横浜新子安カトリック教会のウェブサイトへようこそ!

主日の説教

主日の説教

日本語メニューをクリックすると月ごとに読めます。

年間第19主日 2020年8月9日

聖書:列王記19:9-13詩篇85マタイ14:22-33
世界は今、新型コロナ禍という嵐の真っただ中にあり、松井一實広島市長が平和宣言(2020.8.6)で述べた「自国第一主義」という名の嵐によって国々が衝突しています。この嵐の中で、神様は私たちと共におられるのでしょうか? はい!確かにおられます!
教会も嵐の中にいます。 (ここでの「教会」は組織ではなく、人々の意味です。)先週、私はアイルランド・フランス・ドイツ・韓国等、カトリック信徒数が多い国々の記事を読みました。 ミサの数は減り、召命も減っています(醜聞も)。聖書の言葉で言うならば、私たちは嵐の中にいます。イエス様は私たちを気にかけ、傍にいてくださっているでしょうか?はい!いてくださいます!
私たち1人ひとりは人生で嵐に遭うでしょう?しばしば私たちは独りぼっちだと強く感じます。そんなとき、神様はどこか遠くにいるようです。病気や心配ごと、ストレス、人との関係が絶たれてしまったり、失業したりなど様々な嵐があります。この新型コロナウィルスそのものに感染してしまう恐怖もあり、今、私たちは独りで嵐の中にいるようです。はたしてイエス様は、独りぼっちの私と一緒にいてくださるのでしょうか?はい!確かに! 
今日の福音のメッセージはここにあります。イエス様はあなた方1人ひとりに、生きている声で語りかけておられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。典礼聖歌の言葉で祈りましょう。『力のみことばを わたしにも聴かせてください』
あなたは自分の信仰が弱いと感じていますか?ペトロもそうでした。信仰の薄いペトロは、強い風と高波で湖に沈みかけました。絶望の中でペトロは絶叫しながら祈りました。「主よ、助けてください!」イエスはすぐに手をのばし、ペトロの手をしっかりと握ってくださいました。イエス様は私たちの弱い信仰を分かっておられ、私たちの弱い信仰を罰する方ではありません。
私たちは「自己中心的」な、「自分第一主義的」な祈りはやめましょう。まず、全世界のために、健康と平和のために、教会のために、今、嵐の真っただ中にいる人々のために祈りましょう。その後で、自分のために祈りましょう。
『神は恵みを注ぎ・・・平和はその足跡に従う』詩編85:14。 (翻訳担当:北尾)

年間第18主日 2020年8月2日

聖書:イザヤ書55:1-3 詩篇145 ローマ人への手紙8:35-39 マタイ14:13-21
 今日、私達はこの美しい福音書の中をゆっくりと歩んでみましょう。それは深い意味と慰めに溢れています。私達の神様であるイエス様は、私達の人間性を体験なさいました。私達人間は、誰か親しい人が亡くなるととても悲しいです。イエス様も親戚や友人が亡くなった時、そして洗礼者ヨハネが殺されて支えを失った時に、この体験をされました。そして、イエス様はその深い悲しみに立ち向かう為に、人里離れた所へ行かれたのです。なんと人間的でしょう。私達はそのような喪失感に傷ついている時は、イエス様の元へ行って慰めを受けましょう。「私の元へ来なさい・・」とイエス様は私達に仰っています。
 イエス様は船の上で静かな時間を持ちました。しかしイエス様は岸に着くなり大勢の群衆がイエス様を待っているのを見ました。イエス様は彼らの痛みや空虚な心を深く憐みました。「イエス様は彼らを憐れに思った」福音書の中でこれは大変特別な言葉です。福音書に9回でてきます。元のギリシャ語訳では、めったに使われない動詞、とてもとても深い同情を意味する動詞が使われています。イエス様は心の底から、この苦しんでいる人々に対して共感したのです。イエス様は今日も確かに、私達に対して同じ心を持っていらっしゃいます。これが私達の神様なのです。―優しく、親切で、理解し、共感して下さる神様です。信頼を持ってイエス様のもとへ行きましょう。「私の元へ来なさい・・」イエス様は私達を招いて下さっています。
 イエス様は神様の力を使って、飢えている人々に食物を与えます。聖書の中では、一緒に食事をすることは、神様との親密さ、神様との温かい交わりを象徴しています。「イエスの食卓に招かれた者は幸い。」この神様との交わりは、人間の心の飢えと渇きを満たす唯一の条件なのです。イザヤ書を通して、主なる神は言っています。(第一朗読)「何故飢えを満たさないもののために浪費するのか・・私の元に来なさい、そうすれば命を得るであろう。」(イザヤ書55章2-3節)信頼をもって、私達の神であるイエス様のところへ行きましょう。
 イエス様は少なくとも10,000人の人に食物を与えました。それでも12の籠にパンくずが残っていたのです。このことは、神様が私達に贈り物を下さる時に、とても惜しみなく寛大だということを表しています。
 イエス様が弟子たちにイエス様の手助けをするように言っていることに気づきましょう。イエス様は今日も私達に、神様からの惜しみない贈り物を他の人達と分かち合うようにと仰っているのです。(翻訳担当:三村)

年間第17主日 2020年7月26日

聖書:列王記上 3:5-12; 詩篇 119; ローマ 8:28-30; マタイ13:44-52
復活したイエスがあなたの前に立って「心の奥底で、あなたが最も望んでいるものは何ですか?」と問いかけたと想像してみてください。あなたは何と答えますか?
<ここで一旦立ち止まって考えてみてください。>
おそらく、最初に浮かんでくる願いは、自分自身(または家族)の健康、問題の解決、教育のためのお金、ストレスからの救済、などでしょうか。これらはすべて良いことですが、第一朗読のソロモンのように、人間の心には、はるかに根本的なものがあります。それは、神がありのままの私を愛していると心の底から理解することです。神はご自分が創造した人である私を、本当に気にかけてくれています。これが本当の知恵です。もし私たちに神のその贈り物があるなら、他のすべての願いは「新しい見え方」となります。
私たち一人一人に対する神の無条件の愛を体験するには、神との親しい友情という賜物を本当に望む必要があります。福音のたとえ話の言葉で言うと、この賜物は地中に隠された宝なので、私たちはそれを掘り当てなければなりません! あるいは、それは特別な美しい真珠のようなもので、真珠の専門家のように、持っているすべてのものを犠牲にして、買わなければなりません。二つのたとえ話で、人は宝を手に入れるために、自分が持っているものをすべて売ってしまいます。でも、喜んでそうしていることに注目してください。別の言い方をすると、イエスは私たちに、心を100%捧げて御自分の道を歩むよう求めているのです。これは喜びに満ちた旅なのです。生活の中でイエスを優先していると、日々の仕事の一つ一つが喜びの味わいを帯びてきます。
三番目の魚網のたとえ話では、イエスは、自分の教会には良い人も、悪い人も、どの国の人もいて、いろいろな考えを持っている人がいることを教えています。神はそのすべてを愛し、悪しき者、ぬくぬくとした者が悔い改めて善い者になるのを待っているのです。だから、裁かないでください!受け入れましょう!
私たちは皆、神の愛を分かち合い、人を受け入れるように召されています。(翻訳担当:相田)

年間第16主日 2020年7月19日

聖書:知恵 12:13-19; 詩篇 86; マタイ 13:24-30
 今日の3つの聖書朗読のテーマは、神様は私たち全てに対しとても忍耐強いということです。神様は罰する神様ではありません。優しさと人間の弱さへの理解に満ちた方です。
 今日の福音書では、イエスはたとえを用い大切なメッセージを語っています。この社会やわたしたちの教会には様々な特性を持った人がいます。神様はすべての人に対し忍耐強い方です。特にわたしたちには忍耐強く、それはわたしたちも他の人に忍耐強くするように求めているからです。
 イエスの例え話には、良い麦と毒麦が出てきます。神様は毒麦を良い麦に変えることができます。人間に対しても同じです。人間は、神様の慈しみに応えるなら、罪という毒麦から良い麦へと変わることができるのです。雑草をすぐに抜かないで、待ちましょう。同じように、人を悪い人と断定せず、待ちましょう。神様は待ちます。わたしたちも同じように待ちましょう。神様はわたしたちに強い忍耐を示します。わたしたちも他の人に忍耐強くありましょう。
 わたしたちの社会や教会には、いろいろな人がいます。一人ひとり個性が違います(すなわち自分とは違う)。つまり、受けてきた教育、政治的(右派、左派、中道)な考え、国籍が違うのです。皆何らかの(各自異なる)弱さを持っています。
 もしある人を受け入れるのが難しいと思うことがあるなら、次のことを試みてください。
①自分の弱点、癖、失敗、罪を具体的に書き出してみる
②祈りにおいて、神様はありのままのあなたを完全に受け入れてくれることを思い起こす
③自分は○○さんとなかなかあわないことを、神様に伝える
④○○さんを受け入れる強さを与えてくれるように神様に求める
マザーテレサの言葉を思い出しましょう。「平和は微笑みから始まる」ある対談で大江健三郎さんは、「日本には忍耐が必要だ」と語りました。神様は私たちひとりひとりを愛しています。この愛を他の人とわかちあいましょう。(翻訳担当:薩田)

年間第15主日 2020年7月12日

聖書朗読:イザヤ55:10-11;詩篇65;マタイ13:1 〜23
私(ケンズ)はこの世界で最も恵まれた者、幸いな者の一人です!同じようにすべてのキリスト者は幸いです!なぜでしょう?イエス様が私たちの心に信仰の種を蒔(ま)いてくださったからです。
イエス様は今日、弟子たちと私たちにこう言われます。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(マタイ13.16)。つまり、私たちは信仰の目で復活されたイエス様を見、福音を通してイエス様のメッセージを聞くことができます。私たちは本当に幸いです。キリスト者は日本の人口のわずか1%です。では、私たちは選ばれた一握りの幸いな者なのでしょうか?とんでもない!私たちは、この幸いな贈り物(賜物)を他の人々と分かち合うために選ばれました。私たちは世の「味」、暗闇の小さな灯(ともしび)になるように呼ばれたのです。信仰の種を、種の袋に入れたまま放っておかないでください!
福音のたとえ話の中で、イエス様は私たちの心に信仰の種を蒔きます。
しかし、ある種は道端に落ちます。「道端」とは、プライドが高く、自分はすべてを分かっていると思う人のことです。偏見に満ちている人は手に負えませんし、自分を変えたくない人もいます。
また、ある種は石だらけで数センチの深さしかない土に落ちます。この人の信仰は一時的にはとても熱心ですが、すぐに冷めてしまいます。
茨の中に蒔かれた種。この人は、世の雑事・お金・物・出世・テレビ・ゲーム・インターネット・趣味・スマホに忙しく、神様のことは頭にないか、あっても二の次です。そして、次善(二の次)は、最善(一番)の次ではなく、「最善の対極にある一番の敵」なのです。
良い土地になるためには「祈り」と「みことばを味わう時間」が必要です。
イエス様は私たちに、天国の霊的な宝に投資することを勧めておられます。投資とは、イエス様が蒔いてくださった信仰の種に心を捧げる(尽くす)ということです。イエス様は、時に100倍、60倍、30倍の実りをもたらしてくださいます。世界の株式投資の配当利回りと比べてみてください!私たちの心の投資はそれだけの価値があるのです。 私たちは最も恵まれ、最も幸いな者です。感謝しましょう。(翻訳担当:北尾)

年間第14主日 2020年7月5日

聖書朗読:ゼカリヤ書9:9-10 詩篇145 ローマ人への手紙8:9-13 マタイ11:25-30
 第一朗読の旧約聖書の預言の中で、「あなたの王が来る、彼は高ぶることなく、ロバに乗ってくる。」とあります。イエス様はこの預言の実現なのです。身分の高い王は、庶民が乗るみすぼらしいロバなどではなく、軍馬や戦車に乗って来ます。でもこの王は謙虚なのです。
 福音書の中で、イエス様はこう仰っています。「私は柔和で謙遜なものである。」
これらの言葉は私達にとって、私達が私達の神様、私達の王、イエス様のもとへ行くときに、何を意味しているのでしょう?イエス様は私達の神様であり王ですが、彼は私達から離れた存在ではないのです。イエス様は私達が遠くに見上げるような存在ではないのです。そうです、イエス様は謙虚なお方なのです。イエス様は人間になった私達の神様なのです。イエス様は私達の中の一人です!イエス様は、私達と心を共にする方なのです。イエス様は人間としての経験をされたので、私達に身近なのです。そして、イエス様は私達に力と励ましと支えを与えて下さいます。
故に私達は、信頼を持って、躊躇することなくイエス様に近づくことが出来るのです。私達は、イエス様に自分の問題を話すことが出来ます。―そして、イエス様は私達の話を実際に聞いてくださるでしょう。これが、「私は柔和で謙遜なものである」とイエス様がおっしゃることなのです。
 私達の神様であるイエス様は、私達に素晴らしい招きをしてくださっています。「疲れている者、重荷を負っている者は誰でも私の元に来なさい」と。
 コロナウイルスは、私達に更なる疲労と心配をもたらしています。自分自身と家族が感染するのではないかという恐れがあり、この恐れが、私達の痛みや、ストレス、悩み、障害や自粛を引き起こしています。イエス様の招きに応えましょう。私達がイエス様のもとに行かないなら、何ともったいないことでしょう!イエス様は今日も言っています。「私の元に来なさい・・私はあなたに安らぎを与えよう」
 時々、イエス様は私達が問題を解決するのを助けて下さいます。また別の時には、イエス様は、「この軛を共に担おう。」と仰って下さいます。「軛(くびき)」は苦しみです、しかし、それは二頭立ての軛です。何故ならイエス様と私達は一緒にいるからです。それは、私達の苦しみを負い易く、軽くしてくれます。私達は一人ぼっちではないのです。
 イエス様の所へいきましょう。そして私達の疲れや重荷を話しましょう。イエス様の平安を味わい、それを他の人達と分かち合いましょう。(翻訳担当:三村)

年間第13主日 2020年6月28日

聖書朗読:  列王記下 42:8-16; 詩篇 89; マタイ10:37-42

今日の福音書には2つのテーマがあります。一つ目のテーマは、イエスに従うことです。私たちは、イエスを日々の生活の中心に据えるよう求められています。イエスを「ナンバーワン」にすれば、私たちのイエスへの愛は、母への愛、父への愛、子供たちへの愛へと溢れていきます。祈りを重ねてイエスと交わることで、イエスがナンバーワンとなります。私たちは十字架を背負うように召されています。十字架とは、私たちの苦しみ、痛み、不自由さのことです。大切なのは、私たちが苦しみを背負う時、イエスと一緒だということです。私たちは決して一人ではありません。イエスは私たちの旅の仲間であり、力と励ましを与えてくださる方なのです。
福音書の後半は、温かいもてなしについてのメッセージです。このイエスのメッセージは、コロナウイルスが流行しているこの時代には特に重要です。お互いに距離を取ること、「ステイホーム(家に留まる)」、マスクの着用、感染への恐れ、これらで私たちは自己中心的になっていないでしょうか?この短い聖句の中で、イエスは「歓迎する」という動詞を6回使っています。課題は、私たちが人々を(私たちがあってほしい姿としてではなく)ありのままに歓迎しているかどうかです。この感染症の危機の中で真にイエスに従う者となるためには、物理的な距離を保ちながらも、特に暖かく、親しく、歓迎する必要があると感じています。心の距離を縮めていきましょう。この危機的な時期、多くの人はとても孤独です。私たちは、笑顔や電話で温かいもてなしの心を示すことができるでしょうか?そのようにできれば、神様は私たちに報いてくださいます。

私たちは、父と子と聖霊の神の温かいもてなしに浸されて、洗礼を受けました。私たちが愛に包まれていることを自覚し、この愛と暖かさを他の人と分かち合おうではありませんか。

イエスは、「小さな者」に冷たい水を与えるよう私たちに呼びかけています。「小さな者」とは、孤独な人、見知らぬ人、ホームレス、いじめられている人、よそ者などです。「冷たい水」は、小さな者への贈り物の象徴です。「神は必ず報いてくださる」-イエスはそう私たちに語りかけています。(翻訳担当:相田)

年間第12主日 2020年6月21日

聖書朗読: エレミア 20:10-13; 詩篇 69; マタイ 10:26-33
 旧約聖書に登場するエレミアは非常に興味深い人物です。気は小さいのですが神様の預言者でした。いろんなことに恐れていました。しかし恐怖心にも拘わらず、勇気を見せました。
 今日の福音書でイエスは「恐れるな」と3回言っています。
 今、自分の”恐れ”を見つめましょう。恐れることは人間の自然な状態です。恐怖は必ずしも悪いものではありません。危険を警戒します。しかし、恐怖は私たちの動きを止めたり、問題から逃げるようにしてしまいます。臆病になります。臆病は良くないです。
 自分の本当の姿を見るなら、誰でも何らかの恐怖を持っていることがわかります。漁師だったイエスの弟子たちは、イエスのことを話すために、知らない遠い土地に行くことを恐れていました。わたしたちも同じです。皆、新型コロナウイルスの感染、病気、死、孤独などを恐れています。物価が上がって貯金がなくなるのではないかと心配している人もいるでしょう。
 わたしたちの神であるイエスは、神の栄光を捨て本当の人間になりました。イエスはゲッセマネの園で深い恐怖を感じました。イエスは祈ります。「アッバ、父よ、この苦しみを取り除いて下さい。しかし御心に適うことが行われますように(マルコ14:36)」
 イエスは、わたしたち人間の恐怖を神への信頼に導く方法を示してくれました。神様を信頼することは神様がくれた贈り物です。ですからその贈り物を求めて祈りましょう。信頼という贈り物を求める3つのステップを示します。
ステップ1:イエスに向かいそして自分の恐れを正直に打ち明けましょう。このステップは短くします。自己憐憫や他の人との比較はやめましょう。
ステップ2:このステップがもっとも大切です。神様がわたしたちをどのように愛してくださるか、また名前を呼んでいるかを、ゆっくりと思い巡らしましょう。神様はわたしたちの幸せを望まれています。神様は小さなスズメにまで気をかけているし、わたしたち人間をずっと大切に思っていることをイエスは教えています。神様は髪の毛の数を知っているくらい私たちをよくご存知です。イエスは言います。「恐れるな。私はあなたと共にいる。」「疲れて重荷を負っているものは私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」私たちと共にいるイエスは勇気を与えてくださいます。だから信頼と希望を持って自分の恐怖と向き合いましょう。
ステップ3:自分の言葉で信頼と感謝の気持ちをイエスに伝えましょう。イエスと一緒に祈りましょう。「私の思いでなく、父である神の御心が行われますように」
 平和と信頼を、励ましを与えることで、他の人と分かち合いましょう。
                        (翻訳担当:薩田)

キリストの聖体 2020年6月14日

聖書朗読:申命記8:2-16;詩篇135; 1コリント10:16-17;ヨハネ6:51-58

最近読んだ話です。メリノール会の宣教師である中国のジェームズ・ウォルシュ司教は毛沢東の時代、警察に逮捕され、12年間独房に監禁されました。
(私たちも最近「ステイホーム」の要請を経験しましたね)
ウォルシュ司教は狭くて暗く不快な独房に入れられていましたが、一番近くの「祝別された秘跡」は日本にある「ご聖体」だと推測し、日本の方角を向いてイエス様に祈りました。

私たちはごミサで「イエスの食卓に招かれたものは幸い」ということばを聞きます。
私たちが、いかに幸せで恵みに満ち溢れ、特権を与えられた者であるか思い巡らせましょう。私たちは聖体拝領によってイエス様に出会い、一つになります。私たちはイエス様ご自身と食卓を共にしているのです。
(聖書の中で神様と「食事」をするということは神様との「親しい交わり」を意味します)
第一朗読の中でユダヤ人は、はるか昔、彼らが荒れ野で飢えていた時に、神様がどうやって彼らを養ってくださったかを思い起こしています。神様は「マナ」を送ってくださいました。「マナ」は彼らにエネルギー(活力)と希望を与えました。イエス様は私たちに「聖なるパン」をお与えになります。この「パン」はイエス様ご自身の御からだと御血で、私たちは「聖なるパン」によって、
生きるためのエネルギーと希望そして励ましが与えられます。
福音でイエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と話されます。文字通り読むと、ひどい話です。私たちは人食い人種ですか!? とんでもない!
イエス様は、肉(食べ物)と血(飲み物)の姿で、私たちにご自身を与えてくださるのです。私たちの日々の暮らしには食べ物と飲み物が必要であり、私たちはそれらからエネルギー、命、活力を得ています。「ご聖体」という神聖な食べ物は、私たちに霊的なエネルギーを与え、私たちは喜びと希望、力を頂いてキリストと共に人生の旅路を歩むことができるのです。
まさに「イエスの食卓に招かれたものは幸い」 (翻訳担当:北尾)

三位一体の主日 2020年6月7日

聖書朗読:出エジプト記34:4-9 コリントの教会への手紙(2)13:11-13 ヨハネ3:16-18
 
緊急事態宣言と厳しい「ステイホーム」は解除されました。しかし私達はまだ感染するかも知れない状態の中にあります。私達はまだ不安と恐れを感じています。そして落ち着かない雰囲気の中に暮らしています。聖ペテロは聖書の中でこのように言っています。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方のことを心にかけていて下さるからです。」(ペテロの手紙(1)5章7節)
しかし、神様はどのような方でしょうか?神様は私達の恐れを本当に気にかけて下さるでしょうか?神様は、私を守って下さいという私の祈りを聞いて下さるでしょうか?
今日の主日の聖書朗読は、私達が信頼をもって私達の神のもとへ行くことができるということを告げています。神様は私達人間を愛し、私達の弱さを理解していらっしゃいます。
第一朗読(出エジプト記34章4節-9節)では、選ばれた民は真実の神から離れていました。彼らは自分達の神として、黄金の子牛を拝んでいたのです。モーゼはシナイ山へ二度登って、神様に罪深い民を赦して下さるように懇願しました。その時、モーゼはどのような神様に出会ったでしょうか?(この宣言は今も私達にとって重要です)
「主である神、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみと誠に満ちたもの」(出エジプト記34章6節)私達の神様は現在も同じです。私達は思い煩いを抱えながらも、信頼し安心して神様のもとへ行くことができるのです。
私達は、唯一の真実の神様がいらっしゃることを堅く信じています。しかしこの唯一の神様のうちには、父、子、聖霊が存在しています。これは神様の内なる生命なのです。そして単なる人間である私達にはこの奥義を理解することはできません。しかしこの神秘から逃げないでください!この神秘が何を意味するかを味わいましょう。この三位一体は私達への愛を意味しているのです。
優しい父なる神は、私達を深く愛すが故に、私達と親しくなるために息子であるイエス様を私達の世界に送って下さいました。(ヨハネ福音書3章16節)イエス様は神様の自画像なのです。福音書の中で、私達は必要な時に人々の願いを聴くイエス様の姿をみることができます。私達の神様はそれほどに優しい方なのです。聖霊は、私達の傍にいて、私達に力を与え、導き、そして慰めを与えてくれます。
これからの1週間、私達は静かな祈りの時を持ちましょう。
そして、「自分が日々神様の愛、父と子と聖霊という神様の愛の中に生きている」ということに思い巡らしましょう。
私達の社会の中で、神様の代弁者として、この愛を他の人々に示し、分かち合うようにしましょう。(翻訳担当:三村)

聖霊降臨の主日 2020年5月31日

聖書朗読:使徒言行録 2:1-11; 詩篇 104; 1コリント 12:3-18;  続唱; ヨハネ20:19-23

非常事態宣言は解除されましたが、ウイルスはまだ残っています。令和2年は新しい時代の幕開けとして記憶されることでしょう。私たちの社会は、今までとは違う雰囲気になるでしょう!私たちは「新しい生活様式」を持つように求められています。私たちの未来は少し怖そうですね!
今日の聖句のメッセージは、まさに今のためのものです!私たちが未来に立ち向かうための、勇気、導き、力づけ、慰めを与えてくれます。
イエスは弟子たちに、神様が一人一人を愛しておられるという良い知らせを伝えるため、人に会って話すようにと言われました。しかし、弟子たちは皆、この使命を果たすには無力だと感じていました。弟子たちは、裁判と十字架の時、イエスを見捨ててしまったのです。ペテロは、イエスを知っていることを否定する大きな罪を犯していました。彼らは皆、弱く感じ、イエスの教えを思い出すことができず、人に話すこともできませんでした。しかし、イエスは聖霊を送ると約束していました。
だから、彼らは次のようにしたのです。これが今日の私たちの模範です。
① 弟子たちは、自分の弱さ、人間の無力さを謙虚に認めました。助けが無いと感じて、神様の力と導きを求めたのです。
② 弟子たちは、力と約束された聖霊の助けを求めて祈りました。そして、変わったのです!聖霊は彼らに、勇気と、イエスの教えを説明する力を与えました。弟子たちは、助け、力、平安そして慰めを受けたのです。
イエスは今日、ここ日本の横浜で、私たちに証人となるよう求めておられます。①と②に従い、最初の弟子たちを真似ていきましょう。
また、聖霊は私たちに祈ること(ローマ8:26)、「アッバ」すなわち父なる神に信頼すること(ガラテヤ4:6)を教えてくださいます。しかし、聖霊の力は「聖なる」行動のためだけのものではありません。聖霊は、私たちの日常の平凡な生活の中で、例えば、良い親(または祖父母)、良い学生等々になるための力と導きを与えてくださいます。遠藤周作は、小説を執筆している最中に鉛筆の先に神(=聖霊)がいると実感した、と新聞記事に書いています。
ですから、私たちの人間的な弱さを認め、聖霊の力を頼み、自信を持って、恐れずに、私たちの「新しい生活様式」に入っていこうではありませんか。
恐れないでください。私たちには助けがあります。「あなたがたに平安を。私は聖霊の力をあなたがたに送る。」―これがイエスの言葉です。(翻訳担当:相田)

主の昇天 2020年5月24日

聖書朗読:使徒言行録 1:1-11; 詩編 47; エフェソ 1:17-23; マタイ 28:16-20
 新型コロナウイルスによる外出制限により、わたしたちは孤独と閉塞感を覚えています。でも癒しがあります。復活されたイエスに出会い、イエスと共に歩みましょう。これを新しい生活の様式にしましょう。
 短く静かな時間を作り、聖書を開き、どこかの箇所をとてもゆっくりまた思いをめぐらしながら読みましょう。そしてイエスに読んだ箇所を語りましょう。また自分の言葉で、生活の中で良かったこと、心配事、苦しみ、不安を語りましょう。復活された神であるイエスはあなたと共にいます。
 1970年までは、今日の第一朗読の「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒言行録1:9)を読んだ時、復活のロウソクの火が消されました。誤った考えをもたらしかねないことから、教会はこの風習を中止するように命じました。ロウソクの火を消すという行いは、イエスは天国の遠いところに行ってしまい、もうわたしたちと一緒にいないということを言っているように思えたからです。このことは間違っています。イエスは福音書で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と言っています。
 復活されたイエスは、わたしたちの心の中、つまりわたしたちと一緒にいます。教皇フランシスコは、「キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます。」と言っています。
 この言葉を考えましょう。わたしたちと一緒にいる友であるイエスに自分の言葉で語りましょう。
 今日の福音書では、弟子たちの中には疑う者がいた、と書いてあります(マタイ28:17)。自分の信仰が弱いと思うことがあっても、心配しないでください。イエスはありのままのわたしたちを受け入れてくれます。わたしたちの神であるイエスは、穏やかで理解に満ちています。わたしたちはイエスに出会うという贈り物をもらいました。イエスの平和を味わいます。イエスはわたしたちに何らかの方法で、この贈り物を他の人と分かち合うことを求めています。(翻訳担当:薩田)

復活節第6主日 2020年5月17日

聖書:使徒言行録8:5-17 詩編66 ペトロの手紙(1)3:15-18 ヨハネ14:15-21

 現在の緊急事態において、私達の社会の雰囲気は、不透明でいつもと違い不安定に思えます。そこには将来に対しての心配やストレス、恐れがあるように感じます。今日の福音はこの不安定な日々において、希望に対する確かな基盤を私達に与えてくれます。また、聖書の中に次のような言葉があります。「身を守るために神様のもとへ急いで行きなさい、その希望は、嵐の海での安定した錨を私達の魂に与えてくれます。」(ヘブライ人への手紙6章18-19節)
 今日の福音(ヨハネ14章15-21節)は、複雑に思えます。三位一体の神、つまり父と子イエス、弁護者である聖霊に言及しています。しかしそれはただ一つの真実の神の、内なる命なのです。このことは限界ある私達人間の心では理解することは出来ません。しかし、神様ご自身が私達に教えて下さったので、信じることができます。
 今日の聖書朗読には、神様の愛と私達人間に対する寛大さという美しい趣きがあります。(私達がまさに必要としているものです!)
 幼い子供の言葉で「アッバ、お父ちゃん」と呼ばれる神様、私達の父は、私達のことを特別な愛する子供達として面倒みて下さいます。私達は神様を信頼できます。
 その息子、イエス様、私達の神様は、私達と同じ人間としての体験をされました。だからイエス様は私達を理解できるのです。イエス様は私達の弱さも恐れも知っていらっしゃいます。イエス様は私達に生きた声で今日も言っておられるのです。「私はあなた方をみなしごにはしておかない、わたしはあなた方のところに戻ってくる。」(ヨハネ14章18節)復活した主、イエス様は、私達と共に人生の道を歩いています。このことは大きな慰めです。
 聖霊、神様は、今日の福音の中で、「弁護者」と呼ばれています。聖書の中で「弁護者」というのは、私達の側にいて、道を照らし、導き、力づけ、私達を守ってくれる者を意味します。何という慰めでしょう!
 今日の福音の中で、何度も「愛」という言葉が使われていることに気づいて下さい。私達一人一人は神様の愛に包まれています。神様の愛は無条件です。神様は私達をありのままに、小さな罪人も大罪人も愛して下さいます。
 神様の私達一人一人に対する愛は、この危機においても、私達に励ましと希望を与えて下さい
ます。聖ペテロが言うように、希望を他の人達と分かち合いましょう。
(ペテロの手紙1の3章15節) 翻訳担当:三村

復活節第5主日 2020年5月10日

聖書:使徒言行録6:1-7詩編33 1ペトロ2:4-9ヨハネ14:1-12
母の日、おめでとうございます!
コロナの危機で大変なこの時期に、私たちのお母さん、おばあさん、
ひいおばあさんのために祈ります。

最近のテレビニュースでは「社会的距離を保つストレス」「退屈なホームステイ」「コロナうつ」などの言葉がよく流れています。そして、厚労省から「新しい生活様式」が発表され実践が呼びかけられています。このような状況の中で、復活した主イエスは今日私たちに向かい、生きている声で「私は道である」とお話しになります。より深い確信をもって、イエス様に出会いましょう。

自分の話になりますが、私は遠藤周作の『イエスの生涯』を少なくとも2年に1回、必ず読みます。この本は私が毎日聖書を読む際に役立ちます。この本には神のみ旨を私たちに示す(イエスご自身が神様ですから)、とても人間的なイエス様が描かれており、またイエス様について「神の愛」「愛の神」という言葉が頻繁に使われています。第7章ではイエス様を「私たちの同伴者」と呼んでいます。これは深い真実です。
「キリストは今なお生きておられ、日々あなたの傍であなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」とフランシスコ教皇様が『福音の喜び』に書いているように、復活されたイエスは私たちのすぐ近くで人生の道を歩んでおられます。
イエス様は今日、私たち一人ひとりに「私は道である」と語りかけられます。これは、私たちに「主の平和」と「生きる意味」を与える人生の道を示すだけでなく、イエス様ご自身が私たちと一緒に、人生の道を歩んでくださることを表しています。この最も重要なキリスト教の教えは、私たちが疲れ果てたとき、まさに緊急事態である今に必要な「教え」です。
今日の福音(ヨハネ14:1)でのイエスのみことばについて考えてみましょう。
「心を騒がせるな…私は道であり・・・」
聖書の中でイエス様は繰り返し私たちにこう仰います。
「恐れるな、私はあなたと共にいる」。
このように祈りましょう。
「主よ、あなたの励ましのみことばを私にも聴かせてください」
そして、このイエス様からの励ましを他の人と分かち合うことがとても大切です。

