と温かさへと他人を招くよう求めています。
*「こどもの国」の中にある雪印こどもの国牧場には羊もいます。(中里)

復活節第3主日 B年 2018年4月15日

聖書:使徒言行録 3:13-19; 詩編 4; (一)ヨハネの手紙 2:1-5; ルカによる福音書 24:35-48
 今日の福音書(ルカによる福音書 24:35-48)は、イエスが死から復活した後の場面です。イエスの弟子たちは大きな部屋に集まっていました。イエスが殺されたため、皆落胆に沈んでいました。そればかりでなく、イエスを見捨てた恥ずかしさでいっぱいでした。ペテロは公衆の前でイエスを知らないと言い切りました。イエスは皆の前に現れ、「あなたがたに平和があるように」と祈られました。イエスが死んだことを弟子たちは知っていたので、これは亡霊だと思いました。その時代では、悪いことをした人に死からよみがえった亡霊が取りつき復讐すると信じられていました。イエスは亡霊でなく、正真正銘のイエスでした。イエスは十字架にはりつけにされた時の手と足とわき腹にできた傷を見せました。イエスはまさにイエスでしたが、おもむきが違っていました。栄光に包まれていました。しかし弟子たちは依然としてイエスを亡霊と思い、恐れおののいていました。弟子たちを安心させるために、イエスは干した魚を食べました。亡霊は食べ物を食べないからです。これは私たちの神であるイエスの思慮と思いやりを示すひとつの例です。
 神として、イエスは弟子たちに聖書の深い意味を悟らせるという能力を与えました。わたしたち人間は聖書を読むことができますが、そこには言葉が書かれているだけです。深い意味を知ることで人生の中で平和を味わうことができます。私たちを照らす神からの力が必要なのです。
 イエスは復活してわたしたちの中におられます。イエスがそばにいます。イエスは罰するためでなく平和を与えるために弟子たちに現れました。わたしたちの神は罰する神ではありません。イエスは慈しみと理解力に満ちています。イエスは弟子たちの弱さと過ちに理解を示されました。イエスは彼らを許し平和を与えました。今日、イエスはわたしたちに対しても同じです。わたしたちの神は許しそして罪を取り去ってくださいます(第二朗読)。神は人間一人一人を愛しています。この愛を他の人々に示すことを、今日イエスはわたしたちに望まれています。家庭、職場、学校でイエスの愛の証人になりましょう。(薩田)

復活節第2主日(神のいつくしみの主日) B年 2018年4月8日

聖書:詩編118、使徒ヨハネの手紙5:1-6、ヨハネによる福音20:19-31
今日の答唱詩編に「恵み深い神に感謝せよ。そのあわれみは永遠。神のいつくしみは絶えることがない」(詩編118の1)とあります。「神のいつくしみの主日」である今日、私たち一人ひとりに注がれる神のいつくしみを心に留め、神に感謝しましょう。
ではご復活後のイエスの具体的な姿に示されている「イエスのいつくしみ」に注目してみましょう。イエスは今日も同じ姿でおられます。
① マグダラのマリアは悲しみに打ちひしがれ、さめざめと泣いていました。そこへイエスが現われ、「マリア」と名前をお呼びになりました。これこそ、いつくしみです。
② イエスが十字架につけられて亡くなられた後、二人の弟子達はエマオヘ帰りました。彼らは失望のどん底にありました。その途上にイエスが現われ、静かに二人に話しかけられました。これこそ、いつくしみです。
③ ペトロはイエスのことを「知らない」と否定しました。ペトロにお現れになった時、イエスはペトロを叱りませんでした。ただ、「あなたはわたしを愛しているか」とだけお尋ねになりました。これが、いつくしみです。
④ 今日の福音で、復活されたイエスは、恥ずかしさと恐怖に震えている弟子たちに「あなたがたに平和があるように」という祈りの挨拶をもって現われました。これが、いつくしみです。
⑤ さらに…弟子の一人であるトマスは、イエスが軍隊を率いてローマ帝国の占領軍を追い出すことを望んでいました。イエスが殺されてトマスの望みも無くなり、彼は弟子たちからも逃げ出しました。戻ってきても(イエスが来られた時にいなかったので)彼は「私はイエスが復活されたことを決して信じない!」と言いました。8日の後、イエスは再び現れました。イエスはトマスをお叱りになりませんでした。イエスは優しく、人間の弱さをよく理解しておられ、いつくしみに満ちておられました。イエスのこのいつくしみの結果、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の偉大な表明をしました。
イエスは私たちに、今日も同じいつくしみを注いでくださいます。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ人への手紙13:8)
今週、沈黙のうちにあなた自身の言葉で祈り、復活されたイエスに会いましょう。イエスのいつくしみを味わい、それを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

復活の主日 B年 2018年4月1日

聖書:使徒言行録 10:34-43; 一コリント 5:6-8; ヨハネ 20:1-9
 私は、タナベさんというお爺さんから、とても大切なことを学びました。そのタナベさんについて、お話しします。タナベさんは息子さんと隣同志で住んでいて、夕食はいつも息子さんの家族と一緒でした。でも、息子さんが会社の転勤で、3年間、アメリカで働くことになりました。ある日のこと、お爺さんのタナベさんの隣人が、夕食を一人で食べているタナベさんを見て、「一人での食事では、とても寂しいでしょう」と言うと、タナベさんは、こう答えたのです:「いいえ、寂しいなんてことはありません。復活したイエス様と一緒に食事しているのですから」
 私は、お爺さんのタナベさんの答えを聞いて、なるほど、これが、イエス様の復活の意味なのだとピンときました。イエス様は死者の中から復活したのですから、もはや、時代にも、国にも縛られず、今、ここで、私たちと共に生きているのです。復活したイエス様は、今日、私たち一人一人に、生きている声で、「恐れるな!私があなたと共にいる」と、おっしゃっているのです。
 イエス様は、人生の道を、私たち一人一人の隣で歩み、旅しています。私たちは決して一人ではありません。孤独や苦しみに出会ったときこそ、この大切な真実を思い起こしましょう。
 私は、タナベさんに、彼の言葉に心動かされたことを説明し、お手本を他の人に伝えるために彼の名前を使わせてほしいと頼みました。16年前、彼の葬儀で、私はそのことを皆に語りました。
 イエス様は死者の中から復活し、今、私たちと生きているのですから、聖書でイエス様の言葉を読むと、それは生きた言葉となります。イエス様は私たち一人一人に、「恐れるな、私があなたと共にいるのだから」と語りかけているのです。
 イエス様の復活には、いろいろな意味がありますが、これも、その一つです。頭では分かっていましたが、タナベさんを通して、心で感じることができるように、神様が私に働きかけてくれたのです。(相田)

枝(受難)の主日 B年 2018年3月25日

聖書朗読:イザヤ 50:4-7; 詩編 22; フィリピ2:6-11; マルコ14:26-15:47
 この主日は伝統的に2つの名前があります: ①枝の主日。イエスが王としてしゅろの枝でエルサレムに歓迎された―復活を予期させる。イエスはまことに神。②受難の主日。イエスは私たちへの愛のために苦しみ死ぬ―彼はまことに人。
第1朗読でイザヤはメシア-救い主の苦しみを予言します。キリストは本当の人間の苦しみを体験するので、苦しみに疲れ果てた人を励ますことができます。パウロはフィリピの教会への手紙で、イエスはまことの神であるが、すべてを捨てて、つまり、神であることの栄光をわきにおいて、私たちのような真の人となり、本当に苦しむと私たちに語っています。
真の人間であることで、イエスは苦しみ会うときに感じる多くを経験しました。つまり、神が見捨てたという完全な空しさを。イエスは十字架上で詩編22を祈ります。「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか?」詩編は希望で終わります:「主は私の力、助け。」
マルコの受難という物語は非常に残酷ですが、ローマ軍の士官の「本当にこの人は神であった。」という宣言で終わっています。
マルコ福音、特に受難もの物語りの背景は今日私たちにも大切です。マルコが福音を書いた西暦1世紀のキリスト者は迫害されており、非常に苦しんでいました。そこでマルコは苦しむ人々に励ましのメッセージを与えました。「イエスは私たちのように本当の苦しみを経験した。イエスは私たちが苦しむとき私たちの真ん中にいる。」昔と同じように、イエス自身の具体的な言葉があります:「小さな群れよ、恐れるな。私はあなた方とともにいる。」聖書の中の永遠の現在形で、イエスはこの言葉を今日もおっしゃいます。
遠藤周作は「イエスの生涯」という本の中で、10章に書いています。「イエスは私たち人生の旅路の永遠の同伴者です。イエスは人間のすべての悲しみと痛みを経験しました。」イエスはおっしゃいます:「苦しみを味わった。あなたの痛みがどんなか知っている。だから、『苦しむ時、あなたのそばに私はいる。』といえる。」
これは苦しみとすさみの時に大きな希望を与えてくれる私たちは決して一人ではありません。今日もイエスは生きている声でおっしゃいます:「恐れるな、私はあなたと共にいる。」イエスが一緒に苦しむとき、イエスの苦しみの深い意味をよりよく理解できます!「一緒に」という言葉は重要です。これを味わいましょう。(中里)