あとがき 
私は東山魁夷の「道」という絵画が好きです。この絵を見ながら、イエス様と一緒にその道を歩いている自分を想像しています。皆さんも試してはいかがでしょうか?    (翻訳担当:北尾)

復活節第4主日 2020年5月3日

聖書: 詩篇 23; 1ペテロ 2:20-25; ヨハネ10:1-10
非常事態宣言と「ステイホーム」要請は、もう1ヶ月間続くことになりそうです。そうです!また、あの長い25日間です!あなたは、疲れた、ストレス、憂鬱、鈍くなった、退屈、あるいは落ち込んでいるでしょうか?しばりつけられた感じがしますか?気分転換できない感じがしますか?
あなたの答えが「はい」なら、今日の朗読聖書(上記)が、まさに私たちが必要とするものです。イエスからの慰めに満ちているからです。
私はニュージーランドで生まれました。羊が人間の5倍の数いる国です。ニュージーランドでは羊は丘の上に遠く見える白い点です。イエスが自分のことを「良い羊飼い」といっても、何を言っているのか、私には分かりませんでした。後になって聖地に行ったとき、私は羊と羊飼いについて、全く違うあり方を学びました。今、私は、イエスが私を名前で呼ぶ、私の羊飼いで、その羊の群れの一人として私を守っている事実が大好きです。
イスラエルの若い羊飼いは、ふつう、父親の20 匹位の羊の世話をします。羊飼いは、それぞれの羊の好き嫌いとその特徴を知っています。それぞれの羊には名前が付けられており、羊は自分の羊飼いの声が分かります。羊と羊飼いの間は親密です。この美しいイメージをイエスと私たち自身に重ね合わせてください。
朗読聖書に励ましの言葉があります。イエス、良い羊飼いは「私を生き返らせる。」(詩篇23) イエス、私の羊飼いが「共にいるので、たとえ死の陰の谷を歩んでも、私はわざわいを恐れない。私は神の家に生きる(そして守られる)。」 (詩篇23)
第二朗読(1ペテロ2:20-25)では、聖ペテロは、イエス、私たちの羊飼いが私たちと共に苦しむことを教えています。私たちはイエスの足跡をたどって歩くのです。もし道に迷ったなら、私たちの羊飼いで魂の守護者であるイエスが、喜んで私たちを連れ戻すでしょう。
福音書では、私たちの羊飼いイエスが、私たち一人一人に名前で呼びかけます。この慰めの真理について深く考えてみましょう。私の神イエスは、私を知っており-愛をこめて、名前で私を呼ぶのです!私たちは大きな白い塊の中の名もない羊ではありません。一人一人が知られ、ありのままに受け入れられ、守られ、導かれるのです。復活したイエスのこの真理は美しく、慰めと励ましに満ちています。これこそ、この新型コロナウイルスの危機で、私たちがまさに必要としているものです!
あなた方の司祭として、私は皆さん全員のために祈ります。あなた方に、平和と希望と健康がありますように。
今週は、たとえ少しの時間でも、あなた自身の言葉で、私たちの羊飼いイエスに話をするように勧めます。
ゆっくりと、祈りをこめて、詩篇23(主は我らの牧者)を読みましょう。イエスはこの詩篇の言葉を実現されるのです。一つ一つの行で止めて、思い巡らしてください。
そしてヨハネ福音書10:1-10を読んでください。これらのイエスの言葉は、今、生きている言葉です。イエスが、私たち一人一人に語りかけているのです。
主の平和が、皆さんと共にありますように。(翻訳担当:相田)

復活節第3主日 2020年4月26日

聖書:使徒たちの宣教 2:22-33; 詩編16;使途ペトロの手紙1:17-21;ルカ24:13-35
 新型コロナウイルスはわたしたちを不安にさせています。ウイルスは目に見えず、恐ろしく、恐怖を与えます。今の危機に当てはまる、短いたとえ話をしましょう。
 一人のお母さんが夜、子どもをベッドに連れて行きました。電灯を消します。幼い子どもは「お母さん!暗くて怖いよ!」と叫びます。お母さんは子どもに応えます。「イエス様がそばにいるから安心して」子どもは応えます。「わかるけど、誰か見える人が居て欲しい」わたしたち人間の目では復活されたイエスを見れないことは事実です。このお母さんは幼い子どもの恐怖と孤独の叫びを聞きました。子どものそばに来て、「一緒に祈ろう」と言います。母と子はイエスの存在を感じます。祈りの中で友であるイエスに出会います。
 今日の第一朗読では「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」(使徒たちの宣教 2:25)をわたしたちは読みます。詩編16では、「神はわたしのそばにおられ、わたしは決してゆるがない」(詩編16:8)を読みます。
 福音書(ルカ24:13-35)では、落胆した二人の弟子と彼らの孤独を見ます。復活したイエスは二人の横にいたのですが、二人はイエスがそこにいるということを分かりませんでした。イエスは初めに二人の心配ごとを語らせたということを心にとめましょう。そして次にイエスは聖書の深い意味について説明されました。イエスは二人の弟子の信仰の目を開きました。弟子たちはイエスを感じ、喜びと希望に満たされました。
 このことは2000年前だけの出来事ではありません。復活されたイエスは今日もわたしたちと一緒に人生の道を歩んでいます。イエスはわたしたちの同伴者です。イエスに話しかけましょう。イエスに全ての不安を語りましょう。聖書を開きましょう。イエスは聖書を通じて私たちに語りかけます。イエスは今日新型コロナウイルスの危機の中でも、勇気、慰め、友情をくださいます。教皇フランシスコもわたしたちに向けて書かれています。「キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」(福音の喜び#164)
わたしは皆さんのために祈ります。平和と健康があるように!
(翻訳担当:薩田)

復活節第2主日(神のいつくしみの主日) 2020年4月19日

聖書朗読使徒言行録2:42-47 詩編118 ペテロの手紙(1)1:3-9 ヨハネ20:19-31
 256年の間(1617年-1873年)日本のキリシタン達は自分達の家で祈っていました。それは迫害によって教会が閉ざされていたからです。2020年の現在、私達は日本の潜伏キリシタン達が本当に生きた信仰をどのように守り続けていたのかを見倣いましょう。そして自分達の家で祈りましょう。復活したイエス様はあなた達の家にあなた方と共におられます。
 この今の緊急事態は、祈りの中で、復活された主イエス様と出会う特別な機会です。
 あなた方の祈りの為に(そして励ましの為に)私は、今日の福音の箇所(ヨハネ20章19節~31節)を開くことをお勧めします。イエス様とトマスの両方に出会いましょう。私達はトマスに出会うことが出来ます。何故なら彼は私達のようだからです!トマスは疑いを抱いて、共同体から出ていきました。彼は頑固でした。トマスの信仰は揺れ動いていました!そうです、私達のようです!
 トマスが戻ってきた時に、復活した主が現れます。イエス様は彼を叱りません。イエス様は彼をありのままに受け入れます。― 弱い信仰も、疑う心も頑固さもです。(イエス様は今も私達に同じようにして下さいます。)イエス様はトマスに対してとても優しく、理解に満ちています。これが神の働きにおけるいつくしみなのです。私達は、今日、この同じいつくしみを味わうことが出来ます。
このように私達の心に神様が働いて、疑いによる混乱や弱い信仰が、とても強い信仰を生み出すということが度々起きるのです。そしてトマスの信頼に満ちた祈りが、「わが主、わが神よ」なのです。
「主」という言葉は短いですが、深い意味を持っています。それは、私の命全てを神様の手に委ねますということを表しています。私の将来、健康、希望、喜び、苦しみを、イエス様を信じて任せますということです。すなわち奉献です。
「わが神」イエス様は人間であることを体験された私達の神様です。人間としての体験をされたからこそ、イエス様は私達の近くにおられ、私達人間の弱さを理解して下さり、忍耐強く、思慮深く、そしていつくしみに満ちていらっしゃるのです。この危機の時に、祈りの中でこの優しいイエス様と出会いましょう。そして、他の人達とイエス様の励ましを分かち合いましょう。     「主の平和!」

【追伸】
 毎日(日曜日も平日も)私(あなた方の司祭)は、9時にミサを捧げます。
 私はあなた方と共に、あなた方の為にミサを捧げています。どうぞ霊的に、私と繋がって下さい。ミサを捧げる時、私は入江町の司祭館にいます。私は一人のように見えるかもしれませんが、霊において、私はそれぞれの家にいるあなた方、全ての皆さんと共にいます。「ワン・チーム」になりましょう! 
「主の平和!」             (翻訳担当:三村)

復活の主日 2020年4月12日

聖書朗読 使徒言行録10.34a,37-43;詩編118;Ⅰコリント5.6-8;ヨハネ20.1-9

この緊急事態のさなか、私たちの神であるイエスは生きている声で私たち1人ひとりに語りかけておられます。今、私たちは、できる限り自宅に留まり人との接触を8割減らすよう求められています。これによって憂鬱になったり、退屈したり、孤独を感じる可能性は大いにあるでしょう!
しかし、どうぞそのような悲しい状態に陥らないでください!自分の家で復活されたイエスに会うために、この期間を使いましょう。私たちの神であるイエスは、あなたの家に、あなたのすぐ近くにおられます。イエスは、聖書と祈りを通して、生きている声であなたに語られます。「恐れるな、私はあなたと共にいる」と。(マタイ28:20,ルカ12:7,マタイ10:31,ルカ12:32)

これこそが、ご復活の意味です。神の御子は、神の身分でありながら自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。それはイスラエルと呼ばれる、遠く小さな国での2000年前の出来事でした。イエスは十字架に付けられて死にましたが、3日目に死者の中から復活なさいました。この「復活」によって、イエスはすべての場所(すべての国、すべての家)で私たちと共に生きておられるのです。

確かに、私たちはいつも教会に行き、ご聖体であるイエスに会います。しかし私たちは、自分の心と自分の家でイエスに会うこともできるのです。この「ホームミーティング」は大切です。危機的状況にある今こそ、私たちは「ホームミーティング」の重要性を学ぶことができます。
逆境を活かしましょう。

復活された主であるイエスは、私たち1人ひとりに生きた声で語られます。私たちも、心の中で起きていることをすべて、自分の言葉でイエスに伝えましょう。復活した主は、あなたの言葉に耳を傾けてくださいます。
私たち1人ひとりが、復活された主と共にエマオへの道を歩いています(ルカ24:13-35)。復活されたイエスは私たち1人ひとりを名前でお呼びになります(ヨハネ20:11-18)。疑い深かったトマスと私たちに平和をお与えになり(ヨハネ20:20-29)、イエスを3回も否定したペトロになさったように、私たちにも優しくしてくださいます(ヨハネ21:1-18)。
復活されたイエスに会い、主の平和を他の人と分かち合いましょう。 (翻訳担当:北尾)

受難の主日(枝の主日) A年 2020年4月5日

聖書朗読:イザヤ50:4-7; 詩篇 22; フィリピ 2:6-11; マタイ 26:31-27:60

新型コロナウイルスは目に見えず、恐怖と不安を引き起こしています。私たちは、家に留まり、他の人との接触を避けるよう勧められています。私は皆さんの司祭として、皆さんに教会の共同体と深い精神的な触れ合いを持つよう願います。皆さんの司祭として、私は人のいない教会でミサを捧げますが、皆さんは私と一緒にいます。自分の家にいても、ミサの時間にキリストに結ばれ、共同体と共に祈るよう願います。この祈りのつながりは、私たち全員がこの危機にうち勝つ助けとなると信じます。ですから、皆さん、自分の家で、共に祈りましょう。
具体的には、このように祈るよう勧めます。上に記した聖書の箇所を開きましょう。これらの聖句はイエスの苦しみを表しています。これを読んで、これは私たちへの愛のために人間になった私たちの神である(フィリピ)と思い出してください。イエスは、真の人間として、むなしさを味わう経験をしました(詩篇22)。それから、ゆっくり、非常にゆっくり、よく考えて、マタイによる受難の物語 (マタイ福音書26:31-27:60) を読むのです。時々休んで、自分自身に言ってください:「イエスがこの苦しみを受けるのは、私を愛しているからです。」-そうです、残酷な拷問を思い浮かべるのです。でも、もっと大切なのは、その背後にある愛です。私たち一人一人に対するイエスの愛は今日も生きているのです。私たちは一人一人、聖パウロと一緒に、こう言えるのです:「イエスは私を愛し、私のために自分自身を捧げられた。」(ガラテヤ2:20)
イエスは私たち一人一人に呼びかけます:「恐れてはいけない、私があなたと一緒にいるのだから」と。特に恐怖、不安、痛み、孤独などの中にあるとき、復活したイエスが私たちのそばにいます。イエスは私たちに力と癒しを与えてくださいます。イエス自身が痛み、恐怖、孤独に苦しみました。こうした人間の経験があるので、私たちの神はいつも近くにおられるのです。イエスは私たちと一緒に人生の旅をする私たちの神です。イエスは本当に私たちの旅の同伴者です。皆さんに平安がありますように!(翻訳担当:相田)

四旬節第5主日 A年 2020年3月29日

聖書朗読:ヨハネ 11:1-45; 詩編130 (神よ深いふちから)
 今日は皆さんに、新約聖書を開きヨハネによる福音書11章を全てをゆっくりと祈りを込めて読むことをお勧めします。イエスがラザロを死から生き返させられた出来事は多くの事を教えてくれます。この場面でのイエスは神様です。神様とはどのような方かを表しています。神様は優しい心をお持ちであることを私たちに示しています。イエスは、ラザロ、マルタ、マリアを愛していました。この兄弟姉妹の親友でした。イエスはわたしたちを愛してくださる。わたしたちの親友です。わたしたちの神であるイエスは、マルタの悲しみと涙を見ました。イエスはマルタを深く思いやり、そして涙を流しました。この涙は心からのものです。この場面を思い描いてみましょう。神であるイエスが友人の悲しみを見て泣く場面です。イエスは今日わたしたちにも同じことをされます。
 日本と世界全体にまん延している新型コロナウイルス流行の今日、わたしたちは孤独、定まらない気持ち、不安、恐れを経験しています。この不安と闘うためにイエスがひとりひとりの人間に示す愛を味わいましょう。自然災害は起こります。これらは神様がもたらした罰ではありません。絶対に!この危機の時期を神様の愛を味わう時として用いましょう。
 イエスはマルタとわたしたちひとりひとりに言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」イエスはマルタとわたしたちひとりひとりに問われます。「このことを信じるか。」わたしたちの答はどうでしょうか。
 わたしたちは半分だけ生きているのでしょうか。もうすでに墓に入っているのでしょうか。包帯で拘束されているのでしょうか。すなわち本当に自由なのでしょうか。毎日、喜び、自由そして平和の中で生きているのでしょうか。死の前にはすばらしい人生があります。イエスが今日提供してくれます。わたしたちは墓から出ることを拒むでしょうか。詩編130節の祈りのように、光、強さ、導きを求めましょう。イエスはラザロとわたしたちに言われます。「墓から出て来なさい。束縛から解放され自由に行きなさい。」(薩田)

四旬節第4主日 A年 2020年3月22日 

聖書朗読:サムエル上16:1-13詩編23エフェソ5:8-14ヨハネ9:1-41

私たちは「信仰生活」という人生の旅をしています。幼児洗礼であっても成人洗礼であっても、旅の出発点は洗礼です。多くの場合、受洗後2、3年は平穏な状態が続くので、私たちは信仰を当たり前のことのようにとらえるかもしれません!その後、しばしば若者に(そして時には他の世代の人にも)信仰に対する反抗期が訪れますが、時が過ぎてほとんどの人は信仰を受け入れるようになります。聖パウロは自分の信仰についてこのように語っています:「幼子だったとき、わたしは幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」(1コリント13章11節)。
信仰を受け入れたとき、私たちは「イエス様!私はあなたを選びます」と言います。

その後、苦しみがしばしば私たちを襲います。私たちは主に向かって叫ぶのですが、主には私たちの嘆願が聞こえないかのようです。これは「魂の暗夜」または「神の沈黙」と呼ばれているものです。イエス様は「私はいつもあなたがたと共にいる」と言われますが、彼はどこにもおられないようです。信仰への疑いが私たちを襲うかもしれません。しかし、その暗闇から脱したとき、私たちはイエス様がこの試練の間中、私たちのすぐ傍にいてくださったことを悟ります。(今日のヨハネの福音に出てくる)見えるようになった人のような信仰で、神様を求め続けましょう。
「主は暁の光のように必ず現れる」(ホセア6:3)。

信仰という旅の途中で、キリストの道から去りたいと感じるときがあるかもしれません。この試練を通して私たちは「人間の力だけでは信仰の道を歩けない」ということを学びます。私たちは自分自身の弱さを認め、イエス様の御力と御導きに頼らなければなりません。 (これが、弱い《末っ子の》ダビデが選ばれたという今日の第一朗読のメッセージです)。
イエス様は私たちにこう言われます:
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。
神様の御力により頼むことによって、私たちは自由になることができるのです!
主よ、この大切な真実を見ることができますように。

私たちはいくつになっても信仰を強めていかなくてはなりません。
今日の福音書で、見えるようになった人の信仰がどのように増していったかに注目しましょう。初めに、彼はイエス様を「あの方」と呼び、次に「預言者」、そして最後は「主よ!信じます」と言ってひざまずきました。
信仰は神様からの真の贈り物です。感謝の気持ちでこの贈り物を大切にし、光の子として歩みましょう(エフェソ5:8)。そしてこの贈り物を他の人と分かち合いましょう。
(翻訳担当:北尾)

四旬節第3主日 A年 2020年3月15日 

聖書朗読:出エジプト記17:3-7 詩編95 ローマの教会への手紙5:1-8 ヨハネ4:5-42
 神様とは誰ですか?一体神様はどのようなお方でしょうか?実は神様は純粋な霊です。例えば私達は風そのものをみることは出来ません。私達は風がもたらす動きだけを見ることが出来ます。真の神様も人間の目には見えません。私達を創造された神様はこのことを知っています。だから、神様は御子を私達の世界に送って下さったのです。御子が神であることの栄光を脇に置いて、人間、私達と同じ本当の人間になって下さったということです。そして、私達は福音の中でイエス・キリストに出会う時、私達は優しさと憐みと思いやりに満ちた人間の心を見ることが出来ます。それは今の私達人間に対する、真の神様の心です。イエス様は神様の自画像です。イエス様は人間の心に与えられた神様の愛なのです。
 
 今日の福音(ヨハネ4章5節~42節)のイエス様を見てみましょう。イエス様は村々で伝道しておられた。彼は外国であるサマリア人の国に入ります。イエス様は疲れ、喉が渇いています(そう、人間です!)それは正午頃です。イエス様は井戸の端に腰かけています。そこへサマリア人の女が一人で水を汲みにやってきます。イエス様は彼女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。その女はとても驚いた。何故なら普通ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していて、決して彼らと話すことはないからです-しかしイエス様は違った。この女は何故一人で井戸にやってきたかというと、彼女は5回結婚し、5回失敗していた。そして、今一緒に暮らしている男は夫ではない。彼女は隣人たちから悪口を言われて傷ついていた。ここが大事なポイントです。イエス様は彼女の人生の状況を知っていらした。そしてイエス様は彼女に厳しくしたり、彼女を裁いたりしないで、彼女をありのままに受け入れた。

イエス様は、まず彼女に水をくださいと頼むことによって、彼女の心の中の壁を取り除いた。そして、本当に温かい人間的な、親しい会話と分かち合いを始められた。全部の会話が温かい。実際、このサマリア人の女は心に非常に大きな渇きを抱えていた。イエス様は彼女に生きている水を与え、それは彼女に新しい命を与えた。これは、単に2000年前の場面ではありません。イエス様は今も生きておられ、私達に同じようにしてくださっています。福音書を開いて、イエス様と出会い、自分の言葉でイエス様に話しかけましょう。そして、この贈り物を分かち合いましょう。   
(翻訳担当:三村)

四旬節第2主日 A年 2020年3月8日 

聖書朗読:創世記 12:1-4; 詩篇 33; 二 テモテ 1:8-10; マタイ 17:1-9

祈ること-これはイエスに従う者として、絶対に必要な部分です。祈るとき、私たちは活動を止め、神と向き合います。イエスは、口先だけの言葉ではなく、私たちの心から出る、意味のある言葉を使うように言われます。
でも、私たちが祈るこの神は誰でしょう?神は遠く離れ、ぼやけていますか?もし、神をそのように見ているなら、私たちの祈りはあいまいになります。もしかして、神は厳しく、罰する方と思っていますか?もしそうなら、私たちの祈りは堅く、冷たくなります。
私たちが祈るとき、私たちキリスト教徒は優しいイエスに顔をあわせ、イエスは私たちを父なる神に導き、祈り方を教えてくれる聖霊を送ってくれるのです。
次のステップ:イエスは誰ですか?今日の福音朗読では、イエスは山の上で、光の中に輝いています。聖書は、これ(変容)で、イエスが本当に神であることを表しています。先週の日曜日の福音書は、イエスが砂漠で悪魔に誘惑を受けている様子が示されました。そして、受難の主日の福音では、ゲッセマニの園で苦しむイエスが描かれます。本当に人間であるイエスが示されます。これら2つの場面を併せ見て、私たちはイエスが100%神であり、100%人間であるとわかるのです。私たちの神は私たちの近くで、私たち人間の生を経験しています。私たちの神は、私たち人間の弱さを理解し、受け入れます。第二朗読では、私たちが助けを求めれば、神は私たちを支えてくれることが示されます(二 テモテ1:8)。
福音の中で神はイエスについて私たちに言います:「これは私の息子。彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17:5)。この四旬節、福音書を開き、非常にゆっくり時間をかけて、イエスが私たちに言うことを読みましょう - 近くで耳をこらしましょう!私たちの神は、特に聖書を通して、
今日、私たちに話します。スマートフォン、ゲーム、テレビなど、心の雑音の素を脇に置きましょう。読み、耳を傾け、祈る。その結果、私たちは人に、また内なる自分に耳を傾ける自分自身に気づくでしょう。イエスは私たちにこうも言われています:
「起きなさい。恐れることはない。(マタイ17:7)」 (翻訳担当:相田)

四旬節第1主日 A年 2020年3月1日

聖書朗読 創世記 2:7-3:7;詩編 51; マタイ4:1-11
 四旬節はお酒やスイーツといった嗜好品を断つといった我慢する期間と捉えられがちです。今日の聖書朗読では神様の素晴らしい優しさが主眼点です。わたしたちが神様忘れたり罪を犯したりしても、神様はわたしたちをありのままに受け入れてくれます。私たちの神様は慈しみ深い方です。
 創世記では、神様は人間を創られましたが、人間が神様の掟に背いた場面を描いています。しかし良く考えましょう。神様は二人の男女を見捨てませんでした。わたしたちは両親を通し神様から命を与えられています。ひとたび生を与えられたなら、神様は決して見捨てられません。神様の愛は無条件です。わたしたちは神様を忘れることがあるかもしれません。しかし神様は決して私たちを忘れません。
 詩編51節は美しい詩編です。「豊かなあわれみによってわたしのとがをゆるしてください。」神様の慈しみは本当に素晴らしいものです。
 福音書ではイエスが悪魔から三つの誘惑を受ける場面が描かれています。パンの誘惑は、神様を忘れることと物質への依存という誘惑です。神殿の屋根の上での誘惑は、人に注目される行動と名声への誘惑です。これは神様が一人一人を気に掛けることへの不信という誘惑です。世界を支配する誘惑は、自分の目的だけに力を使うという誘惑です。イエスが受けた誘惑と同じ誘惑を、わたしたちは受けていることに気づかされます。
 イエスが誘惑を受けたという事実はイエスが本当の人間であるということを表しています。(来週の福音書では、イエスのご変容つまり、イエスが本当の神様であることが書かれています)だからわたしたちの神であるイエスは近づきやすい方です。人間として生きたのです。
 イエスは福音を伝えるためにこの世に来ました。天からの福音は、人間が良いからではなく、神様が人間を創られたたため神様はすべての人間を愛されているという良い知らせです。
                        (翻訳担当:薩田)

年間第7主日 A年 2020年2月23日

聖書朗読 レビ記19:1-18 詩編103 コリントの教会への手紙(一)3:16-23        マタイ5:38-48
 今日は、イエス様は私達にチャレンジすることを求めています。「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。」私達はこのチャレンジから逃げてはいけません。
 私達はこのイエス様の言葉の意味を思い巡らす前に、詩編103を祈りましょう。神はわたしの罪をゆるし・・・私の命を危機から救い・・・神は憐み深く、愛して下さる・・・東と西が果てしなく遠いように、神は私達を罪から引き離される(詩篇103)。イエス様は私達に仰います。「あなたの罪は赦された。平和のうちに行きなさい。」あなたの人生を振り返って、あなた自身にいいましょう。「神は私を赦して下さった。だから私も人を赦そう。」
 神様に愛されているというこの雰囲気の中で、イエス様の「あなた方の敵を愛し、彼らの為に祈りなさい。」という言葉を思い巡らしましょう。
 聖書の背景の中で、「」という言葉は広い意味を持っています。- それは自分が本当に嫌いな人という意味から自分を傷つける人、あるいは自分と考えの違う人、また、自分が好きでない人や、自分と合わない人など。
 敵を「愛する」ということは、感情的に気持ちのいいものではありません。それはありのままに、彼や彼女を受け入れることです。たとえ明らかに悪人だとわかっている人でもです。あなたは「不可能だ!」と言うでしょう。確かにそうです。人間の力だけではそれは不可能です。でもイエス様は私達に戒めを与えるとともに、私達にこの教えに従うための力をも与えて下さっています。イエス様の力に頼って敵を愛しましょう。
 神様の愛は無条件です。神様は100%間違いなく、良い人も、そして、私達が悪人と呼んでいる人も愛しています。人間が100%の愛に応えるのとはちがって、神様は「悪人」に対してもいつも100%愛を注ぎます。私達は神様と同じようでありなさいと求められています。神様は私達を赦しています、だから私達も人を赦しましょう。
 私達の模範と助けはイエス様です。残酷な兵士が十字架の上でかれの手に釘を打ち込んだ時にも、そして指導者たちが彼を侮辱した時も、イエス様は「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているか分からないのです。」と祈られました。
 敵を愛することは、一般の社会では普通受け入れられません。人々も、そして国も、傷を負い、恨みを抱きます。私達キリスト信者は、イエス様によってこの傷をいやす人となるように呼ばれています。あなたの「敵」の為に祈りなさい。(翻訳担当:三村)

年間第6主日 A年 2020年2月16日

聖書朗読 シラ書15:15-20 詩編119  1コリント2:6-10 マタイ5:17-37

聖書には次のように書かれています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」(ヤコブの手紙1章5節)
今日の第一朗読でシラは「神の計(はか)り知れない知恵」について語り、第二朗読でパウロは「この世の知恵ではなく、神から来る知恵」について語っています。私たちは世俗的な知恵によって多くのことを学び、それによって出世したり、学者になったりすることができます。しかし、この知恵は私たちの頭の中にある薄っぺらなものです。神様からの知恵は私たちの心に触れ、深くて永続的です。真の知恵とは、私たちを神様と親密に結びつける、神様からの贈り物です。この知恵は、私たちが神様から愛されており、神様の目に私たちは特別なものであると教えてくれます。この真理が私たちの心に届くよう乞い願いましょう。十字架の姿に、恐ろしい拷問を見るのではなく、私を愛し私のために命を捧げてくださった偉大な場面だと感じるためには、神様からの知恵が必要です。地上での私たちの人生の目的は、天国の永遠の命に与るために歩むことである、ということを理解するためには真の知恵が必要です。私たちは永遠の命に入るために、今、準備しなくてはなりません。

聖書のさまざまな箇所に、神様からの知恵が私たちの日常生活にも与えられていることが書かれています。例えば、洋裁の能力、大工さんやテント張りの職人、水先案内人、葬儀で歌う人など。興味深いのはエレミヤ書にある、白髪の無学な老婆が将軍にアドバイスを与える場面の例でしょう。これらはつまり別の言葉で言うと「職場、学校での日常生活の中に、家庭の中、趣味の集まりの中に、家族との関りの中に知恵を与えてくださるよう神様にお願いしましょう」ということです。
イエス様は今日の福音の中で、私たちが他の人と衝突したら、恨むのではなくその人のところに行って(この知恵をもって)仲直りをするようにと言われます。
神様の助けがなければ、この「仲直り=和解」はとても難しいことです。
「主よ!私にあなたの知恵をお与えください!」(翻訳担当:北尾)

年間第5主日 A年 2020年2月9日

聖書朗読:イザヤ58:7-10; 詩篇 112; 1コリント 2:1-5; マタイ 5:13-16
「なぜ神父になったのですか?」と私は質問されます。母国ニュージーランドでは「なぜ遠い日本で働く宣教師になったのですか?」と尋ねられます。両方の質問に対する私の答えはこうです:私はイエスに会うことによって、そして彼に従うことで、世界で最も恵まれた人々の一人だと感じます。この神からの贈り物を他の人と分かち合うように、心を動かされ(そして召されて)います。でも、すべてのキリスト教徒が、自分の社会、家族、学校、職場などでイエスの証人になるよう呼ばれているのです。
今日の福音書で、イエスは私たち一人一人に言います:「あなたは広く社会に味をつける塩です。」そして「あなたは社会の暗闇に光を届ける灯火です。」とも言われます。すなわち、信仰を分かち合いなさい、ということです。
多くの人にとって人生は、つまらない、意味がない、本当に骨が折れる、つまり「味気ない」ものかもしれません。優しさと喜びのほんの少しの塩が、多くの人々に大きな違いを生み出すことができます。多くの人にとって毎日が、孤独で暗く、憂鬱で、希望もないようです。そのような人々に光を届けましょう。
しかし、私たちはエリートであると思ったり、他の人より良いと思ったりするのは避けなければなりません!そうではありません!静かに人々を助けるため、神は私たちを選ばれたのです。
例外なくすべてのキリスト教徒が、神から受け取った贈り物を分かち合うよう、キリストに呼ばれています。私たちは家や家族の中で思慮深く親切であることから始めます。でも、そこで止まってはなりません!イザヤは、今日の第1朗読で、真の宗教は神を愛するだけでなく、孤独で空腹、服が無くて寒い貧しい人々、そして家の無い人々の世話をすることを説いています。
私たち自身の人間の強さだけで、この使徒的な行いを実行することはできません。それは不可能でしょう!でも、神の力を求め、頼れば、自分の社会の宣教師になることができます。
その報酬は何でしょう?神が「私がここにいる」と言われ、そして、暗闇の中で光があなたのために立ち上がるでしょう(第一朗読のイザヤ58)。さあ、試してみましょう!(翻訳担当:相田)

主の奉献 A年 2020年2月2日

聖書朗読:マラキ 3:1-4; 詩編24; ヘブライ人への手紙 2:14-18; ルカ2:22-40
 1月24日のNHK教育テレビで、シスター鈴木秀子さんが“苦しみを幸せに変える 聖なるあきらめ(神様に自分のすべてをゆだねる)”というタイトルのとても興味深い番組でお話されました。
 聖なるあきらめを実行するためには、先ず「わたしは誰を信じているのか」を自問しなければいけません。わたしたちクリスチャンの答えは「わたしたちひとりひとりを愛し、慈しんでくれる父である神様です」神様は、わたしたちと共に歩み、人生の旅路で見守りと励ましを与えてくれるイエスを与えてくださいました。わたしたちは神様だけに信頼をおけるのです。これが聖なるあきらめです。
 「神様の愛と慈しみを信じます」と「自分の人生を神様に捧げます。人生を神様の手にゆだねます」は同じ意味です。
 今日は、父である神様に人生を捧げ、わたしたちを自由にするために死んだ、イエスの祝い日です。
 イエスは子供のときから十字架上で息をひきとるときまで自分を捧げてきました。イエスは詩編31を祈りました。「父よ あなたのみ手に私の人生をゆだねます」と。
 ミサに与るとき、わたしたちの愛する父である神様にわたしたち自身をゆだねましょう。また祈り、特に感謝の祈りを捧げましょう。もっとも大切なことは一週間のすべての活動を捧げることです。家庭生活、勉強、仕事、家事、TVを観ることなど、わたしたちのすべての活動とわたしたち自身を捧げましょう。生活のすべてにイエスを招きましょう。
 死の恐怖は共通です。今日のヘブライ人への手紙では、死の恐怖を奴隷の状態と呼んでいます。イエスはわたしたちを解放しました。わたしたち自身を捧げ、今日の福音書のシメオンのように死の時も祈れるようになりましょう。「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてください。」(翻訳担当:薩田)

年間第3主日 A年 2020年1月26日

聖書朗読:イザヤ8.23-9:3詩27 27 1コリント1:1017マタイ4:12-23

あるお宅に「家の祝福」に行ったときのことです。玄関には靴が真っ直ぐにそろえてありました。家に入ると家具はすべてピカピカに磨かれていました。部屋を次々と祝福しましたが、台所・お風呂場・トイレ、子供部屋でさえも片付いていて、とてもきれいでした。あるドアを開けようとすると、お母さんが言いました。「神父様、そこには入らないでください!そこは物置なので暗くて散らかっています!」
私たち人間は完全な者ではないので、心に暗い場所=闇(やみ)を持っています。それは、短所や他の誰か(親や友人など)に傷つけられた心の傷かもしれません。そしてその相手を許せずにいる闇かもしれません。落ち込んだり、うつ状態だったり、裏切られたという思いや、羨望、怖れからくる闇もあるでしょう。私たちには将来の夢がたくさんありますが、そのすべてをかなえることはできません。そして私たちの心にはこれらの他にも多くの、例えば「偏見」や「反感」のような闇があります。

今日の第一朗読と福音でも引用されているイザヤ書の「暗闇に住む民は大きな光を見、…」は
イエス様を示しています。これらは、今日の私たちのための生きた言葉です。
このみ言葉を祈る具体的な方法を3つのステップで紹介します。
1.自分の心の奥底を正直に見つめ、そこにある闇を認めましょう。
2.自分の力だけでは、その闇を克服できないことを認めましょう。
3.あなたの心を照らしてくださるように、光であるイエス様に、願い求めましょう。イエス様の「光」による癒しを切に願って、頑張りましょう!決してあきらめないでください。イエス様は「曙(あけぼの)の光のように、必ず現れ」てくださいます(ホセア6章3節)。

洗礼式で私たち一人ひとりに、復活されたキリストを表す「復活のローソク」の光をいただいたローソクが与えられました。そして「光の子として歩みなさい」という言葉を受けました。
今日の福音で弟子たちをお選びになったように、イエス様は私たちをお選びになりました。
私たちが、家庭や職場、学校など、自分が所属する小さなグループの中でイエス様のこの偉大で美しい光を他の人たちと分かち合うために。(北尾)

年間第2主日 A年 2020年1月19日

聖書朗読:イザヤの預言49:3-6 詩編40 コリントの教会への手紙(一)1:1-3ヨハネ1:29-34
 私は大分前に和歌山県の串本の主任司祭をしていました。丁度その時、恐ろしい大きな台風が来ました。御坊の白岬の沖で一人の乗組員が漁船から海に落ちました。彼は溺れかかっていました。そこを通りがかったノルウェーの船から一人のノルウェー人の船員が海に飛び込んで、その日本人の漁師を救いました。しかしそのノルウェー人は亡くなりました。彼は自分の命を捧げてその漁師を救いました。朝刊にそのノルウェー人を讃える見出しがありました。漁業協同組合はこの救いの出来事を忘れないために記念碑を建てました。2日たって、私はこの出来事について考えた時、そうだ!とイエス様が私の為に、そして全ての人々になさったことをはっきりと理解しました。私達はミサを行なっている時、イエス様の救いの出来事を記念しています。十字架は私達の救い主であるイエス様を思い起こさせます。
 ミサで、又聖書を読んでいると私達は「神の子羊」という言葉をよく聞きますが、この象徴的な言葉は「イエス様が私達の為に命を捧げてくださったのだ」ということを思い起こさせます。今日のヨハネ福音書の中で、洗者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言っています。これは私達一人一人の為にイエス様がしてくださったことです。イエス様は私達の罪を許すことによって、私達が神様と温かな親しい交わりができるようにしてくださったのです。私達は聖体拝領を受ける前に、まさにこの言葉を使って祈ります。神の子羊であるイエス様が私達の上に恵みを注いでくださいますように、平和を与えて下さいますようにと祈ります。
 旧約聖書の中で、ユダヤ人がエジプトで残酷な奴隷制度の中にあった時に、家族で子羊の肉を食べ、彼らの家の扉に子羊の血を塗ったある夜のことが書かれています。ペストによる死が、彼らの上を通りすぎていきました。ユダヤ教徒達はこの出来事を「過ぎ越しの祭り」と呼んで毎年お祝いします。イエス様と12人の弟子たちも、イエス様の命が私達の為に捧げられる前に、この祭日を祝っていました。私達はそれを「最後の晩餐」と呼んでいます。動物の代わりに、イエス様はご自分の命を私達の為に捧げたのです。私達クリスチャンが何故イエス様のことを「神の子羊」と呼んでいるのかはそういうことです。イエス様という捧げものが私達を神様の友達にしてくださったのです。(三村)

主の洗礼 A年 2020年1月12日

聖書朗読:イザヤ42:1-7;詩篇 29;使徒言行録10:34-38; マタイ3:13-17
洗礼者ヨハネは、人々が、約束の救い主を迎えられるよう準備をしていました。ヨハネの洗礼は後悔している罪人のためのものでした。では、なぜ神の御子がその洗礼を受けるために並んだのでしょうか。彼は断じて罪人ではなかったのに。イエスは、この行いによって、私たちの兄弟であり、罪人のそばで励まし、支えとなることを示しているのです。人間であることを経験した私たちの神イエスは私たちと一致しています。私たちの神イエスは、私たち人間の弱さを理解しています。私たちの神は穏やかな神であり、罰する神ではありません。私たちの神イエスは近づきやすく、話しやすい方です。イエスは私たち罪人の友であり、私たちが彼の道から外れてもなお、私たちに優しいのです。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」(イザヤ42:3) ――預言の中でイザヤは、イエスについて、このように詩的に書いています。
イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時、天からの声が聞こえました。それは父なる神からの声で、「これは私の愛する子、私の心に適う者」というものでした(マタイ3:17)。同時に聖霊がイエスに降り、人々の救い主として導き、強めたのです。
私たちが洗礼を授かる時、父なる神は教会を通して同じ言葉を言います:「あなたは私の子、私はあなたを愛しています。」そして、私たちがイエスと一致できるよう、聖霊が与えられます。私たちはイエスの道を歩むように、また、これらの偉大な賜物を他の人々と分かち合えるよう、導き強められます。私たちの洗礼は神からのすばらしい贈り物なのです。
日本で洗礼を受けている人は、人口の1%もいません!その意味は何でしょうか?私たち洗礼を受けた者は、日本社会の99%のため、光と塩(すなわち味)となるよう、イエスから招かれているのです。私たちが自分の小さな社会で証しするのにも、私たち人の力では全く不可能なのは、もちろんです。でも、私たちはイエスと一致し、聖霊から与えられた強さに頼れます。やってみようではありませんか!(相田)

主の公現 A年 2020年1月5日

聖書朗読:イザヤ 60:1-6; 詩編 72; エフェソ教会への手紙 3:2-6; マタイ 2:1-12
 公現とは特別な教会用語です。「神様はわたしたちに現れた」という意味です。今日の福音書において、三人の博士に現れたことは2000年前だけのできごとと思わないでください。今日でも神様は一人子イエス・キリストとして現れています。わたしたちはキリスト教徒です。もうイエスに会っています。わたしたちは世界で最も恵まれた者です。
 イエスが生まれた日に、イエスは羊飼いに現れました。羊飼い達はユダヤ教徒なので、ユダヤ教を信仰する人の象徴です。その後三人の博士にイエスは現れました。彼らは非ユダヤ教徒つまり他の国々という象徴です。この具体的な方法により、聖書ではイエスはすべての人、すべての国のためにいることを示しています。
 三人の博士は自分たちの人生の意味を探していました。博士たちは星により神様から馬小屋へと導かれました。自分自身に次の大切な質問をしましょう。自分の人生は何のためにあるのか?今の自分の生活の意味は?自分はどこに向かっているのか?神様は、星ではなく、イエスの生涯と言葉によって私たちを導きます。イエスは言います。「わたしは道である。あなたとともにいる。」
 博士たちは感謝の気持ちで持ってきた宝物を開け、イエスに黄金、乳香、もつ薬をささげました(マタイ2:11)。わたしたちもイエスに出会っています。また導かれています。わたしたちは世界で最も祝福されている者です。感謝として心を開きイエスに贈り物をしましょう。黄金の代わりにもっとも価値のある贈り物、親切心と思いやりを他の人特に孤独な人に差し上げましょう。乳香の代わりに、この小さな共同体で愛と平和の道具となるように、わたしたち自身つまり身体と心をささげましょう。もつ薬の代わりに許しという芳しい贈り物をささげましょう。わたしたちの疲れや重荷も贈り物であると、イエスは言われます。イエスは、「私のもとに来なさい。」と招いてくださいます。神様はわたしたちに様々な贈り物をくださいます。贈り物に感謝し、他のひとと分かち合いましょう。(薩田)

聖家族 A年 2019年12月29日

聖書朗読:シラ書3:2-14 詩編128 コロサイの教会への手紙3:12-21 マタイ2:13-23
十戒の中で、第4の掟は、「あなたの父と母を敬いなさい」ということです。この道しるべは子供たちにだけではなく、大人に対しても年老いた自分達の両親に対してのこととして当てはまります。第一朗読のシラ書は私達に、「年老いた父親の面倒を見よ...たとえ彼の物覚えが鈍くなっても」と言っています。アルツハイマー型認知症が普通のこととなっている今の時代では、この聖書の教えは私達にも当てはまります。そして又、年老いた人達は、忘れっぽくなり、物をよく失くし、道に迷います!これは年を取ることの一つなのです。もっと若い人達は、理解することが必要です。そして、忍耐と親切な心、思いやりと許しの心もまた必要です。私達は自分自身の人間的な力だけでそれをすることが出来ますか?
とんでもない!私達には神様の助けが必要です。神様に導きと力を頼みましょう。
 私は日本に63年前に来ました。私は田舎に住んでいました。その頃は、生活はとても静かで、整然としていました。しかし今、私達は全く違う社会に暮らしています。―私達はもっと豊かで忙しく、物質的な事柄が重視されています。昔の時代は終わりました。だからこのことを受け入れましょう。この新しい時代に向き合いましょう。そして神様の助け、導きと力に寄り頼みましょう。
 家族の生活は特に変わりました。今日のお父さん、お母さんは、この定まらない社会の中で子供たちを育てる使命を神様から受けています。その使命は、シングル家庭の場合はより困難です。お母さんたち、お父さんたち!その困難さを知ってそれに直面し、神様の助けを求めましょう。
 イエス様は30年間家庭生活を送りました。この地上での生活のうちの十分の九は、家庭生活の中にありました。このことは私達に、神様が家庭生活を愛をもって見守っていらっしゃることを教えてくれます。ですから、神様の助けを信頼を持って願いましょう。
 ヨゼフとマリアとイエス様の生活は楽ではありませんでした。彼らは困難と犠牲とそしてまた誤解の中にいました。〈例えばイエス様が12歳だった時(ルカ福音書2章41-52節)〉。今日の親たちは、とても疲れていて、沢山の責任を負わせられています。イエス様はあなた方に今も生の声で仰っています。「疲れている者、重荷を負う者は誰でも皆、私の元に来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ福音書11章28節)(三村)

主の降誕 A年 2019年12月24日

聖書朗読:イザヤ書9:1-6詩編96テトス2:11-14ルカ2:1-14

あなたにお知らせがあります!福音です!
それは「神様はあなたを愛している。今、ありのままのあなたを愛しておられる」ということです。
私たちは皆、聖書の一節「神は愛である」を知っています。
しかし、この深い真実は私たちの心に入っているでしょうか?私たちは自分自身を指して言うことができます。「神様は、今、ありのままのこの私を愛しておられる」と。
私たちをどれほど愛しているか明確に示すため、神様ご自身が「人間」となられました。
神様は私たちを心にかけ、私たちのすぐ近くに共にいたいとお示しになることを望まれました。
神様は人間の姿になられました(受肉)。
それがクリスマスの意味です。それが飼い葉桶にいる赤ちゃんの深い意味です。
私たちは「信仰宣言」で
「主は、聖霊によっておとめマリアよりからだを受け、人となられました」と唱えます。
クリスマスの飼い葉桶の赤ちゃんは、私たちの神様です。勿論、イエス様は赤ん坊のままではおられませんでした。
30年間家族の中で育ち、大工として働き、暮らしました。そして(公生活の)3年間、イエス様は「神は愛である」という天からのメッセージを私たちにお与えになりました。イエス様はこのメッセージを言葉と行いにおいて示されました。イエス様は優しく、穏やかで思慮深く、理解に満ちたお方です。私たちの神様であるイエス様は、今日も、同じ心を持っておられます。これが人間の心の中にある「神様の愛」です。
私たちの神様であるイエス様は、私たちの傍らで共に人生の道を歩んでくださいます。イエス様は私たちを励まし、護り、導いてくださいます。イエス様は私たちの支えです。
私たちはこのことを知識として知っていますが、この深い真実が私たちの心と日々の暮らしに浸透しているでしょうか?
今日、私たちの神であるイエス様に贈り物を願いましょう。イエス様はクリスマスプレゼントを贈るのがお好きです!ですから「イエス様と真に深く出会う」という贈り物を、祈りの中でイエス様に願いましょう。この贈り物は私たちの生活を変え、私たちの生活に意味を与え、味わい深いものにしてくれます。(北尾)

待降節第4主日 A年 2019年12月22日

聖書朗読:イザヤ7:10-14; 詩篇 24; ローマ 1:1-7; マタイ 1:18-24
旧約聖書は、ユダヤ人の言語であるヘブライ語で書かれました。2,734年前、アハズ王がダビデ王の後継者としてユダヤの王だった頃、預言者イザヤが最初の書を記したとき、ヘブライ語の「インマヌエル」という言葉が初めて使われました。「神は私たちと共にいる」というのが、この言葉の意味です。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ヘブライ語の「インマヌエル」という言葉はヘブライ語のまま残されました。ですから、福音書で鍵になるこの言葉は、ラテン語でも英語でもギリシャ語でもありません。「インマヌエル」には深い意味がこめられているのです。実のところ、この言葉は飼い葉おけの中の赤ちゃんを表しています!これが、イエスは誰であるかを表しています。私たちの神は私たちの近くにおられるのです。
イエスは人間になった神です。その時から、神様は私たちにとても近くなりました。神ご自身が私たちの弱い人間性を経験しました。私たち弱い人間が、大胆に自信を持って神に近づくことができます。イエスは罪を犯すと罰する神なのではありません。それどころか、私たちに、ご自分のところに戻ってくるよう招いているのです。
インマヌエル「私たちと共にいる神」である、私たちの神イエスは私たちのそばにいます。人生の道の歩みで、イエスは私たちの傍らで共に歩みます。私たちの神イエスは、励まし、導き、力、支え、そして人生の旅のためのエネルギーを与えてくださいます。私たちの神イエスは、今日も生きている声で、「恐れることは無い!私があなたと共にいるのだから」(マタイ 28:20)、と私たち一人一人に語り掛けているのです。
ですから、私たちが何をし、どこにいても、イエスは私たちの助け、導き、支えです。もちろん、私たちが祈るとき、復活した主イエスは私たちと一緒です。でも、とても大切なのは、私たちの普段の日々の暮らしの中でイエスは私たちと一緒だということです。家庭で、職場で、学校で、元気なときも病気のときも、そして趣味のときも、引退した後も気晴らしのときも、イエスは私たちと一緒です。祈りとして「イエス様、あなたは私と共にいます」と自分自身に言ってください。そして、この贈り物を人と分かち合いましょう。(相田)

待降節第3主日 A年 2019年12月15日

聖書朗読:イザヤ 35:1-10; 詩編146; ヤコブの手紙 5:7-10; マタイ11:2-11
 聖書は常に現在のことを語っています。聖書の中には、神様は過去にどのようにふるまわれたが書いてあります。神様は変わることがありません。神様は今日の私たちに対しても同じようにふるまわれます。例えば今日の第一朗読では、2600年前バビロンへの強制的な捕囚において虐げられた人々に対し、預言者イザヤを通して神様は語られました。ユダヤ人は神様に見捨てられたと思っていました。民衆は奴隷の状態に苦しみ、故郷を想い、悲しんでいました。このような状態で神様は民に「喜べ 雄々しくあれ 恐れるな。あなたの神が来られる」と告げました。
 今皆さんの中でどなたかが、苦しみを感じたり、孤独や悲しみを覚えているならば、今日のミサの中のイザヤの預言を読んでください。祈りとともに読んでください。すごくゆっくりと読み、所々省みるため止まってみてください。今日神様が生きている声で語ってくださっているのです。聖書のほかの場所でも、「主は曙の光のように必ず現れる(ホセア6:3)」と書いてあります。神様は必ず来られます。でも励ましを得るには時間がかかります。ヤコブは第二朗読で、「主が来られる時まで忍耐しなさい(ヤコブの手紙5:7)」と言っています。
 忍耐とは待つことです。わたしたち人間は待つことに我慢できません。人間は人生を思うようにコントロールできません。他の人やいろいろな出来事に頼って生きているからです。病気になった時、レントゲン写真、MRI、医者の診断結果を待ちます。待っている間は、恐れを覚えます。わたしたちは皆死を避けれないことを知っています。しかし経験したことがないため、死ぬことがどのようなことか誰もわかりません。だから死を恐れます。このような状況の中でイエスは生きている声で、「恐れるな 強くあれ。私はあなたと共にいる。」と言われます。
 イエスは福音書の中で、洗礼者ヨハネとわたしたちに、イエスは約束された救い主であると言われました。イエスはわたしたちのところに来て、慰め、力づけ、将来の希望を与えてくださいます。だから困難な時でも喜べるのです。この喜びを他の人と分かち合いましょう。(薩田)

待降節第2主日 A年 2019年12月8日

聖書朗読:イザヤの預言11:1-10 詩編72 ローマ人への手紙15:4-9 マタイ3:1-12
主日は朗読箇所に従って名前が付けられますが、今日は「荒れ野の主日」と呼ばれています。紀元前8世紀、イザヤの時代のユダヤ人達はアッシリア軍に攻撃されていました。彼らは恐れという荒れ野にいて、生き延びる希望がないと感じていました。福音書の中で、洗礼者ヨハネは荒れ野で、ローマの占領軍に抑圧されている人々にメッセージを伝えていました。イザヤも洗礼者ヨハネも、神様が愛し守って下さると宣言しています。平和はきっとくる。神様を信じなさい。神様は私達一人一人を愛していらっしゃる。このことは私達に希望を与えます。

 日本は、経済的には多分恵まれています。しかしそこには荒れ野のような所も、心に荒れ野を抱えた人々も沢山います。例えば福島、北朝鮮のミサイル、中村医師はアフガニスタンで殺害されました、中国とアメリカの貿易戦争等々。いじめや自殺、絶望のニュースが頻繁に伝えられています。日本の教会には召命があまりありません。共同体は高齢化が進んで、人が少なくなっています。確かにそれは荒れ野のようです。では、私達に希望はないのですか?いいえ、確かにあります!

 今日も、神様は荒れ野の中で語り掛けています。神様は仰っています「私はあなた方を愛しています。私があなた方を守ることを信じなさい。あなた方の将来に希望を持ちなさい。」

 神様から来るこの希望を私達はどのように味わっているでしょうか?洗礼者ヨハネは私達に今も呼びかけています。「悔い改めよ。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

 「悔い改めよ」ということは、自分と誠実に向き合って、自分自身に次のように問いかけることです。自分の最も深い価値観は何でしょうか?この世の財産や名誉ですか?それとも主の道ですか?イエス様と共に人生の道を歩いていますか?祈り、聖書を読むことによってイエス様と話し合いながら、イエス様との関係を保っていますか?自己中心になっていませんか?他の人と仲良く暮らしているでしょうか?キリストが受け入れて下さったように、相手をありのままに受け入れていますか?(第二朗読でのパウロの言葉)。悔い改めは平和をもたらします(その平和は子羊と狼が友達になるという風に例えられています)。 神様がどんなに私達一人一人を愛し、希望を与えて下さっているかをよく理解しましょう。(三村)

待降節第1主日 A年 2019年12月1日

聖書朗読: イザヤ2:1-5、詩編122、ロマ書13:11-14、マタイによる福音24:37-44

繰り返す穏やかな音が私たちを眠りへと導くように、日々の生活の同じことの繰り返しは、より大切なことを忘れさせがちです。今日の福音でイエス様は「目を覚ましていなさい」と話され、第二朗読のパウロも同じことを繰り返し伝えています。
イエス様のこの言葉は、今日から始まる待降節の間に、人生の旅の本当の目的を思い起こさせてくれるものです。
私たちの人生の目的地はどこでしょうか? 天国です。

人生の旅路には2つのイメージがあります。
1つは円(環状)の道です。私たちの旅は神様が私をお造りになった時に始まります。生命は円を描いて進み、やがて神様のもとに帰ります(天国で永遠に神様とともに生きるために)。
待降節に祭壇脇に置かれるリースは円の形をしており、このイメージのシンボルです。
リースは常緑樹の枝で飾られており、それは私たち一人ひとりに対する、神様の無条件の愛を象徴しています。神様の無条件の愛は私たちの希望です。ろうそくは私たちを導き、暗闇の中で光を与えて下さるイエス様を表しています。
人生の旅の、もう1つのイメージは登山です。
第一朗読(イザヤ2:1-5)に「主の山に登り…主が示される道を歩もう」(3節)とあります。
ここに重要なポイントがあります。私たちは弱く、人間の力だけに頼ってこの旅路を歩むことはできません!私たちは、私たちの傍で力と導きを与えて下さるイエス様に依り頼まなければ、何もできないのです。イエス様は私たちの旅の同伴者です。イエス様に頼りましょう。
人生の本当の目的から気をそらさないようにしましょう。
ノアの箱舟の時代、誰もがこの世のことで忙しく、神様を忘れていました。
現代は?今日はどうでしょうか?  「目を覚ましていなさい!」

祈りと隣人への奉仕(援助)を通して神様としっかりと繋がっているなら、私たちは人生の旅で心の安らぎを味わうことができます。
「主の光の中を歩もう」(イザヤ2:5)    (北尾)

王であるキリスト C年 2019年11月24日

聖書朗読: サムエル下 5:1-3; 詩篇 122; コロサイ 1:12-20; ルカ 23:35-43
イエスは全く汚れの無い方でしたが、不正に犯罪者とされました。そして、十字架に釘付けにされて、死にました。イエスの左と右には、2人の犯罪者がいました。十字架にかけられたこの3人を見てみましょう。
① 左側には、自分が間違った行動をしたことを認めない男がいます。彼は死に近づいていても、良心の呵責を感じていません。彼は同情したりせず、完全に自己中心的です。イエスでさえ彼には手が届きません。カーテンが全て閉じられていては、日の光が部屋の中で輝くことはできないのです。
② 右側の男の人は、大きく違います。彼は、自分が間違ったことをしたと悟っています。自分の人生を無駄にしたことに向き合い、自分の罪に自責の念と悲しみを感じています。彼は、指導者たちがイエスを侮辱しているにもかかわらず、イエスが汚れの無い方であると理解しています。この人はとても苦しんでおり、汚れの無いイエスに同情しています。でも、とても大切なことがあります:この人はイエスと兄弟の絆を感じているのです。それは、イエスと同じ苦しみを経験しているからです。彼は「イエスよ、あなたがあなたの王国に行ったら、私を思い出してください」と呼びかけます。よく注意してください。彼は、イエスと名前で呼んでいます。「先生」のような肩書きを使っていないのです。これは、ルカの福音書でイエスの名前が使われている唯一の例です。現代の私たちも、復活された主から「友人」、「兄弟」と呼ばれていることを思いだしてください。祈りの中で、イエスに、友人や兄弟として話しましょう。イエスは私たちを、親しい交わりの中に招いておられるのです。
③ 最後に十字架上のイエスご自身。愛の王として、イエスはいばらの冠をかぶっています。イエスは、激しい苦しみにもかかわらず、悔い改めている盗賊に励ましと希望を与えます。イエスは彼に「今日、あなたは、天国で私と一緒にいます。」と告げます。 私たちにも、その言葉が聞こえますように。
これはイエスの思いやり、理解と慈しみのほんの一例です。パウロは「イエスは見えない神の似姿です。」(コリント1:15)と言っています。人であるイエスの思いやりから、今日の私たちに対する神の思いやりがわかります。イエスの言葉です:「あなたが疲れ苦しむとき、私のところに来なさい。」
さあ、慈しみ深いイエスのところに行きましょう。(相田)

年間第33主日 C年 2019年11月17日

聖書朗読マラキ 3:19-20; 詩編98; テサロニケ教会への手紙 3:7-12; ルカ21:5-19
 冬に入りました。夏は過ぎていきました。でも私たちは来年には春が来ることを知っています。冬の暗い日々ですが、希望を持っています。
 物質的なものはつかの間の存在です。わたしたちの新子安教会のことを考えましょう。昭和5年に初めての教会ができました。昭和20年には、焼夷弾による空襲で破壊されました。昭和23年にはカマボコ型の仮の教会が建てられ、昭和38年に現在の建物が建てられました。もうすぐ創立100周年を迎えますが、その時はどうなっているのでしょうか。建物は一時的なものです。しかし共同体の精神は生き続けています。イエスは当時の人々に言いました。「この美しい神殿は破壊される。」物質的なものやこの世界は一時的なものです。私たち人間もこの世では一時的な存在です。体は死にますが、魂は永遠です。
 死を思うとき不安になります。この不安を感じるとき、死後の生活を思い起こしましょう。「イエスと一つであるならば復活します」天国は、神様との生活を楽しむ場所、イエスとの交わりの場所で、終わることがありません。私たちはこの世で平和を望んでいます。死後の世界では、優しい父である神様が愛する子供であるわたしたちに平和と幸せを与えて下さいます。人生の目的地である天国へ向かって旅している私たちに、この世での希望を与えてくれます。
 この世ではたくさんの苦しみがあります。戦争、地震、洪水、津波、疫病、飢饉などです。この世は不完全で、また人間は弱い存在です。イエスはこのような苦難は神様からの罰ではないと言っています。イエスは神様を信じるように呼びかけています。私たちの滅びることのない魂が重要なのです。イエスは「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と言われました。忍耐によって命を勝ち取るのです(ルカ21:19)。この言葉は大きな励ましと希望を与えてくれます。このことを他の人たちを分かち合いましょう。(薩田)

年間第32主日 C年 2019年11月10日

聖書朗読:マカバイ記(二)7:1-14 詩編17 テサロニケの教会への手紙(二)2:16-3:5 ルカ20:27-38
 私は長崎が好きです! 私は26聖人の記念の場所を訪れます。26聖人の彫刻がある壁の前に立って、私は幼い少年の殉教者、聖トマス小崎(こざき)の像が見える所まで下りていきます。彼は十字架につけられる前にお母さんに宛てて手紙を書きました。「母上様、私達のことを心配しないでください。私達は天国で又会いましょう。私達はそこで母上様が来るのを待ち望みます。」
 第一朗読(マカバイ記二7章)の殉教者たちも、長崎の殉教者たちも、復活を、そして天国を信じていました。26聖人たちは、イエス様の次のような言葉を信じていました。「私は、復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。私を信じる者は決して死ぬことはない。」(ヨハネ11章25節)その時、イエス様は仰いました。「あなたはこのことを信じますか?」
 私達は本当に心の底から自分の復活を信じていますか?私達は本当に、死が終わりではないと信じているでしょうか?実際、それは神様に結ばれた新しい命の始まりであり、天国で、神様との交わりを、仲間と共にその交わりを喜んで味わうことなのです。天国では、私達一人一人がそれぞれの人格をもっています。私達は決して一つの大きな塊になるのではありません。天国は生き生きとした神様との結びつきであり、私達一人一人に完全な永遠の幸せと充足を与えてくれるのです。
 聖書の中のサドカイ派の人々は大体お金持ちです。彼らはこの世の富のことで忙しく、来世で神様と共にいるということ、復活するということを信じていませんでした。もう一度言います。私達は本当に信じているでしょうか?私達は人生の目的地が天国であるということを本当に信じているでしょうか?私達は天国に入る準備のためにこの世界に今生きているのです。私達の準備はどうでしょうか?
 聖書は私達に天国を垣間見させてくれます。天国は神様との温かく、親しい交わりであり、私達に平和と永遠の幸福を与えてくれます。神様は私達のお父さんですから、神様の子供である私達は、天国に本当のそして永遠の国籍があるのです(第二コリント5章1節)。私達の優しい神様はあらゆる涙を優しく拭い取って下さいます(黙示録21章4節)。私達は励ましと希望を与えて下さるイエス様と共に、天国への旅をしているのです。イエス様は私達を力づけ、守って下さいます(第二朗読、テサロニケ2章)。皆さん一緒に天国へ行きましょう!(三村)

年間第31主日 C年 2019年11月3日

聖書朗読:知恵の書11章23節から12章2節 詩編145及び42
ルカによる福音19章10節

私はザアカイが好きです。聖書の登場人物の中では(イエス様を除くと)、私にとってザアカイがナンバー1です。私たちは聖書の中でイエス様に会います。イエス様は今も生きておられ、変わらぬ慈しみの心を持っておられます。そしてザアカイも今、生きています。どんなふうに?私がザアカイです!私も心に憧れを抱いています。私もイエス様と親密になりたい。名前で呼んでいただきたい。イエス様と食事を共にし、イエス様の愛に満ちた友情を得たいと望んでいます。

ザアカイはこの世の富をたくさん持っていましたが、心の中はとても空虚で貧しかった。彼は心の平安に憧れていました。彼は自分の人生に何かが欠けていると感じていました。自分自身に向き合い、空虚さを分かっていました。そこで、ザアカイはイエスの話を聴きに行きました。しかし、群衆のせいでイエスの姿を見ることも、声を聞くことも出来なかったので、ザアカイは恥ずかしさを捨てて、小さい子どものように木に登りました。そして、イエス様はザアカイの名前をお呼びになりました。イエス様は「罪深い者」とされていたザアカイを愛をこめて見つめ、ともに食事をしたいと望まれました。この親しい交わりは、ザアカイに新しい命を吹き込みました。今や、彼の渇きは満たされ、内なる富を得ました。すなわち、ザアカイは心のやすらぎ、自尊心、人生の意味を得て、自分が人生の目的地である天国への旅の途中にいることを実感できたのです。しかし何よりも、ザアカイは神様に愛されている確信を得たので、家族や友達や同僚を愛するようになりました。ザアカイはイエス様と個人的に結ばれたのです。

この福音を読んだあなたも、私と同じようにザアカイです!自分の心を見つめて確かめ、空虚と渇望があることを認めましょう(詩編42)。私たちもザアカイのように木に登りましょう!テレビやパソコン、趣味などに使う時間を減らし、聖書を開き、み言葉を読みましょう。復活されたイエス様に会うことができます。イエス様は私たち一人ひとりを名前でお呼びになります。神様が与えて下さったこの贈り物(恵み)を他の人と分かち合いましょう。そのしるしとして、貧しい人々に私たちが持っているものを差し出しましょう。(北尾)