四旬節第五主日 B年 2018年3月18日

聖書朗読: エレミア31:31-34, 詩編 51; ヘブライ人への手紙5:7-9; ヨハネ 12:20-33
 私は心からイエスは神であると信じています。また同時にイエスは真の人間であることも心から信じています。イエスは、100%神であり、100%人間なのです。
 真の人間として、イエスを死に追いやった指導者たちの敵対心をイエスは知っていました。彼らは自分を殺そうと計画していることをイエスは知っていました。人間と同じ恐怖と不安をイエスは体験なさいました。このことは将来に対し恐れを感じるときに私の慰めとなります。神様は私の心を理解してくださるとわかり、信頼を持て神様のところに行くことができます。イエスは同じ恐怖を抱きました。今日の福音書の中で、「わたしは心騒ぐ」と言われました。
 一粒の麦が地に落ちて死ねば新しい命をもたらす。十字架上で死ぬことで、イエスは私たちに永遠の命をもたらしました。この命では、イエスは(人生の原型である)希望を与えてくれます。
 イエスに従う者は、他人のために死ぬことを求められています。例えば、自分の考えをわきに置き、ほかの人の考えを聞くことを求められています。また時間をほかの人に使うことを求められています。さらに自分の都合ではなくほかの人のことを優先することを求められています。これらの行為は「小さな死です」。しかし新しい命をもたらします。
 わたしたちの多くはこの的を狙いますが、外してしまいます。(これが聖書の中での罪なのです)。心の反省をしましょう。
 聖書の中で最も美しい悔い改めの祈りは、詩編51です。
 神様はわたしたちが心から悔い改めるなら許しをくださいます。「あなたの罪を許そう。決して心に留めてはならない」

四旬節第4主日 B年 2018年3月11日

聖書朗読:歴代誌下36:14-23 詩篇137 エフェソの信徒への手紙2:4-10 ヨハネ3:14-21
今日(主日)の聖書を散歩しましょう。第一朗読では、バビロン捕囚から解放までの、神に選ばれた民であるユダヤ人のことがとても短く要約されています。彼らはまことの神を繰り返し否定しました。ここで強調されているのは、神が決して彼らをお見捨てにならなかったことです。捕囚の長い年月を通して、ユダヤ人たちはまことの神について2つの重要な真理を学びました。第一に、神の愛は無条件であること。彼らは自ら神を否定したのであって、神様からの罰ではなかったこと。第二に、人々はまことの神の働きはエルサレムの神殿にだけあると考えていましたが、後にまことの神は世界中に、すなわちバビロンでも、そしてペルシア王キュロスのような異邦人の支配者を通しても働いておられることを発見しました。
答唱詩編137は、捕囚に苦しむ人々の悲しみの歌です。第二朗読でパウロは、神はわたしたちをこの上なく愛し、独り子であるキリストを与えて下さったと教え、福音はこのように繰り返しています:「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3章16節)。神はイエスにおいて人となられました。私たちを責めたり罰したりするためではありません。イエスは私たちを癒し、救うために来られました。神は、愛と慈しみの神です。パウロは、私たちが神の賜物に値しないものであると教えています。私たちがいただく恵みは寛大な神からの無償の賜物です。神は私たちを愛しておられます。
福音でヨハネは2つの動詞を使用しています。「下る」と「上げる」です。イエスはニコデモへのお答えの中で、旧約聖書の不思議な出来事について触れています。ユダヤ人は40年間荒れ野を旅していました。ある時、毒蛇による災い(病)が彼らを襲いました。モーセは青銅でできた蛇を旗竿(十字架)の上に高く上げ、人々に竿を見上げて、神の助けと病からの回復を願うようにと話しました。イエスは天から下って来られ、竿(十字架)に上げられました。十字架上で苦しんでおられるイエスを見上げましょう。私たちも癒され救われるでしょう。神は私たちひとりひとりを愛しておられます。この癒しと愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

四旬節第3主日 B年 2018年3月4日

聖書朗読 詩編 19; 一コリント 1:22-25
 私には、ある人に命を助けてもらった生々しい思い出があります。それは60年たった今でも鮮やかな思い出です。その時、私は若い神父でした。30人の神学生たちと泳ぎに海に行った時のことです。波はとても高く、底には強い流れがありました。私は、そんな打ち寄せる波の中で泳ぐのは初めてでした。波に横向きに飛び込むと、底に向かって引き込まれました。私は心底うろたえ、おぼれると思いました。その時です、太平洋の島トンガから来た若い神学生が深く飛び込んできて、助けてくれたのです。私は感謝でいっぱいになりました。そして、とても不思議なことが起こりました。その日から、私たちの間に目に見えない絆ができたのです。10年たち、30年たって彼が司教になっても、その強い友情を感じていました。パトリック・フィナウが私の命を助けてくれた。私は今も彼に感謝しています。
 さて、皆さん、少し考えてみてください。私たちは皆、同じことを経験しています。イエス様が私たちを救うために、すすんで十字架の上で命を捧げたのです。私たち一人一人に、イエス様との間に目に見えない絆があるのです。今日の第二朗読の、聖パウロの言葉です:「私たちは、キリストが十字架にくぎ付けにされたことを延べ伝えますが、これはユダヤ人にとってはつまづきであり、異邦人にとっては愚かなことですが、私たちには、神の力であり、神の知恵なのです」(一コリント1:23)
 カトリック信者は、十字架を、まるで亡き両親を思い出すための写真のように、用います。この四旬節に、十字架を見、掲げましょう。十字架は酷く、恐ろしく見えます。でも、私たちは、2000年前のこの出来事の後ろに、愛を思い起こします。私たちを救い、私たちと一緒に人生を旅し、私たちのために天国の門を開くために、イエス様は自分の命を捧げました。最後の晩餐でのイエス様の言葉です:「友のために死ぬより大きな愛はない。あなた方は私の友である。」(ヨハネ15:13) さあ、この友情を心に受け止めて、イエス様に感謝しましょう。この愛を、他の人たちと分かち合おうではありませんか。(相田)

四旬節第2主日 B年 2018年2月25日

聖書朗読:創世記2:1-18; 詩編 116; ロマ 8:31-34; マルコ 9:2-10 18
 今週、山に登りましょう! 聖書では静かな山頂で、人々は神に会いました。例えば、アブラハム、モーゼ(シナイ山)、エリシャ(カルメル山)。今日の福音でペトロとヤコブとヨハネはイエスとともに高い山に行き、そこでは彼らだけでした。
イエスの12使徒のうち、ペトロとヤコブとヨハネは他人としてのイエスをよく知っていました。イエスは優しく、思いやりがあり、人間の弱さを知っていました。イエスが悩み、飢え、空っぽの心の人を強く慈しみ、どんなに深く感じていたかを分かっていました。しかし、イエスに従う人たちはまだイエスを単なる人間と見ていました! イエスが軍隊を率いて自分たちの国を占領し苦しめる憎むべきローマの兵隊を追い払うことを望んでいたでしょう。
この山の上で、3人は神としてのイエスを知りました。栄光と光がイエスから輝き出て、天からの声が:「これこそわが愛する子、これに聴け」といいました。
この3人の使徒は啓示を必要としていました。後に人間としてのイエスがゲッセマニで苦しみ、十字架上で罪人として死ぬのを見るからです。彼らにとってこれは理解できることでした。
しかし、今日の私たちにとって、このすべてはどんな意味でしょうか? イエスはすべての力を持つ真の神だが、苦しみ、痛み、裏切り、孤独、いじめ、失敗と見えることを経験した神であると私たちは考えています。イエスは私たち人間の苦しみを理解しています。イエスは私たちのそばにいます:「必要なときにはいつでも、あわれみ深い神の王座に勇気をもって近づくべきである。そこでおしみない慈しみを受け、助けを見つけるだろう。」(ヘブライ 4:16) 聖書のこの言葉はすばらしい励ましです。そして、今日の第2朗読は「神がそばにいれば、誰が私たちに逆らえよう」(ローマ8:31) 今日、私たちの神、イエスは父なる神の前私たちの代理者となる。「イエスは神の右に立ち、私たちを弁護する」 (ローマ 8:34) これはすばらしい神秘です。(中里)

四旬節第1主日 B年 2018年2月18日

聖書朗読:創世記9:8-15、詩編25、マルコ1:12-15
 四旬節が始まりました。四旬節は教会にとって特別な期間です。イエスの復活まで四旬節は40日間続きます。よりより良い人になるようにまたイエスに従う者となるように、四旬節の期間中私たちは精神的な旅をします。全ての旅は第一歩から始まります。四旬節の旅の第一歩は灰の儀式です。この儀式は、私たち人間はみな死に、そして灰に帰る存在であることを教えます。これは暗い経験のように感じられますが、この儀式での特別な言葉は希望と光に満ちています。そのとても重要な言葉とは、「回心して福音を信じなさい」です。
 “悔改めなさい”とか“回心”とは、立ち止まりそしてこの地上での私たちの人生を振り返り新たなスタートを切りなさいという意味です。
 “喜ばしい知らせ”または“福音”とはイエス自身とイエスの教えによる喜びに満ちた教えです。
 教皇フランシスコは、教会への書簡(福音の喜び #164)において喜ばしい知らせを次のようにまとめています。「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うために命をささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます。」
 四旬節の期間中この重要な言葉を思い巡らしましょう。これはキリスト者としての中心的な言葉です。イエス・キリストすなわち人間となられた私たちの神様は、わたしたち一人ひとりをありのままに愛してくださいます。この愛を証明するためにイエスは命を犠牲にされました。イエスは死者から復活され、今なお日々私たちと共におられます。イエスはわたしたちのそばにおられ、わたしたちを守り、導き、力づけられます。イエスはわたしたちの心の闇に光を与えます。この喜ばしい知らせを信じ、次のように祈りましょう。「イエスよ。あなたを信じます。わたしの不信心を改めさせてください。」
 神の愛という喜ばしい知らせを他の人たちと分かち合いましょう。(薩田)