年間第30主日 C年 2019年10月27日

聖書朗読:シラ書 35:15-22; 詩編 128; 2ティモテ 4:6-18; ルカ 18: 9-14

 聖書の中でイエスが語るたとえ話は、今日のわたしたちにとって重要なメッセージを持つ興味深い物語です。今日のたとえ話は二人の人物が登場します。
 一人目はファリサイ派の人です。その人は割合と豊かなグループに属し、宗教上のたくさんの規則を守ることを誇っていました。彼らは神様からの報償を勝ち得られると考えていました。このファリサイ派の人は規則を守らない人々を見下していました。うぬぼれていたのです。要するに、本当の自分を知らず、本当の神様を知らなかったのです。にせものだったのです。仮面をかぶっていたのです。
 二番目の人物は徴税人です。この人はローマの占領軍のために税金を集めていました。先のファリサイ派の人は徴税人を見下していました。徴税人をユダヤ教と国家への裏切り人と見ていました。しかしイエスは、徴税人の本当の姿を知っていることを語っています。徴税人は自分が弱い罪びとであることを認めています(聖書的に言えば、道を踏み外しているだけです)。徴税人は真の神様を知っていました。社会的な地位で人を見る方ではありません。徴税人は真の神様は、心から語る人へは理解と慈しみに満ちていることを知っていました。「神様 わたしをあわれんでください」その祈りは真のこころから出たものでした。
 みなさん自問しましょう。本当の自分を知っていますか。神様の前で、自分が弱く神の道から外れていることを認めているでしょうか。祈る時は仮面を脱いでいるでしょうか。祈る時、つまり優しい神様に出会い、語る時、本当の自分を語っているでしょうか。
 もし疲れたり、病気であるなら、神様に告げましょう。空虚感や孤独を感じているなら、神様に告げましょう。(聖パウロは第二朗読でそのようにしていたと言っています)神様を疑ったり、さらに恨みを抱いているなら、ありのままに告げましょう。このような祈りを神様は求めます。怒りを抱いていたり、他の人を許せないなら、神様に自分の気持ちをさらけ出しましょう。慈しみに満ちた神様は本当の気持ちを受け入れ、平和を与えてくれます。(薩田)

年間第29主日 C年 2019年10月20日

聖書朗読:出エジプト17:8-13; 詩篇 121; 2テモテ 3:14-4:2; ルカ 18:1-8

イエス様の時代には、教えを説明するために、たとえ話がよく使われました。その内容は日常生活から取り上げられた興味深いものでしたが、たいてい、日常生活と驚くような違いがあります。その違いに教訓がこめられているのです。
イエス様の時代、未亡人は、彼女に長男がいない場合は特に、助けが無くどうすることもできませんでした。未亡人は法廷に訴えることができませんでした。でも、今日の福音に出てくる未亡人には、とても特別な求めがあり、直接、裁判官のところに行ったのです-何度も、何度も、何度もです!(注:裁判官は神様のたとえではありません。未亡人は私たちです)。
イエス様は私たちに、未亡人の様にするよう言われます。今日の福音の始めに、「決してあきらめないで祈り続けなさい(ルカ18:1)」とあります。イエス様はまた、「求めよ、そうすれば与えられる」 (ルカ11:9) とも仰っています。
私たちが神様に何かを求めても、私たちの求めに答えられていないようにみえることがあります。つまり、私たちが求めるものを受け取れないのです!落胆してしまうかもしれません。祈りは無駄だと思うかもしれません-とんでもありません!神様の慈しみを疑い、あるいは神様の存在を疑うことさえあるかもしれません。
神様は優しく、その耳で私たちが送る全ての祈りを聞いてくださいます。神様は知恵です。神様は本当に私たちを愛し、最高の贈り物を私たちに下さいます。
神様に何かを求めるときに、「私の望むやり方で」と言うのではなく、「神様、何が最高かご存知の、貴方のやり方で」と言いましょう。
今日の第一朗読「出エジプト記」で、モーセが民のために祈っていました。これは「人のためにとりなす祈り」です。私たちも心を開いて、他の人のために祈りましょう。聖モニカは、母親として、放蕩息子オーガスティンのために20年間祈りました。彼は母親の「あきらめることの無い」祈りのおかげで改心しました。他の人、特に私たちの身近な人のために祈りましょう。そして、もっと広く考えましょう!今日は「世界宣教の日」です。シリア、トルコ、イエメン、ロヒンギャなどで苦しむ人々のために祈りましょう。(相田)

年間第28主日 C年 2019年10月13日

聖書朗読:列王記下5:14-17 詩編98 テモテへの手紙(2)2:8-13 ルカ17:11-19
 最初に個人的な話ですが、私の先祖は父方も母方もカトリック信者です。私は小学校も中学校も、そして高校も教会系の学校でした。その後神学校へ行きました。信仰のある人々に囲まれて育ち、自分の信仰を当たり前だと思っていました。日本に来るまでは__
 そして私は日本に来ました!私はいまだに結婚の準備をしていたあるカップルのことを鮮明に覚えています。それは60年前、和歌山でのことです。私は、日本語学校を終えたばかりでした。結婚準備をしていたその若い男の人は、仏教も神道も、何の宗教も持っていませんでした。彼は神様について何も知りませんでした。彼が興味があるのは、会社と阪神タイガースのことだけでした。私は彼の生き方は薄っぺらで、そしてとてもはかない生き方だと思いました。2回目の講義の時、彼は自分の人生が本当に虚しいということを認め、そして、彼の将来の奥さんのように平安な気持ちになることを望んでいました。しかし、私個人にとっては、神様から自分がどんなに素晴らしい賜物を戴いているかに、正に気付く機会となりました。私には信仰が与えられていました。私には人生の意味が与えられていました。そして私は人生の道を復活したイエス様、力であり、励ましであり、そして支えであるイエス様と共に歩んでいました。
 そして今、神様からの素晴らしい賜物をよく理解しているので、私は「有難うございます」と言います。思い皮膚病を患ったサマリア人のように、感謝の心に満ちて主の元に戻ります。私は特にミサでこの感謝を捧げます。初期のクリスチャン達はギリシャ語を話していましたが、ミサのことを「ユーカリスチア」と呼んでいました。これはギリシャ語で「感謝の祭儀」という意味です。
 私達は信仰を当たり前のことだと思っているでしょうか?私達は復活したイエス様に出会ったことがどんなに大きな賜物かわかっているでしょうか?私達はイエス様と共に人生の道を歩むことがどんなに慰めとなり、力づけられているかを知っているでしょうか?この大きな賜物について思い巡らしましょう。そして、私達がどんなに恵まれているかを悟りましょう。そのような心があれば、私達の日曜日のミサは私達にとって素晴らしい意味を持つものとなることでしょう。(三村)

年間第27主日 C年 2019年10月6日

聖書朗読:ハバクク1:2-3,3:2-4 ルカ17:5

紀元前6世紀の預言者ハバククにとって当時の状況は最悪で、すべてうまくいきませんでした。
国は敗北し、征服軍に占領されてしまいました。彼は虚無感に襲われ、神様に見捨てられたと感じました。あなたは同じように感じたことはありますか?ハバククは、ありのままの心を、なりふり構わず神様に差し出しました。神様に向かって「なぜ?どうしてですか?どうして? 神よ、あなたは私たちをお忘れになったのですか!」と叫びました。ここに絶望したときの祈りのモデルがあります。この祈りは神様に対する侮辱ではありません。それどころか正直な心からの祈りであり、神様が私たちに望んでおられる祈りなのです。
聖書には激しい言葉を使い、命がけで主に叫んで祈る姿がしばしば出てきます。アンナやエレミア、そして、イエス様ご自身が「わが神、どうして私を見捨てられるのか」と十字架上で祈られた詩編22などがそうです。この祈りは空虚な心から発せられるものですが、神様がわたしたち
一人ひとりを無条件に愛してくださっているという確信すなわち堅固な基盤の上にある祈りです。
しかし私たちは、神様のこの無条件の愛を疑うことさえあります。そのようなとき、今日の福音の祈り「主よ、わたしどもの信仰を増してください」を使いましょう。
いわゆる「魂の暗夜」を経験するとき、神様が沈黙しているように思えるとき、虚しさと絶望の中から主に叫びましょう。
今日のハバククと私たち一人ひとりに対する答えはこれです。
「主はわたしに答えて、言われた。『人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても。待っておれ。それは必ず来る。」(ハバクク2:3)

祈りましょう
「主よ、あなたは私たち一人ひとりに無条件の愛を与えてくださると信じています。
しかし、どうぞ あなたへの信頼をより強いものにしてください」 (北尾)

年間第26主日 C年 2019年9月29日

聖書朗読:アモス6:4-7; 詩篇 146; ルカ 16: 19-31

私たちはミサで、「いつくしみ深い主よ」と神様に祈ります。私たちの神様は、いつくしみそのものです。私たちが苦しんだり侮辱されたりする時には、イエス様も私たちと一緒に苦しみます。人間の弱さのために、私たちが神様を忘れても、神様は私たちを罰しません。私たちの神であるイエス様は、人間になったので、私たちの弱さを理解しています。イエス様は私たち一人一人を個人として知り、理解してくださっているのです。これこそが、神様のいつくしみです!
神様が私たち一人一人に持ってくださる「いつくしみ」と「思いやり」の深さを心から理解できれば、私たちの心が動き、その「いつくしみ」を他の人と分かちあえます。私たちは貧しい人々に開かれた心を持てるでしょう。
「ラザロ」という名前の意味は「神様のいつくしみ」です。今日の聖書のたとえ話で、ラザロは空腹、病気、孤独で、見捨てられています。ラザロは、ある金持ちの家の門の前に横たわっていましたが、その金持ちは最も高価な服を着て、最高の食べ物をたくさん食べていました。金持ちは、ラザロをけったり、というような、何か積極的に悪いことをする訳ではありません。金持ちはラザロに気づいてさえいないのです。ラザロを見たとしても、知らん顔でした。金持ちは怠りの罪、または親切な行いをしない罪を犯したのでした。この金持ちは自己中心的でした!自分のことだけ考えていたのです。
マザー・テレサは、「現代世界の最悪の悪は慈悲が欠けていることです」と言っています。聖書には、「空腹の人にパンを与えなさい。余分に持っている物は何でも、一部を施しなさい。そうしたことを、いやいやではなく、すすんで行いなさい。」(トビト4:16)とあります。イエス様は「私が空腹で、のどが渇き、知る人がおらず、裸で、病気で、刑務所に囚われていた時に、あなたは私のところに来た。(こうした人々にあなたがしたことは、)私にしたのである。」 (マタイ25:33-46)と、仰っています。
貧しく、空腹で、家が無いことが、どんなだろうかと想像してみてください。ホームレスの人を裁くのではなく、むしろ、彼らと共に感じましょう。貧しい人々を助けるのは、キリストを信じる者にとって最も大切なところです。今週は、神様からあなた自身が受けている、大きな愛と思いやりについて深く考えましょう、そして、貧しい人々を助けるために何かをしましょう。(相田)

年間第25主日 C年 2019年9月22日

聖書朗読:アモス 8:4-7; 詩編113; ルカ16:1-13
 今日イエスはわたしたちに問いかけます。「選びなさい。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:13)富とは、お金そのもの、預金ばかりでなく、様々なモノ、出世、趣味に使う時間までも含まれます。
 しかし、勘違いしないでください。富やモノそれ自体は悪いものではありません。自分の時間やエネルギーを全てこれらに注ぎ、神を忘れ、天国へ行くというこの世の目的を忘れた時、悪いものになります。
 イエスは大工として収入を得ていました。イエスは貧しい人の友でしたが、マルタ、マリア、ラザロなどの裕福な家族の友でもありました。
 わたしたちが比較的恵まれているなら、イエスは次のことを行うことを勧めています。ここには警告も含まれています。
①快適な生活を送っているなら、神様に感謝しましょう。人生と生活は神様からの贈り物です。神様に感謝しましょう。
②財産に応じて貧しい人を助けましょう。イエスは今日の福音書の中で言っています。わたしたちがこの世で助けた貧しい人々は、わたしたちが死んだとき、天国の入り口で待っていてくれます。貧しい人々がそこで迎え入れてくれます。(ルカ16:9)彼らはわたしたちの兄弟姉妹なのですから、貧しい人がどこにいようとも助けましょう。開かれた心が必要です。
③富、モノ、名声は人生の価値を損なうことがあります(ルカ16:9)。富やモノはこの世のモノや成功しか関心がないという誘惑を生み、神様を忘れてしまうというおそれがあります。
④上で述べたような誘惑に陥ることもあると思います。お金とモノの奴隷になることもあります。自問してみましょう。「自分は些細なことにも貪欲だろうか?自分のモノを他の人と分かち合っているだろうか?」
 富の道を選んだ人はお金を稼ぐことに多くのエネルギーを使います。わたしたちは、天国での喜びに繋がる、神様とともに歩む道にエネルギーを使いましょう。(薩田)

年間第24主日 C年 2019年9月15日

聖書朗読:出エジプト記32:7-14 詩編51 テモテへの手紙(1)1:12-17 ルカ15:1-10
 私達は神様に語り掛けます。私達は、イエス様と共に人生の道を歩みます。私達は、聖霊の導きを受けます。しかし、私達が祈る時、私達の神様に対するイメージはどんなものでしょうか?実際神様はどのような存在でしょうか?神様は全く曖昧で、遠くにいて私達を裁く神様でしょうか?それとも私達の神様は、身近で、気遣ってくれる優しい神様でしょうか?もし私達が神様から離れてしまったら、喜んで神様の元へ引き戻してくれるでしょうか?
 3つの聖書朗読と答唱詩編は、私達の神様をよく説明しています。出エジプト記では、私達の神様は赦し、私達を守るために無制限の約束をされています。詩編51では、私達の神様は慈しみと憐み、共感と赦しに満ちています。聖パウロはテモテへの手紙で、神様の恵みと愛、限りない忍耐について語っています。そして福音書においてイエス様は、神様が私達弱い人間をいかに喜びをもって見守ってくださっているかを示しています。私達は自分自身に問いかけましょう。これらの言葉は神様に対する私達のイメージを表していますか?
ルカ福音書の15章は3つのたとえ話で、私達の神様が弱い人間である私達をどのように見守って下さっているかを描いています。
① 迷える子羊の話 ②無くした銀貨の話 そして③放蕩息子が父の家に帰り、喜んで迎え入れられる話
 この3つのたとえ話に込められたメッセージは、「すべての人、一人一人が神様にとっては大切だ」ということです。
たとえ話の中で、羊飼いは、夜、彼の羊を安全な囲いの中に入れます。そこで彼は一匹の羊がいないことに気づきます。彼は99匹の羊を囲いの中に残して出かけ、夜通し1匹のいなくなった羊を探し回ります。そしてそのいなくなった羊を見つけた時、羊飼いは大いに喜んで、羊を叱ることはしません。彼は羊を肩にかついで家に連れて帰ります。イエス様、私達の神様は私達の羊飼いです。イエス様は彼の羊をそれぞれ名前で呼び、導き、私達を守って下さいます。
信頼をもって神様のもとへいきましょう。私達の神様を信じましょう。
私達の優しい神様を他の人達と一緒に分かち合いましょう。(三村)

年間第23主日 C年 2019年9月8日

聖書朗読:知恵の書9.13-18 詩編90 ルカ14.25-33

今日の答唱詩編90に「主よ、残された日々を数えることを教え、知恵に向かう心を与えてください。」とあります。
私たちは、あとどれくらい生きられるのでしょうか?それは誰にもわかりません!そうです、私たちの人生は短いのです!では、この短い人生の目的は何でしょう。品物を所有すること?権威や名誉を得ること?老後の安心を確保すること?これらの一時的なもの以上に価値あることが人生にあるでしょうか?はい、これらをはるかに超えて価値あるものがあります!
神様は私たち人間を創造し命を与えてくださいました。私たちがこの世で神様と共に幸福に過ごし天国でも永遠の安息を得るようにお定めになりました。イエス様が人生の歩み方を示してくださいましたから、私たちは天国に入ることができます。
天国での永遠の安息への道を示してくださったことは、私たちの神様であるイエス様からの贈り物です。私たちはこの道をイエス様と手を携えて歩みます。イエス様はこの道を歩み続ける勇気と力を与えてくださいます。イエス様は、人生の目的を理解するための「知恵」という贈り物をくださるのです。
福音書でイエス様は、私たちは(人間ゆえに)苦しみにあうと話されます。苦しみは人間であることの一部です。イエス様は苦しみを「私たち自身の十字架」と呼びます。ですから、イエス様と一緒に人生の道を歩むために、「腰をすえて考えてみましょう」(ルカ14.28)。
つまり私たちは自分を中心にすることをやめ、神様と他の人のことを考えることが求められています。そこで重要なのは、私たちは独りで自分の十字架を背負うのではないということ。イエス様が共に担ってくださるのです。

そして福音でイエス様はこうも仰います。「私の弟子になるためには、あなたは父、母、妻、子供、兄弟姉妹を憎まなければならない」。この言葉を額面通りに取らないでください!イエス様がマリア様を憎んだことはありません。イエス様お母さんであるマリア様を心から愛していました。
この言葉は、イエス様を私たちの人生の中心に置くという挑戦を意味しています。もしそれが出来たなら私たちはこの人生で、そして天国で永遠の平安を得ることができるでしょう。
そして私たちは父・母・子供・兄弟姉妹たちを、より深く愛するようになるのです。(北尾)

年間第22主日 C年 2019年9月1日

聖書朗読:シラ書3.17-29詩編詩68ヘブライ12.18-24ルカ14.7-14

聖書の中で共に食卓を囲むことは、神様と私たち人間の親しい交わりを表しています。福音にはイエス様がマタイやザアカイと、またカナの婚礼で新婚の夫婦と、そしてエマオで二人の弟子たちと共に親しく食事をしている姿が描かれています。十字架につけられる前夜、イエス様は12人の弟子と特別な食事をなさいました。「最後の晩さん」は、最初のミサでした。
2000年後の今日、イエス様は一緒に食事をするよう私たちに招待状をお送りになります。別の言い方をするなら、イエス様はご自身との、とても親密な交わりに私たちを招いておられます。
「イエス様との親しい交わり」―この美しい言葉をよく考えましょう。私たちの神様であるイエス様は、これからの1週間を生きるための力と導きと勇気を与えてくださいます!
「イエスの食卓に招かれた者は幸い」
ミサの中には、見過ごしてしまうかもしれない、とても重要な「動き」があります。それは「パンを割(さ)く式」です。最後の晩さんでイエス様はパンを割かれました。これは、私たち皆が、同じ一つのイエス(の御からだ)に与っていることを示しています。イエスと結ばれた私たちは、互いに兄弟姉妹になります。私たちのミサは家族団欒(らん)の食事なのです。
ミサに与るときに、自分が他の人よりも優れていると思わないように(そのような振る舞いをしないように)しましょう。イエス様との、そして他の人との親しい交わりを喜んで味わいましょう。イエス様は私たちが謙虚になり、知らない人や受け入れられない人、嫌いな人をも受け入れることを願っておられます。これこそが福音のイエス様のメッセージです。
神様との親しい交わりは、私たちの日々の生活を素晴らしく、味わい深いものにします。イエス様は、私たちが他の人をありのままに受け入れることができるように私たちを勇気づけ、力を与えてくださいます。
「イエスの食卓に招かれた者(私たち)は幸い」 (北尾)

年間第21主日 C年 2019年8月25日

聖書朗読:イザヤ 66:18-21; 詩編117; ヘブライ人への手紙12:5-13; ルカ13:22-30
 わたしたちはカトリックと呼ばれています。また教会は、カトリック教会と呼ばれています。「カトリック」という言葉はギリシャ語で、その意味は「すべての人」です。つまりわたしたちの教会は、地球上のすべての国とすべての社会のためにある、ということです。ひとりひとり自問してみましょう。「開かれた教会の心をもっているでしょうか?」今日の聖書朗読はこの点を強調しています。イザヤ書で、「主は言われる。すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。」と書かれています。また答唱詩編117では、「すべての国よ、神をたたえ、すべての民よ、神をほめよ。」と歌います。また福音書の中でイエスは、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」と言われます。
 今日の朗読は、慰めと挑戦を与えます。
1:慰め 神様は愛する子としてわたしたちを選ばれました。このすばらしい特権は日々の生活に、意味、希望、味わいを与えてくれます。わたしは次の疑問に答えなくてはいけません。なぜ神様はわたしを選んでくれたのか。答えはわかりません。「ありがとうございます」としか言えません。神様はご自身の目的がありわたしを選びました。この素晴らしい贈り物を他の人と分かち合うことです。
2:挑戦 イエスは彼に従う人々に、自分たちをエリートだとか他の人々より優れているということを考えてはいけないと厳しく教えられました。わたしたちは他の人特に貧しい人のために働かなければいけません。他の人を見下してはいけません。このことは大きな挑戦です。自分の信仰を他の人とわかちあっているでしょうか。家庭、地域、学校、職場で自分の信仰を証ししているでしょうか。親切で思いやりがあり、他の人を励ましているでしょうか。人を許しているでしょうか。言い換えれば、本物のカトリックでしょうか。
 イエスの時代のユダヤ人の指導者は、自分たちは神様の目からみて、上流階級であると考えていました。彼らの信仰は表面上のもので、心からのものではありませんでした。イエスは言われます。「お前たちがどこの者か知らない。」普通のユダヤ人はイエスを受け入れました。今日わたしたちはどちらに立つのでしょうか?(薩田)

年間第20主日 C年 2019年8月18日

聖書朗読:エレミヤ 38:4-10; 詩篇40; ヘブライ 12:1-4; ルカ 12:49-53
貴方は今、悲しみ、失望、絶望の底にいるでしょうか?神に見捨てられたと感じていますか?寂しいですか?もしそうなら、エレミヤ書と答唱詩篇40は、まさにあなたのための言葉です!聖書を読むと、エレミヤはとても敏感な人だったことが分かります。彼の時代の人々は、彼自身も、彼が伝える神様からのメッセージも、両方、拒否しました。彼らは、彼が死ぬように、深い井戸に閉じ込めてしまいました。エレミヤが神様に叫ぶと、神様は彼の祈りを聞き、エチオピアからのアフリカ人を送って、彼を救い出されたのです。
私たちがわびしく孤独なとき、祈るのは難しいことです。「主よ、私を救ってください」と叫ぶことしかできません。今のロシアがソビエト連邦だった頃、指導者スターリンの娘であるスヴェトラーナは深く落ち込んでいました。彼女は(自分の母親と同じように)自殺を念願していました。そんな彼女に友人が詩篇を紹介すると、彼女は、自分の痛み、不安、拒絶、孤独、絶望、そして無価値感が、詩篇の中に表現されていることを発見したのです。今日の詩篇40:「主は私の叫びを聞かれた。私が主を待っていると、主は屈み、私の元に来て、死に至る穴から私を引き寄せた。神様は新しい歌を私の口に届けられた。ああ、神様、私の救い、私の助け。遅くならないでください。」
マラソンはオリンピックで有名ですが、古代ギリシャから始まった競争で、聖書の中で、私たちの人生の旅路のモデルに使われます。例えば、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか(第2朗読、ヘブライ 12:1)」のように。私たちの決勝点のテープは天国です。準備が必要です!マラソンでは準備しないと42キロ全てを走れません。天国も同じです!今日の聖書に「私たちの先頭にいるイエス様から目を離さないで」という極めて大切な言葉があります。
今日の福音は、イエス様の教え全体の中で捉えなければなりません。イエス様やルカの時代、特に迫害の時代には、家族は分断されていました。現代では、その問題は弱まっています。現代の私たちに対するイエス様のメッセージに答えるには努力が必要です:イエス様に従い、イエス様の道を、あなたの全て、100%の心を込めて、歩みましょう。(相田)

年間第19主日 C年 2019年8月11日

聖書朗読:知恵の書18:6-9 詩編33 ヘブライ人への手紙11:1-19 ルカ12:32-48
 私はよく高速の横羽線を車で走ります。外側は追い越し車線で、左側は遅い車線です。私が追い越し車線を走っていると、もっと早い車が私を追い越そうとします。私はストレスを感じます。そして遅い車線を行くときは、私は安全にそして安心して自分の向かう所に到着します。
この世での私達の人生は旅です。私達はそれぞれの道を選んでいます。もし私達が「速い車線」を選んだら、その道は忙しく、競争に満ちていて、私達は世俗的で一時的な成功を味わうかもしれません。しかし、私達は本当の平安や幸せを感じないでしょう。
 もし私達が神様に信頼する「ゆっくりとした車線」を選んだら、私達は安心した気持ちで平和のうちに歩めるでしょう。
 では、信頼する道とはどういう道でしょうか?私達はイエス様を見ることも聴くこともできません。しかし、イエス様は私達一人一人に特別な重要な約束をしました。「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ12章32節)イエス様は、私達と共に人生の道を歩むと約束しています。だから、「動揺することなく、安心していられた」(第一朗読 知恵の書18:6)神様の約束を信じましょう。
 アブラハムは私達に模範を示しています。神様はアブラハムに言いました。「私はあなたの盾になる」(それは、「私はあなたを守る」ということです。)神様の約束を信頼して、アブラハムはどこへ行くのかも知らずに出発しました。(ヘブライ人への手紙11:8)私達も今、どんな将来が待ち受けているか知りません。でも、神様が私達一人一人をいつも守るという約束に常に誠実であるということを信頼して、信じましょう。
 イエス様は福音の中で、「あなたの持ち物を売り払いなさい」と言っています。これは、人生の旅において、個人的な成功や物質に頼るのではなく、神様に頼りなさいということです。復活したイエス様が、私達と共にいて人生の道を歩んでくださいます。イエス様が私達を導き、守って下さいます。私達はその信頼の徴として貧しい人に施しをしましょう。私達は天国に富を積みましょう。~それは私達の地上での歩みもまた幸せにしてくれることでしょう。(三村)

年間第18主日 C年 2019年8月4日

聖書朗読:コヘレト 1:2;2: 21-23; 詩篇95; コロサイ 3:1-11; ルカ 12:13-21
私たちは、ほぼみんな、全国宝くじで1等に当選したいと思うでしょう!お金があれば、子供の学費を助け、自分の家を買い、休日を楽しみ、心配せずに引退することができます。何も間違ってはいません!でも、所有物、名声、地位が山ほどあっても、真の幸福は得られないことに心をとめましょう。持ち物では、永続的な幸福は、決して得られません。私たちの真の心と魂は、もっと深いあるものを求めています。神様だけがこの憧れを満たすことができるのです。
聖アウグスチヌスは、若い頃、そして30代に、人生の喜びと名声を多く経験しました。自叙伝の中で、彼は次の祈りを記しています:「主 神よ!あなたは私たち人間を あなたに向かう者としてお造りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うまで 安らぐことができません。」
今日の福音で、イエス様は私たち一人一人に、非常に基本的で個人的な質問をされます:「あなたは人生で何を第一に考えますか?仕事?持ち物?成功?出世?あなたが死を迎える時、これら、この世の事すべてが何になるのでしょう。天国に、滅びることのない宝を積みなさい。」今日の聖パウロの書簡に「地にあるものではなく、天にあるものを考えなさい。」とあります(コロサイ3:2)。
繰り返しますが、お金、持ち物、そして野心は、悪いものではありません。イエス様のたとえ話の農夫は、農夫としては良いです。彼は私たちの多くと同じように、引退を考えた。それもOKです。では、なぜ彼は愚かだったのでしょう?彼は貪欲で、自分のことだけを考えました。彼は他の人に分かち合ったり助けたりしませんでした。 彼が自分のことだけを考えて「自分に言ってやるのだ.」 と言う様子を見てください。この男は神様を忘れ、隣人を忘れてしまったので、愚かなのです。彼の優先順位は間違っていました。品物で心は満たされません。心を満たせるのは神様だけです。私たちの死の時に、私たちが積み上げたものは誰のところに行くのでしょう?!神様の前で、神様が気にかけることで豊かになりましょう(ルカ12:21)。
第一に優先なこととして、神様と本当の友となり、他の人と分かち合いましょう。(相田)

年間第17主日 C年 2019年7月28日

聖書朗読:創世記18:20-32; 詩編138; コロサイ2:12-14; ルカ 11:1-13

 今日の聖書朗読は祈りについてです。祈りについて最も大切な考え方は、祈りの本質は神様とのつながりであるということです。聖書の中で次のように書かれています。祈りとは唱える言葉ではなく、わたしたちと神様との友情である。創世記では、暖かさとユーモアでアブラハムは神様と友達として語っています。聖書にはアブラハムは神様の友達であることが書かれています(ヤコブの手紙2:23、イザヤ41:8)。出エジプト記33:11では、モーゼは神様と友達として語り合っています。
 イエスは祈る時には、神様は優しく、親切で、理解のある父親であることを思い出すように勧めています。信頼と暖かさを持ち子供のように祈りましょう。わたしたちの心の姿勢が重要なのです。
 イエスは、「神様に求めなさい。そうすれば与えられる」と言われます。私は小学生の時、一年間一生懸命祈りました。神様に中学の入学試験で一番にしてくださいと祈りました。授業料が免除になるからです。私は一番になれませんでした。わたしたちの愛する父である神様はいつも祈りに応えてくれることを教わっていました。しかしこのとき私は自己中心的で、応えるということは求めているものを与えてくれることだと思っていました。(このときは少なくとも一番になりたい学生は20人以上いました。)しかし数年後、願い事の祈りは必ず叶えられることを実感しました。愛する父である神様は私たちに悪いものは与えません(例えば聖書では、ヘビやサソリです)。わたしたちを愛し何が最善であるかをご存知な神様は他の物をくださいます。しかしわたしたちは神様のくださるものを理解できないため、しばし失望します。イエスがモデルです。「アッバ父よ。この苦しみをわたしから取り除いてください。しかしあなたのみ手にゆだねます。」(マルコ14:36 ルカ22:42)(薩田)

年間第16主日 C年 2019年7月21日

聖書朗読:創世記18:1-10 詩編15 ルカ10:38-42

40年前に聖地を巡礼したとき、私はマルタとマリアの家のあるべタニアの教会を訪問しました。
教会の壁面に、今日の福音の場面の大きなモザイク画があります。このモザイクは私に拭うことのできない強い印象を与えました。そこではイエス様とマルタが話しています。マリアはイエス様の足もとに座って話を聴いています。私はこの場面を見て、こう思いました(あるいはイエス様が私に語られたのでしょうか)「イエス様と話すこと、そしてイエス様が語られることを聴くこと。
なるほど、これは祈りだ!」
祈りの教会博士であるアビラの聖テレジアは、祈りを次のように定義しています。「祈りとは、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と語り合う、親しい友としての交わりにほかなりません」祈りは、私たちが親友に心を許して話すのと同じように、自分自身の言葉でイエスに話すことです。マルタのように、イエス様に文句を言っても大丈夫です!しかし、いつもイエス様の声に耳を傾けてください。福音を通してイエス様が私たちに語りかけている時には特に。
マルタのように話し、マリアのように聴きましょう。

あなたは、誰かから強く注意されたことがありますか?普通の反応は「大きなお世話だ!」というものでしょう。同時に内心「そんなことを言っていいのは私の親友だけだ!」と思うでしょう。
イエス様は私たちの親友であり、そのイエス様が私たちにこう尋ねておられます。
「この世のことに、忙しくし過ぎていませんか?ストレスや心配ごとで押しつぶされそうになっていませんか?私が与える助けを求めるための『静かな祈りの時間』を忘れてはいませんか?」
イエス様はマルタにとても優しく接します。二度彼女の名前を優しくお呼びになります。イエス様は今日も同じです。イエス様は私たちに優しく接します。同時に私たちに祈るように促しておられます。
聖ペトロは手紙の中で私たちにこのように勧めています。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(Ⅰペトロ5章7節 )
イエス様は私たち一人ひとりに、こう語りかけておられます。「わたしは戸口に立って叩く。
わたしの声を聞き、戸を開くなら、わたしは中に入って、その人と食事をともにする」
(黙示録3:20)
心を開いて祈り、イエス様を私たちの人生に招き入れましょう。(北尾)

年間第15主日 C年 2019年7月14日

聖書朗読:申命記30:10-14 詩編 コロサイの教会への手紙1:15-20 ルカ10:-37

イエス様の「善きサマリア人」のたとえ話を新しい視点で見てみましょう!
まず背景です。傷を負ったその人は、エルサレムからエリコへ下って行くところでした。エルサレムは丘の上にあり、エリコは海抜が海面より低く、1066メートルの下り坂です。それは淋しく、
木もない、岩の多い砂漠の道です。そこには盗賊たちがいました。その道は荒れ果てていて危険でした。
 盗賊がそのユダヤ人の旅人を襲い、彼が持っているもの、食べ物や着物、全てを奪ってしまいました。その場面を想像してみましょう。彼は裸で傷を負って血まみれで、意識もなく、道の傍らに倒れていました。(まさに「半死半生」の状態です)
 一人の祭司、彼は宗教の専門家、その祭司が傷ついたその男を見つけます。
でも彼は何も感じず、そして、何もしない。彼は言い訳をして立ち去る。彼は多分、「忙しい」し、それに、その男を知らないと考えた。
 それから、地方の神殿で奉仕をする指導者の男がその傷ついた男のところにやってきた。彼もまた、何も感じず、何もしなかった
その次に、社会的地位のない、異邦人である一人のサマリア人が傷ついたその男を見つけた。彼は同情心に深く心を動かされた。彼はロバから降りて、その男の傷を優しくワインで消毒し、傷に油を塗って癒した。そのサマリア人は、エリコで急ぎの仕事があったが、しかし、彼は自分の時間とお金を彼の為に遣った。彼の深い憐みがそうさせたのです。
イエス様は私達に今も問いかけていらっしゃいます。
私達は傷ついた人と共に感じていますか?いじめられた中学生の男の子の気持ちがわかりますか?彼は傷つき、孤独で、絶望の中にありました。彼はビルの4階から飛び降りて自殺したのです。そう、私達には何もできない。しかし私達は感じているでしょうか?毎日の生活の中で、私達は傷ついている人、孤独な人を見て感じているでしょうか?私達は言い訳をしているでしょうか?例えば、私はその人を知らないとか、私は遠慮しますとか、私は恥ずかしいとか。私は心から「有難う」と言っているでしょうか?私は励ましを与えているでしょうか?一人で淋しく暮らしている誰かに電話を掛けるでしょうか?深い憐みのない信仰は、まやかしです。サマリア人、私達もあの
サマリア人のように行いましょう。(三村)

年間第14主日 C年 2019年7月7日

聖書朗読:イザヤ66:10-14; 詩編66; ガラテア6:14-18; ルカ10:1-20
 一週間ほど前のこと、赤ちゃんが一人ぼっちで、アパートで飢え死にした、というNHKニュースがありました。その赤ちゃんが、2日間、泣いているのが隣人に聞こえていたそうです。何と、悲しいことでしょう!一方で、日曜日のミサで、お母さんが、かわいい大きな目をした、とても幸せそうな赤ちゃんを腕に抱きしめて、聖体拝領にやってきました。この赤ちゃんは、平和と心の温かさに包まれていました。
 今日の第一朗読に、次の言葉がありました:「主なる神は言われる。母がその子を慰めるように、わたしはあなた方を慰める。あなたたちは抱いて運ばれ、膝の上であやされる。」(イザヤ66:13)
 個人の心の平和、そして家族や職場、学校、国の中で平和を味わうことは、私たち人間にとって、心からの、深い憧れです。イエス様は私たちに平和をくださいます。イエス様の誕生の夜から、メッセージは「平和」でした。イエス様は、ザアカイに、ペトロに、罪に苦しむ女に、平和をくださいました。復活された後には、弟子たちに「平和を」とあいさつされました。今日の福音では、イエス様は「この家に平和があるように」と言うようにと、72人の弟子たちを送り出しました。イエス様は、現代の私たちに、同じ平和をくださいます。最後の晩餐では、「あなた方に私の平和を与える。私の平和はこの世の平和のようではない。だから、心を煩わせたり、恐れてはならない。」とイエス様は言われました(ヨハネ14:27)。イエス様の約束は、現代の私たちにも生きて、有効なのです。
 イエス様が用意される平和を味わうことを、望みますか?もしそうなら、静かな時間を作って祈り、貴方を、(たとえ、大人であったとしても)幼子の様に面倒を見てくださる神様に会ってください。神様が貴方のことを知っている、という事実に、思いを巡らせてみてください。神様は貴方に、貴方の名前で呼びかけます。神様は、ありのままの貴方を、一人の人として愛されています。こうしたことを何度もしていると、少しずつ、神様の平和が、貴方の心に沈み込んでいきます。さあ、イエス様に、平和について話しかけてみましょう。
 イエス様は、私たちを、人々への神様の平和の道具として、家族、親類、友人たちの元に遣わされます。人々に、笑顔と、親切な言葉、励まし、そして、感謝の言葉を贈りましょう。私たちの小さな社会の中に、平和の種をまきましょう。そうすれば、イエス様が報いてくださいます。(相田)

年間第13主日 C年 2019年6月30日

聖書朗読:列王記 19:16-21; 詩編 16; ガラテア教会への手紙 5:1,13-18; ルカ 9:51-62
 キリストの道の基本的な真理は、「イエスは、この世とわたしたち人間を創られた神である。」(ヨハネ1:3-4)ということです。御子は、神性を脇に置き人となられました。人間になったということは重要なことです。イエスは人間としての様々なことを経験されました。人間としての弱さを経験されました。イエスは侮辱と裏切りにより傷つき、孤独を味わいました。今日の福音書にはイエスの孤独について多く書かれています。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕するところがない。」(ルカ9:58)
 ここで孤独について考えましょう。電子メール、スマホ、インスタグラム等のデジタル時代の今日、人々はかつてないほど孤独を味わっているとたくさんの記事が書かれています。ある専門の医師は、「孤独は、一日にタバコを15本吸うことより体に悪い。」と言っています。この分野の専門医たちは、「乳児から高齢者までだれでも時々孤独を覚える」と言います。しかしわたしたちは、自分が孤独に感じることを認めません。逃げる手段があるからです。忙しくしたり、不要な買い物、お酒、薬、テレビ、ペット、ゲーム、スマホ、趣味などです。もちろん、これらそのものは何も悪いものではありません。どのように利用するかが大切なのです。過度に依存することは問題です。
 わたしたちは孤独を感じることを認めましょう。家族の中やたくさんの人の中で孤独を感じることもあるでしょう。次のようにすることが重要です。祈りの中で孤独を経験したイエスに語りかけ、自分とイエスに「わたしたちは孤独である」ことを認めましょう。
 人間の孤独を経験し理解している神であるイエスは生きている声で、「疲れた者重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)「あなたは私の友である。」と語りかけます。
 孤独の感情は、イエスへの親しみを呼び起こします。わたしたちの愛と親しみへの深いあこがれは神様だけが満たすことができます。イエスはわたしたちにさらに求めます。孤独な人、一人暮らしの人と交わり、安らぎ、励まし、希望を与えるようにと。(薩田)

キリストの聖体 C年 2019年6月23日

聖書朗読創世記14:18-20 詩編110  第1コリント11:23-26 ルカ9:11-17

10年前典礼の講習会で私はとても印象深い話を聞きました。それは「私達の日曜日の集い-
その歴史と意味」についてでした。イエス様が亡くなった後から、弟子たちは日曜日に集まっていました。(ユダヤ教の集まりは土曜日でしたが)。キリスト者たちは、聖なる宴の為に集まって
いました。彼らはイエス様が最後の晩餐で彼らに与えられた「これを私の記念として行いなさい。」という教えに従っていました。
1世紀のミサも私達の2千年後のミサも、最後の晩餐と同じ教えに基づいています。そこには
聖書朗読、詩編、聖歌があり、イエス様が再びパンを取り、割って「これは私の体である」と仰います。聖書の中の「体」は「ソーマ」という言葉で、それは、生きている人間そのもの、イエス様ご自身を意味します。
イエス様は聖餐式の中で、私達に食物(パン)を象徴としてご自身をお与えになります。
普通、毎日の食物は栄養を与え、私達の体にエネルギーと力を与えてくれます。私達は食べ物を
吸収します。ご聖体は私達の心に、栄養とエネルギーと力を与えてくれます。イエス様が与えて下さる力によって、私達は信頼と希望と目的を持って人生の道を歩むことができるのです。
私達は共同体として日曜日の集いを行います。私達は共に、聖体拝領の中で同じイエス様を
戴きます。
私達は集い、神聖な食事を共にします。私達は、聖餐式の中で同じ聖なるパンを分かち合います。聖書の中の食事は、神様と人との親しさの象徴です。そして又、お互いの交わりと一致の象徴でもあります。それは、多様性における一致です。日本語的な言い方では、「同じ釜の飯を食う」と
いうことです。イエス様は今日も、私達と一緒にパンを割いていらっしゃいます。私達は、
イエス様の友情を味わって、人生の旅を力強く歩めるようにイエス様の力を戴きましょう。
「イエス様の食卓に招かれたものは幸い。」  (三村)

三位一体の主日 C年 2019年6月16日

聖書朗読 箴言8:22-31詩篇8ロマ5:1-5ヨハネ16:12-15

私たちは唯一の神様を堅く信じています。そしてまた、唯一の神様の中に、父と子と聖霊がおられることも信じています。多くの人は「それは不可能だ」「三位一体を理解するのは難しい」と言い、三位一体について考えることから逃げます。でもそれは悲しいことですし、もったいないと私は思います。
三位一体は神様の私たちへの愛です。三位一体は唯一の神様の「内なる命」でもあります。
人間には「内なる命」の偉大さと意味を理解することができません。それは「奥儀」と呼ばれます。イエス様は私たちに三位一体をお示しになりました。
三位一体とは神様の愛、すなわち愛そのものである神様ご自身と、私たち人間への愛です。三位一体の意味を理解しようとせず、この奥儀の内に入り、私たち一人ひとりに与えられる神様の愛を味わいましょう。

洗礼の秘跡で「父と子と洗礼の名によってあなたに洗礼を授けます」という言葉が使われます。洗礼によって私たちは温かく愛に溢れた家、神様の命に招き入れられます。三位一体の主日である今日、立ち止まってこの愛について思いめぐらし、味わいましょう。自分自身にこう言いましょう 「神様は私を愛してくださる。私は父と子と聖霊に愛されている」「…天を仰ぎ、あなたが作られた月と星を眺めて思う…」神様は私たち人間をお創りになり、すべてを治められる神様は私たちを愛しておられます(詩編8)。
父である神様 私たちは神様のことを「アッバ(親愛なるお父さん)」と呼びます。私たちは神様の子どもです。神様は私たちを大事にしてくださり、私たち一人ひとりを名前でお呼びになります。天の父は穏やかで優しく愛情深く、私たちをありのままに受け入れてくださるお父さんです。
子である神様は、神様が私たちをどれほど愛しているかをお示しになるために人間となられました。イエス様は私たちを愛し、ご自分の命を犠牲になさいました。イエス様は人間の弱さを経験なさいましたから、私たちをよく理解しておられます。イエス様は私たちと一緒に人生の旅路を歩いてくださっています。
聖霊である神様は、私たちを愛で包んでくださいます。聖霊は私たちを導き、力づけ、照らし、励まし、勇気と慰めを与えてくださいます。
三位一体の愛を味わいましょう。そしてこの愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

聖霊降臨の主日 C年 2019年6月9日

聖書朗読:使徒言行録2:1-11; 詩編104; ローマ8:8-17; ヨハネ 14:15-26
 キリストの道を歩むうえで、最初の、そしてとても基本となる第一歩は、人間の弱さを謙虚に認めることです。(そして、この大切な一歩は、私たちが人生を通して、何度も何度も、繰り返さなければなりません。)
 私たち人間は弱く、自分自身の力だけでキリストの道を歩むことはできません。私たちは弱い。 それを認めましょう!
 でも、弱さを認めることは、第一歩にすぎません!次の一歩は、イエス様に助けを求めることです。イエス様は、私たちを助け、力づけ、励まし、導くため、聖霊を送ると約束されました。ですから、苦しい時、イエス様に聖霊を遣わしてくださるよう求めるのです。私たちは、キリスト教信者の生活を、一人で送ろうとしているでしょうか?
 聖書は、ギリシャ語で書かれていますが、使われているのは文語体ではなく、日々の暮らしの言葉です。ギリシャ語で聖霊を表す言葉は、パラクレートスです。これはとても特別な言葉です。日本語でも、英語でも、その本当の豊かな意味を、一つの言葉で表すことはできません。ときに「弁護者」と訳されます。これは一つの意味です。私たちは聖霊(弁護者)に、そばにいて、導きと守りをくださるように求めます。しかし、パラクレートスには、私たちの人生に、助け、励まし、安らぎ、勇気を与える方という意味もあります。
 聖書では、聖霊は私たちを教え、イエス様のメッセージを思い出させます(ヨハネ14:26)。聖霊は祈り方を知らない私たちに、祈り方を教えます(ローマ8:26)。聖霊は、神の子であることの深い意味を教えます。私たちは子供なので、親しみをこめた呼び名「アッバ(お父ちゃん)」と、神様を呼べるのです(ローマ8:16)。聖霊は私たちに人生に処する力を与えてくれます。
 もし、私たちが自分だけの力に寄り頼むなら、イエス様の命の道を歩むことはできません。私たちは倒れ、失敗します。聖霊を求め、そばにいて、導き、力、励まし、安らぎ、助けを下さるよう寄り頼みましょう。(相田)

主の昇天 C年 2019年6月2日

聖書朗読:使徒たちの宣教 1:1-11; 詩編47; ルカ24:46-53
 今日の聖書朗読の、使徒たちの宣教と福音書は同じ著者によるものです。聖ルカです。使徒たちの宣教ではイエスの昇天を、福音書では「イエスは弟子たちから離れ、天に上げられた」ことが書かれています。「イエスが天に上げられた」ことの意味は、「イエスがこの世に降りてきた」ということです。イエスがパレスチナの地に存在していたという事実は二千年前に終わっています。イエスは今日わたしたちと一緒に生きています。イエスはかつて人間でした。今では特定の場所と時間にしか存在できないという人間としての束縛は無くなりました。イエスは神様としてわたしたちと生きています。イエスは同伴者としてわたしたちの人生を共に歩いています。教皇フランシスコは、「復活されたイエスはわたしたちを愛し、光、力づけ、解放を与え私たちと共に歩んでいます。」(福音の喜び#164)ですから主の昇天の祝い日は、感謝の祝い日です。イエスよ、ありがとうございます。
 主の昇天は希望の祝い日です。天国に入ることはわたしたちの人生の目的です。天国では私たちを愛している神様と永遠にいることができます。死は人生の終わりではなく、神様との人生の始まりなのです。このことは、毎日の生活に、意義、味わい、希望を与えてくれます。
 主の昇天は宣教の祝い日です。キリスト信者はこの世で最も素晴らしい宝を頂いています。人生の旅路の目的地が天国であることを知っています。そこへ行く手段も知っています。イエスが同伴者なので、必要な助けを全て与えられています。わたしたちは祝福されています。しかし自問してみましょう。なぜ神様はわたしたちを選びこのような宝物をくださったのでしょうか。この答えは非常に重要です。この宝物を他の人と分かち合うためです。イエスは私たちに地の果てまでイエスの証し人になるように求めています。(使徒たちの宣教1:8)家庭、学校、職場で証し人を始めましょう。思いやり、親切、平和を示しましょう。(薩田)

復活節第6主日 C年 2019年5月26日

聖書朗読:使徒言行録15:1-2,22-29詩編67黙示録21:10-14,22-23ヨハネ14:23-29
 私は日曜日の説教で、いつもは1つのテーマだけについて話しますが、今日は例外として、5つのテーマについて話します。
第1のテーマ:今日の聖書朗読の使徒達の宣教の中で、「聖霊と私達は・・決めました」(使徒たちの宣教15章28節)とあります。イエス様の弟子たちは、大事な選択をしなければなりませんでした。 彼らは聖霊の導きを頼んで祈り、問題を話し合い、そして一つの選択をしました。私達が選択するとき、私達もこの模範に倣いましょう。神様は喜んで私達の平凡な生き方の中にいつも招き入れられてくださいます。
第2のテーマ:詩編67、私は毎朝この詩編67を唱えます。この詩編のお蔭で私はまだ日本にいます。私は日本(全ての国、日本はその中の一つです)の為に祈りたい、そして、日本の人々、特にこの小教区の皆さんの為に祈りたいです。これはとても美しい詩編です。
第3のテーマ:第2朗読のヨハネの黙示21章の中で、ヨハネの夢が語られています。ヨハネは幻の中で『新しいエルサレム』を見ました。そこにはもう神殿はありません!(旧約時代の神殿は人々が神様と出会う場所でした。)でも、新約では、復活したイエス様ご自身が神殿なのです。そして、イエス様が私達一人一人の心の中にお住まいになります。このメッセージは今も、福音書の中でイエス様ご自身によって何度も繰り返されています。(ヨハネ14章23節)「父と私はあなた達を愛し、あなた達のところに行って一緒に住む」イエス様は私達一人一人をありのままに受け入れて下さり、実際に私達一人一人の心の中に住んでおられるのです。そして、神様と私達をとても親密にして下さるのです。私達の心の中にイエス様がいて下さるように、イエス様にお願いしましょう。
第4のテーマ:このテーマは第1のテーマと関係があります。イエス様は福音書の中で、聖霊がイエス様とイエス様の道について私達に教え続けているとおっしゃっています。私達にイエス様の事をより深く悟らせて下さいと聖霊に頼みましょう。
第5のテーマ:イエス様は私達に真の、深い平和を与えて下さいます(どんなに苦しみの時にでさえも)。イエス様が与えて下さる平和は、イエス様がいつもありのままの私達を愛して下さることに基づいています。私達はイエス様の平和の道具になりましょう。
皆さん、主の平和。           (三村)

復活節第5主日 C年 2019年5月19日

聖書朗読:使徒言行録14.21-27 詩編145 黙示録21.1-5 ヨハネ13.31-35
今日の福音でイエス様は仰います。「わたしがあなたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」しかしそれは難しく時には不可能のように感じられます。私(たち)を傷つけ、心に深い傷を残した人がいます。私と異なる意見を持つ人は多いし、私とは正反対の性格の人もいます。煩い人もいるし、顔を合わせたくない人、自己中心的な人や鈍い人、人を見下したり人を利用したりする人など、色々な人がいます。どうしたらそのような人を、イエス様が仰るように愛することができるのでしょうか?それは不可能です!人間の力ではできないと認めましょう!ではどうやって? 私に何ができるでしょう?
まず「愛」という言葉を考えましょう。イエス様が命じておられるこの「愛」は、人に対して温かい気持ちを持つという意味ではありません。短所を含めて、その人をありのままに謙虚な気持ちで受け入れる、ということです。
これから紹介する3つのステップは、イエス様のなさり方で人を受け入れる(愛する)ために大切です。
① いつくしみ深く理解に満ちた神様の前で自分の過ち、欠点、弱さそして失敗を認めましょう。 (詩編145「神は恵みとあわれみに満ち、怒るにおそく、いつくしみ深い」参照)
② 神様があなたをどれだけ愛し、あなたを(あなたの失敗もすべて含めて)受け入れてくださっているか、祈りの内に考えましょう。イエス様は私たちのために命を捧げてくださいました。「神が人と共に住み…彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」のです(第2朗読ヨハネの黙示)。イエス様ご自身が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言っておられるので、この第二のステップは大切です。
③ このように祈りましょう。「私の神であるイエス様、あなたはありのままの私を受け入れ、愛してくださいます。私が○○さんをありのままに受け入れることができるように助けてください。あなたの助けが必要です。あなたの力がなければ、○○さんを愛するようにというあなたの言いつけに従うことは不可能です。私は○○さんを愛したいのです」
イエス様の仰る意味で人を愛したいと願うことは大切です。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(北尾)

復活節第4主日 C年 2019年5月12日

聖書朗読:ヨハネ 10:27-30; 詩編 100 & 詩編 23
 今日の、復活節第4主日の福音は短いですが、なぐさめに満ちています。しかしながら、そのなぐさめの背後に、私たちキリスト教信者にとって、命に関わるほど重大な挑戦が用意されています。一人一人、自分自身に向き合い、この重大な問い-「私はイエス様と深い交わりをもっているだろうか?」を問いかけてみましょう。
「私は私の羊を知っている」というイエス様の、この27節の言葉で、「知る」という言葉に特別な聖書的意味が込められています。「知る、ということは、ただ知識として知るのではなく、両者の深い交わりを意味している」のです。
 もう一度、一人一人が、「私は、私の羊飼い、イエス様と深い交わりをもっているだろうか?」と問いかけてみましょう。イエス様から、私たちそれぞれに、一人残らず、愛、友情、支え、導きが差し出されています。その申し出を私は受け入れているでしょうか?
 イエス様の時代、ほとんどの羊飼いには、10~20頭の羊しかいませんでした。羊は、若い小羊の頃から、いつも世話をされ、守られてきました。羊は、自分の羊飼いと親密になります。夜には、多くの羊飼いが、自分の羊を、普通は石垣で囲まれて一つの門しかない、共同の安全な場所に連れて行くのが習慣でした。朝になると、門が開かれ、それぞれの羊飼いが自分の羊を呼ぶのです。羊は彼の声がわかり、彼の周りに集まります。そして、羊飼いが先に立って歩き、水場やえさのある場所に導いていくのです。
 イエス様が私を呼んでいます。その声を私は聞いているでしょうか?現代では、私たちを呼ぶ多くの声があります。スマートフォンからの声、テレビからの声、ソーシャルメディアからの声!これらの声がたいへんな雑音となり、イエス様の静かな声を聞き損じてしまうのではないでしょうか?詩編46:10に、「静まって、わたしこそ神であることを知れりなさい。」とあります。忙しい日々のスケジュールの中にあって、短くでも静かな時を持ち、イエス様と深く交わりましょう。傍らにイエス様がいてくださることで、私たちの日々の生活が素晴らしい味わいに彩られます。
                          (相田)

復活節第3主日 C年 2019年5月5日

聖書朗読:使徒たちの宣教5:27-41;詩編30; ヨハネの黙示5:11-14; ヨハネ21:1-19
 有名な人の伝記では、一般的に長所は強調されますが短所は書かれません。しかし福音書では逆です。ペトロはイエスの弟子たちの頭でした。ペトロの弱さ、失敗、過ちが強調されています。何故でしょうか。わたしたち弱い人間がイエスとともに人生を歩む際の励ましの象徴としてペトロが描かれているからです。ペトロはわたしたちと同じ弱い人間です。
 最後の晩餐では、イエスは12人の弟子は自分を見捨てることを予言しました。ペトロは、他の11人の弟子と比べ、自分のほうが強い人間であると思っていました。イエスはペトロが3回自分を否定することを予言します。イエスはペトロに、この過ちと経験は神の慈しみと許しによるもので、ペトロが将来他の人への同情心を持つためであると説明されています。(ルカ22:31-34)
 ペトロはイエスに従っていることを否定しました。さらにイエスを知らないと言っています。3回の否定の後、偽りの裁判の真っただ中にいたイエスは振り返りペトロを見つめました。ペトロはイエスの顔が、慈しみ、理解、愛、受け入れに満ちていることを感じました。
 自分自身に問いかけてみましょう。わたしたちは他の人と比較し、自分のほうが優れていると思っていないでしょうか。自分の失敗が、失敗した人への理解と共感になっているでしょうか。
 ペトロはイエスを見捨てました。復活の後、イエスはペトロを叱りませんでした。イエスはペトロに、「ペトロ、あなたはわたしを愛しているか」と3回問いかけました。これは、わたしたちの神様の優しさ、人間の弱さに対する理解と許しを表しています。ペトロに対する扱いは、神様がどのようにわたしたち人間を扱うかを表しています。
 復活されたイエスから今日生きている声で、わたしたち一人一人に「○○さん、あなたはわたしを愛しているか」と問いかけられています。この大切な問いかけにどのように答えたら良いのでしょうか。わたしたちはイエスを好きでしょうか。祈りの時間を使っているでしょうか。毎日の生活の中で優先しているでしょうか。イエスがくれた愛を他の人と共有しているでしょうか。
イエスは神様です。(薩田)

神のいつくしみの主日 C年 2019年4月28日

聖書朗読:使徒言行録5:12-16詩篇118黙示録1-19ヨハネ20:19-31
今日の詩編118の最初の節は 「恵み深い神に感謝せよ。そのあわれみは永遠。『神のいつくしみは絶えることがない』」(詩編118:1‐4)です。
この節では、私たち弱い人間に対する神様のなさりかた、振る舞いが言葉で伝えられています。これに対して福音の中でイエス様は同じメッセージを私たちに行いで示されています。
トマスは使徒として3年間イエス様と共に過ごしましたが、イエス様が十字架につけられて死んだことにひどくショックを受けました。イエス様が今、生きておられることを信じられませんでした。トマスの信仰は弱く、彼は疑り深かったのです。トマスが他の弟子たちと一緒にいるとき、復活された主であるイエス様が現れます。イエス様はとても穏やかで理解に満ちた態度でした。トマスを叱ったり罰したりしませんでした。トマスはイエス様のいつくしみに、深い信仰から出るすばらしい行いでこう応えました。「わたしの主、わたしの神よ」
弟子たちのリーダーだったペトロは臆病になり、イエスを知らないし、弟子であったこともないと、3回否定しました。復活されたイエス様はペトロに優しく3度尋ねます。「ペトロよ、あなたはわたしを愛しているか?」
ペトロはイエスのいつくしみにこう応えます。「主よ、わたしは、あなたを愛しています」
聖書にはこう書いてあります。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13章8節)
今日、祈りを通して復活されたキリストに出会いましょう。イエス様は私たち人間の弱さを理解しておられ、私たちの失敗をお叱りになりません。イエス様は私たちがいつくしみに応えるようにと招いておられます。イエス様に言いましょう。「イエス様、あなたはわたしの主、わたしの神」そして、ペトロのように言いましょう。「イエス様、わたしはあなたを愛しています。」
トマスは彼の神であるイエス様との個人的な出会いを体験しました。私たちも同様に神様と出会うことができます!祈りを通してイエス様と出会うことは私たちの日常生活を味わい深いものにします。そしてイエス様は、私たちが神様のいつくしみを他の人たちと分かち合うことを望んでおられます。(北尾)

復活の主日 C年 2019年4月21日

聖書朗読:使徒言行録10:34-43; 詩編 118; コロサイ 3:1-4; ヨハネ 20:1-9
 新子安にある私たちの教会には、1階玄関に、日本人美術家・松田日出雄の手になる、小さなステンドグラスの窓があります。そこには、復活したイエスが、輪郭で表された二人の人、一人は男、もう一人は女、と手をつないで歩む様子が描かれています。二人はイエスと一緒に歩んでいます。この二人は、貴方であり私なのです。
 この様子は、現在の私たちにとっての復活の意味を表しています。私たちの神であるイエスは、生きており、人生の道を私たちと共に歩んでいます。この人生の私たちの旅路において、私たちが一人で歩むことは、決してありません。復活した主が、私たち一人一人を、活きた声で呼んでいるのです。マグダラのマリアに「マリア」と呼びかけたように、一人一人の名前で呼んでいます。そして、イエスは、私たち各々に「恐れるな、私が貴方と共にいる。私の目に、貴方は価高く、貴く、私は貴方を愛している。」(イザヤ 43:1-5)と仰っています。
 私たちの神イエスは、天国での神の栄光をわきに置き、私たちのように人間となりました。この時から、神は私たちに近い方となりました。イエスはたいへんな苦しみを味わいました。イエスは、私たちが苦しいとき、そばにいてくれる神です。イエス自身が苦しみを味わったので、私たちが苦しいとき、イエスが理解してくれるのです。イエスは私たちの力であり、私たちの励ましです。イエスが死んでから死者の中からよみがえった復活は、私たちの希望です。
 私たちの神であるイエスは、復活したのですから、今も生きて私たち各々のそばにいます。イエスは生きているのです。私たちはイエスに話せます。私たちの心や本音をうちあけられるのです。友としてイエスと話すことが、祈りです。イエスは私たち一人一人に「私は貴方を友と呼ぶ」(ヨハネ 15:15)と言われています。私たちの生活は忙しいですが、一日一日を、その日一日私たちを導き守るように求めることで始めましょう。少なくとも、イエスとのそんな短い会話で、一日を始めましょう。そうすれば、その日全体が特別な味わいになります。夜には、イエスに支えを感謝し、ときには失敗を残念に思う気持ちを伝えましょう。そして、この頂いている愛を、他の人と分かち合いましょう。(相田)

受難の主日(枝の主日) C年 2019年4月14日

聖書朗読イザヤ50.4-7 詩編22 フィリピ2.6-11 ルカ23.Ⅰ-49

今日から聖週間の最も厳粛な典礼に入ります。聖週間はイエス様の苦しみを心に留めるよう呼びかけます。イエス様は苦しみを通して、復活という栄光の冠を受けられました。(復活祭)
イエス様は今日、私たち一人ひとりに生きた声で話されます。「私はあなたと共にいる」と。
今日の集会祈願に「主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにする」とあります。日々の生活の中で苦しむとき、イエス様は私たちと共にいて、私たちの苦しみを分かち合ってくださいます。イエス様は苦しむ私たちの同伴者です。
イエス様ご自身も苦しまれました。私たちの神、イエス様は苦しみを身をもって経験しておられるので、私たちを理解することがお出来になり、私たちは助けと励ましを求めてイエス様のもとに行くことができます。兵士たちはイエス様の背中を鞭で打ち、嘲り、彼の顔に唾を吐きかけました。(第一朗読イザヤ書)。イエス様は、すべての慰めが虚しいという経験をなさいました(神は沈黙しているかのようでした)。 "わたしの神、どうして私を見捨てられるのか! “(詩編22)。しかし、イエスは父である神様を深く信頼していました:「父よ、私わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)
これが、神性を脇に置いて人間と同じものになられた私たちの神です。(第2朗読フィリピの教会への手紙)。私たちのイエス様は100%人間であり、100%神様です。私たちの神であるイエス様は人間性を体験なさいましたから、私たちの苦しみを理解しておられます。イエス様は私たちと共におられ、一緒に歩いてくださいます。私たちは、確信を持ってイエス様のところに行かれます。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われます。
聖書学者たちは、イエスの横の十字架にかけられた犯罪人(回心した)の祈り「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」について指摘しています。ここは、聖書の記述の中で称号なしにただ、「イエス」と呼ばれている唯一の箇所だそうです。
苦しみはイエス様を私たちの親しいものにします。私たちも「イエスよ!」と祈りましょう。イエス様は私たちと共におられます。
イエス様は私たちの人生の同伴者です。(北尾)