年間第6主日 B年 2018年2月11日

聖書朗読: マルコ1.40-45 1コリント10.31~11.1
福音書は歴史の本ではありません。私たちは今日、福音書で2000年前にこの地上に生きておられたイエスについて読みましたが、イエスは今日も生きておられます。イエスは私たちと同じ人間になられた神です。イエスは十字架につけられて死にましたが、3日後に復活されました。神であるイエスは私たちの中に生きておられ、福音書は(普遍の)現在形で書かれています。ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブ13.8)
今日の福音にハンセン病と呼ばれる重い皮膚病を患っている人が出てきます。彼の体はできものだらけです。この病気は深刻な伝染病とされていましたから、この病気にかかった人は、家族から隔離され、家を追い出されました。誰一人、彼に触れず、近づきさえもしませんでした。彼はとてもとても孤独でした。家族からも見放されていたのです。できものと傷だらけの体はひどく痛みましたが、心の傷はそれ以上の激しい痛みでした。
この重い皮膚病の人は大胆にイエスに近づき、清くしてほしいと乞い願い、イエスは手を差し伸べて彼に触れました。マルコはこの箇所で特別なギリシャ語の動詞を使っています。イエスはこの人に会ったとき「深く憐れまれ」ました。イエスはこの人の孤独で、拒絶されて深く傷ついた心を理解されたのです。この「深く憐れんで」(日本語の「断腸の思い」に近いことば)という動詞は、福音書で9回、イエスの心を表すために使われています。
イエスの心は、今日も2000年前のこの時と全く同じです。
①私たちの心の傷を認め、祈りの中で大胆にイエスに近づきましょう。「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい」とイエスは言われます。今日、生きているイエスの愛といつくしみを味わいましょう。
②イエスの平和の道具になりましょう。あなたの近くに孤独や拒絶・裏切りにあって苦しんでいる人はいませんか?イエスの道具となって、その人に励ましと慰めを届けに行きましょう。(北尾)

年間第5主日 B年 2018年2月4日

聖書朗読: ヨブ 7:1-7; 詩編 22; マルコ 1:29-34; 詩編 147:3
 ヨブは絶望のどん底にいました。病気で孤独でした。友人たちに裏切られた思いで、不平を言っています。「人生や苦しみにどんな意味があるのか?」と問うています。でも、注意してください。これは神への祈りなのです!聖書には、このように、神への不平の祈りが多くあります。例えば、サミュエル上の1:1-22のハンナや、詩編22にも神への不平があります。神は、祈りの中では、私たちに、飾らない、本当の心を望んでいます。ですから、むなしく感じるとき、神にそう言いましょう!神に怒りを感じるなら、そう言いましょう。このような不平が、なぜ、祈りなのでしょう?それは、深く落ち込んでいるときこそ、私たちは神の慈しみを知るからです。その慈しみを感じることができないので、神に癒しを願い求めるのです。
 今日の福音で、イエスは、苦しんでいるペトロの姑の元に行きます(当時、高熱に苦しむことは、死に行くことを意味していました)。イエスはその手を取り、起こされたのです。それは小さな、復活のようでした。私たちの神、イエスは、人々と共に感じています。私たちと共に苦しむのです。
 あなたがもし苦しんでいるなら、心の中をイエスに打ち明けてください。不平を言ってください。そうすれば希望が与えられます。詩編22には、「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか?」とあります。
 イエスは、生きた声であなたに言うでしょう:「疲れた者、重荷を負った者は、私の元に来なさい。休ませてあげよう」(マタイ 11:28)
 イエスは、私たちの苦しみの祈りを聞いてくれます。私たちと一緒に苦しんでくれます。私は神父になってまだ若い頃、私たちの神、イエスが、一緒に苦しんでくださることを学びました。大島先生は、深い信仰を持ったカトリック信者でした。ガンのために、とても強い痛みに苦しんでいました。畳に敷いた布団に横たわり、十字架を握りしめ、そして、それをじっと仰ぎ見ていました。大島先生は痛みに苦しんでいましたが、同時に、イエスの平安と共にありました。私たちも、今日の詩編147:3の次の言葉を深く味わいたいと思います:
「神は失意の人を支え、その傷を癒される」(相田)

年間第4主日 B年 2018年1月28日

聖書朗読:申命記18:15-20; 詩編 95; マルコ1:21-28
 モーゼの時代に人々はいう:「主の声を聞けば、死ぬだろう」(申命記 18:16) だら、モーゼだけが恐れずに神に近づいた。「モーゼは神と顔と顔を合わせて友達のように話した 」
(出エジプト 33:11)
1,700年後に、約束された預言者、救い主であるイエス・キリストが神は愛であると権威をもって宣言した。今では、だれもが神に信頼を持って近づくことができます。神は「アッバ」愛するお父さんです。イエスさまに神の優しさといつくしみを見ます。私たちは誰でも今では神と顔と顔を合わせて話せます。イエスは権威を持って教えました。その権威は神ご自身から来ます。イエスの教えは当時の人々には新しいもので、深い印象を与えました。イエスの教えは私たちにも印象を与えるでしょうか?私たちは鈍くなっているでしょうか?
イエスからの神のメッセージを確かめるために、「汚れた霊」を持った男を癒しました。つまり、病気で苦しんでいる人を。聖書と典礼の12世紀の絵が足枷(かせ)をつけた男を示しています。苦しみのシンボルです。イエスは癒しました。今日でも、私たちは枷をかけられた心を持っています。いやし、自由にし、平和を与えるようにイエスに願いましょう。
「心の枷」― 私たちを傷つけた人を許せない、怒りの枷、うらみ、反感、嫉妬。
イエス様、私たちを自由にしてください。
「心の枷」― 誘惑、依存、うつ病、自己嫌悪、自己中心、劣等感など、など、など。
イエス様、私たちを自由にしてください。
イエス様への祈りの中で、自分の一つ一つの弱さを具体的に詳しくわからせてくださるよう、そして自由、励まし、平和を願いましょう。
聖書は:「イエスは私たちのすべての弱さを知り ― だから、必要な時にはいつでも、あわれみ深い神の王座の前に勇敢に出るべきだ。そこでおしみない慈しみで癒され、助けを見つける」といいます。(ベブライ4:15-16) 中里

年間第3主日 B年 2018年1月21日

聖書朗読:ヨナ書; 詩編 25; マルコ 1:14-20
ヨナ書(たったの3ページ半です)を全て読んで振り返ってみましょう。ヨナ書はたとえ話で史実ではありません。ユダヤ人の宗教と国が最もエリート主義的かつ排他的であった紀元前400年頃ヨナ書は書かれました。多くのユダヤ人は、ユダヤ人でない者は神から呪われていると考えていました。ヨナ書は狭い考えに対する見事な反論です。そのメッセージは今日のわたしたちにも当てはまります。
ヨナ書は4幕から構成される劇に似ています。ヨナという人は熱心なユダヤ教徒でした。ニネバは嫌われている異邦人のアッシリアの首都でした。
第1幕:東にあるニネバに神の言葉を伝える者として行くように、神はヨナを呼びました。ヨナは断り、西に行く船に乗り込みました。激しい嵐に合い、異邦人の船乗りは祈りました。ヨナは眠り込んでいました。
第2幕:ヨナはクジラに飲み込まれて助けられ、お腹の中でついに神に祈りました。そして乾いた土地の上に吐き出されました。神は再びヨナにニネバに行くように頼みました。
第3幕:ヨナはニネバの人に改心を呼びかけました。市民は皆改心しました。
第4幕:異邦人に対し、神は優しく、慈しみ深く、許しを与えるべきではないと考えていたヨナは、神に対し怒っていました。ヨナは自分の考えを切り替えることに苦闘していました。神の愛を受け入れ、神の友となったのでしょうか。聖書には書かれていません。わたしたち自身で結末を考えなければなりません。
 今日のわたしたちにとってヨナ書のメッセージとは何でしょうか。自問してみましょう。私の神は思いやりがあり、許しを与え、人間の弱さを理解することを本当に信じているのでしょうか。それとも、神は厳しくまた罰する方と考えているのでしょうか。神は無条件の愛です。特に苦難の際、神が労ってくださると信じているのでしょうか。神の愛と優しさを他の人に表しているでしょうか。神は人生の中で何度も繰り返し、神と他の人に近づくように呼びかけられます。今日の福音のように、ペテロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネたちのように、完全にイエスに従うようにという神からの招きに応えているのでしょうか。“主よ、あなたの道を私に示し あなたに従う道を教えてください”(詩編25:4)(薩田)

年間第2主日 B年 2018年1月14日

聖書朗読:サムエル記上3:3-19;詩篇40:ヨハネ1:35-42
イエス様は今日、私たちと共に生きておられます。イエス様は特に福音を通して、生きている声で私たちに語りかけます。今日イエスは私達一人ひとりに重要な言葉をかけられます。
「何を求めているのか?」
私が自分自身に直面して「人生で一番欲しいものは何だろう」と思い巡らすと、初めにイエス様に答えるのは「健康と視力を望みます」だと思います。しかし、さらに深く思い巡らせこう答えます。「私はあなたに出会って、あなたをもっと深く知りたい」イエス様も私におっしゃいます。「来て、見なさい」 これは優しく素晴らしい招待状です。
私は若いころからそして今でも聖アウグスチヌスの祈りが心に響いています。「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休まることはありません」
イエス様は私たち一人ひとりに「何を求めているのか?」と問いかけておられます。イエス様は私たち一人ひとりに、温かいもてなしを受けるためにイエス様のもとに来るよう招いておられます。具体的には祈りの中でイエス様と一緒に静かな時間を過ごすよう、私たちに勧めています。
祈りの中でイエス様に会いに行くとき、このように始めましょう。まず「主よ、私はここにいます。お話しください。私は聴いています。」と話し、しばらく沈黙します。沈黙の後、自分自身の言葉で願いをイエス様に伝えましょう。このように祈る時には聖書がとてもよい助けとなります。
現代社会で、私たちはとても忙しく、多くの音に囲まれています!私たちは心を騒がせる雑音を止める方法を学ばなければなりません。スマートフォンを別の部屋に置いておくとか…?
主は、祈りの中でご自分と会うようにといつも呼びかけておられます。主がサムエルを4回も呼ばなければならなかったことを忘れないで!神の呼びかけに敏感でいましょう。
今日の福音に出てくる2人の弟子たちは、イエス様と初めて会ったのが午後4時ごろだったことを後々まで覚えていました。
祈りの中でイエス様に会いましょう。そしてイエス様の平和と励ましを味わいましょう。今日の福音のアンデレがしたようにイエス様の平和と励ましを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

主の公現 B年 2018年1月7日

聖書朗読:イザヤ 60:1-6; 詩編 72; エフェソ 3:2-6; マタイ 2:1-12
今日は「主の公現」の祝日です。この祝日で、神様が御子をすべての国に現わされた出来事が思い起こされます。聖書には、後世の私たちに深い意味を持つ歴史的な出来事が、たびたび述べられています。例えば、ユダヤ人の人々は、約束の救い主を1000年も待ち望んでいましたが、イエス様に最初に会うように呼ばれたのは、祭司たちではなく素朴な羊飼いたちでした。この羊飼いたちがユダヤ人の代表でした。今日の福音には東方からやってきたユダヤ人ではない3人が登場します。この3人は、世界のすべての国を代表しています。この3人は貴方であり私なのです!
この3人は「賢人」と呼ばれています。どういうことかというと、この3人は自然-太陽、月、星について研究していて、創造主の人間を超えた力を知っていたのです。そして、大地の上での人生の意味について探索し、この力によって強められ導かれることを望んでいました。彼らは特別な星を見つけて、その導きに従い、その星は彼らをイエス様の元に導きます。彼らはこれを受け入れ、イエス様を彼らの神として敬愛します。イエス様は彼らの力となり案内者となったのです。心にいっぱいの感謝を表して、彼らはイエス様に贈り物を捧げました。
現代の私たちへのメッセージとチャレンジは次のようです:私たちは、星や月、花などを見て、これらの自然を創造した方について思いめぐらすでしょうか?それとも当たり前のこととしてしまうのでしょうか?私たちは神様を探し求めているでしょうか?私たちを導く星-聖書を読んでいるでしょうか?私たちは本当にイエス様に出会い、心に愛をもって受け入れているでしょうか?ご自身を私たちに表わしてくださったお恵みに感謝して、イエス様に贈り物を捧げているでしょうか?それはどんな贈り物でしょうか?イエス様が私たちに求める贈り物は、興味深いものです。私たちの疲れや重荷、イエス様への友情、私たちの弱さ、心の渇きを差し出すことを、イエス様は福音書の中で呼びかけています。時間をとって祈り、イエス様に出会うよう呼びかけられています。そして、私たちにくださった恵みを、他の人々と分かち合うことを、イエス様は私たちに呼びかけているのです。(相田) 

聖家族の祭日 B年 2017年12月31日

聖書朗読創世記18:1-6; ヘブライ11:8-11; ルカ 2:22-40
 「神に信頼せよ」何を意味しますか。聖書は信仰をこのように説明します:神はその人と荘厳な約束をし、その人を見守る。信仰は神の約束を信じ、それによって生きることである。 このような信頼は苦しみを避けるものではないが、それに意味を与える。聖書でアブラハムは信仰の模範である。
アブラハムは神に言われて、新しい家族を作るために、故郷を離れ、砂漠に入る。しかし彼は年を取っており、子供がなかった。砂漠は危険で水のない所だとも思っていた。神は言った:「アブラハムよ、恐れるな。私はともにいる。私はあなたの盾。」(盾は守るための武具なので、「盾」はここでは「神は守ってくださる」の意味。) 「アブラハムが神の呼びかけに従ったのは信仰によってであった……どこに行くかを知らないで出発した。」 (ヘブライ11:8) 言い換えれば、神の約束を信じたのである。アブラハムは将来を御手に委ねた。
今日、私たちはこのような信仰、このような信頼を必要としている。誰が自分の将来を知っているだろうか。誰もいない。神の約束を心にとめよう。神は私たち一人一人に言われる:「恐れるな。私はいつもあなたと共にいる。あなたを見守る。」そうです。まだ苦しみに会うが、神がそばにいてそれを克服できる。人生の旅は決して孤独ではない。
今日のミサの詩編105にその言葉がある:「神とその力を思いめぐらそう。いつもその御顔を求めよう。」祈りの中で神に会おう。
愛に満ちた父なる神はその子である私たちを見守るために力を使ってくださる。祈りの中で信頼をもって近づこう。
アブラハム、マリア、ヨゼフは信仰の模範であり、信仰と信頼が強くなるよう祈ろう。(中里)

クリスマス B年 2017年12月24日

聖書朗読:ルカ2:1-14
 みなさんにとってクリスマスとはどのような意味があるのでしょうか。
 神様から人間への最も頻繁に伝えられるメッセージの一つは、「恐れるな。私はあなたと共にいる。」です。キーワードは“共に”です。旧約聖書では、神様は与えられた仕事や召命をやりとげるために強さと勇気を与えられるという意味で用いられています。
 しかし馬小屋でのイエスの誕生はもっと根本的な意味を持っています。神ご自身は天の国の栄光を脇に置き、人となられました。イエスは100%神様で100%人間です。
 私たちの神であるイエスは、わたしたちと同じ人間の弱さを体験されました。イエスは、私たちがどのようにやり直ししたり、感じるかを知っておられます。またどのように喜び、苦しむかもご存知です。なぜでしょうか?それはイエスが人間と同じ苦しみを体験されたらです。言い換えれば、イエスは私たちと共にいらっしゃるからです。
 人生という旅路では、私たちは一人ではありません。神であるイエスが横におり、共に歩んでくれます。
 神様が人間になられた時から、神様はわたしたちに近く親しみやすい方となられました。
 私たちの神であるイエスは、わたしたち一人一人を名前で呼び言われます。「〇〇さん。恐れないでください。わたしはあなたと一緒にいます。」
 これがクリスマスの真の意味なのです。(薩田)

待降節第4主日 B年 2017年12月24日

聖書:サムエルⅡ7:1-16; 詩編 89; ルカ1:26-38
 「恐れるな、私はあなたと共にいる。」神はダビデ王とマリアにいわれた。ダビデにこう言われた:「すべての戦いであなたと共にいた。」詩編89の21と24節で、ダビデに言われた:「私の選んだ僕ダビデよ、いつもそばにいて助けと力を与えよう……ダビデはいつも私の愛に頼れる。」(同) 私たちとともにいるという神のこの約束はアブラハム、モーゼ、ギデオンと予言者たちにされた。マリアにもされ、地上でのイエスの最後のことば:「私はいつもあなたとともにいる」である。
この約束は聖書の有名は人にだけされたのではく、普通の人である私たちにもである。
このイエスからの勇気づける言葉を考えてみよう。イエスは私たち人間とともにいる。これがクリスマスのメッセージである。幼子イエスを馬船の中に見るとき意味することである。神ご自身が私たち共にいるために人となった。イエスは人生の旅路で私たちとの横を歩く。わつぃたちは決して孤独ではない。勇気と力を与えてくださる。イエスは「私たちと一緒に私たちの弱さを感じ……助けが必要な時に憐れみと恵みをえるために恵みの王座に信頼をもって近づけるようにされてくださる。」(ヘブライ4:15-16)
喜びも悲しみも人間性のすべてを分かちあってくださる。本当に私たちと共にいてくださる。平和をもたらすこのメッセージの実現がクリスマスの本当のメッセージである。
これがベツレヘムの馬小屋からのメッセージである!イエスは言う「恐れるな。私はあなたと共にいる。平和がクリスマスの贈り物である。私の平和を他人と分かち合いなさい。」(中里)

待降節第3主日 B年 2017年12月17日

聖書: イザヤ書第61章1-11ルカ1:46-54第1章5:16-24ヨハネ1:25
 「自己中心」はあなたの心を喜びから遠ざけます。自分を最優先にすることであなたの心にもたらされるのは暗闇です。自分のことを忘れて他の人を思いやることは、あなたの心に喜びと平和と光をもたらします。今日の福音に私たちの模範が示されています。
洗礼者聖ヨハネは当時とても人気のある説教者で、何千もの人が彼の話を聞きに来ました。彼には多くの弟子がいましたが、自分の使命は約束された救い主であるイエスの道を準備することであることを知っていました。洗礼者ヨハネはこう言っています:「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)
 自分が評価されることに執着せず、後進に道を譲ることが出来たら、私たちはそれを神様の贈り物として喜びをもって受け取ることが出来ます。私たちは自分の都合や楽しみを優先にして、他の人のことを忘れていませんか?私たちは別の人に席を譲ることが出来るでしょうか?
 イエスと福音の謙虚な精神に基づき、アッシジの聖フランシスによって実践された、世界的に人気のある有名な祈りは「平和の祈り」です
この祈りの中で、最も重要な言葉は、「神よ、私をあなたの道具にしてください(助け導いてください)」だと思います。「助けてください」はとても重要です。私たち弱い人間は、いつも自己中心に傾いていて、自分の力だけで、日常生活の中でこの祈りの精神を生きることは出来ません。私たちは神様に「助けてください(強めてください)、私たちの心のうちに働いてください」と乞い願います。
 この祈りを、待降節の間、毎日、ゆっくりと丁寧に祈りましょう。平和は、私たちに、家族、職場、地域、私たちの国、そして世界の一人ひとりに来ます。
 平和は私たちに喜びをもたらします。(北尾)