四旬節第5主日 C年 2019年4月7日

聖書朗読イザヤ43:16-21; 詩編126; フィリップの教会への手紙 3:8-14; ヨハネ8:1-11
 私はかつて、少年時代に万引きで警察に捕まった人に出会いました。その汚名は生涯残ったそうです。これは人間のやり方です。しかし、よく覚えておいてください、神様は違います。わたしたちの神様はすべてを許してくださいます。わたしたちの神様は罰する神様ではありません。わたしたちの神様は人間の弱さを理解されます。わたしたちの神様は慈しみとあわれみの方です。心から回心し神様に許しを求めるならば、神様は罪を許し、喜びを与えて下さいます。イエスは、愛と和解による許しの秘跡を与えて下さることを約束してくださいます。
 本日の聖書朗読の箇所は、古くから復活祭で受洗される方の直前の準備のためのものです。また、既に洗礼を受けているわたしたちに対し、洗礼の約束を更新するためのものでもあります。
 四旬節中のミサのテーマを見てみましょう。
① 第三主日では、「実がならいないイチジクの木を切り倒せ。」と持ち主は言いました。「手入れをしてみます。少し時間をください。」と園丁(すなわち神様)は言った。
② 放蕩息子が帰って来た時に走り出した父(神様)のたとえ話。
③ 今日の朗読。イエスが神様の慈しみと理解を行動で表した箇所。愛の眼差しで、イエスは優しくその女性を許されました。
わたしたちは、本当のイエスを知っているのでしょうか?(第二朗読 フィリップの教会への手紙 3:8)。
 このような特別に選ばれた朗読箇所を通じ、教会はとても大切なメッセージを語っています。つまり、わたしたちの神様は「あわれみに満ち、慈しみ深い方である」ということです(詩編145:8)。自分の心に正直に問いかけましょう。神様の慈しみは自分の心の中心でしょうか。本当にイエスのことを良く知っているのでしょうか(フィリップの教会への手紙 3:8)。
 福音書朗読に出てきた女性は大きな罪を犯しましたが許されました。(放蕩息子もです)では、小さな罪を犯した人は許されないのでしょうか。とんでもない。神様の慈しみはすべての人のためのものです。
イエスは身を起こしてその女性をじっと見つめられた(ヨハネ 8:10)。イエスはザアカイを見上げました(ルカ19:1)。イエスは、ペテロが否定するのをご覧になられました(ルカ22:66)。イエスの眼差しは、皆の人生を変えました。祈りの中で、慈しみの眼差しを自分に向けてくれるようにイエスに直に頼みましょう。そして外へ出て他のひとたちとイエスの慈しみを分かち合いましょう。(薩田)

四旬節第4主日 C年 2019年3月31日

聖書朗読ルカ 15章; 詩編 34
 四旬節にお勧めしたいことがあります。聖書を開き、ルカ福音書15章にある、神様の無条件の愛についての3つのたとえ話を、ゆっくり、時間をかけて読むことです。失われた羊、失われた銀貨、そして失われた息子のたとえ話です。「放蕩息子」と呼ばれるこのたとえ話の中の、上の息子を見てみましょう。私たちは彼とよく似ているかもしれません!そうです、父親の言いつけを守ります、が、義務的でうわべのことで、父親を尊敬もしていないし愛してもいない。父親にあからさまに失礼な態度を示しました。弟のことを「貴方のあの息子」と言い、家に入って父親に会おうとしませんでした。彼の心は、硬くて冷たく、許そうとしません。でも、彼の最大の問題は、父親が彼をとても愛していることに気づいていないことでした。彼自身の考えに凝り固まり、父親の愛が見えていなかったのです。
 父親の無条件の愛に注目してください。父親は、家から出てきて、上の息子に会い、話をしました。そして、「わが子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と、大きな意味のある言葉をかけます。
 これら3つのたとえ話を通してイエス様が示されるのは、父である神様が、私たち一人一人を、ありのままで、愛していることです。下の息子の帰りを、希望をもって待ちながら、父親がどんな風に、遠くの道を見つめ続けていたのか、考えてみてください。息子を見るや、家を走り出て、彼を抱きしめたのです。「わが子よ!おかえりなさい」(この時代の父親は走ったりしません。手ひどく侮辱した子に、このようなあたたかい歓迎をしたりしませんでした。でも、父なる神様は、この世のそうした父親とは違います。私たちを無条件で愛してくださるのです。)
 このたとえ話を、もう一度、ゆっくり読んでください。イエス様の深い教えに思いを巡らすために、時々休んで祈ってみてください。父なる神様は、私たち一人一人に活きた声で言われます:「わが子よ、お前を愛している。お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」
 この神様の愛を他の人と分かち合いましょう。(相田)

四旬節第3主日 C年 2019年3月24日

聖書朗読出エジプト記3:1-15 詩編103  1コリ10:1-12ルカ13:1-9

野球や高跳び、棒高跳びなど競技の世界では、3度失敗すると失格になり、選手は交代や退場となります。3度の失敗で罰が与えられるのです。
しかし私たちの神様のなさり方は、この人間的なやり方とは違います。今日の福音のたとえ話でいちじくの木は実をつけません。
「切り倒せ」と園の主人は言います。しかし、園丁(神様のことです)は今年もこのままにして、チャンスをくださいと頼みます。

どの国の文化にも、何か悪いことが起こったとき、例えば事故、病気、地震など、この災害は神からの罰だという迷信があります。イエス様は今日の福音で2つの災いの例を挙げ、神様は決して罰を与える方ではないと強く教えられます。それどころか、神様はいつも私たちにさらなる機会を与えてくださいます。神様は辛抱強く私たちの回心を待っておられます。ペトロはイエス様を「知らない」と3回否定しましたが、イエス様は愛をもって回心したペトロを受け入れました。

今日(主日)の朗読箇所は私たちに、神様に対するイメージを深く考えるよう求めています。神様は私たち一人ひとりを愛し、「モーセ!モーセ!」とお呼びになったように、私たち一人ひとりに名前で呼び掛けられます。(出エジプト記3:4、イザヤ書43:1)
私たち一人ひとりは神様にとって特別な存在です。私たちが祈るとき、特に私たちが苦しみ、助けを求めて叫ぶ声は神様に届いています。神様は、今日こう言われます。「私はあなたの叫ぶ声を聞いた。あなたのもとに行き、あなたを救おう。」神様はモーセに話されたときと同じことを、今日私たちに話されます。
福音のたとえ話では、実をつけないいちじくの木に、もう1年の猶予が与えられています。しかし、イエス様は期限を設けません!これはイエス様が「今」、悔い改めるように私たちに告げられているという意味です。これ以上祈る必要がありますか? いえ、今です!私たちが親切で思慮深い人となるためには限られた時間しかないのです。たった今、回心しましょう!

今日の詩編103章をゆっくりと味わいましょう。「神は恵み豊かにあわれみ深く、怒るにおそくいつくしみ深い。主は私たちの罪に応じてあしらわれることなく…”(9-10)。
私たち一人ひとりにいただいた神様の愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

四旬節第2主日 C年 2019年3月17日

聖書朗読 創世記15:5-18; 詩編 27; フィリピの教会への手紙 3:17-4:1; ルカ9:28-36
毎日曜日のミサの第一朗読は通常旧約聖書が読まれます。第二朗読は普通は聖パウロの手紙が読まれ、福音書へと続きます。第一朗読と福音書は同じテーマです。また第一朗読と福音書の間には、答唱詩編があります。詩編は150編から構成されており、聖書朗読のなかで最も美しい部分です。詩編は神様ご自身から触発された祈りです。答唱詩編に注目しましょう。答唱という名前から想像されるように、第一朗読のメッセージに対する私たちの返答です。
今日の朗読をみてみましょう。創世記15章の朗読は復活徹夜祭における洗礼志願者の準備として古くから選ばれています。(もちろん既に受洗した信徒への新たな準備の意味もあります。)創世記15章は神様のアブラハムに対する厳粛な契約です。神様は約束されました。「私はあなたを愛し、心に掛ける。あなたは私の友である。」洗礼の際わたしたち皆に、同じく素晴らしい約束をされました。
詩編27は神様の約束に対する私たちの答え(契約への賞賛)です。これは神様の契約における信頼を表す詩編です。
27・1神はわたしの光、わたしのすくい、わたしはだれもおそれない。
神はわたしのいのちのとりで、わたしはだれをはばかろう。
主よ、あなたはわたしのそばにおられ、わたしを守ってくださいます。わたしは勇気をもって歩んでいけるのです。
4わたしは神に一つのことを願いもとめている。
生涯神の家を住まいとし、あかつきとともに目ざめ、神の美しさを仰ぎ見ることを。
  主よ、わたしに下さった信仰の恵みはあなたの住まいの中の大切な恵みです。あなたは人生という旅路へ勇気を与えてくださいます。
7神よ、わたしの声を聞き、わたしをあわれみ、こたえてください。
わたしの心はささやく、「神の顔を尋ねもとめよ。」
イエスよ、あなたの愛の深さを悟れるように願います。わたしの心はわたしに語りかけます。「復活した主に出会うことを探し求めよ」主よ、来てください。
今週はこの答唱詩編をゆっくりと唱えましょう。(薩田)

四旬節第1主日 C年 2019年3月10日

聖書朗読 申命記 26:4-10; 詩編 91; ローマ 10:8-13; ルカ 4:1-13
 「回心して、福音を信じなさい」-額に灰で印をするときのこの言葉で、四旬節が始まります。これは、うっとうしい儀式というより、むしろ、希望と神様からの愛に満ちた儀式なのです。
 額の灰の印は、「この世での私の人生の意味は何でしょうか?私は人間で、死ぬでしょう?私は今、天国での来世が無いかのように生きているでしょうか?私の心は、物質中心、出世中心、名誉中心になっていないでしょうか?私は本当にイエス様について生きているでしょうか?同伴者であるイエス様を意識して、私は人生の旅路を歩めているでしょうか?」といったことを考えさせます。
 最初、このような問い(とそれらへの答え)にがっかりしてしまうかもしれません。「回心して」と言われるとのは、こうした根本的な問いについて深く考えることを意味するからです。
 そして、次に、これがとても大切なのですが、「福音を信じなさい」と言われます。これが、喜び、希望、愛が前面に来るところです。「福音」は私たち一人一人が、無条件に-つまり、ありのままで-神様に愛されている、という希望に満ちたメッセージです。でも、私たちの神であるイエス様は、もっと良くなるように求めています。ご自分が示された道を歩むよう、私たちに求めます。それは、地上の今ここでも、天国でも永遠に、幸福と平安に続く道です。
 福音書で、私たちは砂漠にいるイエス様に出会います。イエス様は、真に迫った誘惑を経験しました。ですから、私たちが誘惑に出会うとき、イエス様がそばにいてくれるのです。
 聖書では、砂漠は、私たちが神様に出会う場所です。私たちの気を散らす物質が無く、とても静かです。四旬節の間、神様に出会えるように、心を静かにしましょう。ともにいてくださるイエス様と一緒に、自分自身に、上の根本的な問題を問いかけてみましょう。イエス様は私たちののがれ場で、悩みの時に共にいてくださいます(詩編91)。この四旬節、イエス様が示された人生の意味を、他の人々と分かち合ってみましょう。(相田)

年間第8主日 C年 2019年3月3日

聖書朗読 シラ書27:4-7詩篇92ルカ6:39-45

神様は私たちをお創りになり、私たちの口に舌を与えてくださいました。神様はまた、私たちに 言葉の力もお与えになりました。それは私たちが自分の考えや思いを表現し、他の人に伝える力を持っているということです。動物は短くうなったり、吠えたりするだけです!

今日朗読された旧約聖書のシラ書と新約聖書でのイエス様は、厳しい言葉で傷つけるためではなく、他の人を助けるためにこの素晴らしい言葉の賜物を使うように、私たちを導いています。
「心の思いは話を聞けば分かる。」(シラ書27:6)
「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:45)。
私たちはどのように話をしているのか反省し、自分自身に問いかけてみましょう。
私は人の悪口を言うでしょうか?噂話をするでしょうか?人に冷たい態度で接したり、皮肉な言葉で話したりしますか?嘘をついたり大げさに話したり、心にもないお世辞を言うでしょうか?
私は人々を助けるために言葉を使っているでしょうか。「ありがとう」と口に出していますか(他の人に助けてもらうことを当たり前だと思っていないでしょうか)。人を褒め、本人に「よくやりましたね」と声をかけるでしょうか(その際、嘘や口先だけのお世辞はいけません)。思いやりのある言葉を他の人にかけていますか?私の言葉は他の人に勇気と励ましを与えているでしょうか。
隣人を愛するために、私たちは言葉を使います。私たち人間は他の人の欠点と弱さに、つい目が行きます。しかし、自分自身にも欠点や弱点があることをわかっていますか?他の人を批判するとき、私たち自身の弱点が現れています。(福音の中でイエス様は「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、自分の目にある丸太に気づかないのか」というユーモアのあるイメージで話されます!)
私たちが誰かを指さす(非難する)とき、残り3本の指は私たち自身を指していることを忘れないでください!)

イエス様は私たちに、言葉を「良く」使うようにと言われます。私たちが優しい言葉で話すための導きを、イエス様に願いましょう。(北尾)

年間第7主日 C年 2019年2月24日

聖書朗読 サムエル記 26:2-23; 詩編 103; ルカによる福音6:27-38
 今日の答唱詩編をゆっくりと味わいましょう。「神は恵み豊かに、あわれみ深く、怒るに遅く、いつくしみ深い。」神は、罪に基づき私たちを扱うことなく、また失敗により報復することもありません。西と東が離れていることが当たり前なように、神は私たちの罪を取り除いてくださいます。主は、わたしたちは何から作られているかご存知です。わたしたち塵から作られています。
 この力に満ちた言葉は、わたしたちの優しい神様は我々弱い人間をどのようにご覧になっているかを教えてくれます。
 イエスは「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と言われます。イエスは私たちに次にような難しいことを求めています。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたがたに危害を加える者を許しなさい。」
 イエスのこの言葉を聞くとき、皆心に痛みを覚えます。イエスの言葉を実行することは不可能だと感じるからです。そうです、人間の力だけでは不可能です。人間の限界を認めましょう。イエスに愛と許しの力と勇気を与えてもらうようお願いしましょう。
 イエスの言葉の意味を知ることは重要です。「敵」という言葉は、深く憎んでいる人という意味だけではなく、自分と合わない人という意味もあります。会うと心が冷えてしまう人という意味です。敵という言葉には幅広い意味があります。
 「愛」という言葉はより重要です。新約聖書はギリシャ語で書かれました。ギリシャ語には愛という言葉は4つの使い方がされています。①夫婦の愛、②家族愛、③友達同士の愛、④ギリシャ語で「アガペー」という言葉です。この言葉は初期のキリスト教徒の間でよく使われました。その意味は、あなたを傷つけ悪口を言う人をありのままに受け入れ、将来にわたりその人の平和と幸せを望むということです。イエスはわたしたちにイエスの力に頼り、わたしたちの敵に「アガペー」で臨むように求めています。(薩田)

年間第6主日 C年 2019年2月17日

聖書朗読 エレミア書17:5-8; 詩編1; 第1コリント15:16-20; ルカ6:20-26
 今日の聖書朗読の中で、エレミアもイエスも私達に毎日の生活における生き方を示しています。それは、どのように神様を信じ、信頼するかです。
 第一朗読のエレミア書と詩編1では、砂漠の中の2本の木のたとえ話があります。一方の木は外からは一見丈夫に見えますが、その根は非常に浅い。だから干ばつがくると、木にとって命である水を得ることができないので、干上がって枯れてしまう。もう一方の木は、地中深く根を下ろし水源までいっぱいに根を広げている。だからこの木は、干ばつの時においても緑を保ち実をつけることができる。深い所にある水から命を得るからです。
 ある人々はこの浅い根を持つ木のようです。物や財産が最初に来る。このような人達にとって、この世での心の優先事項は、心地よさ、学校での良い成績、人気を得ることや良いチームに入ること等々です。しかし、そういう根の浅い、物質に頼る人は、心が満たされません。何か躓きや苦しみが起きた時、たとえ私達と共にそこに生きていても心は空っぽです。
聖書は(今日のエレミア書とイエスの話において)、命と平和をもたらすような別の生き方をさせようとしています。この人は、他の人とおなじように働いていますが、しかし毎日仕事をするさなかで、神様を深く信じています。彼、あるいは彼女は、人間の弱さを知り、神の助けと力を必要としているので、神様に信頼を置いているのです。この人は深く根をおろしているので、神様ご自身から命を得ています。
 人間が弱く、神様の助けに頼る存在だということを謙虚に認めることが、聖書的な意味での貧しくなるということです。多くの金持ちは自分自身に十分な能力があり、神は必要ないと考えています。彼らの物質的な物への愛着は、霊的な感覚を鈍らせます。心に必要なことが無視されています。一方、貧しい人々は、世間的な財産は本当に少ししか持っていませんが、しかし彼らは、「私達には神様の力があります」と言うことができるのです。私達が聖書的な貧しくなるということを学ぶことができますように―それだけが幸せにそして平安を得るための道です。「祝福されよ、主に信頼する人は」(エレミア)=「貧しい人は、幸いである」
だから、イエス様を信じましょう。  (三村)

年間第5主日 C年 2019年2月10日

聖書朗読 イザヤ 6:1-8; ルカ 5:1-11
 べテロ(後の聖ペトロ)は、漁で生計を立てていました。魚を獲るのに一番良い時間は夜だと知っていました。明るい日差しの中では魚は獲れないのです。ぺテロは夜通し漁を続けましたが、たったの一匹も獲れませんでした。失敗したのです。
イエス様は、ペトロの舟を浮かぶ説教台として使いました。話の後、イエス様はペトロに「水の深いところ、深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を獲りなさい」と言いました。ペトロは日中の漁は無駄だと知っていましたが、大工であるイエス様の言葉に謙虚に従いました。イエス様は、ペトロの失敗を責めるのではなく、励ましたのです。ペトロはイエス様と共に行き、報われました。新しい命とエネルギーを見つけたのです。
私たちは皆、人生で、大なり小なり失敗をします。例えば、(友人やチームメンバーとして)選ばれたいと思っていますが、他の人が選ばれてしまいます。自分の声を聞いてほしいと思いますが、他の人が大きな声で話し注目を集めてしまいます。ベストを尽くしても、たびたび負けてしまいます。失敗です。一生懸命準備して受験に挑戦しても失敗することがあります。結婚生活で努力しても失敗することがあります。精一杯努力して子育てした親が、子供から全て拒絶されることがあります。親は何度も失敗したと感じます。でも、私たちの神、イエス様は、「あなたの落ち度だ。責めを負いなさい。」 などと言われることはありません。実際のところ、本当の失敗は、倒れてしまうことではなく、立ち上がろうとしないことです。
ペトロは失敗しましたが、イエス様は、「あなたの落ち度だ」と言って責めたりしませんでした。決して!イエス様は、「ペトロ、もう一度、漕ぎ手を取って、深みに進みなさい。」と言われました。
イエス様は、今日も私たちに同じことを言われます!責めること無く、ただ「もう一度、一緒に始めましょう」と。
失敗の後、立ち止まって、祈ると、全ての失敗の背後に神様からの呼び掛けがあることに気づきます。神様はもう一度始めることを呼び掛け、「恐れないで。私があなたと共にいるのだから。もう一度、深みに漕ぎ出しなさい」とおっしゃいます。
日本のことわざで「失敗は成功のもと」とあるように、失敗で自分を責めたりしないように。私たちの優しい神様は、私たちを責めたりしません。本当のところ、失敗の後、私たちは神様ご自身(そしてその助けと力)に会えるのです。試してみて下さい!(相田)

年間第4主日 C年 2019年2月3日

聖書朗読 エレミヤ1.4-5 Ⅰコリント12.31-13,13.4-13ルカ4.21-30

第一朗読のエレミヤはとても人間的な預言者です。当時の人々は彼と彼の教えを拒絶したので、
エレミヤはとても辛い思いをし、彼は大変傷つきました。
しかし神はこう言われます。「恐れるな、わたしがあなたと共にいて、救い出す」
神様は今日、私たちに同じことを言われます。
福音の中でイエス様も、友達や親戚から拒絶されています。イエス様は真の人間だったので、
同じように辛い思いをし、傷つきました。
しかし、イエス様は同時に真の神様でもあり、私たちはイエス様に祈ります。
イエス様は仰います。「恐れるな、私はあなたが苦しむ時、あなたと共にいる」
孤独を感じた時、傷ついた時、誰かに拒絶された時、私たちはイエス様も同じ苦しみを味わわれたことを知っているので、イエス様の所に行くことが出来ます。イエス様はこれらの苦しみを理解しておられます。
ナザレの人々は、なぜイエス様を拒んだのでしょうか。彼らは、ただの大工の息子を自分たちの師として受け入れることが出来ませんでした。そして、神様は全ての人―すなわちナザレの人々が部外者と見なしていた異邦人さえも含めた全ての人―を愛しておられるというイエス様の教えを受け入れることが出来なかったのです。人々の視野はあまりにも狭く、排他的でした。
第二朗読でパウロは、イエス様の仰る「愛」とはどのようなものであるかを私たちに語っています。 「愛」という言葉は安易に使われ過ぎて、その深い意味を失っています。私自身の人々への「愛」はどのようでしょうか。狭く、排他的でしょうか?利己的で限定的ではないですか?
パウロの書簡のこの部分をゆっくり読んで、自分の良心に照らし合わせて確かめてみましょう。他人に対する「愛」を広げましょう。

神様は私たち一人一人を愛してくださいます - その温かさを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

年間第3主日 C年 2019年1月27日

聖書朗読ネヘミヤ 8:2-10; ルカ 1:1-4;4:14-21
 
これから話す、現代の例え話について考えてみてください。お金持ちの地主がいて2区画のアパートを持ち、そこに70家族が住んでいました。どの家族も貧しく、沢山の人々に仕事がありませんでした。皆が増え続ける借金をかかえ、アパートの家賃を半年分払っていませんでした。この地主の秘書が全ての世帯を回り、子供が何人いるか調べ、健康状態や、祖父母が何人いるか、借金の大きさも聞いて回りました。この調査は住民たちに恐れと不安を引き起こしました。「私たちは家から追い出されるのではないか?私たちには行く所が無い。」と思ったのです。さらに、業者がその土地を欲しがっているといううわさがあったので、地主の代理人との話し合いのために地域の集会所に出席するようにという通知が皆に届いた時には、皆の恐れはいよいよ高まっていました。
その話し合いには、皆が沈んだ気分でやって来ました。皆が希望は無いと感じていたのです。代理人は立ち上がって言いました:「あなたたちは皆大きな借金があって家賃を払っていません。でもアパートの地主は親切で皆の苦しみが分かります。皆さんに良い知らせがあります。地主は全ての借金を無かったことにします!皆さんに新しいスタートをしてほしいそうです。彼は親切で、皆さんを信頼しています。」
誰も口を開きません。アパートの住民たちが、この言葉の意味を理解するのに時間がかかったのです。そして、互いに抱きあい、この上無い喜びに涙を流す人もいました。「この親切で救われた。」皆、家に帰り、輝く青空、木々の緑、花々の美しさを、まるで初めて見るかのように感じました。本当に、毎日の暮らしに美しい新たな味わいが生まれたのです。  (例え話はここまで)

今日の福音で、イエス様は神が人間となった目的を説明されています。それは、神様は私たち一人一人を愛されている、という良い知らせを私たちに伝えるためなのです。神様は子供の面倒をみてくれる優しいお父さんです。私たち一人一人をありのまま、受け入れてくれます。「神様はありのままの私を愛してくれる」 今週は、これを、繰り返し繰り返し考え、ゆっくり自分に言ってみましょう。あなたの日々の暮らしに新たな味わいが生まれます。(相田)

年間第2主日 C年 2019年1月20日

聖書朗読
皆さん、自分自身に問いかけてみましょう。
「私は、神様と親しく、温かい関係を持っているでしょうか。」
イエス様と私は親しい友達でしょうか。
これが今日の福音の投げかける課題です。
福音では真理を伝えるために具体的なたとえが使われています。
今日のヨハネの福音では、私たちが新約聖書の時代にいる「しるし」として
披露宴での奇跡が書かれており、それによって私たちは
親しみをもって神様と出会うことができます。
カナの結婚披露宴では用意されていた葡萄酒がなくなってしまいました。
これは「厳しい神」という旧約聖書の時代が終わったことを意味しています。
披露宴の親密で楽しい雰囲気の中で、ただの水が祝福に満ちた葡萄酒に変わりました。
新しい時代が始まりました。神様はもはや遠くにいる厳しい神ではありません。
今、神様は私たちの日常生活のすぐそばに来ておられます。
神様は温かく愛情に溢れています。
私たちが自分はそうあるべきだと思う姿ではなく、
私たちをありのままに受け入れてくださいます。
神様は私たちと喜びに満ちた親しい家族の食事をしたいと
望んでおられるのです。
神様は、私たち一人ひとりを名前でお呼びになります。
この部分を示す旧約聖書の箇所を読みます。
イザヤ書43の1.
「あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。」

イザヤ書62の2
「諸国の民はあなたの正しさを見
王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
主の口が定めた新しい名をもって
あなたは呼ばれるであろう。」
カナの婚礼の席でイエス様は皆と話をし葡萄酒を飲み、
食事をしました。その姿は神様の温かさを示しています。
イエス様が変えられた葡萄酒は最高の品質で、540リットル、
ボトルにして800本だったと聖書にあります。
これは、神様の贈り物はすべていつも最高で温かく、
限りがないことのしるしとして示されています。

今日、私たちは同じ神様に出会うことができます。
神様としてのイエス様は生きて私たちの近くにおられます。
温かい友情の交わりの中でイエス様に会いましょう。
祈りの中でイエス様と親しく話しましょう。
「ご聖体」をいただいてイエス様の温かい友情を味わいましょう。
イエス様は生きている声で私たち一人一人に語り掛けられます。
「あなたはわたしの友。」
「わたしはあなたのための場所を用意する。」
「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
恐れずに恥ずかしがらずに、神様からの温かく親密で素晴らしい
この贈り物を味わいましょう。(北尾)

主の洗礼 C年 2019年1月13日

聖書朗読イザヤ 40:1-11; テトス 2:11-3:7; ルカ 3:15-22

 イエス様の洗礼によって、私たち自身の洗礼の意味が示されます。
 洗礼の水が(普通は額に)注がれ、「父と子と聖霊の御名によって、貴方に洗礼を授けます。」と告げられました。これらは、イエス様ご自身によって与えられた言葉です(マタイ 28:19)。
 教会で洗礼式が行われる時に、その式を見てみましょう。(緊急時には、洗礼を望む人に、誰でも洗礼を授けることができます。)
 最初に、その人の名前が呼ばれます。「太郎(花子)、貴方に洗礼を授けます...」これで、聖書に描かれるならわしが思い起こされます。神様は「私は貴方を名前で呼ぶ。(イザヤ 43)」と言われ、イエス様は「私はそれぞれの羊を名前で呼び、導く。(ヨハネ 10:3)」とおっしゃいます。
 そして水が使われます。水は清めと生命をあらわしています。水は、人間や植物の命に欠かせません。私たちは、神ご自身の生命を授かります。
 洗礼によって、私たちは、父と子と聖霊の生命と愛の中に入ります。神様の愛の中に入るのです。15世紀のイコン画家アンドレイ・ルブリョフは三位一体を3人の天使として描きました。イコンの絵は、祈りに使われました。絵を見つめていると、描かれた雰囲気-愛にひたされます。私たちをありのままで受け入れてくださる神様の愛に入っていくのです。
 司祭は、受洗者に聖別された油を塗ります。油は強さと健康をあらわしています。神様は、心の強さと健康を与えてくださいます。
 司祭はロウソクに、大きくて白いご復活のロウソクの火から火をともし、「光の子として歩みなさい。」という言葉と共に、新しく受洗した人に渡します。まさに、神様は、この人生、この世界の暗闇の中、私たちに光をくださるのです。
 洗礼で、神様は公の約束(契約)をされます。神様は一人一人に「恐れるな、いつも私は貴方と共にいる。私が貴方を守る。」と言われます。
 私たちも約束します(契約は、いつも双方向です)。私たちは「神様、私は完全に貴方を信頼します。私の人生を貴方の手に委ねます。」と言います。洗礼で、思いやりと優しさ豊かな神様が、一人一人に活きた声で「貴方は私の大切な子。愛する子。」とおっしゃるのです。何と大きな慰め、何という励ましでしょう!(相田)

主の公現 C年 2019年1月6日

聖書朗読イザヤ60:1-6詩編72エフェソ3:2-6マタイ2:1-12

今日は主の公現の祝日です。神様はご自身を「国々」にお示しになりました。すなわちイエス様は、ユダヤ人だけでなく地球上のあらゆる国の救い主ということです。
聖書はこの真理を興味深く具体的な方法で伝えています。イエス様ご降誕の夜、まず羊飼いたちが馬小屋に導かれました。彼らはユダヤ人の代表でした。しかし、次に来たのはユダヤ人ではない3人の占星術の学者でした。彼らは異邦人の国々の代表でした。言い換えると救い主であるイエスは、すべての人に愛をお与えになるということです。
私=ケンズはユダヤ人ではありません。私はアブラハムの時代からのユダヤ人の国を神に感謝します。ユダヤ人の国は神様の愛の約束の守護者でした。イエス様はユダヤ人でした。イエス様は、ご自身が「神様の愛をあらゆる国の人々に与えるためにこの地上に生まれた」と強調なさいました。私は、非ユダヤ人として、信仰の偉大な賜物を神様に感謝します。私たちは神様の愛を知り、その愛の中で毎日生きています。それは素晴らしい贈り物です。
3人の占星術の学者はイエス様に贈り物を持ってきました。私たち一人ひとりも、イエス様に感謝の気持ちを伝え、贈り物を捧げましょう。
イエス様にどんな贈り物をすることができますか?祈りの中でイエス様と話しましょう。孤独な人、寂しい人に思いやりと優しさを示しましょう。私たちが恨みを抱いている人に対する許しを、イエス様に贈りましょう。善い行いを見たら、その人に「よくやった!」と声をかけ称賛しましょう。そして、私たちがイエス様に捧げることができる興味深い贈り物が他にもあります。私たちは、心配事、苦しみ、自分自身の弱さをイエス様と共有することができます。イエス様は私たちの親友です。イエス様は、私たちが私たちの人生をイエス様と分かち合うことを望んでおられるのです。
私たちは神様の愛に囲まれ、イエス様は私たちと共に人生の道を歩んでくださいます。
イエス様が与えてくださった力に、より頼みましょう。
この偉大な贈り物を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

聖家族 C年 2018年12月31日

聖書朗読:使徒ヨハネの手紙 3:1-24; 詩編 84; ルカ2:41-52
私は63年前に日本に来ました。語学学校を出た後、地方の教区で司祭として働き始めました。当時は、テレビや携帯電話はなく、自家用車は希少でした。日本は変わりました。過去に戻ることを望むことはエネルギーの無駄です。現代の日本を受け入れ、祈りと信念をもって問題に向かい合いましょう。イエスに導きを頼みましょう。イエスは将来への希望を与えてくださいます。
 今日の日本の家庭生活は難しいものです。わたしたちは競走社会の中に生きています。競争は幼稚園に入る時から始まり、仕事を得るまで続きます。競争はその後も続きます。このような競争社会では、モノ、お金、容姿、出世に重点がおかれます。お母さん、お父さんの負担は大変大きくなっています。しばしば子供たちは、家庭生活や教会から漂流してしまいます。わたしたちはどうしたらよいでしょうか。
 わたしには家庭生活の問題への容易な答えはもっていません。でも推奨することがあります。祈って、祈って、祈ってください。
 誰に向かって祈るのでしょうか。イエスに対してです。イエスは人間になり家庭生活を経験された神様です。イエスは3年間公生活を送りました。しかし30年間は家庭にいました。(このことは、神様が家庭生活に価値を置き、関心をもっていることを示しています。)ナザレでの家庭生活はイエスにとって安易なものではありませんでした。聖家族は貧しかった。家庭内でのすれ違いもありました。一つの例が今日の福音書に書かれています。イエスが12歳の時、エルサレムからナザレ(193キロの距離)に戻る時、マリア様はイエスは男性グループにいると思い、ヨゼフ様は女性グループにいると思っていました。イエスは行方不明になりました。見つけた時のイエスの答えをマリア様は理解できませんでした。心の中にしまっておき、後になって理解することができました。苦しみに出会うとき、神様に「なぜ?」と問いかけましょう。また祈り続けましょう。わたしたちの不平は祈りになります。イエスは、「わたしのところに来なさい。平和を与えよう。」と言われます。(薩田)