待降節第2主日 B年 2017年12月10日

聖書: イザヤ 40:1-11; 詩編 85; マルコ 1:1-8
 今日の聖書には、道、小道、広い道といった言葉が出てきます。教会の最初の百年くらいの間、イエスに従う人たちにとって、小道、道という言葉は特別なものでした。洗礼を受けることは、キリストの道に入ることだったからです。すなわち、洗礼を受けた人々は、イエスの歩んだ道を歩んだのです。神が人となり、私たちと同じように、人生の小道を歩んだのです。でも、注意してください。ここに大切なことがあります:イエスは今日も、私たちと共に人生の道を歩んでいるのです。ですから、人生の旅路において、私たちは決して一人ではありません。イエスは私たちのそばで、支え、力、そして勇気を私たちに与え、一緒に歩んでいるのです。「私は道である。人生の旅路で、私はあなたと共にいる。」-イエスの言葉です。祈りの中で、このことを深く受け止めれば、心の中に生き生きとした希望が沸き起こってきます。苦しみの中でさえ、この希望が消えることはありません。この希望の土台は、神の愛です。イエスは私たちと共にいます。イエスも苦しみの道を歩みました。「私は、決して、あなたを置き去りにも見捨てもしない。」(ヘブライ 13:5)-イエスはこう言われます。
 ラジオや新聞、テレビでニュースを聞くと、北朝鮮のミサイル、自社の製品についてうそを言う社長、毎日のように起きる殺人、物価の値上がりなど、恐ろしい事件の洪水です。高齢者は行く末を心配しています。年金は十分なのでしょうか?泥棒や殺人、自然災害もあります。そして、私たちは誰でも自分自身の死と向き合わなければなりません。いつ死がやってくるのか、わかりません。でも必ず来ます。こんな中にあって、私たちには希望が欠かせません。
 希望は、未来への信頼です。私たちの未来は、私たちを慈しむ神様の手の中にあります。「恐れるな!私はあなたの名前を呼ぶ。あなたは私の目に価値高く、私はあなたを大切にする。恐れることは無い、私があなたと共にいるのだから。」(イザヤ 43:1-5)-神様の言葉です。神様ご自身のこのような約束は大きな希望です。
 今週は、祈りの中で静かな時間を持つようにしましょう。神様があなたをどのように慈しみ、世話をやいてきたか、振り返ってください。これこそが、私たちの希望の土台です。そうすれば、信頼して、「愛する父よ、あなたの手に私の命を委ねます。私の未来をあなたの手にお任せします。私はあなたに寄り頼みます。」
これこそが希望です!(相田)

待降節第1主日B年 2017年12月3日

聖書朗読: イザヤ63:16-19&64:2-7; 詩編80; 1 Cor.1:3-9; マルコ 13:33-37
待降節の間、キリストの道の重要な真理を考えます。考えてみましょう。神様とはどういう方か?私たちと神様のつながりは?今日の聖書朗読では次のように言われています。
①「神よ あなたは私の父」イエスは私たちに、神様は優しく、穏やかで、私たちの幸せに関心があり、許す父親であると教えてくれます。イエスは子供が使う父親への呼び方、お父ちゃん、と呼びかけます。父である神は慈しみに満ちています。
②神様は私たちのあがない主です。このあがない主は、自由と幸せを与えるために膨大な額の身代金を支払います。神であるイエスは、私たちの幸せのために命という身代金を支払いました。
③神様は陶工で私たちは粘土のようなものです。粘土は陶工のろくろの上で上品に形作られます。陶工は仕事に誇りを持っていますが、焼き物はとても壊れやすいことも知っています。陶工としての神様は、意義と慰めに満ちた美しいたとえなのです。
④答唱詩編80は二つのイメージを用いています。神様はわたしたちの羊飼いです。神であるイエスは良い羊飼いで、羊たちを一匹一匹名前で呼び、守っています。イエスは優しくいなくなった羊を探します。
⑤神様はぶどう畑の主人です。この主人は一年中ぶどうの世話をして守ります。これは意味深いたとえ話です。
⑥第二朗読で聖パウロは、「神は真実な方です」と言っています(1コリント1:9)。この単純な言葉は意義深いものです。この言葉は神様の私たちに対する神聖な約束すなわち契約について述べているのです。その約束とは、「わたしは常にあなたと共にいる。」というものです。この約束に忠実であることは、例え仮にわたしたちが神様を忘れたとしても、神様は決して約束を破らないということを意味しています。神様はいつでも自分の羊の群れにわたしたちが戻るのを歓迎してくれます。
 福音書ではイエスは三度も「目を覚ましていなさい。」と言われました。神様のすばらしい優しさを想い、祈りと神の愛を他と分かち合うことを通して、神様との友情を一層強くするという意味です。(薩田)

王であるキリスト A年 2017年11月26日

聖書: エゼキエル 34:11-17; 詩編 23; マタイ25:31-46
 イエス様は今日の福音で大切なことを教えます。私たちは死んだ後に、私たちの生涯を振りかえると話されます。こう尋ねます:「私が地上にいたとき、飢えていた時に食物をくれたか?乾いた時に水をくれたか?旅人だったとき歓迎したか?病気だったり牢屋にいたとき尋ねてくれたか?」こう答えるでしょう:「イエス様!いつあなたにお会いしましたか?」こう答える:「これらの困っている人に良いことをしたのは、まことに私自身にしたのである。」今の私たちには大きなチャレンジです。
日本でだれが飢えていますか?ホームレスのほかに、心の大きな飢えがあります。イエス様はたずねるでしょう:「人に暖かに微笑みを与えますか?『よくやった』『ありがとう』といいますか?こういう親切はさみしい心に食べ物を与えます。」
日本では、福音の「旅人」は外国人労働者や近所に引っ越してきた人です。また家から遠く離れて働く人です。暖かく歓迎しますか、知らん顔をしますか?
日本では、入院している人のほかに、ストレス、うつ、依存症や心配にさいなまれる人がいます。イエス様はたずねます:「これらの人々に親切にし支えたか。」
日本では高い塀に囲まれ窓に格子のはまった刑務所に実際に入っている人がいますが、心の牢屋にいる人、寝たきりになっている人、家に閉じこもって家から出られない人いじめられている人がいます。そうすれば、天に永遠の報いがある。
「今日の最大の病気はらい病でもがんでも結核でもない。これは孤独です。今日の最大の悪は孤独な人への知らん顔と冷淡さです。」(マザー・テレサ) 中里

年間第33主日 A年 2017年11月19日

「貧しい人のための世界祈願日」
聖書:箴言31:10-31詩編128マタイ25:14-30
今日の福音の中で、イエス様は私たち皆にチャレンジ(課題)を投げかけています。 「あなたは人生で何をしますか?」私たち一人ひとりは、神様から使命をいただいています。そして神様はまた、私たちにその使命を果たすための贈り物や才能を与えてくださっています。誰もが、一人の例外もなく、生涯の仕事=使命を持ち、それを達成する能力を神様から授けられています。
一部の人々には豊かな才能が与えられています。彼らは、今日の福音のたとえ話の言葉でいう5タラントンを受け取ります。たとえば、音楽家、芸術家、作家、陶芸家、彫刻家などがそのような人たちです。しかし、私たちのほとんどは、1つか2つの才能をいただいた普通の人、つまり福音には1タラントン、2タラントンを預けられたと書かれている人です。
福音の中で、一番悲惨なのは「1タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた」という箇所です。
先ほどお話した、イエス様からのチャレンジは「これは私に当てはまるのではないか?」「私は、いただいた才能を隠しているのではないか?」ということです。
1タラントン、2タラントンをいただいた「普通の人」の例は、今日の第一朗読『箴言』の妻(2700年前の!)です。この有能な妻は洋裁の才能を持っていました。ある人々は頭がよく、ある人々は手先が器用です。ある人々は自信を持って話し、ある人々は人の話を深く聴くことができます。また、ある人々は微笑みで他の人をもてなす才能を与えられています。
私がニュージーランドの幼稚園に通っていたとき、水頭症の少年がいました。彼はとても虚弱で、ほとんど活動することができませんでしたが、彼が与えられた才能は、周囲の子どもたちが、苦しんでいる人に対して優しい心を持つことを(無意識に)促すことでした。
今週のプログラムです:
①自分の才能が何であるかを具体的に決めます。他の人と比較しないでください。神様は最善をご存じで、私たちにふさわしい才能を与えてくださっています。神様に信頼をおきましょう。
②いただいた才能を神様に感謝しましょう。これらの才能は私たちのものではなく、神様から預かっているものであることを再認識しましょう。この才能は神様から借りたもの、と思うならばその結果生じるのは「謙遜」です。
③いただいた才能をどのように他の人と分け合うかを決めましょう。
フランシスコ教皇様は、私たちの才能を特に、貧しい人々と分かち合うように求めておられます。神様にいただいた愛を隣人、特に貧しい人を愛することによって神様にお戻ししましょう。(北尾)

年間第32主日 A年 2017年11月12日

聖書: 知恵の書 6:12-16; 詩編 63; マタイ 25:1-13
 聖書の中で、知恵は、励ましに満ちた言葉です。ヘブライ語やギリシャ語では、知恵という名詞は女性名詞です。さて、この知恵とは何でしょう?
 聖書でいう知恵は、勉強や頭の良さ、学習が強調される世間的な知恵とは、かなり違います。これらの勉強などは、私たちとどう関係するでしょう?多分、学者になるとか、会社のトップになるとかでしょうか。でも、これらのことは一時的なことにすぎず、人の心を本当に満たすことはできません。
 聖書に示される知恵とは、学んでいようといまいと、求める人には誰にでも神様が下さる恵みです。「誰でも知恵が必要ならば、神様に求めなさい。そうすれば、与えられるでしょう。神様は寛大な方です。」(ヤコブ 1:5)
 さあ、天からの知恵への憧れを、強く持ちましょう。今日の詩編63に、その憧れが表されています。知恵は、私たちの人生の暗闇を照らす灯火の炎を輝かせ続ける、備えの油です。「知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える」(知恵の書 6:15)のです。
 神様からの贈り物である知恵によって、人生での優先順位が付けられます。知恵は神様がどんなに私たちを愛しているかを示してくれます。神様はいつくしみに満ちています。人生の目的は、友であるイエス様と一緒に、天国に向かって旅することである、ということを知恵が示してくれます。知恵の恵みは私たちが賢く選択するのを助けてくれるのです。
 それだけでなく、知恵は、私たちの日々の生活のためでもあります。聖書では、知恵が、衣類の裁縫、大工仕事、テント作り、海を渡る船の案内を導いています。つまり、この知恵は、家庭、学校、職場、そして引退後の私たちの日々の生活のためのものでもあります。
 恵みである知恵は、祈りを通して受け取ります。この知恵という贈り物を求めて、毎朝、祈りましょう。つまり、私たちの普段の一日中の行動を導き、啓発することを、毎朝、神様に願うのです。夜には休んで、違いに目を向けましょう。私たちの心の灯火は、祈りと他の人々への親切という備えの油で燃え続けるのです。これこそが真の知恵です。さあ、神様に知恵を願いましょう。         (相田)

年間第31主日 A年 2017年11月5日

聖書マラキ 1:14-2:10、詩編 131、マタイ 23:1-12
 第一朗読では預言者マラキは神の代弁者として旧約聖書の祭司に警告しました。福音朗読では、神を敬うための613もの規則を作った律法学者とファリサイ派の人々の教えに対し、イエスは異議をとなえました。この規則は一般の人には大変重荷になっていました。また規則はとても複雑でした。
 新子安教会の司祭である私は、教皇フランシスコが2013年に出した勧告「福音の喜び」164に書かれている指針に従ってこのホームページでの説教を書いています。
 教皇様は、司祭は繰り返し様々な手段で次の大切な福音をはっきりと宣べ伝えなければいけない、と言われています。
「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うためにいのちをささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」
これはキリスト信者としての中心的土台です。この教えを注意深く考えましょう。そして祈りの中に用いましょう。優しいイエスに出会いイエスとの交わりを味わいましょう。
 福音書の中の高慢なファリサイ派の人々は2000年前に限った人たちではありません。ファリサイ派の人々のような心は誰の中にもあるのです。私たちはたびたび、見せびらかしたり、他の人からの称賛を得ようとしたり、他の人と比較したり、ある人たちを見下したり、一番になりたがったりします。家庭、職場、学校などで権力を持っているなら、それを他の人のために使うのでしょうか。それとも自分のためだけに使うのでしょうか。私たちはキリストの代表者ですから、他の人のために使いましょう。
 最後に詩編131のとても短い祈りを唱えましょう。「主よ、わたしの心は驕っていません。…わたしの魂を、幼子のように母の胸にいる幼子のようにします。主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」(薩田)

年間第30主日 A年 2017年10月29日

聖書: 出エジプト 2:20-26; 詩編 18; 22:15-21 マタイ29:34-40 
自分と向き合い、たずねましょう:「本当に神を愛していますか?」でも神は誰でしょう?!!。人であるイエス様に会うとき、 神を知ることができます。イエス様は神の自画像です。優しさ、人間の弱さの理解、だれでも無条件に受け入れることを見ると、「これは神の心だ」と言えます。イエス様は人の心の中の神の愛です。イエス様は私たちを神に導くために他人となった神です。
詩編18に詩的なイメージを読みます:「神はいつくしみ。私たちの砦(そこでは安全です)。神は岩(生活を立てるしっかりした土台)。神は盾(神は私を守る)。神は私の力(弱さを助けてくださる)。」とても近く愛してくださる、こんなに優しい神様を愛していますか?この質問に正直に答えるのはむずかしい。でも私の本当の心を示すものがあります。神様との対話をときどきしますか – つまり、神に祈りますか?もう1つは、他人に親切で受け入れますか?です。むずかしい人でさえ受け入れますか?同僚、やっかいな夫や妻、子どもかもしれません。私を傷つける人をゆるしますか?
さあ、自分の親指の指紋を見ましょう。まったく唯一のものです。神様は一人一人を違うように作りました。無条件の愛で私たち一人一人を愛しています。神様は私たちの弱さを知っていても、愛しています。
もう1つの大事な質問があります! 自分自身を愛していますか?自分をありのままに受け入れていますか? (神様はありのままで受け入れていることを思い出しましょう)。
今日の福音で、イエス様は幸せな生活の大切な2つの道標を与えてくださいました。「心を尽くして主なる神を愛しなさい。」第2は、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」自分の性格を愛し、受け入れていないのに、神や隣人を愛するのはとてもむずかしい。私たちを愛してくださる神様の御許に行って、助けを願いましょう。(中里)

年間第29主日 A年 2017年10月22日

聖書:イザヤ 45:1-6; 詩編 96; テサロニケ 1:1-5; マタイ 22:15-21
 旧約聖書では、ユダヤ教でない人を通して神が働くのは珍しいです。しかし、神はユダヤ人をバビロンの捕囚から救うために、異邦人のキュロス王を通して働きました。今日の私たちへのメッセージは、今でも神はクリスチャンでない人を通して働くということです。世界のすべての人が神に愛されていることも教えています。
第二朗読の中でパウロはテサロニケの共同体に言います:「いつも祈りなさいと私は言う。」今日、この言葉をよく味わいましょう。神に祈ることが上手なのは自分自身にとって利益ですが、他人のために祈るのを忘れていませんか?考えが狭く自己中心的ではありませんか?とりなしのための祈りは大切です。福音の中で、異邦人の百人隊長は、召使の健康のためにイエス様に祈りました。ティルスの異邦人の母親は、娘のためにイエス様に祈りました。たとえば、今日シリアとミャンマーの難民を目の当たりにします ― 彼らのために祈りますか?日本の東北の困難について今でも聞きます ― 彼らのために祈りますか?親御さんたち ― 子どもや孫のために祈りますか?誰かが病気だと聞いた時 ―彼らのために祈りますか?祈りについては広い心を持ちましょう。
日本のために祈りますか?政府や地方の指導者のために祈りますか?聖パウロはテモテへの手紙12:2-4で:「王や権力者のために祈りなさい。そうすれば、静かで平和な生活ができるでしょう。」・・・ このような祈りは神様を喜ばせます・・・すべての人を救う方です。(「王」=「政府」)
福音の中で、イエス様は言います:「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に。」(「皇帝」は今日では「政府」と言い換えられます。) 言い換えれば、良いクリスチャンは自分の国の良い国民です。そういう人は国のために祈り、すべての国民の平和ために働いているのです。神さま第一は私たちの生活のすべてをまとめ上げます。
もちろん、クリスチャンの間でも、政治的意見に違いがあります。イエス様は12使徒のすべてのタイプを受け入れました。ガリレア出身の左翼的な人とマタイと熱心党(革命派)のシモンは右翼でした。イエス様という私たちのモデルの中ですべてが統合されました。
(中里)

年間第28主日 A年 2017年10月15日

聖書:イザヤ25:6-10詩篇23マタイ22:1-10
聖書学者は「祝宴のテーマ」という言葉を使います。彼ら(学者たち)は旧約聖書でも新約聖書でも「食事」について頻繁に言及しています。例えば、祝宴、(最後の)晩餐、夕食、会食、宴(うたげ)など。食事は、温かくリラックスした家族の親密な時間です。
何故「食事」が聖書の中でそんなにも重要なテーマなのか? 
理由がここにあります。
神様ご自身が、神様との親密さを味わい楽しむように、私たち一人ひとりを招いておられます。温かい雰囲気の中での楽しい食事は、私たち一人ひとりと神様との親しい交わりの象徴です。すべての人が招かれています。
普段の生活で、私たちは招待状に返事を求められます(要返信)。私たちは「はい、喜んで出席します!」と答えることもあれば、出席に〇をつけて、義務的に出席することもあります。「欠席します」ということもあるでしょう。そんな時、私たちは自分自身にいろいろな言い訳をします。「忙しい」「この仕事をしなければならない」「都合が悪い」など。一番悲しいのは、招待状を受け取り、読んで、広げたまま机の上に放り出しておくことです。
イエス様は私たちを祝宴に招待してくださいます。彼は親しさと友情を私たちに差し出してくださいます。イエス様は優しく穏やかな方です。
「すべての顔から涙をぬぐい・・・(イザヤ25)」
良き羊飼いとして「私に食卓を整えてくださる(詩篇23)」
イエス様からの招待状に、私たちはどのように応えるでしょうか?「はい、喜んで!」、義務的な「はい」ですか?私たちは本当に忙しいから「いいえ」と言っていますか?それとも、無関心や面倒くささから招待状を無視しているのでしょうか?
よく考えましょう!神様、イエス様との親しい交わり・・・なんという素晴らしい贈り物でしょうか。それこそが、私たちの心の飢えと渇きに答えをもたらし、神様だけが私たちの望みを満たすことがお出来になるのです。
4つのことを通して、私たちはイエス様に出会い、イエス様の温かさを味わうことが出来ます。
①聖書を読んで
②祈り(祈りは基本的に神様との親密さを喜び味わうことです)
③ほかの方、特に困っている人・不幸な人に親切にすること(マタイ25参照)
④ご聖体拝領(イエス様との一致)によって、私たちは特別な方法でイエス様に会います。
ともに、招待に応えましょう! イエス様の温かさを他の人と分かち合いましょう!(北尾)