主の降誕 C年 2018年12月24日

聖書朗読イザヤ 9:1-6 & 52:7-10; 詩編 98; ルカ 2:1-14; ヨハネ 1:1-18
 
 私たちの教会の門の掲示板に、聖書の言葉「神は愛である」(ヨハネ1 4:8)を掲げています。
 この言葉は真実であり、神様はその英知で、私たちのために具体的な例を示されました。
 神様は私たち人間を創造されました。神様は私たち人間の知性がどのように働くかを理解されています。神様についての真実をよく理解するには、私たちには具体的な例が必要なのです。このように深く理解されているので、神様ご自身が、私たちと同じような人間性を持たれました。神様は天国の栄光をわきに置いて、地に降りてこられたのです。聖霊の神的な力によって、マリアは子を宿しました。その子は、イエスと名付けられ、まことに100%神であり、同時に100%人間でした。「御言葉は肉となり、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ 1:14)のです。
 イエス様の人生は人間の赤ん坊として始まりました。そして成長しました。大人となって、人々に対するイエス様の姿勢がわかります。イエス様は人々と共に喜びました(例えば、カナでの若いカップルの結婚式で)。人々が悲しむときイエス様は共に泣きました(例えば、ナインの村で一人息子を亡くした未亡人と共に、また、兄弟であるラザロを亡くしたマルタ、マリアの姉妹と共に)。イエス様はザーカイと共に虚しい気持ちを深く感じ、また、らい病の人々や、眼の見えない人々の苦しみも深く感じていたのです。これらは、私たちの神であるイエス様の優しく、思いやりのある心のほんの一部の例です。イエス様は今も、まさに同じように私たちに向き合ってくださいます。「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わらない」(ヘブライ 13:8)のです。
 イエス様は今も生きておられ、私たちの近くにいらっしゃいます。私たちの神であるイエス様は、私たち人間の生活を経験し、私たちを理解してくださいます。そして、「疲れた人、重荷を負っている人は皆、私の元に来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ 11:28)と優しく招いてくださいます。さあ、イエス様の元に行きましょう。(相田)

待降節第4主日 C年 2018年12月23日

聖書朗読ミカの預言5;1-4詩篇80ルカ1; 39-45

京都の清水寺で発表された2018年の漢字は「災」でした。
あなたは「災い」を経験していますか?それは、苦しみですか?ストレスでしょうか。あなたは落ち込んでいますか?気分が滅入って平和を味わいたいのなら、今日の福音の朗読箇所を読んでください。ゆっくりと祈りながら。神様はあなたに心の安らぎを与えてくださいます。(これは救い主からのクリスマスプレゼントになるでしょう!)
第1朗読(ミカの預言5)は、救い主の誕生の700年前のことです。エルサレムは包囲されていました。この危険な状況にもかかわらず、王様、祭司、そして金持ちは貧しい人々を圧迫していました。しかし、これらの「小さき者」は神様に信頼をおいていました。
預言者ミカは、神様を信頼する人々に神様の言葉を伝えます。「希望を持ちなさい!あなた方の平和はベツレヘムから来る。私はあなた方の神、あなた方の善き牧者になる」神様の言葉は、今日、私たちに対しても同じように生きています。正直に自分自身と向き合い、「私は神様を信じ、神様の助けに頼っているだろうか?」と問いましょう。私たち人間が自分たちの弱さを知り、人生を平安のうちに歩めないことを認めるとき、神様に助けを乞い願うことは、真実なものとなります。神様に私たちの「災い」に対する助けを願うことは、祈りの中で特に大切です。
詩編80編の「願い」を見ましょう。「あなたの力を現しわたしたちを救いに来てください。」私は謙虚に神様の力、平和、そして導きを求めているでしょうか?
福音(ルカ1)でのマリア様は、救い主の誕生の準備の模範です。受胎告知の後、天使はマリア様に、年配のいとこ(エリザベト)が身ごもっていることを伝えます。マリア様は自分の都合を考えませんでした。エリザベトが助けを必要としていたので、マリア様はすぐに出発しました。145キロ、少なくとも6日間歩いてエリザベトの家に到着し、エリザベトに慰め、平和と助けをお与えになりました。
①あなたの周りに孤独な人がいませんか?(もしかしたらあなた自身の家に!)
②あなたは誰かが「災い」に苦しんでいるのを知っていますか?痛みやうつ病などに苦しみ、助けを必要としている人を知っていますか?
③その人たちに、私は思いやり、励まし、そして優しさを差し出すでしょうか?
これら3つの質問を考え行動で応えましょう。
そうすれば、あなたは「災」を「平和」に変える救い主に出会うでしょう。(北尾)

待降節第3主日 C年 2018年12月16日

聖書朗読: ゼファニアの預言3:14-18; イザヤ12:2-6; フィリピン教会への手紙4:4-7; ルカ 3:10-18
 人は不安と問題を抱え大きな重荷を負うことがあります。その時他の人から「心配しないで」と突然言われたとします。そこに同情心が無ければ心配はさらに深まります。人間は電灯を消すように不安を無くすことはできません。しかし今日のフィリッピン教会への手紙では聖パウロは、「思い煩うのはやめなさい。主は近くにおられます」と言います。第一朗読のゼファニアの預言でも同じです。「恐れるな…お前の主なる神はお前のただ中におられる。」今生きて私たちのそばにいるイエスは、「恐れるな。私はあなとともにいる」と言われています。イエスは勇気、力、喜びを与えてくれます。
 イエスは私たちとともに人生を歩んでくださいます。イエスは、ご自身の力、助け、勇気、励ましを与えてくれます。私たちは人間としての弱さを認め、イエスからの助けを願いまた頼っているでしょうか。今日の朗読では聖パウロはこの助けをイエスに祈るように教えています。
 イエスがそばにおり、絶えず助けてくれることを知れば、私たちの不安は無くなります。不思議なことですが、苦しみの中でもとても深い喜びを味わうことができます。この喜びは私たち一人一人が神様にとって特別な存在であるということに基づいています。私たちは一人一人神様の愛に包まれています。この特別な喜びは“信仰の喜び”と呼ばれています。苦しみの中でも神様から愛されている喜びを味わうことができます。
 フランシスコ教皇は他の人々に微笑みかけるように言われます。マザーテレサは「微笑は平和の始まり」と言われました。
 私たちは心からの励ましを他の人にもたらしているでしょうか。他の人の不安に真剣に耳を傾けているでしょうか。福音の喜びを分かち合っているでしょうか。それとも自己中心的になり、自分の不安にのみ囚われていないでしょうか。祈りの中でイエスに出会い、喜びの恵みを求めましょう。そして外に出てその喜びを分かち合いましょう。(薩田)

待降節第2主日 C年 2018年12月9日

聖書朗読:バルクの予言 5:1-9; フィリピの教会への手紙 2:4-11; 詩篇 126; ルカ3:1-6

 12月になりました。冬です。夕方5時には暗くなります。寒いです。葉は地面に落ち木々は裸です。日本人の人口は減少しています。しかし高齢者の数は増えています。貿易戦争は拡大しています。聖書の中で象徴として用いられている言葉の暗い荒野の中に私達は今います。今日の福音書(ルカ3:1-6)の中で、洗礼者ヨハネが私達の救いの第一幕に登場します。(第二幕はイエスです)私たちには希望があります。主イエスよ来てください。
 心の中に荒野があるでしょうか。エネルギーは落ちてませんか。心の空白はあるでしょうか。うまく行かない気持ち、苦い思い、弱い信仰、人を許せない気持ち、暗さなどがあるでしょうか。
 待降節の期間中に、心の中の荒野を認め、希望を持ってイエスを待ち望みましょう。わたしたちは救い主イエスを必要としているのです。今日の第一朗読のバラクの予言では、人々は絶望のどん底にいました。美しい神殿は破壊されました。人々は故郷から遠い場所で囚人となっていました。預言者バラクを通して神様は詩的な言葉で言います。「悲しみの衣をまとうな。輝く衣をまとえ。東を見よ。太陽は上り、救いが訪れる。」夜明けが必ず来るように、神は必ず現れます。(ホセア6:3)
 神様は今日も同じように働かれています。強い希望を持ち待ちましょう。祈りましょう「主イエスよ、来てください。」
 福音書では、ルカは救いの時が始まったことを詳しく書いています。キリスト教は歴史的な部分があります。救い主イエスは現実の世界で働かれています。救い主イエスは日々の生活の中で働いています。イエスはわたしたちの心の中で働き、荒野を緑にし、生き生きとします。今週静かな時間を持ち祈りましょう。イエスの存在の中で、心の中の暗い荒野を認め、強い希望を持ち「主イエスよ 来てください」と祈りましょう。希望を家族、友達、職場や学校の仲間と分かち合いましょう。(薩田)

待降節第1主日 C年 2018年12月2日

聖書朗読: エレミヤ 33:14-16; 詩編 25; ルカ 21:25-36
 今日から待降節が始まります。教会の典礼の中で、希望の恵みを強調する季節です。希望は未来に関係しています。あなたは自分の未来のことを考えると、どう感じるでしょうか?
 第一朗読のエレミヤ書の人々は、深く絶望しています。エルサレムにある彼らの美しい神殿は徹底的に破壊され、人々は遠いバビロンに追放されていました。神は、預言者エレミヤを通して次のように語られます。「私はあなた方に恵みの約束をした。私は約束を守る。あなた方は救われる。希望を持って、私を信じなさい。」 優しい神様は、このようにされるのです-昔も、今、私達にも、です。さあ、未来に希望を持ちましょう!
 神ご自身が、私達ひとりひとりに、洗礼のときにしてくださった約束は、とても大切です。神の約束は、こうです:「私はいつもあなた方と共にいる。いつも、あなた方を支え、守る。」 この約束は、私達が希望を持つ土台です。今日の詩編 25 に、「神をおそれる人に神は心を開き、聖なる約束を示される。」とあります。
 福音には、混乱の中にある世界が示されます。人々は苦しんでいます。イエス様は、当時も今も私達におっしゃいます:「身を起こして頭を上げなさい。あなた方の救いの時が近いからだ。」(ルカ 21:28)
 あなたは苦しんでいるのでしょうか?心配事があるのでしょうか?悲しい、または寂しいのでしょうか?危機の中にあるのでしょうか?あなたの人生はめちゃくちゃなのでしょうか?とても忙しくて、ひどく緊張しているのでしょうか?福音の中で、こうした人々に、イエス様はこうおっしゃいます。「人の子(イエス様)の前に立つことができる強さを求めて、祈りなさい」(ルカ 21:36) イエス様は「重荷を負う者は皆、私の元に来なさい。休ませてあげよう。」と言われます。苦しい時、ありのままで、イエス様の元に行きましょう。かき乱された心を開き、イエス様が来て下さるという希望を持って。「毎朝、日が昇るのと同じ様に、神様は必ず来てくださいます。」(ホセア 6:3) これが、私達の未来への希望の土台なのです。

年間第33主日 B年 2018年11月18日

聖書朗読ダニエル 12:1-3; 詩編16; マルコ13:24-32
 聖書には合計73の書簡と手紙があります。文章のスタイルも多様です。例えば、歴史(現代へのメッセージも)、たとえ話、黙示文学です。今日の朗読のダニエル書とマルコの福音は黙示文学です。現代の私たちには理解することが難しいものです。言葉通りに読むと、そこに込められたメッセージを理解できません。黙示文学は想像とシンボルに満ちています。例えば竜、子羊、鷲などです。空想の世界のようです。黙示文学の目的とメッセージは、苦しんでいる人に希望、励まし、強い決意を与えることです。理解が難しいから避けるのではなく、そこに込められたメッセージに重きを置きましょう。そのメッセージとは神は苦しみの時にそばにおられ、そして天国という報酬を与えてくださるということです。人生の終わりまで、希望と勇気を与えてくれます。
 答唱詩編16:5-9は神からの希望と励ましのメッセージを告げています。この祈りは苦しみの中で用いることができます。「神よ あなたはわたしの道を開くかた。わたしは絶えず神を思う。神はわたしのそばにおられ、わたしは決してゆるがない。わたしの心は喜びに満ちあふれ、からだはやすらかにいこう。」そして詩編16節は次のように続きます。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の手から永遠の喜びをいただきます。」
 今日の聖書は難しいものですが、暗く、悲しく、気分を落ちこませるものではありません。希望と励ましを与えるものです。死の悲しみは天国での幸せという明るい希望を与える通過点です。イエスは、「恐れるな。私はあなたと人生の道を共に歩む。私は同伴者だ。」と言われます。お互いに手を取り合い、天国への道を歩みましょう。(薩田)

年間第31主日 B年 2018年11月4日

聖書朗読:創世記 6:2-6; 詩編 18; ヘブライ 7:23-28; マルコ 12:28-34
 今日の福音(マルコ 12:28-34)では、律法学者がイエス様にとても大切な質問をします。「イエスよ、幸せな人生への最も大切な指針は何ですか?」 この質問と、イエス様の答えは、現代の私たちにも、とても大切です。イエス様は、「神を愛し、人を愛し、自分自身も愛しなさい」と答えます。
 「愛」という言葉は、映画で、テレビドラマで、歌の中で聞かれ、小説や詩や人生相談コラムにも出てきます。「愛」という言葉は、言葉の意味をかなり失ってしまい、安っぽくなってしまいました。ある晩、私が当時の名古屋教区の相馬司教と長く話をした時のこと、司教は、日本ではおそらく、「友情」という言葉が使えるのではないかと言いました。例えば、リジュの聖テレジアが死に瀕して、むなしく感じている時でさえ、「イエス様、私はあなたを愛しています」と祈ったのです。テレジアとイエス様は友達同士でした。
 さあ、自分自身に聞いてみましょう:「イエス様は友達ですか?イエス様を愛しているでしょうか?イエス様は私の人生の中心でしょうか?イエス様が一番でしょうか?」
 教皇フランシスコは、聖書を開いてイエス様について読むよう私たちに求めています。「スマートホンを開くのと同じくらい、聖書を開くでしょうか?」と教皇は問いかけています。イエス様を愛するなら、イエス様が友達なら、毎日毎日、イエス様との愛情のきずなを保ち、話すでしょう。これが祈りです。朝には、イエス様にあいさつをしましょう。夜には「ありがとう」と言いましょう。イエス様との愛(友情)が、私たちの毎日の生活に流れ込んできます。特に、イエス様が下さる助けと力のかげで、人に親切に、思いやり深くなれます。そして、とても難しい人さえも、ありのままに受け入れられるようになります。
 イエス様との友情によって、イエス様がどれほど私たちを -私たちがあるべきだと考える姿ではなく、ありのままの私たちを- 愛しているかが示されます。劣等感は消えてしまいます。このイエス様との友情を心に感じて言いましょう! 「おお、神様、内なる私を創造してくださり、心より感謝いたします」(詩編 139:13-14)と。(相田)

年間第30主日 B年 2018年10月28日

聖書朗読:エレミヤ31.7‐9、詩編126、ヘブライ人への手紙5.1‐6マルコ10.46-52

イエスは復活されました!
復活されたイエスは、今日私たちと共におられます。イエスの思いやりといつくしみは、今日も私たちに向けられています。イエスは生きておられ、違う形でバルティマイも今日、生きています。あなたが、そして私がバルティマイである、という意味においてです。聖書の中でバルティマイは、信仰の道を歩む者として私たちに示されています。バルティマイは私たちの信仰の旅路の模範です。
自分が「見えない者」であることを認めましょう。私たちは偏見を持っていませんか?他の人の意見を聞き入れますか?人の長所が「見えない者」になっていませんか?人の苦しみに無関心ではないですか?(彼らが遠慮して助けを求める声を上げられない時にも?)
神様の創られた美しい自然界に対しても、地球温暖化に対しても「見えない者」になっていませんか?「自分の問題ではないから」と考え、貧しい人やホームレスの人が見えていないのではないですか?真に永遠の価値を持つものが見えていますか?最も大事な問いかけは、今、私の近くにおられるイエスの計り知れない価値が見えているのか?ということです。

そうです!私は「見えない者」です。私はイエスと出会う必要があります。私は祈りの中で叫びます。「イエスよ、わたしを憐れんでください」イエスは私の祈りをお聞きになり、私のところに来られます。イエスは私に:「何してほしいのか」とお尋ねになります。さあ、この質問を黙想しましょう!心の奥底にある答えは何ですか?
私が人生で本当に欲しいもの、望みは何だろうか。この世の一時的な宝物か、永遠の宝か。
私たちは、祈りの中でイエスに「主よ、私の目を癒してください。目が見えるようになりたいのです。主よ、憐れみたまえ」と願うでしょうか。
私たちも、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われるイエスの言葉を聞いているかもしれません。ここで使われている「救った」という言葉は、イエスが私の人生にお入りになった、そして、バルティマイと同様に、イエスと共に人生の旅路を歩むことを意味しています。イエスは私たちの同伴者です。
私たちの目は開かれ、見える者となりました。イエスが私たちにお与えになった素晴らしい祝福を理解し、この賜物を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

年間第29主日 B年 2018年10月21日

聖書朗読:イザヤ書 53:10-11; 詩編 33; ヘブライ人への手紙 4:14-16; マルコ 10:35-45
 今日の説教は祈りです。祈りには2種類あります。
① 典礼の祈り すなわちミサ、教会の祈りです。既に文字として書かれている祈りです。
② 個人の祈り 自分の言葉での祈りです。
全てのキリスト者にとってどちらの祈りも必要です。片方が他と絡み合うのです。
 質問です。神様への祈りが丁寧すぎないのでしょうか。神様への崇拝は正しいことです。しかし過剰に崇拝してませんか。神様は全能なのでおそれ多いと考えていませんか。神様を遠くに感じ、思いやりがないようにも思うことがあるかもしれません。ある人には神様は罰する神のように感じているかもしれません。
 イエスは私たち皆に、「あなたは私の友である。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と呼びかけ、暖かい交わりへと招きます。イエスの招きに応えましょう。
 祈りの博士と呼ばれるアビラの聖テレジアは個人の祈りを次のように書いています。「友であるイエスはありのままの私たちを受け入れます。私たちは親友が語るように、イエスと親しい会話をします。」冷たさや罪、他人への恨みがあり自分はふさわしくないと感じるかもしれません。ありのままで着飾らず傷ついた状態で、自分のもとに来るようにイエスは望んでいます。イエスは私たちの罪を担っています。(第一朗読 イザヤ53:11)第二朗読は祈りに対し大切です。祈りではイエスに語りかけます。イエスはどのような方でしょうか。「イエスは人間性を経験されたから、私たちのすべての弱さを理解します。必要な時はいつでも、大胆に慈悲深い神様のみ前に近づきましょう。そこでは限りない思いやりと助けを頂きます」(ヘブライ人への手紙 4:15-16)
 毎朝、「おはようございます」とイエスに言いましょう。そして一日の導きを頼みましょう。寝る前は「おやすみなさい」と言い感謝しましょう。またイエスをもっと知る恵みが与えられるように頼みましょう。会話のような祈りは一日を味わい深いものとし、毎日の仕事がうまくいくことを助けます。イエスを知る恵みをほかの人と分かち合いましょう。今日は宣教の日曜日です。皆さん宣教をしましょう。(薩田)

年間第28主日 B年 2018年10月14日

聖書朗読:知恵7:7-11詩編90 ヘブライ4:12-13マルコ10:17-30

真の知恵は神様からの無償の贈り物です。聖霊が私たちに知恵を与えます。聖書の深い意味を理解するために、知恵が与えられています。聖書をゆっくりと祈りながら読んでいると、時折、心に響くものがあるでしょう。それが聖霊の働きによって与えられる知恵です。聖書の知恵は、大工さんが家を建てる時や女性が縫物をする時にも与えられています。つまり、知恵の贈り物は聖なる行いのためだけではなく、日々の生活すなわち家事や料理、職場、学校生活や余暇のために与えられているということです。毎日の生活の中に真の知恵をくださるように神様に願いましょう。知恵を求めて祈りましょう。
この地上での人生の目的を理解するために、聖霊からの知恵という特別な方法が必要です。なぜ私はこの地上にいるのでしょうか?最後の目的地はどこでしょうか?真の知恵は「神様が私の近くで共に人生の道を歩み、この世の命が終わったとき天国に入るように、私をこの地上にお遣わしになった」と教えてくれます。永遠の命と完全な幸福が私を迎えてくれます。この一時的な人生の中で、永遠の命のための準備をしながら過ごしているでしょうか?
今日の福音(マルコ10:17-30)で、青年は永遠の命を勝ち得たいと切望しています。イエス様は、永遠の命は神様からの贈り物であると言われます。しかし贈り物を受け取るために、私たちは他の人、特に貧しい人のことを考えなければなりません。この青年は、イエス様と共に人生の道を歩むという召命をいただきました。彼は人生のすべてをイエスに捧げるように求められました。しかし彼は、この世の富を愛しすぎているので、呼びかけに応えることができません。物質は悪ではないのですが、生活の中で私たちが本当の目的を実現し、その実現のために行動する際の妨げになる可能性があります。自分自身に問いかけてみましょう。私は今の快適さ、スマホ、ゲーム、スポーツやテレビ等々の物質に重きをおいて生きてはいないでしょうか?
イエス様は、イエス様に従うことは単に難しいのではなく、むしろ不可能である!と私たちに話されます。しかし神様の助けと知恵に頼るのならば、イエス様に従うことは可能であるだけでなく、永遠の命につながる喜びでもあるのです。(北尾)

年間第27主日 B年 2018年10月7日

聖書朗読:創世記 2:18-24; 詩編 128; マタイ 10:2-16
 今日の聖書は、結婚生活についてです。イエス様の時代、男はとても簡単な理由で妻を離婚することができました!例えば、料理が下手だとか、姑に口答えしたとか、といったことで、です!そうした社会では男が支配し、妻たちはいつも不安にしていました。今日の創世記の物語の深い意味と、イエス様の教えは、これです:神様の前で、夫と妻は人として平等です。夫と妻とは違いますが、平等です。その違いは互いを補うものです。二人は調和して一緒に幸せな家庭を作るのです。
 結婚式の典礼が二人を幸せな結婚生活に導きます。
誓いの言葉: 
わたしたちは夫婦として
順境においても逆境においても
病気のときも健康のときも
生涯たがいに愛と忠実を尽くすことを誓います
結婚する二人を祝福する司祭の祈り: 
神よ 二人が喜びにつけ悲しみにつけ 賛美と祈りを忘れず
仕事に対してはあなたの助けに支えられ、
困難にあっては慰めを見出すことができますように アーメン
祈り: 
わたしたちの助けであり 力である神よ
あなたはお定めになったことを
節理を通して成し遂げられます
ふたりを結ばれたあなたの愛が
ふたりの一致を強め
愛の実りを結ばせてくださいますように

 結婚生活は、他の人生と同じように、難しいときがあるかもしれません。続けていくのに、人の強さだけでは十分ではありません。神様の助けと力が必要です。神様は私たちを愛し、私たちが助けを求めるときには喜んで助けてくれます。上の祈りに 「二人が祈りを忘れず」 とあるように、私は結婚の準備をする二人のための講座で、アシジの聖フランシスコの 「平和の祈り」 を一緒に祈るように求めます。
自分のことは後回しにして人のことを考えましょう。(相田)

年間第26主日 B年 2018年9月30日

聖書朗読:民数記Ⅱ:25-29 詩編19 マルコ9:38-48

第一朗読(民数記Ⅱ)に、神様がイスラエルの民の代表者であるモーセを通して、70人をお選びになったことが記されています。神様はこの70人に特別な「恵み」をお与えになりました。しかし、70人とは別の2人も、同じ「恵み」を頂き、それを使いました。これに対し、ヨシュアは「やめさせてください、あの2人は我々の仲間ではありません!」と訴えました。
福音の中には、病気をいやすという特別の恵みをイエス様から頂いた12人がいますが、この12人以外にもイエス様の名の下(もと)に病人を癒した人がいます。「彼が病人を癒すのをやめさせてください!」モーセもイエス様も同じようにその訴えを退けました。
この話は今日、私たちにどんなメッセージを伝えているでしょうか?
イエス様は、私たちの「排他的な心」に注意を与えます。自分の仲間でない人が善い行いをしていたら、非難するのではなく喜びましょう。喜ぶだけではなく、称賛し、その人のことを神様に感謝しましょう!
イエス様は私たちに「誰でも受け入れる」という挑戦をお与えになります。性格の違い、政治や宗教の違い、価値観の違い、国籍の違いもあるで
しょう。教養のある人、無教養の人もいます。神様は私たちをお創りになりました。神様はすべての人間、一人ひとりを愛しておられます。神様は私たちをありのままに受け入れてくださいます。私たちも、他の人をありのままに受け入れましょう。それが、イエス様が私たちに望んでおられることです。私の愛する神様は、弱い私を弱いままで受け入れてくださるのです。他の人たちを、神様に感謝して受け入れましょう。
人は皆、それぞれに異なる才能を持っており、その才能は神様からのお恵みです。私は、自分を他の人と比べてはいないでしょうか?ほかの人をうらやんだり、偏見を持ったりしていないでしょうか?
ほんの少しの親切な行いや言葉で、偏見を打ち消すことが出来ます。(福音の中の「人に差し出すコップ一杯の水」は小さな善行の象徴です)
イエス様は「自分と違うところのある人たちや仲間でない人たちを受け入れるように」と言われます。その教えを実行する力と勇気をイエス様に願いましょう。(北尾)

年間第25主日 B年 2018年9月23日

聖書朗読:知恵 2:12-20; 詩編 54; ヤコブ 3:16-4:3; マルコ 9:30-37

 アヴィラの聖テレサは教会博士と呼ばれています。「祈りとは私たちを愛してくれるイエスとの対話です。」とテレサは言います。神であるとともに私たちと同じようにこの世で人間を経験された、イエスに私たちは祈ります。イエスは100%神であり、100%人間です。テレサは、祈りの初めに人間としてのイエスを思い描くように勧めています。イエスに語りかけましょう。月曜日に開催されている一粒会大会において、小さな少年から次の質問を受けました。「神父様。寂しくはないですか?」私は「はい寂しいです」と答えました。私は孤独を感じました。しかしこの孤独の気持ちをイエスへの祈りの題材として用いました。自己憐憫に陥るより、神であるイエスが人間として感じた孤独を思いました。イエスは故郷のナザレでは受け入れられませんでした。そして人々から石を投げられ追い出されました。イエスは故郷を失ったのです。孤独と悲しみの中で、「人の子には枕する所もない」と言われました。イエスは故郷を失ったことに深い喪失感を味わいました。私は孤独を感じることを通じ、イエスに深く出会いそして孤独が消えました。私は親友がそばにいるように感じました。皆さんもこのように祈ってみてください。
 今日の福音では、自分は裏切られ死に追いやられるとイエスは言われています。これは二回目の発言です。この発言に対し弟子たちからの反発を感じていました。イエスは嫉妬した長老がイエスを殺そうとたくらんでいることを知っていました。人間であるイエスは恐怖を感じていました。皆さんは将来を心配していますか?イエスのところに行きましょう。イエスは私たちと同じ人間の経験をしたので、人間の心を理解します。イエスは言います。「私のところに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)
 イエスは弟子たちから励ましを受けることはありませんでした。弟子たちは、強い野心とお互いの競争心でいっぱいでした。イエスは言います。「子供のように競争心を持たないものだけが平安を得るのだ。」  (薩田)

年間第24主日 B年 2018年9月16日

聖書朗読:イザヤ50:5-9; 詩編 116; マルコ 8:27-35   
今日の福音で、イエス様はペトロにたずねました:「あなたは私を誰だと思うか。」生きている声で(福音を通して)、イエス様は今日あなたにそして私にたずねています。
私たち一人ひとりが2つの理由で、心からの答えを述べる必要があります:
① 自分自身の個人として信仰。イエス様のイメージがぼやけていれば、信仰と祈りもぼやけています。
② 他人に対して – 誰かが「イエスさんは何者か」とたずねたら。どう答えますか。誰かが「あなたはなぜクリスチャンか」とたずねたら。
私の答えはこうです:「イエスさんは100%神で、同時に100%人間です。地上で33年間生活しましたが、今日も私と一緒に生きていらっしゃいます。人生の旅路を私と一緒に歩いてくださいます。私は決して孤独ではありません。これは私にとって大きな励ましです。人生に味わいを与えてくれます。特に病気や悩みの時に(言い換えれば、イエス様は私の『十字架』を一緒に運んでくださるのです)。」
イエス様は200年前の福音でのように、今日も同じです。ナインでは、やもめの寂しさを感じとりました。ペトロは失敗しましたが、ペトロの人間的弱さと失敗を受け入れました。イエス様は近づきやすく、話しかけやすい方です。イエス様は福音の時代と同じです。
これが私のイエス様、私の神です。イエス様は友達です。でも木の登ったザアカイのように、イエス様と出会うより深く方法を探しています。(中里)

年間第23主日 B年 2018年9月9日

聖書朗読:イザヤ 35:4-7; 詩編 146; ヤコブ 2:1-5; マルコ 7:31-37
 人の話を聞くとき、私たちは2通りの聞き方をします:①言葉を聞くけれども聞き流してしまい、心に受け止めない聞き方。 ②聞いた言葉を心の中に響かせる:本当に聞く聞き方。
 今日の福音で、イエス様は耳が聞こえない人の耳を聞こえるようにします。この奇跡は2000年前の出来事というだけではありません。今日、私たちは、私たちの心の耳が聞こえるようにイエス様に祈るのです。私たちは皆、心の耳が聞こえないのですから。
 日本の典礼聖歌388番「ガリラヤの風かおる丘で」は皆に好まれています。4番までの歌詞に、イエス様の生涯から4つの場面が描かれています。それぞれが、とても意味深い言葉で締めくくられています。――「イエス様!私にも開かせてください。」  私たちにさせる、という意味の言葉が使われています。
1番: マタイ 5:1-10。 イエス様は丘の上で教えられます。世俗の富ではなく、神様に全て寄り頼む人(心に乏しさを感じる人)は幸せになる。人をいたわる人は幸せになる。平和のために働く人は幸せになる。――「イエス様、この恵みのみことばを私にも聞かせてください。」
2番:マタイ 14:22。 12人の弟子が大嵐の中、小舟に乗っています。弟子たちはまぶしい光を見て、幽霊だと思ってしまいます。でも、それはイエス様で、「安心しなさい。私、イエスだ。恐れるな。」と言われます。――「人生の嵐の中、イエス様、あの力のみことばを聞かせてください。」
3番:ルカ 24:32。 イエス様は十字架で、私たちのために苦しんでいます。イエス様のとなりの十字架に架けられた人が「私を思い出してください」と言うと、イエス様は「今日、あなたは私と一緒に天の国にいる。」と答えます。――「イエス様、私たちが死に臨むとき、あの救いのみことばを聞かせてください。」
4番:ルカ 23:43。 イエス様は十字架で死にました。二人の打ちひしがれた弟子たちが故郷に帰っています。そこに復活されたイエス様が加わります。でも、彼らには、それが復活されたイエス様だとはわかりません。イエス様は聖書の言葉を二人に説明します。二人は新しい意味で聖書を理解します。――「イエス様、私たちの耳を開いて、生命のみことばを聞かせてください。」                (相田)

年間第22主日 B年 2018年9月2日

聖書朗読:申命記4:1-8 詩編15 ヤコブの手紙1:17-27 マルコ7:1-23

「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」(第一朗読 申命記)

すべてを止めて!静かに!これらの最も大切なみことばを深く味わいましょう。私たちの神様は遠く隔たった空のかなたにおられる方ではありません。これらの言葉は、旧約聖書の時代の人々に向かって発せられたものですが、新約の時代に生きる私たちにとって、今日さらに深い意味を持ちます。私たちの神様は、ご自分の神性を脇に置いて真の人間となられました。ですから、イエスの時代から、私たちの神様は私たちと「人間性」を共有していると言えます。神様は人間の弱さを経験なさいましたから、私たちの弱さを理解してくださいます。復活されたイエスは、私たちの横で人生の旅路を共に歩いておられます。イエスは私たちの同伴者です。私たちの神であるイエスは、私たちが呼び求めるその時、私たちの真横におられます。