年間第27主日 A年 2017年10月8日

聖書: イザヤ 5:1-7; 詩編 80; フィリピ 4:6-9; マタイ 21:33-43
 私が何か問題をかかえていると、「心配しないで!」と言われることがあります。でも、この言葉は好きにはなれません。心の中の心配事は、電気のスイッチを切って電球を消すようには、消すことはできません。今日の第二朗読(フィリピ 4:6-9)で、聖パウロは「思い煩うのはやめなさい」と言います。聖パウロは次の様に大切な言葉を続けます:「感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。・・・神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 とても大きな励ましです。
 誰にでも心配事はありますーそれが人間です。これらの心配事を、祈るための原料として使いましょう。このような祈りでは、イエス様に友人として話し、心配事を全て吐き出せば良いのです。聖ペトロの言葉です:「心配事を主に任せれば、支えてくださいます」(1ペテロ 5:7)
 でも、助けを求め始める前に、立ち止まって、神様が私たちに下さった贈り物―命、信仰、家族などを思い起こしましょう。神様は今までも親切で、未来も慈しみを持ち続けられます。神様への感謝を思いながら、私たちの心配事を打ち明けましょう。
 私たちが深く心配してしまう根本原因は、神様や私たち自身、そして友人たちへの信頼が足りないということです。神様に何かを願うと、願った恵みを受け取ることもあります。しかしながら、神様の大きな知恵により、別の恵みが与えられることもあります。この恵みは、私たちの幸福や平和に、より良いのです。イエス様は、人間として、とても大きな心配事や怖れを抱いていました。イエス様の祈りです:「父よ!私からこの苦しみを取り去って下さい。でも、私の意志ではなく、神様の意志が実現しますように」(ルカ 22:41)
 私たちの祈りによる願いは、決して、決して、むなしくはなりません。この祈りは私たちの心から出て、私たちを大切にし、慈しみに満ちている神様に直に届きます。パウロは、このように祈るとき、安っぽい物に気を取られないようにと諭しています。この祈りの結果、「平和の神様があなたと共にある」(フィリピ 4:9)のです。(相田)

年間第26主日 A年 2017年10月1日

聖書: 第2朗読 2:1-11
「心の中で、イエス・キリストと同じでなければならない。」(フィリピ. 2:5)
日本では、この言葉を聖歌で歌う。(典礼聖歌390) 「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛いそう。」この聖歌は今日の第2朗読を要約している。最後の晩餐でイエス様は言いました:「私は模範を示した。そのように行いなさい。」聖ペトロが手紙の中で(1 ペトロ 2:21) 「キリストはその足跡に従うように模範を残された。」(1 ペトロ 2:21)
「キリストのように」は今日の私たちにとってどんな意味でしょうか?イエス様の考えの変わらぬテーマは詩編31に要約され、「父よ、私のすべてをすべて御手にゆだねます」という最後の息まで生涯祈ったのです。神を信じる祈りです。私たちも同じに祈りましょう。
「キリストのようにも話そう。」その言葉によって、イエス様は平和、勇気、励まし、許しを与えてくださいます。ザーカイに話しかけ、生きる意味を与えます。私たちの言葉で他人のための平和の道具になっていますか?本当の意味で他人に「ありがとう」といいますか?
「キリストのように行う」ゲッセマニの園でとらわれたとき、思慮深い仕方でもっとも自己中心でなく行いました。兵士に言いました:「私はあなた方の手にある。彼らを行かせなさい。」3年間、イエス様はペトロとともにパレスチナを歩きました。多くの場合ペトロは極端に衝動的で、時に自分の利益と名誉だけ考えました。イエス様は彼に辛抱強かった。ペトロは信仰の弱さで沈みかけました。ペトロは3度イエスを知らないと否みました。しかしイエス様はいつもペトロをありのままに受け入れました。私たちは人々をありのままに受け入れていますか?
「キリストのように行う」イエス様は友達である私たちのために命を捨てました。私たちは他人のために小さな道で自分の命を捨てますか?他人のために時間を使いますか?本当に耳を傾けますか?他人のために自分の都合を諦めますか?
キリストのように考え、話し、行い、愛するには、福音を読み祈ることで、祈りの中で友達として話しかけることによって、ご聖体の中のキリストと一致することによって、キリストを知らなければなりません。(中里)

年間第25主日 A年 2017年9月24日

聖書朗読:イザヤ55:6-9; 詩編 145; マタイ 20:1-16
 こんな経験がありますか?将来に対するビジョン、希望、夢を持ったことがあると思います。人、場所、仕事、立場が皆さんにとって特別なものであったことがありますよね。このことが長く続くことを希望したと思います。しかし突然すべての希望や夢が朝露のように消えてしまったことがあったかと思います。(ここで止まり、できるなら具体的なことを思いだしてみてください)
 言うまでもなくがっかりしましたよね。落胆し前途は暗く感じたと思います。神様に「なぜですか。なぜですか。なぜですか。」と問いかけ、おそらく神様に対し怒りを覚えたでしょう。また神の存在と愛を疑ったかもしれません。
 もしこのような経験があれば(私もありました)、今日の福音朗読(マタイ 20:1-16)のイエスのたとえ話の中の日雇い労働者と同じ気持ちになったでしょう。この労働者は朝早くから雇用事務所で待っていて、夕方5時になっても仕事がもらえませんでした。彼は大変落胆していました。仕事をしたいという希望はかなえられませんでした。予期せぬことに、ブドウ畑の持ち主が「あなたを雇います」と言ってくれました。1時間だけ働き、6時になり、労働者は1時間分の賃金をもらうものだと思っていました。しかし1日分の12時間分の賃金をもらえたのです。ブドウ畑の持ち主の気前の良さに大変喜びました。自分と家族のために食べ物が買えるのです。
 イエスのこのたとえ話は、私たちの神様は慈しみに満ち、常に私たちのことを心に留め導いてくださることを教えてくれます。しかし神様は時々「わたしの思いは、あなた達の思いと異なり わたしの道は、あなた達の道と異なる」(今日の第一朗読 イザヤ55:8)と言われます。私たちはある道を選びますが、神様は他の道を選ぶのです。神様は私たちを愛し、幸せを望んでいます。神様は最善を知っています。今日のたとえ話は、神様は気前の良い方であることを私たち一人一人に教えてくれます。どんなに長く働いても、神様から頂く贈り物の量を稼ぐことはできません。神様は私たちのすべてを愛し、幸せを望んでおられます。神様を信頼しましょう。(薩田)

年間第24主日 A年 2017年9月17日

聖書:シラ書(Sirach)27:30-28:7;詩編103、マタイ18:21-35
私たちは皆、人間関係で何らかの問題を抱えています。あなたは、侮辱されたり、いじめやえこひいきの被害を受けたり、皮肉を言われたり、人に見下されたり無視された経験はありますか?もしそうなら、おそらくあなたの心は傷ついています。あなたはその傷を抑えようとするかもしれないし、忘れようとするかもしれませんが、その傷は私たちの心の底に残っています。それは「がん」に育つ「ばい菌」のようなものです!
イエス様は私たちに、私たちのことを傷つける人々を許すように何回も話されます。「主の祈り」の中で私たちは「私たちの父よ・・・私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)と祈り、イエス様も「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り…」(ルカ6:27)と話されます。
私を傷つける人を心から許すことは、イエスの道で最も困難な挑戦と言えるでしょう。
私たちはどのように人々を許しますか?ここに4つのステップがあります:
① 自分の力だけでは決して人を許すことができないことを認めます。私たちは神様の助けと力に頼らなければなりません。
② 神様が私たちにどのようになさってくださるかを思い出しながら、黙想しましょう。「神は恵豊かに、あわれみ深く、怒るにおそく、いつくしみ深い」詩篇103
③ あなたを傷つける人の心を思いやってみましょう。なぜ彼/彼女はそんなことをしたのでしょうか?彼/彼女自身も心に傷を持っているから?幼児期の影響?等。
④ 神様に話しましょう「私は許したいと思っています。どうか助けてください。」
今日のたとえ話で、王は返済するのに50年かかる負債を抱えている召使いを許しました。しかし、その召使は彼に返済するのに3ヶ月かかる借金を抱えている仲間を許しませんでした。
神様の赦しは寛大です。私たちは、必ず、他の人から受けた小さい傷を許すことができます。
私たちが人を許す時、心の重荷はすっかり取り除かれ、自由と喜びを感じます。これが神様からの贈り物です。さあ、この4つのステップを試してみましょう!(北尾)

年間第23主日 A年 2017年9月10日

聖書:エゼキエル 33:7-9; 詩編 95; ローマ 13:8-10; マタイ 18:15-20
 今日の第二朗読(ローマ 13:8-10)で、聖パウロは、現代の私たちにとって、とても興味深い言葉を使っています:「愛の借金をしましょう!他の人を余分に愛しましょう!」 繰り返し、繰り返し、イエス様は隣人を愛するよう言われます。困っている人は誰でも、私たちの隣人です。(善きサマリア人のたとえ話は、「私の隣人とは誰でしょうか?」と問いかけた人への答えだったことを思い出してください。)
 「隣人を愛する」といいますが、「愛する」というのは、いったい、どういうことなのでしょう。人に対する感情的な愛のことではありません。私を傷つけた人、とても難しい性格の人、悪く冷酷な人に対して、温かい感情を持つことはできません。それでも、イエス様はそういう人たちを愛するようにおっしゃいます!イエス様は、様々な欠点もそのままに、その人たちをありのまま受け入れる、というのです。
 どうすれば、難しい人を受け入れ、愛することができるのでしょう?私のことを傷つけた人を、どうすれば、受け入れ、愛することができるのでしょう?そうです、私たち人間の力だけでは不可能です。不可能であることを認め、神様に助けを求めましょう。
 福音で、イエス様は私たちにとても難しい投げかけをしています。人間関係の中で、私たちはしばしば、心を傷つけられます。時には、人々は、私たちを侮辱し、いじめ、冷たい態度を取り、裏切ることもあります。イエス様は、傷つけられた人に、傷つけた人のところに行って、和解するように言われます。これもまた、不可能に見えます!それでも、時には微笑んだり、親切な言葉で、そういう人たちと和解することができます。でも、やはり、この難しいことができるよう、イエス様に助けを求めましょう。
神様が私たちに、どれほど親切で優しいか思い出してください。神様は私たち人間の弱さを理解し、ありのままの私たちを受け入れてくれます。神様は私たちを許してくれます。さあ、私たちも他の人たちに同じようにしようではありませんか。(相田)

年間第22主日 A年 2017年9月3日

聖書:エレミア 20:7-9; 詩編 63; ロマ 12:1-2; マタイ16:21-27
エレミアは旧約聖書の預言者です。若く、とても敏感な心を持っていました。人々が拒否し侮辱した時、心が深く傷つきました。今日の朗読 (エレミア 20:7-9) はエレミアが悲しみと絶望のどん底にいることを示しています。今日の朗読がエレミアの神への祈りであることに注意しましょう。エレミアは神様に怒ります。その祈りはていねいではありません。エレミアは怒り、悲しみ、苦しみを神にぶちまけます。
あなたが怒り、悲しみ、心が傷ついているなら、苦しんでいるなら、あなたはこう祈るべきです。神は私たちを愛し、ありのままに受け入れてくださいます。祈りの時、神はありのままの心を望まれます。いつわりの飾りは要りません。祈りの時、神に怒りを向けてかまいません!
私たちは人間なので、苦しみ、失望し、失敗し、夢が砕けます。イエス様は私たち一人ひとりにいいます:「私に従いたいなら、自分を忘れなければならない。あなたの十字架を持って私に従いなさい。」(マタイ16:24) これはキリスト者の人生がみじめで暗いことを」意味するのでしょうか。そんなことはありません。自己中心主義を避けることを意味します。自分よりも他人のことを考えましょう。こうすることは犠牲(十字架)を意味します。苦しみに会うとき(それは自分の十字架を運ぶとき)、私たちは決して一人ではないことも意味します。苦しみを経験し人間の苦しみを分かったイエス様はいつも、十字架を運ぶ私たちのそばにいてくださいます。イエス様は人生の旅路を私たちとともにされます。
苦しみに会うとき、静かに祈ることはほとんど不可能です! 人間の苦しみが何であるか知っている神であるイエス様に苦しみをぶちまけましょう。空っぽのように感じることはよくあります。私たちの心は不毛な水のない砂漠のように感じます。詩編63で祈りましょう。自分の苦しみは他人の苦しみに敏感にさせます。自分を彼らの支えと励ましにしましょう。(中里)

年間第21主日 A年 2017年8月27日

聖書:イザヤ22:19-23; 詩編138; ローマ11:33-36; マタイ 16:13-20
 福音書は唯一のものです。福音書は、私たちに二千年前にイエスが語ったことを教えてくれるばかりでなく、イエスは生きた声で今日の私たちに同じことを語ってくれます。
 ここに、福音書の内容はいつの時代でも変わらないという具体例があります。イエスはわたしたち一人一人にとても重要な質問を投げかけます。「あなたにとって私はどのような存在なのか」、「あなたは私を何者だと考えているのか」。道徳の道に従いまた信仰の教えを信じることだけがキリスト教徒にとって一番大切なことではありません(もちろんこれらのことはとても重要です)。第一に、最も根本的で大切なことは、イエス自身を受け入れることです。
 イエスがペテロにこの大切な質問をした時に、ペテロは他の人が言っている事を答えました。私たちは本に書かれていることやそのように信じなければいけないのではと考えることを答えてしまうかもしれません。イエスは私たち自身の考えを求めているのです。
 ペテロは最終的には自分の考えていることを答えました。イエスはペテロの答えは父である神様からの賜物であることを教えました。これは、光や導きを神様に願う祈りが絶対に必要なことを表しています。
 自分のことですが、福音書をとてもゆっくり読むことでイエスのことをもっと知ることと愛することを試みたことがあります。遠藤周作さんが書いた「イエスの生涯」という文庫本が非常に役に立ちました。福音書をゆっくりと祈るように読むことを通して、イエスが身近な存在になりました。神であり人間であるイエスは人生の旅路の同伴者となります。イエスは私たちを支え、励まし、慰めてくれます。人間の弱さを理解し愛と慈しみの心で私たち人間を見つめるイエスに出会うことができます。(薩田)

年間第20主日 A年 2017年8月20日

聖書:イザヤ書56:1,6-7 詩篇67 ローマⅡ13-32 マタイ15.21-28
イエスの時代のユダヤ人は、神様の愛といつくしみは、熱心なユダヤ人のためだけにあると考えました。今日の第一朗読のイザヤの預言と詩編67(あなたの救いがすべての国に知られるように)にもかかわらず、当時はこのような狭い了見が存在しました。
今日の福音でイエス様は行いによって教えています。イスラエルの外におられたイエス様にユダヤ人でないお母さんが叫びます。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が病気です」弟子たちは彼女を煩いと思いました。しかしイエス様は、叫びの裏側にあるお母さんの心配と悲しみを見ました。そして、イエス様とこのお母さんの、とても面白くてユーモアのある話し合いが始まります。(聖書学者たちは、元のギリシア語の文脈では、イエス様の言葉は厳しいものではないと伝えています。)イエス様は、お母さんの神様への信頼を称賛し、娘は癒されました。
この場面は2000年後の私たちに何を教えるでしょうか?
① 神様の愛、世話、そしていつくしみは、この世界のすべての人のために注がれます。私たちは神様の愛といつくしみを認め、神様を信じるよう呼ばれています。
② 他の人々のために祈りましょう。まず、自分の子供や家族のための祈りから始めて、それからあなたの親戚を越え、日本や他の国の人々、特に苦しんでいる人や病気の人のために祈りましょう。
私たちは今日のミサでこのように祈ります。
「救いの源である神よ、弱さや無力を感じる時にも、神の救いを信じ続けることができますように」(北尾)

年間第19主日 A年 2017年8月13日

聖書:列王記上 19:9-13; 詩編 85; マタイ 14:22-33
 北朝鮮は日本の上を通過するミサイルを発射すると言い、アメリカは「炎と怒り」で報いるとしています。さあ、平和のために祈り、働きましょう。世界で、日本で、職場で、家族で、心の中で、平和を祈りましょう。平和は神様からの贈り物です。私たち人間は神様に協力するのです。今日の詩編(詩編85)に、「主なる神は平和を約束される・・・平和は神の足跡に従う」とあります。
 今日の福音(マタイ14)に、激しい嵐の中で小舟に乗った12人の弟子が描かれます。小舟は沈みそうです。弟子たちにはイエス様が見えません。でも、イエス様は山の上から弟子たちを見て、彼らのために祈っています。そして、イエス様は、水の上を歩き、沈みそうな小舟と恐れている弟子たちの近くに来て、優しく語りかけます:「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」 ペテロは衝動的に、イエス様の招きにこたえて、水の上を歩きだしますが、イエス様への信頼を失い沈みそうになります。それでもイエス様は人間の弱さを理解し、手を伸ばし、ペテロをつかんで助けます。
 今日の世界、そして私たち自身も個人的に、激しい嵐を経験しています。戦争、苦しみ、病気、失敗、心の傷や嵐。時に、イエス様は遠く、沈黙しているように見えます。神なるイエス様は、今は、山の上ではありません。天国から私たちを見守り、祈ってくださいます。私たちにとって一番の時に、私たちのところに来て、言われます:「安心しなさい。恐れることはない。私が共にいるのだから。」 人生の嵐に出会ったなら、必ず、この場面に戻ってきましょう。声に出して助けを呼びましょう。太陽が毎朝上るのと同じくらい確かに、イエス様は、私たちのところに来られます。私たちの神は、遠くで、無関心でいるのではありません。イエス様はすぐ近くで、苦しんでいる私たちと一緒に苦しんでおられます。さあ、希望をもってイエス様を待ちましょう。勇気を出して、安全な小舟から出て、水の上を渡りイエス様のもとに行きましょう。そして苦しんでいる人たちのところに行って、希望と勇気を伝えましょう。(相田)

主イエスの変容 A年 2017年8月6日

聖書:ダニエル7:92-14; 詩編 97; ペトロ1 1 16-19; マタイ 19:1-9.
イエス様は3人の使徒に自分が神だということを変容の山でお見せになりました。しかし、ちょうど6日前のイエス様の言葉を思い出さなければ、イエス様の栄光の意味を理解できないでしょう:「私はひどく苦しむ。殺されるが3日目に復活する」(マタイ 16:21)
変容の素晴らしい栄光とゲッセマニの園での暗い苦しみはまさに結びついているのです。同じ3人の使徒が両方の場面の証人です。山でと園でと。
イエス様が園で苦しまれたとき、人間らしいエス様を見て言います。イエス様は本当の人間で、拷問と来るべきむごい死を恐れました。イエス様は友であるユダの裏切りに深く心を痛めました。イエス様は私たちのように
100%人間です。イエス様は私たちとともにいらっしゃいます。
変容と復活の中でイエス様を神としてみます。イエス様は100%神です。
今日の私たちへの意味は何でしょうか。私たちの神は私たちと同じ人間性を経験しました。これが神様を私たちにとても近くします。私たちの神は私たちの苦しみが分かります。イエス様自身が苦しみを経験されたからです。ヘブライへの手紙は「イエスは我々のすべての苦しみを分かっている …… だから必要な時はいつでも、あわれみ深い神の玉座の前に勇気をもって出るべきです。助けを見つけるでしょう。」という(ヘブライ4:15-16)
神であるイエス様は人生の人間的道を私たちと一緒に歩いています。イエス様は私たちの支え、力、助け、励ましです。神であるイエス様は生きている声で今日言います。「労苦し重荷を負うものはすべて私のもとに来なさい。元気づけてあげよう。」(マタイ 11:28) イエス様のささえを他人と分かち合いましょう。(中里)

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