私たちは主を呼び求めるでしょうか?イエスに祈っているでしょうか?祈りには2種類あります。
① 決まった言葉で祈るとき。この祈りは特に皆で一緒に唱えるときに、最も重要です。今日の福音でイエスは、この祈りは単に口先だけではなく心の底から唱えなるものでなければいけないと仰います。祈りを唱える際には、その内容を意識・意図して口にしなくてはいけないのです。
② また、私たちは、私たちを愛してくださる友であるイエスとの対話の中で、自分の言葉でイエスに祈ります。この祈りが最も重要です。祈りの中で私たちは友であるイエスに会い、感謝し、私たちと他の人たちを祝福してくださるように願います。また、時には何も言わず友達同士のように、ただ一緒に座っていることもできます。イエスの愛を味わうだけです。ここで再確認しましょう。イエスは祈りは心からのものでなければならないと言われます。
そして、この2種類の祈り(共に唱える祈りとイエスとの対話)は、実を結ばなければなりません。私たちは自己中心であることをやめ、特に孤独で苦しんでいる人、貧しい人々のところに行きましょう。今日の第二朗読の「みなしご」と「やもめ」は、福音の「貧しい人々」の代表者です。
                         (北尾)

年間第21主日 B年 2018年8月26日

聖書朗読:ヨシュア 24;1-18; 詩編 34; ヨハネ 6:60-69
 聖書は常に現在のことを語っています。つまり二千年から三千年に起こった出来事は今日と関連があるのです。
 今日の第一朗読において、ヨシュアは人々を約束の土地に連れて来ました。人々は定住し、40年間の荒れ地の厳しい生活の後それなりに繁栄しました。荒れ地では唯一で真理の神様に忠実でした。しかし安楽になると、神を忘れがちになりました。つまり神様に慣れてしまったのです。ヨシュアは12の部族をすべて集め、問いかけました。「あなたたちは誰を選ぶのか。富の神バールか、それとも唯一で真理の神をか。」これまでずっと唯一で真理の神様が愛し守ってくれたことを省み、人々は「私たちは唯一で真理の神を選びます」と答えました。
 ここで私が聖書は永遠に現在のことを語っていると言ったことを振り返ってみます。現在の今の私たちに、ヨシュアが行った同じ問いかけが投げかけられています。
 福音書の中では、イエスは人々に「イエスは神であり、父からお遣わしになられた」といいう非常に理解することが難しい教えを述べています。イエスは自分自身をご聖体としてお与えになりました。多くの人たちは、「このような教えは受け入れることができない。あなたから離れる。」と言いました。イエスは12人の弟子のほうを向き、「あなたたちも離れていくのか。誰を選ぶのか。」と言われた。弟子を代表してペテロは、イエスが命、人生の意味そして心の平和を与えてくれたことを省み、「私たちはあなたを選びます。あなた以外の誰のところに行きましょう。」と答えました。私たちは祈りの中で繰り返しイエスに出会い、「イエスよ。私はあなたを選びます。」と言わなければなりません。(薩田)

年間第20主日 B年 2018年8月19日

聖書朗読:箴言 9:1-6; 詩編 145; ヨハネ 6:51-58   
40年前、私はカファルナウムのシナゴクの廃墟に座り、とてもゆっくりとヨハネ福音書の6章を読んでいました。
今でも40年前に受けたショックを覚えています。少しずつ違った言葉でイエス様は5回いっています:「私の肉は本当の食べ物」最後の晩餐(そして毎回のミサ)で:「このパンは私の体である」
それから言います:「私の肉を食べるものは誰でも、私の内におり、私は彼の内に生きる」 (ヨハネ 6:56) わたしたちは聖体の内のイエス様をうけ、人生の旅路を歩く命とエネルギーと力を受けます。
私たちは人喰いでしょうか?決して、決して、決して。復活したエス様はパンの形でわたしたちのところに来ます。ふつうのパンは体の栄養になります。ご聖体は心の霊的栄養と力となります。
今日の福音(ヨハネ 6:51-58)を読んで、読み返して、それからもう一度ゆっくりと読み返しましょう。最初のショックが神であるイエス様の力と考え深さへの驚きに変わります。 それから、感謝に変わります。こんなに大きな贈り物にイエス様に「ありがとう」と言いましょう。ご聖体の中のイエス様は人生の旅路を歩くときの力と勇気を与えます。最後の晩餐の時にイエスさんは私たち一人一人にいいました:「私はあなたたちを友と呼ぶ」イエス様の温かい友情は素晴らしい慰めです。本当に、晩餐に呼ばれた私たちは幸せです。(中里)

年間第19主日 B年 2018年8月12日

聖書朗読:列王記上 19:4-8; 詩編 34; ヨハネ 6:41-51
 「米は力だ」 この面白い言葉が、東海道線の国府津駅近くの精米所の外にある看板に、大きく書かれています。米は日本の主食です。その米が、私たちの体に力を与えてくれる、ということを表しています。
 もし、2000年前、イエス様の時代に看板があったら、同じ意味を込めて、「パンは力だ」と書かれていたことでしょう。
 私たち人間には、力と命のエネルギーを与えてくれる食物が必要です。
 高校生のころ、同級生とハイキングに行った時のことです。私は寝坊してしまい、朝ご飯抜きで、ようやく集合に間に合いました。最初はお腹が空いている程度でしたが、そのうち力が足らなくなり、めまいもするようになってしまいました。もう、それ以上、進めません。同級生たちは、一休みしてくれて、皆それぞれ、何か食べました。おかげで、私はエネルギーを回復することができました。まさに、食べ物はエネルギーであり、力であり、欠かせない栄養なのです。
 イエス様が下さるご聖体は、パン(つまり食べ物)の形をしています。この聖なるパンは、イエス様ご自身です。この聖なるパンによるエネルギーと心の力のおかげで、私たちは人生の旅路で、イエス様のあとを歩んでいくことができるのです。私たちの新子安教会の玄関の窓にある、小さな四角いステンドグラスを、もう一度、よく見てください。イエス様が、私たちの手をとり歩いています。イエス様が、私たちの力なのです。
 ご聖体でイエス様が私たちに下さる力と勇気は、今日の第一朗読(列王記上19:4)にあらかじめ示されています。邪悪な王妃イゼベルがエリヤを殺そうとします。エリヤは荒れ野に逃げ、空腹をかかえ、すっかり元気を無くして、「もう十分です。わたしの命を取ってください。」と言いました。そのエリヤは、天使からの食べ物を食べ、力と励ましを受けて、旅を続けたのです。
 この地上での時は、私たち人間にとって非常に大切であることを、しっかり受け止めましょう。永遠の生命に入る準備なのです。でも、このとても大事な準備には、私たち人間の努力だけでは十分ではありません。神様の助けが必要です。イエス様が、ご聖体で、その助けと力をくださいます。「私は、天から下ってきた生きたパンである」-イエス様の言葉です。(相田)

年間第18主日 B年 2018年8月5日

聖書朗読:出エジプト16:2-15; 詩編 78; ヨハネ 6:24-35
 今日の第一朗読(出エジプト記16章)を見ましょう。これは、ユダヤ人がエジプトでの過酷な奴隷状態から逃れた直後の場面です。彼らは荒れ野でモーセに「飢え死にしそうです!」と不平を言いました。主は天から白い粉のようなものを降らせました。ユダヤ人たちはそれを見て「これはいったい何だろう?」と訝しがりました。ヘブライ語では「マン・ハ」または「マンナ」と発音します。この「これはいったい何だろう?」を今日の祈りのテーマとして考えてみましょう。
 一つ目に、食卓に着いた時。「これはいったい何だろう?」と考えましょう。主の祈りの中で、「天におられる私たちの父よ…私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈りますね。私たちの日々の食卓に上る食物は、多くの人の労働の実りです。しかし、それらは基本的に神様からの頂きものです。神様に感謝しましょう。「食前の祈り」は美しく、ふさわしい祈りです。
 二つ目に、ごミサの聖体拝領の前に。自分自身に問いかけましょう。「これは何だろうか?」
この神聖な糧はイエス様ご自身です。イエス様は私たち一人ひとりに、生きている声で言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(今日の福音:ヨハネ6:35)
 立ち止まって静かに自分自身を見つめると、私たちは、心の奥にある深い飢えと深い渇きに気付きます。私たちは皆、奥深い希望を持っており、イエス様は、ご自身こそが私たちのこの最も深い憧れを満たしてくださる方だと教えておられます。
 ご聖体のうちにおられるイエス様は、何より素晴らしい贈り物です。ご聖体は人生を喜びのうちに歩むための支えであり、力であり、勇気です。私たちのこの希望と喜びを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

年間第17主日 B年 2018年7月29日

聖書朗読列王記 4:42-44; 詩編 144; ヨハネによる福音書 6:1-15

 古代教会では、ヨハネによる福音書6章をミサについて教えるために用いていました。
 わたしたちはイエスの言葉を聞くために今日このミサに集っています。聖書朗読を聞きます。聖書を通じイエス自身が語られます。
 わたしたちは人生の糧を頂くためにミサに授かります。5つのパンを増やし5000人の男性(さらに少なくとも5000人の女性と子供たち)に与えることで、イエスは自然を超える力を持っていることを示されました。ミサではイエスの力により、パンはイエスご自身へと変化します。これがご聖体たるゆえんです。「命のパン」このパンはイエスご自身です。
 今日の福音書の意味深い場面において、イエスは感謝し、パンを割き、集まっている人たちに与えました。これはまさに今日のミサでイエスが行われていることです。自分に問いかけてみましょう。イエスがくださった贈り物をわたしたちはわかっているでしょうか?ご聖体という贈り物をくれたイエスに感謝しているでしょうか?他の人と共に唱える祈りには心がこもっているでしょうか?それとも機械的に唱えているだけでしょうか?
 今日の福音書の朗読には2つの小さいけど興味深い次の点があります。
①少年は5つの小さなパンと2つの干した魚という自分の食べ物を提供しました。少年はイエスに気前よく差し出しました。イエスは少年に報いました。自分自身と日々の仕事を差し出すことはミサの一部分です。
②食事をして満腹した後、イエスは12人の弟子に残り物を集めるように命じました。福音書(また第一朗読のエリシャでも)では、残り物を集めたら12のかごがいっぱいになりました。このことは、聖書において神様の気前の良さを表しています。新子安教会では月の初めにお米を集めて困っている人たちに届けています。私たちは神様に感謝しているでしょうか?また他の人に物惜しみしていないでしょうか?(薩田)

年間第16主日 B年 2018年7月22日

聖書朗読:エレミヤ 23:1-6; 詩編 23; マルコ 6:30-34
 今日朗読の聖書のテーマは、私たちの牧者としてのイエス様です。私たちは、イエス様に愛され、優しく導かれ、見守られる羊なのです。イエス様によって、エレミヤの預言、そして詩編23が実現されました。
 私たちの牧者であるイエス様は、今日、私たちがイエス様と一緒に、静かな所で憩うように導かれます。祈りの中でイエス様と話すことを通して、精神的なエネルギーを回復させ、日々の生活に味わいを感じられるのです。
 イエス様は、今、日本の私たちを見ています!私たちの生活の中に、物質的豊かさや出世への偏りを見ています。でも、それだけではなく、深い心の飢えや、心の渇きを、日本の中に見て感じています。たった今も、イエス様は私たちに深い慈しみを感じておられます。私たちの所に来て助けようとされていますが、それには、私たちが心の中でイエス様を迎えようとしなければなりません。
 今週、日々が忙しい中でも、静かに、ゆっくり、とてもゆっくりと、詩編23(主は我らの牧者)を読み、祈りましょう。詩編23は、イメージを描いている詩です。言葉通りに読むのではなく、その雰囲気の中に入っていきましょう。自分が砂漠の中で迷子になった羊だと想像してみてください。とても、のどがかわき、疲れているでしょう。もし、闇の中にいるなら、勇気を出しましょう。優しい牧者であるイエス様がそばにおられるのですから。イエス様は、私たちを悪から守ってくださいます。さあ、親切な羊飼い、牧者であるイエス様の家に入りましょう。イエス様の家にいれば平安で、安全です。
 イエス様は、彼の羊である私たち一人一人に、家族、親戚、友人、出会う人すべての中に入り、親切で優しく導いてくれる牧者であるイエス様の愛と慈しみを分かち合うよう呼びかけています。さあ、平和と喜び、そして愛の道具となりましょう。私たちの日々の生活に、イエス様が意味を与えてくださいます。(相田)

年間第15主日 B年 2018年7月15日

聖書朗読:エフェソ1:3-14; 詩編 7:12-1マルコ16:7-13
聖パウロはエフェソへの手紙で:「愛してくださる父である神は愛する子どもになるよう私たちを選び、祝福と賜物を惜しみなく注いでくださった。」「なぜ神は私たちを選んだのでしょうか。この賜物を他人と分かち合うために選んだのです。(決して、エリート集団となるためではありません。)」私はとても普通だといえるでしょう。私には分ちあう資格がありません。そうです。資格がなく弱いことを認め、神の助けに信頼しましょう。アモスと12使徒は私たちのモデルです。
紀元前750年に、北王国(イスラエル)に行き、神の道をはずれた人々に呼びかけるため、アモスという農夫を呼び出しました。景気がいい時に、神よりも物質的なものを選びました。世の知恵から見れば、アモスは預言者にふさわしくない。違う王国(ユダ)に住む貧しい農夫にすぎない。しかし、神はその雄弁と力に頼れと彼に言います。神は彼を送りました ― 力と能力を与えて。
イエスは漁師と徴税人を12使徒に選びました。イエスの道を教える学識や雄弁といった資格を持っていません。でも送ったのがイエス自身なので、使命を果たすための力と言葉も与えました。物質的なものに頼らないよう言いました ― パン、財布、お金、着替えを持つなと。イエスは言います:「私の平和の道具になりなさい。私はいつもそばにいて力を与える。いうべき正しい言葉を与えよう。」「ほほえみは平和のはじまり。」(マザー・テレサ)
イエスは私たち一人一人に私たちの小さな社会に証人、預言者、宣教師となるよう送ります。私たちはイエスが惜しみなく注いだ賜物を分かち合います – 家で、職場で、学校で、アパートで、店で出会うすべての人と。たとえば、温かい微笑みをスーパーのレジ係りに感謝するでしょうか。いじめられている人を支え、勇気づけるでしょうか。イエスの送り物は毎日のためです。私たちを助けてくださいます。(中里)

年間第14主日 B年 2018年7月8日

聖書朗読:Ⅱコリント12:7-10 詩編123 マルコ6:1-6

私たちの信仰に「奥義」があります。イエス様はどのようにして、神でありながら真の人間なのでしょうか?これが奥義です!しかし、イエス様は100%真の神であり、100%真の人間であり、「自分を無にして…人間と同じものになられました」とフィリピの信徒への手紙2章7節に記されています。この「無にして」は、原語であるギリシャ語では「KENOSIS」です。イエス様は(神様でありながら)、天の栄光と力を脇に置いて、この世にお降りになりました。真の人間となられたイエス様は、ご自分の力ではなく、父なる神様の力に頼りました。奇跡を行う力も父なる神様からいただきました。
イエス様を知る上で最も大切なことは、イエス様が人間になられた時に、人間の本質を(限界も含めて)すべてその身に帯びて来られたということです。イエス様は、人間の弱さ、誘惑(罪以外は)をすべて体験なさいました(ヘブライ人への手紙4章15節~5章2節)。これは、私達の祈りの相手であるイエス様を知るために、とても大切です。イエス様は、苦しみ・拒絶による傷・裏切り・心の痛みを体験なさった、私たちの同伴者です。ですから私たちは、恐れることなく大胆にイエスに近づきましょう。

今日の福音を例に考えてみましょう。イエス様は故郷であるナザレトにお戻りになりました。途中の村々では、ペトロの姑、らい病の人、中風の人、先週の福音に出てきたヤイロの娘、出血の止まらない女性を癒し、治されました。イエス様のなさった優しい神様の教えは人々の心に届き、イエス様は評判の説教者になっていました。今日の福音でイエス様は故郷の会堂で「神の愛」を教え、これを聞いた人々は「このような知恵と奇跡の力はどこからきたのだろうか」と驚きました。これは正しい疑問です。(そして、正しい答えは『神様から来た』です)
しかし、傲慢で偏見を持っていた彼らは「この人は、ただの大工ではないか」と言いました。イエス様に一番近い、親戚や友人たちもイエスを拒絶したのです。あなたは拒絶された経験はありますか?誰かのためにしてあげたことを、当たり前のような態度で感謝されない経験、受け入れてもらえない経験はないですか?100%人間であるイエス様は、実際に「拒絶」を経験なさいました。イエス様は、特に私たちが傷つき苦しんでいる時に、私たちの傍で同じように感じておられます。今日も、生きている声でイエス様は私たち一人ひとりにこう仰います。「疲れている者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげよう」と。(北尾)

年間第13主日 B年 2018年7月1日

聖書朗読:知恵1:13-2:24; 詩編 30; マルコ 5:21-43
 過去や今の生き方において失望を感じたことがありますか。人生の半分しか生きていない感じがしていませんか。強い信仰を持っていますか。今生きていることに喜びを感じていますか。今の生き方を楽しんでいますか。活力を失っていませんか。
 神様は私たちに命を与えてくれます。天国での永遠の命ばかりでなく、今現在の命もです(第一朗読 知恵の書)。
 詩編30はこのテーマを引き継ぎます。「神よ、あなたは死の国からわたしを引きあげ、危ういいのちを助けてくださった。… 夜が嘆きに包まれても、朝は喜びに明けそめる。神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、わたしの助けとなってください。あなたは嘆きを喜びに変えた。」私たちがこの世に生きる間、この神様からの命はもたらされます。
 福音書の二つの奇跡は、イエスが12歳の少女と12年間出血に苦しんでいた女性に新しい命を与えたことを示しています。これらの二つの奇跡は二千年前の歴史的なできごとです。すべての奇跡には苦しんでいる人へのイエスの慈しみがその背景にあります。今日でもイエスの慈しみを味わうことができます。イエスに触れましょう。イエスに出会いましょう。
 多くの人はイエスを身体に触れていましたが、出血の女性のみ心の中でイエスに触れました。苦しみの中で女性は本当のイエスに出会いました。私たちは祈りの中で本当にイエスに触れているのでしょうか。祈りを通じてイエスに出会う時間を作っているのでしょうか。イエスに出会うために福音書を読んでいるでしょうか。ミサの中では自分自身の言葉でイエスに語り掛ける沈黙の時間があります。困難なことばかりでなくイエスが与えてくれた良いことにも感謝の言葉を述べましょう。また自宅でもイエスと語りましょう。イエスはあなたのそばにおられます。
 イエスは私たちに触れ精神的な活力という新しい命をくださいます。イエスはわたしたちにイエスの命をもとに他の人に触れあうことを求めています。(薩田)

洗礼者聖ヨハネの誕生 B年 2018年6月24日

聖書イザヤ 49:1-6; 詩編 139; 使徒言行録 13:22-26; ルカ 1:57-66、80
 今日は、洗礼者聖ヨハネの誕生を祝います。洗礼者ヨハネには、約束の救い主イエス様を人々が迎える準備をする、という使命が神様から与えられていました。そうです、聖ヨハネはたしかに特別ですが、手の届かない人と思わないでください!聖ヨハネは、私たち普通のキリスト者が手本とすべきモデルです。私たちは一人のこらず、この世で果たすべき特別な使命を、神様から与えられています。今日の朗読の聖書から、神様からの呼びかけに対する答え方を学びましょう。
 イザヤは、神様は遠く離れた方ではないと言っています。私たちの神様は、私たちを、一人一人、名前で呼びかける方です。神様は、愛のこもった声で、一人一人の名を呼びます(イザヤ 49:1)。詩編139には、慈しみに満ちた神様が、両親を通して私たちに生命を与え、私たちを造ったとあります。ですから、神様は、私たちの弱さを全てよく知っておられ、それでもなお、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。神ご自身が、私の心身を決めたのです。ですから、他の人と比べて自分を低く見るようなことや、自分を嫌ったり、劣等感を持ったりすることは、やめましょう。私を作られた神様が、私を美術作品のように貴重と思われているのですから、その神様の見方に従いましょう!
 神様は、私たちそれぞれに、この世で果たす、ある特別な使命を授けています-例えば、父、母、祖父、祖母、そして、結婚しない人にも特別な使命を。ですから、私たちには、家庭の主婦、事務所や工場での仕事、先生や学生のように、するべきことがあります。そして、友情や励ましや様々なことを他の人に与えます。神様に示されたこれらの使命を見ると、特別な味わいがあります。そして、これが重要なのですが、神ご自身が、これらの使命を果たす強さを与えてくれるのです。「わたしの神こそ、わたしの力」-今週は、イザヤ49:5のこの励ましの言葉を深く味わいましょう。(相田)

年間第11主日 B年 2018年6月17日

聖書:エゼキエル17:22-24; 詩編92; マルコ4:26-34
 今日、立ち止まって、静かに内にある本当の自分に直面しましょう。自分に次のように問いましょう:「私の将来はどんなものだろう」
 さあ、今日の聖書を見ましょう。エゼキエルは異国の地(バビロン)で囚人-奴隷になっているという暗闇の中にいる絶望した人々に神のメッセージを運びました。エゼキエルのたとえは絶望した人々に神が新たな命を与えることを告げました。エゼキエルは神のメッセージを告げました:「希望を持て。私はお前たちを愛している。」「希望を持て。私を信じよ。私はお前たちを愛し、守る。」
 神様は今日も、同じ勇気づけるメッセージを私たちに送っています。
 ある人は年を取って、疲れてエネルギーがなくなり、がっかりしています。今日の詩編92は年寄りに勇気と希望と慰めを与えます。「主に感謝をささげるものは…年をとっても実を結び、生き生きと生い茂る。」これは神に結ばれて生きるとき、体は老いても心は若い喜びと希望に満ちていることを意味します。何という約束でしょう。何という将来でしょう。
 エゼキエルのたとえは巨大な杉の木からとられた挿し芽でした。挿し芽がふたたび地に植えられると、時と共に新たな命を得て大きな木になります。イエスさまも同じようなたとえを話します。一粒の麦を地に植えると、麦が新たな命を得るという神の計画です。同じように、からし種は砂粒ほどの大きさです。でも種は内に命を持っており、木になります。その木に鳥が巣を作ります。神は自然の中に働いていらっしゃいます。神を私たち一人一人の中でも働いていらっしゃいます。神は私たち愛してくださいます。守ってくださいます。今日の聖書は、私たちの将来のために慰めと希望を与えてくれます。愛してくださるか神に信頼しましょう。素晴らしい心づかいに感謝しましょう。年を取って死が近づいていても、「私たちは信頼に満ちている。」(第2朗読)神は私たち一人一人を100%愛してくださいます。これが私たちの希望の基礎です。この希望を他人と分かち合いましょう。(中里)

年間第10主日 B年 2018年6月10日

聖書:創世記3:9-16、詩編130、,Ⅱコリント4:13-5:1、マルコ3:20-35
今日の第2朗読でパウロは、この地上で私たちの生活がとても短いことを伝えています。この地上での私たちの住みか(肉体)は(死によって)無くなりますが、神様は私たちのために、終わることのない家を天国に建ててくださいました。私たちの死はすべての終わりではありません。神様と共に、平和と幸福の内に生きる、新しい命の始まりです。
人生の旅路で、私たちは苦しみや試練、誘惑に会うでしょう。私たちは神様の愛に応えず、罪を犯し、失敗してしまいます。自分の虚栄心を認めましょう。(第一朗読の創世記のように)誰かのせいにしないでください!私たちが自分の弱さを謙遜に認めれば、神様の慈しみと愛、そしてゆるしを味わうことができます。今日の答唱詩篇-130-は素晴らしく、励ましとなります。
福音にはイエス様が経験された、いくつかの苦しみが書かれています。イエス様は「神の愛」を伝えるために、この地上に来られました。しかし、真っ先にイエス様を受け入れるべきだったのに、祭司たちはイエス様を否定しました。彼らはイエス様のなさった奇跡を見ることも受け入れることも拒否したのです。さらに、イエス様ご自身の身内も「イエスは気が変になった」と考え、「家に帰って普通の大工になりなさい」と言いました!ヨハネの福音に書かれているように「言(イエス)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1章11節)のです。イエス様は100%神でしたが、同時に100%人間でした。イエス様は「受け入れられない」ことをしみじみと感じる経験をなさいました。
私たちが、受け入れてもらえない、嫌われる、認めてもらえないなどの辛い体験をしたら、イエス様に話しにいきましょう。イエス様は私たち人間のことを分かっておられます。
イエス様は「拒絶」を使って(通して)、今日私たちにこのことを伝えています「あなたは私の家族、私はあなたの兄弟です。私のもとに来なさい、休ませてあげよう。共に人生の道を歩みましょう。私は、あなた達人間の弱さに力を与え、天国で永遠の喜びを与えます。」神様は私たちを愛しておられます。その愛を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

キリストの聖体 B年 2018年6月3日

聖書:出エジプト記 24:3-8; 詩編 116; ヘブライ人への手紙 9:11-15; マルコ 14:12-26
 
今日の3つの聖書朗読のキーワードは「契約」です。契約は、人と人(もしくは組織)どうしで行われる重要な約束です。お互いが約束するのです。
 文化によっては、血を用いることで、契約をより確実なものとします。例えばアメリカン・インディアンの間では、部族長どうしが親指を少し切りそして血を混ぜることで契約はさらに重要なものとなります。血の兄弟となり平和が作られるのです。江戸時代の日本では、血判が行われていました。
 イエスは最後の晩餐で種無しのパンを取り「これはわたしの体である」と言われました。ギリシャ語の原典では、体は‘ソマ’すなわち‘私自身’と書かれています。聖体拝領するとき、私たちはイエスご自身が私たちの心の中に入ってくると信じています。
 ご聖体の中のイエスは、福音書で出会う優しいイエスと全く同じです。イエスは、優しく、話しやすく、わたしたち人間の弱さを理解される方です。イエスはありのままのわたしたちを受けいれてくれます。イエスはわたしたち一人一人を愛してくださいます。
 最後の晩餐でイエスはぶどう酒の入った杯を取り、「これは新しい契約の私の血である」と言われました。血とは命です。もし病気の人がほかの人から輸血を受け病気を快復すれば、新しい命を受けたことになります。
 契約とは相互の約束です。イエスはわたしたち一人一人と神聖な約束をしています。イエスは約束します。「私はいつもあなたと共にいる。あなたから離れたり縁を切ることは決してない。私はあなたを守る。」このイエスとの約束をよく考えましょう。そしてイエスに約束しましょう。「イエスよ。あなたを信頼します。わたしの人生をあなたの手に委ねます。」
 カルバリの地で十字架の上での血により、イエスは契約を確実なものにされました。
 主の食卓に招かれたものは幸い。(薩田)

三位一体の主日 B年 2018年5月27日

聖書:申命記 4:32-40; 詩編 33; ローマ 8:14-17; マタイ 28:16-20
 「キリスト教の神様」とか「仏教の神様」、あるいは「イスラム教の神様」のような言い方を聞くことがあります。でも私たちは、ただ一人の神様がいると信じています。イエス・キリストが、このただ一人の本当の神様について教えてくれたと信じています。他の宗教は、神様について部分的に啓示しています。この啓示は違う訳ではありませんが、部分的-つまり真実の全てという訳ではありません。しかし、私たちキリスト教徒は、一つの本当の神様の内なる生命の中に、父と子と聖霊がおられると信じています。「一つの中に三つ」-これは矛盾でしょうか?いいえ、これは奥義です。これが全能の神ご自身の内なる生命なのであって、私たち人間には、この深みは知りえないのです。
 私は個人的には、20年ほど前までは、三位一体について、あまり考えていませんでした。理解できなかったので、三位一体について考えたり祈ったりすることを避けていました。東京の上野毛での黙想会で祈りの分かち合いをしているときに、私に回心がやってきました。よく学んでいる人の話を理解できないでいると、ある人がこんな風に言ったのです:「私は私たちの信仰の奥義を大切に思います。祈りの中で、私はただ、三位一体、つまり父と子と聖霊の中に入り、そこにある愛を味わい、楽しく過ごしています。」これを聞いた私の心に、「なるほど!」という思いが大きく響きました。
 イエス様は、三位一体の神様について教えてくださいました。優しく、思いやりのある「アッバ(お父ちゃん)」がいる。父なる神は、本当にご自身の子どもとして、私たちを大切にしてくださいます。御子は、私たちと同じように人となり、神様がどれほど私たちを大切にしているかを示されました。イエス様は自分の命を犠牲にして、平安と幸福、そして、私たちの人生に意味をもたらしてくださいました。聖霊は温かい愛で、私たちを導き、力づけ、慰めてくれます。さあ、皆さん、祈りを通して、この素晴らしい愛の中に入っていきましょう。そして、他の人々と愛を分かち合いましょう。(相田)
 

聖霊降臨 B年 2018年5月20日

聖書使徒たちの宣教1-11; 詩編 104; ヨハネ15:16-16:15
 使徒たちの宣教1:14で、使徒とイエスの母マリアと多くの男女を含む120人が2階で祈っていたことを読んだ。この120人を想像してみよう。彼らは最初の教会です。9日前に、イエスは昇天しました。最後の命令として、イエスはこの120人に他人に神の平和と愛をもたらすために、自分自身の家庭と世界の果てまでにも行くようにといいました。焦点の9日後、このグループはイエスを殺したユダヤの指導者への恐れでいっぱいでした。証人になることはまったくできないと感じていました。こう感じたので、聖霊に一生懸命祈りました。イエス様は勇気と導きをあたるために聖霊をそばに送ることを約束なさいました。彼らは祈り、のぞみを持って待ちました。
大きな風の音を聞き、一人一人の頭の上に炎を見ました。イエスが約束された聖霊が来たのです。恐れを忘れ、臆病さは消えました。正しい言葉が与えられました。これは2000年前のことです。
今日も私たちはイエスの証人として呼ばれています – 自分の家庭で、住んでいるところで、職場で、友達の中で、学校で。イエス様は私たち一人一人が証人となり、平和の道具となるよう求めています。しかし、よく心に留めましょう! イエス様は助けて、聖霊を私たち一人一人に送ってくださいます。聖霊は私たちにイエス様のこの仕事のための力と導きと勇気を与えてくださいます。それに合ったことばも。
聖霊はイエス様のための働きで力と導きを与えてくださいます。毎日の平凡な仕事でも。たとえば、母や父として、労働者として、学生として。自分の弱さと無力さに知識を願いましょう。イエス様に聖霊を送るよう願いましょう。(中里)

主の昇天 B年 2018年5月13日

聖書:使徒言行録1.1-11 マルコ16:14-20
2000年前、イエスは弟子たちに、「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われました。今日、イエスは生きている声で私たちにこう言われます。「あながたは、自分自身の小さな社会(所属しているグループ)に行って『神は愛である』という福音を分かち合いなさい。」
今日の福音「全世界に行って福音を…」と命じられる直前の箇所であるマルコ16章14節には、こうあります。「イエスはその不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」
弱い信仰とかたくなな心にもかかわらず、イエスは彼らに福音を宣べ伝えることを委ねられました。いいえ!「にもかかわらず」ではなく「のため」でした。聖書全体を通して神様のために働くために呼ばれた人々の共通点は、自分(人間))の弱さを知り、力と勇気をくださる神様に頼っていることです。例えば、アブラハム、モーセ、ギデオン、イザヤ、エレミヤ、聖母マリア、ヨゼフ、ペトロなど。
今日のみことばがとても重要である理由は、20節の「主は彼らと共に働き」にあります。私たちが自分の小さな社会(家族、学校、職場、友人など)で、「神はすべての人を愛してくださる」という福音を分かち合うとき、主イエスはあなたと私の間に働いておられます。
しかし、私たちの信仰生活と日常生活は別々の世界ではなく、一つです。私たちには誰でも、母親、父親、独身者、学生、子供という使命があり、また、(広い意味での)退職した人々や、寝たきりの人、引きこもりの人たちにも必ず何かの使命があります。
「日曜日だけの信者」にならないでください!イエスをあなたの日常生活に招いてください。祈りを通してイエスとつながっていてください。自分一人の力では使命を果たすことはできないと、イエスに助けを求めてください。私たちの神、イエスは私たちと共に働きたいと思っておられます。そのことが私たちの人生と使命を励ましに満ちた「味」にしてくれます!イエスは今日も生きていて私たちと一緒におられます。この贈り物を他の人と分かち合いましょう。(北尾)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional