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主日の説教

主日の説教

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年間第24主日 B年 2021年9月12日

聖書:イザヤの預言50:5-9 詩篇116 使徒ヤコブの手紙2:14-18  マルコ8:27-35
 今日の第一朗読(イザヤの預言50章5-9節)を深く考えましょう。イエス様はこの預言の実現です。イエス様はローマの兵士達からあざけりを受け、拷問を受けました。しかし、イエス様はこの苦しみを、私たちを愛しているが故に甘んじて受け入れたのだということを決して忘れてはいけません。この苦しみを通して、イエス様は私たちが神との親しい関係を持つことを勝ち取ってくださったのです。しかしこの苦しみはまた、私たち自身が苦しみに出会う時に(それは人生の一部です)、復活したイエス様、私たちの神が、いつも傍にいて力と励まし、平和を与えてくださるということをも示しています。「主なる神が助けてくださる」(イザヤ50章7節)
コロナウィルスによる「緊急事態」がまだ続いている中で、このメッセージは特に重要です。
 福音書の中でイエス様はペテロに、そして今日の私たちに個人的な問いかけをしています。「私は、あなた自身にとって何者ですか?」私たちはどのように答えるでしょうか?ペテロは最初、イエスが約束された救世主として、その支配する力を使ってローマの征服軍をイスラエルから追い出してくれるだろうと間違った考えをもっていました。イエス様はペテロに、そして私たちに、ご自分が魂を救うために、そして、特に私たちが苦しみに出会った時に、平和と希望、力と励ましを与えるために来たのだということを仰っています。
 イエス様は今日私たちに仰っています。「自分の十字架を背負って私に従いなさい。」この‘十字架’は私たちが人生の中で出会う苦しみです。繰り返し言います。何故ならこのメッセージは本当にとても重要だからです。私たちが苦しみ、心の痛みや、あるいは身体の痛みに出会う時、私たちは決して、決して一人ぼっちではありません。復活したイエス様がいつも私たちの傍にいて、支え、力づけ、そして私たちを励まして下さいます。
 私たちの神である復活したイエス様のところへ、祈りの中で行きましょう。そして、イエス様に自分の言葉で話しましょう。イエス様は聞いて下さいます。今日の詩編116にあるように、「主は私が求める時、耳を傾けて下さる。」
 特にこのコロナ禍においては、私たちは自分の家で、祈りの中で、イエス様に出会いましょう。そして他の人のために、イエス様の励ましの道具になりましょう。(翻訳担当:三村)

年間第23主日 B年 2021年9月5日

聖書:イザヤ35:4-7; 詩編46;ヤコブ2:1-5;マルコ7:31-37
また緊急事態宣言が出されています。コロナ感染の第5波で、これまでで最悪と言われています。日本では16,000人以上がコロナで亡くなりました。私たちは「ステイ・ホーム」が求められています。制限されていると感じていますか?孤独ですか?コロナの感染を恐れていますか?あなたは第1朗読でイザヤが言うような「心おののく」感じがしていますか?それはどのくらいでしょうか? 少し?それとも かすかに?
あなたが少しでもそのように感じるとき、神様は私たちにこう言われます。
「恐れるな、見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる」
そして詩篇146には「主はうずくまっている人を起こされる」とあります。
私たちは「希望」の民です。
私たちは本当に本当に、神ご自身からの これらの励ましのみ言葉を聴いているでしょうか?私たちの生活は多くの雑音で溢れています!私たちは(表面的に)言葉を聞くことができます。これらの言葉は私たちの耳に入りますが、私たちの心には入ってきません。聖書で神様からのメッセージを読むとき、私たちは皆「聴くことのできない、心の耳を持たない」人です。私たちに光を与え、私たちが「聴いて」「理解する」ためには、神様ご自身が必要です。今日の福音で、イエス様は聞こえない人を癒します。福音史家マルコは、イエス様が実際に使われたアラマイ語「エッファタ」すなわち「開け」と記しています。祈りの中で、イエス様が私たちの心の耳を開いて「雄々しくあれ!恐れるな」「疲れている者、重荷を負う者は皆、私のもとに来なさい」という励ましのみ言葉を聴かせてくださるように願いましょう。

福音の、この「奇跡」の背景を確認することはとても大事です。イエス様はユダヤ人でない人のためにイスラエルの外でこの奇跡を行いました。当時、多くのユダヤ人は「約束された救い主は、自分たちだけのためのお方であるべき」と考えていたのです!彼らは苦難の時代を神様に従って歩んできた(と自負していた)からです。イエス様は、神様の愛と賜物は地球上のすべての人のためのものであると、ご自身の行いによって教えておられます。私たちは様々な方法・形で神様から賜物を与えられてきました。神様のこの寛大さと私たちへの愛に感謝し、この賜物を他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:北尾)

年間第22主日 B年 2021年8月29日

聖書: 申命記 4:1-8; 詩篇 15; ヤコブの手紙 1:17-24; マルコ 7:1-8
 「近くにおられる わたしたちの神」(申命記4:7)この言葉は、わたしたちの日常生活でとても大切な言葉です。わたしたちの神様は、空の上の離れたところにおられる方ではありません。イエスは、このメッセージを繰り返しわたしたちに伝えています。「怖れるな わたしはあなたと共にいる」この「共に」という言葉は意味深いものです。教皇フランシスコは、同じメッセージをはっきりとした書き方によって語っています。「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うためにいのちをささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます。」(福音の喜び#164)イエスが共におられることは、神様の存在をとても近いものにしてくれます。
 復活されたキリストは近くにおられます。わたしたちは、復活されたイエスを身近に感じているでしょうか。「神様は、その名を呼び求めるすべての人のそばにいます。」祈る人にとっては、神様は近くにおられるという素晴らしい事実を理解するようになります。  
 祈りには二種類あります。
①第一に決まった文章の祈りがあります。イエスからは、主の祈りを教えられました。またミサやその他決められた祈りがあります。とても大切な祈りです。特に皆で集まり祈るときに唱えます。
②二番目は対話の祈りです。友であるイエスに対し自分の言葉で語りかけます。イエス自らわたしたち一人ひとりに対し、「わたしはあなたを友と呼ぶ」と言われました。(ヨハネ15:15)イエスはわたしたちの友であり、また神様としてわたしたちの全てを知り、ありのままのわたしたちを愛し、受け入れてくださいます。ですからこのような祈りをする際は、着飾らないように心がけましょう。そしてありのままの姿で大胆にイエスのところに行きましょう。イエスは今日の福音書の中で、偽善と心を込めず口先だけの祈りをすることがないように注意しています。対話の祈りでは、感謝し全ての心配事や罪をイエスにさらけ出しましょう。イエスは語ります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
 イエスの力と励ましを他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)

年間第21主日 B年 2021年8月22日

聖書:ヨシュア記24:1-18 詩篇34 エフェソの教会への手紙5:21-32  ヨハネ6:60-69
 今日の聖書朗読は、「人生をどのように生きるかという大事な選択をするように」と呼びかけています。
 荒れ野での40年にわたる困難な生活の後、民は約束された地で定住していました。彼らは比較的栄えていました。困難な荒れ野という環境の中で、民は唯一なる真の神を信頼していました。しかし繁栄するうちに、彼らは神を忘れがちになっていきました。彼らは異教の神、物質的な豊かさを与えると信じられている神、バール神を崇めるようになっていました。ヨシュアは、12部族を一同に集めてこのように呼びかけました。「選びなさい!あなた方はバール神を選ぶのか、それとも唯一真の神を選ぶのか?唯一の神かそれとも他の神なのか?」彼らは答えました。「私たちは、唯一真の神、主を選びます。」
 イエス様はカファルナウムでユダヤの民に、彼、神であるイエスが、一片のパンの中に生き続け、いつもその人の内にいると言いました。弟子たちの多くのものは言いました。「そのようなことはあり得ない。私たちはそのようなことを受け入れ、信じることは出来ません。」そうして、彼らはイエス様のもとを去っていきました。そこでイエス様は12人の弟子たちに向かって言いました。「あなた方も離れて行きたいか?あなた方は選択しなければならない。」
 12人の弟子たちの代表者であるペテロが答えました。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか?あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。私たちはあなたを選びます。」
 今日、私たちはご聖体の奥義を深く考えましょう。一片のご聖体の中に、イエス様、復活したキリスト、私たちの神様が、確かに生きておられ現存しています。私たちはこのことを本当に、本当に信じているでしょうか?イエス様はペテロに、そして今日私たちに、このことを信じるだけでなく、父である神に私たちの心を照らしてくださる光を願うことが必要だと語りかけています。信仰は神様からの恵みです。信仰を願いましょう。私たちの父である光の神と力を合わせましょう。神様は喜んで私たちを助けてくださるでしょう。
 イエス様は私たちに、「私はあなたといつも共にいる」とおっしゃっています。ご聖体において、あのパンの中でイエス様は、天国での永遠の幸福に導く人生の道を歩むための聖なる食物として、力とエネルギーとして私たちと共にいてくださるのです。「イエスよ、主よ、神よ、私はあなたを選び信じます。どうぞ私を助け、私の信仰を強めてください。」と祈りましょう。
 「イエスの食卓に招かれた者は幸い。」
特にこのコロナ禍の寂しさの中で、私たちの幸いを他の方々と分かち合いましょう。              (翻訳担当:三村)

聖母の被昇天 B年 2021年8月15日

聖書:黙示録11:19、12:1-10; 詩篇 45; 1コリント15:20-27; ルカ1:39-56

マリアの被昇天の祝日の序文に、被昇天は巡礼者である私たちにとって「確かなしるしと慰め」であると書かれています。この祭日はマリアを称えるためですが、この世で生きる目的が無事に天国の門にたどり着くことであることを私たちに思い出させるためでもあります。
私たちは、死んでからよみがえり、再び天に召されたイエス様と結ばれています。イエス様に結ばれていることは、私たちの運命でもあります。マリアは御子の復活の初穂です。想像してみてください。イエス様が天国の門におられ、お母様、使徒たち、そして死んだ人たちの長い列を迎え入れ、それが私たちの時代まで続いているのです。私たちは今、その重要な列に加わる準備をしているのです!自分自身に問いかけてみましょう:私たちの準備はどうでしょうか?
死は、生きていることの終わりではなく、幸せな永遠の生の新たな美しい始まりです。だからこそ、私たちは祈るのです。「神の母、聖マリアよ、私たち罪人のために、今、そして私たちの死の時にも祈ってください。」
マリアを尊敬する一番良い方法は、彼女の模範に従うことです。マリアは大きな苦しみの時に神を信頼しました。今日の福音(ルカ1:39-46)にあるように、マリアは他の人に親切で思いやりがありました。イエス様の母となることを承諾した後、マリアは自分の都合や忙しさにかまわず、年老いて身ごもったいとこエリザベトを助けるため、勇気を持って長い旅に出たのです。コロナ時代の私たちは、どのように人を励ますことができるでしょうか?手紙で?電話で?人のために祈ることができます。
御子の昇天の後、マリアは始まったばかりの教会の共同体と一緒に祈り、聖霊が皆に降りてきて、神の愛の証人となるよう彼らを強めました。マリアは今でも私たちと一緒に祈っています。「聖なるマリアよ、私たち罪人のために祈ってください、今も、私たちの死の時も、アーメン。」
追記: 8月15日はお盆で、今年亡くなられた方には新盆でもあります。キリスト教では、死んだ人の魂は戻ってくるのでしょうか?実際には、亡くなった人はまだ私たちの近くにいると信じています。私たちは彼らのために祈りますし、彼らと話すこともできます。「ありがとう」と言うこともできるし、もし彼らがこの世にいる間に何か足りなかったことがあれば、今「ごめんなさい」と言うこともできます。
葬儀ミサの教会典礼に「死は私たちと死者との関係を断ち切るものではない」とあります。これは古くからの信仰宣言に述べられており、私たちは「聖徒の交わり」を信じています。この「聖徒」とは、生きている人と死んだ人がつながっていることを表しています。聖書には、「死者のために祈ることは、立派で高尚な行い」と書かれています(2マカバイ 12:43)。日本の司教団も「日本人の死者に対する儀式の多くは、祖先に対する愛と尊敬の念から生まれたものですから、カトリック教会が昔から行ってきた『死者の記念』との共通点が多い」と述べています。良き羊飼いであるイエス様が、すべての魂を天国の永遠の群れへと導いてくださることを祈ります。(翻訳担当:相田)

年間第19主日 B年 2021年8月8日

聖書:列王記上19:4-8 詩篇34 エフェソの教会への手紙4:30-5:2  ヨハネ6:41-51
 第一朗読(列王記上19章)で私たちはエリヤに出会います。彼は旧約聖書における預言者です。彼は紀元前9世紀に生きた人で、北イスラエル王国における神の代弁者でした。その時のイスラエルの王妃はイゼベルでした。彼女はエリヤを嫌い、彼を殺そうと企てました。彼は荒れ野に逃げました。それは長い長い旅でした。エリヤは疲れ切って腹を空かせ、そして希望も失いました。彼は神様に向かって言いました。「おお、主よ、もう十分です、私の命を取ってください。」しかし、神様は、食べ物を携えた一人の天使を送りました。それは焼き石で焼いたパン菓子でした。この食べ物によってエリヤは力とエネルギーを受けると同時に、勇気をもまた得ることが出来ました。そして彼は最後まで安全に彼の旅路を続けました。それは40日にも及びました。
 この旧約聖書の場面は、イエス様が命のパンとしてご聖体においてご自身を与えることをあらかじめ示しています。イエス様は、ご聖体において私たちに力とエネルギー、加えて勇気をも与えてくださっています。
 今日の福音の中でイエス様は「私は天から降ってきたパンである。」とおっしゃっています。人々はその時「私たちはあなたを信じることはできない。」と言いました。するとイエス様は、信じる父である神様からの霊が私たちには必要であることを語られます。信仰はお恵みです。神様は惜しみなくこの恵を与えてくださっています。-私たちは協力しなければいけません。
 イエス様はご聖体の秘跡を与えることにおいて、あえてパン(例えば食物)の中に入ることを選ばれました。国府津駅を丁度過ぎる時に「米は力だ」と書いてある大きな看板があります。イエス様の時代には「パンは力だ」ということになるでしょう。食べ物は私たちに力と栄養、エネルギーと健康をもたらしてくれます。イエス様がご聖体において与えてくださる霊的な食物は、私たちに霊的なエネルギー、栄養、そして身体的な健康をも与えてくれます。私たちは彼が示してくださった道を歩むために、イエス様が与えてくださる助けが絶対に必要です。ご聖体を戴いて、その助けを頼みましょう。イエス様に私たちが彼の助けをたくさん必要としていることを話しましょう。そして、その助けに信頼しましょう。忘れないでください!私たちは、絶対に、絶対に一人で人生の旅路を歩んでいるのではありません。
 このコロナ感染の緊急事態においては、たくさんの方々がミサにも参加できず、ご聖体も受けられないでいます。しかし、教会には「霊的聖体拝領」と言われる習慣があります。その祈りはこのようなものです。
「おお、主、イエスよ、私はご聖体の秘跡を受けることができません。しかし、あなたの神聖な力によって霊的に私の心に入ってそこに留まってくださいますように。アーメン」(翻訳担当:三村)

年間第18主日 B年 2021年8月1日

聖書:出エジプト記14:2-15;詩篇78;エフェソ4:17-24;ヨハネ6.24-35

今日の第1朗読、出エジプト記では、大昔ユダヤ人がエジプトでの奴隷状態から逃れたことが書かれています。ユダヤ人たちは、荒れ野に入ると早速、神とモーゼに不満をぶつけます。「私たちは飢え死にしそうです!」
彼らを解放してくださった神は、慈しみをもって彼らに食物を与えます。それは彼らが見たことのない白い物でした。「これはいったい何だろう?」 ユダヤ人の言葉では「マンナ?」です。モーセは答えます。「これは、神ご自身が与えてくださった、命と活力の食べ物。」

日本の歴史の中で、お米の不作のために3回、大飢饉が起きたことを思い出しましょう。大勢の人々が亡くなりました。今の日本で毎日の食事ができることを当たり前だと思っていませんか?「主の祈り」で「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈ります。食事の前に、静止のときを持ち「これは何だろう」と考えましょう。基本的に私たちの食べ物は、植物などを創られた神様からの賜物です。「大地の恵み、労働の実り」(ミサでの)供え物の準備の祈りは、私たちに生命とエネルギーを与える食べ物に対する、神への感謝を意味します。

これは体のための食べ物です。しかし神様は、イエス様をとおして私たちの心に食物を与えてくださいます。立ち止まり、黙想しましょう!沈黙のうちに心を静めましょう。そうすると自分の中に深い望み、夢そして憧れがあることに気づきます。神様だけがこれらの深い憧れ(思慕)を満たすことがおできになります。この世界での成功、山のような富は、私たちを本当に満足させることはできません。神様だけが私たちの心を完全に満たしてくださるのです。聖パウロが第2朗読で語られるように「愚かな考えに従って」無目的な人生を歩んでいませんか?

今日の福音でイエスは、ご聖体(命のパン)が私たちに命と活力を与えると言われます。復活されたイエスは私たち1人ひとりに生きている声でこう言われます。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

私たち1人ひとりへの、イエスのこの言葉は本当に素晴らしいです!この言葉をとおして、イエスはどういうことを言っておられるのでしょうか?神様であるイエスは、私たちの心の希望と憧れ、飢えと渇きを満たしてくださる、ということです。私たちは、本当に、特別に恵まれた者なのです!
「イエスの食卓に招かれた者は幸い」
イエスからの、この素晴らしい賜物を他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:北尾)

年間第17主日 B年 2021年7月25日

聖書:列王記 4:42-44; 詩編 145; エフェソの教会への手紙 4:1-6; ヨハネ 6:1-15
今日から五週間にわたり毎日曜日、ヨハネによる福音書の第6章を読みます。ミサを説明するために、初期の教会においてはこの第6章が用いられていました。
ミサに参加すると、五つの行為があります。
①参加するーイエスはわたしたちを招き入れます
②聴くーイエスは聖書と通してわたしたちに語りかけます
③捧げるーわたしたちは喜びのうちに、自分自身を神様に捧げます
④食するーご聖体は命のパンです
⑤派遣されるー日々の生活でイエスを証しするために、わたしたちは遣わされています
補足①イエスの招きにおいて、わたしたちはミサに与り、またたくさんのお恵みをくださる神様を讃えます。また、一週間の神様の助けと導きを願います。「助けを求めるすべての人と、心から祈る人のそばに神はおられる。」(詩編145:答唱詩編)
補足②「教会で聖書が読まれるとき、イエスはわたしたちに語りかけます」(バチカンⅡ典礼#7)聖書朗読は、励ましと挑戦を私たちに与えてくれます。
 今日の聖書特にヨハネによる福音書の第6章を見てみましょう。イエスは大勢の群衆を哀れみの心で見つめました。彼らは身も心も飢えていました。そこでイエスは、すべての人はひとりひとり神様から愛されていることを伝えました。神であり人間を超えた力をもっているという“証し”として、パン五つと乾燥した魚二匹を前にイエスは祈りを捧げました。証しとしての奇跡により、イエスは五千人の男性と多くの女性と子供たちに食べ物を与えました。
 今日のミサについてこの奇跡に込められた二つの興味深い点があります。イエスは他の人を参加させました。この奇跡は一人芝居ではなかったのです。フィリッポとアンデレが参加させられました。特にイエスに対し食事を諦めざるをえなかった少年を参加させました。少年の寛大な心は皆が食事をとることができたことで報いられました。
 二番目の興味深く重要な点は、十二の籠のパン屑が残ったことです。このことは、イエスはいつもとても恵みに対し気前が良いということです。
 今週立ち止まり、自分の人生を振り返り、神様からどんなにたくさんのお恵みを頂いたか具体的に頭に浮かべてみましょう。例えば二つの大きな恵みがあります。一つは信仰です。私たちはイエスと共に人生の道を歩んでいます。二つ目はご聖体です。命と力としてイエスが来てくれます。確かにイエスはわたしたち一人一人に寛大です。イエスに感謝し、福音書の少年のように頂いた恵みを他のひとと分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)

年間第16主日 B年 2021年7月18日

聖書:エレミヤ 23:1-6; 詩篇 23; マルコ 6:30-34

今の日本は「忙しい」雰囲気です!私たちは忙しく感じ、「忙しい」とよく言います。
今日の福音書に、12人の弟子たちは、食事をする暇もないほど忙しかった(31節)とあります。本当に忙しいですね。忙しさのストレスに気づいたイエス様は、「人里離れた所へ行って、しばらく休もう」と言われます(31節)。
私たちは、静かな山に旅することはできませんが、家庭や心の中に、イエス様と出会う静かな祈りの場を作ることはできます。
今週は、今日の詩篇23を静かに考えてみることをお勧めします。「主は私の牧者・保護者」祈りの中でイエスと出会うことは、休息と励ましをもたらします。コロナの今、私たちにはこれが必要です。
詩篇23は詩です。ですから、想像力を働かせて、シンボルと背後にある深い意味を味わう必要があります。日本の詩でも、例えば、江戸時代の俳人、芭蕉のカエルを題材にした有名な俳句がありますが、その意味やメッセージを理解するには、カエルが池に飛び込む様子と、カエルが飛び込むときのポチャンという水の音を想像する必要があります。
同じように、詩篇の詩的なイメージも大切です。情景を想像し、聖霊の導きをいつも求めてください。それが祈りです。とても意味深い祈りの方法です
1節:主は私の羊飼いです。イエス様はこの詩篇にご自身を示されます。「私は良い羊飼いである。一匹一匹の羊を名前で呼び、彼らを導き、守る。」 これは深い真理です。神-イエスは私を個人的に知り、愛してくださるのです。
羊は無防備で弱く、草を食べる草地や、水を飲めるゆっくり流れる小川に導いてやらねばなりません。良き羊飼いであるイエス様は、私たちの人生の旅路で導いてくださいます(2&3節)。
苦しみの暗い谷に入っても、私たちは恐れる必要はありません。イエス様は私たち一人一人に生きた声で「恐れるな、私があなたとともにいるから」と言われます。
羊の天敵はオオカミです。羊飼いは杖で羊を守ります。イエス様が私たちを守ってくださるのです。苦しみがあっても、安心して過ごすことができます。
5節ではイメージが変わります。イエス様は、私たちに「一緒に宴会の食事をしよう」と誘ってくださいます。これは、イエス様ご自身との交わりを意味しています。私たちは今、イエス様の家に住むように招かれているのです。「私の中にあなたの家を作りなさい。」
ゆっくりと、とてもゆっくりと、詩篇23を読み、考え、祈りましょう。イエス様が私たち特別な羊に提供してくださる平和は、コロナ・ウィルス感染による新しい「非常事態」の中、私たちが必要としているものです。

詩篇23「神は私の保護者」をご覧ください。
答唱: 神は私の牧者、私は乏しいことがない。
神は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水辺に伴われる。
神は私を生き返らせ、そのいつくしみによって正しい道に導かれる。
神よ、たとえ死の陰の谷を歩んでも、私はわざわいを恐れない。
あなたが私とともにおられ、あなたの鞭と杖は私を守る。
私を苦しめる者を前にして、あなたは私に食卓を整えて下さる。
私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる。」
神の恵みといつくしみに生涯伴われ、私はとこしえに神の家に生きる。
                 (翻訳担当:相田)

年間第15主日 B年 2021年7月11日

聖書:アモス7:12-15、詩編85、エフェソ1:7-14、マルコ6:7-13

ミサの最後は、「行きましょう、主の平和のうちに」という言葉ですね。この、ごく一般的な「行く」という言葉の裏に、深い意味があります。イエス様は私たちに、今、自分の身近な社会に出て行き、イエス様の平和を他の人と分かち合うように、と言っておられます。

「行く」という言葉と、関連する「遣わす」という言葉は、新約聖書で200回使われています。イエス様は私たちをお選びになり、私たちをイエス様の証人(あかしびと)として、自分の家庭、ご近所、職場、学校、クラブなどなど、そして、私たちが出会うすべての人のもとに派遣なさいます。私たちは特に―親切や思いやりを示し、「ありがとう」と言うことによって―イエスの平和を証しします。
福音書で12人の弟子は、杖1本だけで証人として派遣されました―食べ物もお金も持たず、着替えも1枚だけです!福音のこの言葉は、イエスの力と導きに完全に「より頼む」ことを意味しています。(宣教のための)言葉が必要になったら、そのときにイエス様が与えてくださいます。イエス様に信頼をおきましょう。
「私たちはこの世で最も恵まれた者である」ということに深く気づいたとき、イエスの証人になろうという思いがもたらされます。私たちはイエス様に出会いました。私たち1人ひとりは神様の愛する子どもなのです。

今日の第2朗読で、パウロは次のように語っています。「父である神は私たちを天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました・・・神は私たちを愛し・・・キリストにおいてお選びになりました・・・これは、無償の贈りものです・・・(あなたがたは)聖霊で証印を押されたのです。」(エフェソ1:3-14)
私たちは神様からいただいたすべての贈りものを当然のことと思っていないでしょうか?イエス様の「道」は私たちの人生に、意味、守護、友情そして平和を与えます。実際、私たちは富を得ています!イエス様が私たちを選んだのは、エリートにするためではなく、この富を他の人たちと分かち合う者とするためです。
日本人のたった1%がキリスト者です。私たちは、大きな灯台として選ばれ、呼ばれているのではなく、暗闇を照らす1本のろうそくとして呼ばれています。
コロナの今こそ、「行きましょう、キリストの平和を分かち合うために!」 (翻訳担当:北尾)

年間第14主日 B年 2021年7月4日

聖書:エゼキエルの預言2:2-5 詩篇123 第二コリント12:7-10  マルコ6:1-6
 あなたは人生の中で、将来に対する特別な夢をもっていたのに、その夢が叶わなかったという経験がありますか?また身内や友人に受け入れてもらえないというような経験をしたことがありますか?私達は人間なので、皆そのような傷ついたり、心に痛みを覚える経験をしています。これは人間の普通の反応です。イエス様は神様でした。でも本当に本当に私達のような人間でもあったのです。イエス様は自分の親族や村の友人たちが、イエス自身も彼が説く天からの教えも両方ともを拒絶した時には、大変失望し傷つきました(今日の福音)。もしあなたがこのような経験をしたことがあるのでしたら、その失望と敗れた夢と共にイエス様のところへ行きましょう。もしあなたが、受け入れられていない、過小評価されている、あるいは誤解されていると感じ、とても孤独を感じるならば、祈りの中でイエス様のところへ行きましょう。イエス様は理解して下さいます。イエス様もまた同じ経験をされているからです。「言葉は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1章11節)
 第二朗読の中で、パウロは、彼もまた人間の根源的な弱さを持っていたと語っています。彼はそれを鋭いとげと呼んでいます。聖霊は聖書に霊感を与えていますが、私達にパウロのとげが何であるかを語ってはくれません。私達人間は皆例外なく、それぞれが独自のとげ、あるいは暗さ、弱さを持っています。あなたのはどのようなものでしょうか?肉体的や精神的に再発する病気でしょうか?それとも誘惑でしょうか?依存症でしょうか?うつ病でしょうか?短気なことでしょうか?あなたを傷つけた誰かを赦せないことでしょうか?気難しい人と一緒に暮らしていることでしょうか?自分本位であることでしょうか?人によってすぐ傷つくことでしょうか?プライド?嫉妬?良心の呵責?等、等、等。挙げたらきりがありません!しかし私達がそれぞれに自分の「とげ」を持っていることは確かです。その弱さを謙虚に認めましょう。現実の中でこの弱さとは何でしょうか?あなたのとげを指摘してみて下さい。そして祈りの中でイエス様のところへ行きましょう。イエス様はおっしゃるでしょう。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(第二コリント12章9節)
聖パウロと共にこう言いましょう。「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ります・・なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです。」(第二コリント12章10節)  (翻訳担当:三村)

年間第13主日 B年 2021年6月27日

聖書: 知恵の書 1:13-24; 詩編 30; コリント教会への手紙 8:7-15; マルコ 5:21-43
 今日の福音書では、イエスは奇跡を2度行っています。これらは二千年前の歴史的な事実です。しかし過去の出来事と考えないでください。イエスが行った奇跡のことを読むときは、奇跡の内容より奇跡の背景に目を向けてください。「なぜエスは奇跡を行ったのか」と自問してください。相手に対するイエスの優しさ、共感、関心に気づかされます。わたしたちは今日、わたしにたちの中で生きている復活されたイエスに出会い、聖書の中で見たのと同じ愛と共感を経験します。イエスが行った奇跡の背景にある共感は、ナインのやもめの息子を生き返らせた場面においても見られます。(ルカ7:11~)
 ヤイロは会堂長の一人でした。他の役員はイエスに反目していました。しかしヤイロの12歳の娘は死にかけていました。信仰をもってヤイロはイエスのもとに行きました。イエスは父親と娘に同情し、「少女よ、起きなさい」と言われました。皆は少女が生き返ったことを喜びましたが、お腹が空いていることを忘れていました。ここにイエスの優しさと思いやり深さが伺えます。
 ファイリサイ人が決めた法律によると、出血が止まらない女性は当時汚れた者とされていました。(レビ15:25)神殿に入ることを禁じられていました。女性の孤独と抑圧された生活を考えてみましょう。その人はイエスの服に触れ、心の傷も癒されました。イエスは女性と対面し話をしました。女性はすべてをありのままに話しました。(マルコ5:33)イエスは優しく、「娘よ、安心して行きなさい」と言われました。
 ヤイロとその娘、孤独で病気の女性は、助けを求めイエスに出会いました。わたしたちはイエスと向かいあった会話をしているでしょうか。今日の福音書の病気の女性のようにイエスのところに行き、ありのままの自分を語っているでしょうか。教会の‘祈りの博士’と呼ばれているアビラの聖テレジアは、祈りを次のように言っています。「祈りとは、イエスとの心と心の会話です。わたしたちはイエスに愛されていることを知っています。」
 復活されたイエスに友として会い、自分の言葉で心の内をさらけ出しましょう。ありのままの自分でイエスのところに行きましょう。優しさ、理解、共感でイエスは歓迎してくれます。長いコロナウイルスの危機のもと、今必要なことです。イエスは生きている声で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われます。
 イエスがくれた励ましを他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)

年間第12主日 B年 2021年6月20日

聖書朗読: ヨブ 38:1-11; 詩篇 107; 2コリント 5:14-17; マルコ 4:35-41
今日の福音で、イエス様に出会った人々が自分自身に問いかけます。「いったい、この人は何者なのか?」――私たち一人一人が同じ質問を自分自身に問うよう導かれます。物語の形で、福音書はその答えの輪郭を示しています。イエス様は、風や海を従える力を表します。その力を持っているのは神だけです。だから、イエス様は神なのです。ヨハネの福音書に、「ことば(イエス様)は神であった。・・・全てのものは、この方によって造られた。」(ヨハネ1:1-2)と書かれています。
イエス様は一日中、外で説教をしましたが、外で話を聞いてもらうにはかなり努力が必要です。その疲れのため、イエス様は小舟の中の後ろで眠りこみました。なんと人間らしいことでしょう。イエス様は本当に、私たちと同じように人間でした。
私たちの神であるイエス様は、私たちと同じように、疲れ、孤独、悩み、苦しみ、裏切りなどを経験されました。だから今、私たちが苦しむとき、イエス様はいつもそばにいてくださいます。時に、イエス様は眠っているように見えるかもしれません。助けを求める私たちの声を聞いていないように見えるかもしれませんが、実際は、イエス様は慈しみの心で、とても近くにいてくださいます。イエス様は、私たちに一番良い時に、私たちの心の嵐を静めてくださいます。「じっとして、落ち着いていなさい」と。
イエス様は神として、世界の自然を創造しました。私たちは、丘、木、環境などの自然を当たり前のものと思っていませんか?自然の美しさを神に感謝しているでしょうか、それとも自然をただ当たり前だと思っているでしょうか?自然を大切にしていますか?環境を大切にしているでしょうか?エコロジーは聖書にしっかりと基づいています。創世記に、神が世界の自然を世話するために人間の手に委ねたことが書かれています。私たちは本当に自然を大切にし、守っているでしょうか?
私たちと同じように人生の苦しみを経験した神イエス様は、「疲れている人、不安の重荷を負っている人はみな、私のところに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われました。私たちは、詩篇44:24の言葉「主よ、目を覚ましてください。なぜあなたは眠っているのですか。」と同じように思い切ってイエス様に求めましょう。イエス様は「私の平和があなたと共にある」と言ってくださいます。(翻訳担当:相田)

年間第11主日 B年 2021年6月13日

聖書朗読:出エジプト記17:22-24 詩篇92 2コリ5:6-10  マルコ
4:26-34
私の畑と温室には、いろいろな種が蒔いてあります。キュウリの種は 3 日で芽が出ます。カボチャは8日、パセリは3週間。 4年ほど前、1300年前のハスの実が発芽したというニュースがあったことを覚えていますか?今日、どんぐりの種を植えても、明日、成長したその木陰に座ることはできません!自然は独自の時計を持ち、それに従って働きます。神様は自然をお造りになりました。そして、神様のお働き・御業(みわざ)はあまりにも静かなので、私たちはそれに気づきません。
神様は私たち1人ひとりの心の中で、家庭で、教会で、そして、私たちの この不安定な世界の中で働いておられます。

「神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる」詩篇139:18

神様は私たちを創造されましたーそして神様は私たちを愛し、心にかけ、護り続けてくださいます。私たちの洗礼のときに神様はその誓いを公にされました。私たちは神様の愛する子供です。
ですから、たとえあなたの人生が苦しく、困難であっても、希望を持って神様を信頼してください。神様の愛を感じられないときがあるかもしれませんが、神様は静かに働いておられます。
それが、今日の福音の、イエス様による励ましの美しいメッセージです。私たちは、発芽の瞬間を見ることができないように、神様のはからい、御業(みわざ)が私たちの心、家庭、教会、そして私たちの世界で、ごく静かに働いておられる具体的な方法を、見たり感じたりすることはありません。
最近の新聞は「コロナ疲れ」の記事が多いですね!これは「希望の時」と言えます。私たちの将来への希望は、「神様が私たちを愛しておられる」という真実にしっかりと基づいています。
ですから、私たちは、私たち1人ひとりへの愛を確信して、神様を信頼するのです。

神様からの励ましのメッセージを紹介します。
「私(パウロ)は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。」(1コリ3:6)
「神よ!あなたの目には、1000年は一日のよう。」(詩篇90:4)
「主の家に植えられた者は、年をとっても実を結ぶ」(詩篇/ 92:15)
今週、あなたの「希望」を他の人と分かち合いましょう。

「主は、曙(あけぼの)の光のように、必ず現れる」ホセア6:3 (翻訳担当:北尾)

キリストの聖体 B年 2021年6月6日

聖書朗読:出エジプト記24:3-8 詩篇116 ヘブライ人への手紙9:11-15  マルコ14:12-26
 今日の3つの朗読箇所には「契約」という言葉が出てきます。契約というのは、大変特別な聖書用語です。しかしそれは専門的な、神学的な言葉です。難しい言葉のように思えますが、簡単に言うと、契約というのは、二人の人間同士によって交わされる大変神聖な約束です。神様ご自身がそのような約束を小さな私達人間と交わして下さったのです!もし神様が私達にして下さった誓約の深い意味を私達が理解するならば、平安、安心、そして温かく親しい交わりが私達の日々の生活にもたらされるでしょう。(私達は、このコロナ感染の時においては特にそのような安心と癒しを必要としています。)
 私達の洗礼の時に、神様は教会を通して次のように言っておられます。「あなたは私の特別な子供である。私はいつもあなたを愛し、導き守るであろう。」
【ここで少し時間を置いて、この素晴らしい約束をもう一度読み返し、深く考えましょう。】
 ミサの度にイエス様はこの誓いを新たにされます。イエス様は、生きている声で(永遠に変わらず)こうおっしゃっています。「これは私の血、新しい永遠の契約の血である。」(ここで言われている「血」とは「命」を意味している言葉です。)それは聖餐式の中でイエス様がご自身を私達に与えてくださっているということです。白いご聖体は、生きている、復活したイエス様ご自身なのです。
 イエス様は神聖な糧として、私達の心の中にお入りになります。通常、食べ物は私達にエネルギー、命、健康、力、栄養を与えてくれます。ご聖体は私達にイエス様と共に人生を歩めるように心の強さを与えてくれます。イエス様の導きが私達のいつもの日々の活動の中にも来て下さるのです。
 しかし、「契約」は相互的な約束です。私達は神の力を信頼し、私達に命を与え、その支えとしてイエス様ご自身を送って下さる程に多くの恵みを与えて下さる神に敬意を払いながら、人生の旅を歩むことに最善を尽くしますと神様に約束するのです。
 聖餐式の中でイエス様を戴くことは、私達に温かさと、親しい愛に満ちた神との交わりを与えてくれます。何と素晴らしいことでしょう!
 まさに、「イエスの食卓に招かれた者は幸い。」(翻訳担当:三村)

三位一体 B年 2021年5月30日

聖書:申命記4:32-40; 詩篇 33; ローマの教会への手紙 8:14-17; マタイ28:16-20
 洗礼に授かる際、「父と子と洗礼の名により、わたしはあなたに洗礼を授けます」と神様の言葉として司祭が発します。この言葉は単純ですが、計り知れない効果があります。神様自身とその力が言葉の背景にあるからです。洗礼により三位一体の中にある愛へと導かれます。
 私たちは強く、一つの神を信じています。しかしこの一つの神は、父と子と聖霊なのです。人間は一つの神と三位一体を理解できません。これは神様の奥義です。重要な点は三位一体の中にある愛を味わうことができることです。
 イエスは父である神様を「アッバ」という言葉で呼びました。これはアラム語です。小さな子どもが優しく愛情のこもった父親に使う言葉で、「パパ」や「おとうちゃん」と同じ意味です。イエスが使ったこの言葉の裏には、私たちと神様との、優しく愛情のこもった親しい交わりがあります。父である神様は特別な子供としてありのままの私たちを愛してくださいます。神様は身近な方です。
 子について説明します。天国での栄光を脇に置き、私たちと同じ人間として地上に降りました。イエスの優しさ、寛大さ、思いやりの深さを福音書の中で読むと、「私たちの神であるイエスは何と優しい方なんだ」と思います。イエスは人々に同情し、今日でも私たちへ同情心を抱いています。イエスは共感心豊かな方です。
 次は聖霊です。愛によって暖かい気持ちにさせ、人生の道を導き、弱さの中にある私たちを力づけます。聖霊はイエスの道を歩む弱い人間を力づけ、勇気づけます。
 神様は私たちを心から愛しています。このことを知り、この愛を経験することは神様からの純粋な贈り物です。今日の福音書では、イエスはこの愛を家庭や広く社会で分かち合うように求めています。イエスはまたとても大切な言葉を語っています。「わたしは共にいる 怖れるな」イエスは私たちの人生の同伴者です。(翻訳担当:薩田)

聖霊降臨 B年 2021年5月23日

聖書:使徒言行録2:1-11; 詩篇 104; ガラテヤ5:16-25; ヨハネ 15:26-27;16:12-15
私が落胆していたある時、聖霊が、教区の信者を通して、忘れられないメッセージを与えてくださいました。私は教区の壮年会を指導する司祭で、ちょうどグループの新しい会長が選ばれました。彼はかなり高齢でしたが、エネルギーがあり、平安な感じの人でした。その時の彼の話を、私はよく覚えています。「私は熊本で生まれました。私が戦前に受けた教育は、『武士道』に基づいており、勇気を持って全力で国に尽くせと言われていました。私は戦後に結婚してクリスチャンになりました。キリストの道を歩むために、自分の弱さを認め、神の力、聖霊に頼る様に言われました。これは私が受けた日本の教育とは正反対のように思えました。しかし、今になって大事だと思うのは、勇気を持って自分に正直になり、『私は弱い。』と言うことです。しかし、このキリストの道は、私に平安とエネルギーをもたらし、今日ここにいる皆さん、日本の人々を助けることができるのです。」――その人の話、聖霊からのメッセージは、今も私の中に生きています。そのメッセージは、私のストレスを和らげ、勇気を与えてくれます。ぜひ、試してみてください。
イエス様は復活された後、40日間弟子たちと一緒にいました。天国に帰る前、イエス様は弟子たちに「地の果てまで行って、すべての国の人々に愛のメッセージを伝えなさい」とおっしゃいましたが、弟子たちは自分たちの力不足を痛感しました。①弟子たちは、自分たちの能力のなさ、弱さを実感していました。②弟子たちは、イエス様が送ってくださると約束された聖霊の力を求めて祈りました。③聖霊は弟子たちに、鍵のかかった部屋から出て人々の前で説教する勇気を与えました。弟子たちは、聖霊の助けで、イエス様が教えてくださったことを思い出しました。力と勇気と平安と導きが、彼らに与えられたのです。
イエス様は、2000年前に弟子たちにご自分の証人になるよう言われたのと同じ様に、今、日本の横浜で、私たちにご自分の証人になるよう言われています。家庭で、職場で、学校で、友人や出会う人々の間で、イエス様の証人となるよう求められているのです。聖霊の力と導きによって、私たちはこの召命に応えることができます。弟子たちに倣って、①自分の弱さを認め、②聖霊の力と導きを祈りましょう。――「聖霊の導きに従って歩みなさい。」(第2朗読 ガラテヤ5:16)。
聖霊は、祈ること(ローマ8:26)、神を「アッバ、父よ」と信頼すること(ガラテヤ4:6)を教えてくださいます。イエス様の教えを思い出させてくださいます(ヨハネ14:26)。聖霊の力と導きは、「聖なる行動」のためだけではありません。親切な妻・夫、父・母、祖父母や良い生徒・学生などになるためにも聖霊は助けてくださいます。
このコロナ・ウィルスが続く中、聖霊の力、導き、励まし、慰めを、私たちは緊急に必要としています。
「聖霊、来てください!」(翻訳担当:相田)

主の昇天 B年 2021年5月16日

聖書:使徒言行録1:1-11、詩篇47、エフェソ4:1-13;マルコ16:15-20
2000年前、使徒たちはイエスと3年間、友として過ごし、イエスの復活の後は 40日間「復活されたイエス」と会いました。イエスは使徒たちに「天に戻らなければならない」と話され、使徒たちは「行かないでください!」と頼みます。イエスはお答えになります。「私が行かなければ、あなたがたは聖霊の力を受けられない」。そののち イエスは天に昇り、父である神の右の座に着かれました。これはすなわち イエスは今や、父なる神と等しいものとして、神の栄光を帯びておられる ということです。しかし人間であることを経験されたイエスは、神様が私たちのために祈る前に、私たち人間の代表者として いてくださいます。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるイエスただおひとりなのです。」(1テモテ2:5)。イエス様の祈りの結果として、聖霊の力が私たちに与えられます(使徒1:8)。聖霊から来る力と励ましは、今日も私たちのためにあります。自分の弱さを認めましょう!人間の力だけでは イエスの道を歩むことも、イエスの証人になることもできません。聖霊によって私たちに与えられた力が、絶対不可欠です。また、聖霊によって強められない限り「互いに忍耐する」ことはできません(エフェソ4:2)。私たちは、一人ひとり異なった性格や考えを持っています。自分と違う人を受け入れられるでしょうか?私たちには、私たちを導き強めてくださる聖霊が必要です。
私たちはイエスから「使命」をいただきました。私たち自身の小さな社会でイエスの証人となるように、という使命です。 「福音を宣べ伝えなさい」つまり、私たち皆が神様に愛されていることを示してください。他の人に優しさと思いやりを持って接し「自分と違う」人々を受け入れることによって 福音を証しすることができます。イエスは私たちを導き、強め、護ってくださいます。(手で蛇をつかみ・・【今日のマルコ】は、このことのシンボルです!)。イエスは私たちと ともに働き(そして歩み)、私たちは人生の旅を続けます(マルコ16:20)。私たちには神の愛と力が与えられています。この贈り物を他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:北尾)

復活節第6主日 B年 2021年5月9日

聖書: 使徒たちの宣教 10:25-48 詩篇98 使徒ヨハネの手紙4:7-10  ヨハネ15:9-17
 私は日本語学校で漢字を学びました。私は「神は愛である」という掛け軸を読めるようになった時、嬉しかったです。それは私の人生の基本になっています。「神様は私をありのままに愛してくださっている」。私達は皆、例外なく誰でもがこう言えます。今日の第二朗読(使徒ヨハネの手紙4章10節)の中でヨハネは、わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛しているのだと強調しています。言い換えれば、その深い愛に気付いて理解したのなら、すぐにその愛に応えましょうということです。
 私達一人一人に対する神様の愛は、父である神が独り子をこの世にお遣わしになったということに示されています。そして御子イエスは、私達一人一人の為に十字架上でいけにえとなられました。イエス様のお蔭で、私達は神様に信頼をもって近づくことができるようになりました。そして私達は友としてのイエス様に近づくことができるのです。イエス様は例外なく私達一人一人にこう仰います。「あなた方は私の友である。私があなた方を私の友となるようにと深く考えて選んだのである。」(ヨハネ15章15節、16節)
 聖書の中でアブラハムは「神の友」と呼ばれました。モーセも又、その友と語るように神様と語りました。(出エジプト記33章11節)福音書の中で、マルタ、マリア、ラザロはイエス様の友達でした。イエス様は友であるラザロが死んだ時、泣いて悲しまれました。私達の神は泣いて悲しまれる-そのような共感をされる!ということを深く考えましょう。
 聖アウグスチヌスは次のように書いています。「真の友は私の強さも欠点もよくわかった上で、それでもありのままに受け入れてくれる人です。」
 ある人々は子供の頃や若い時の限られた友しかいないが、しかし友情は大人になるにつれて薄らいでいくこともあり、また、あなたの秘密を暴く友のようになることもあるでしょう。でもイエス様は信頼することの出来る友です。私達は良い出来事が起きた時もイエス様に話すことが出来るし、そして又、自分の心配ごとや苦しみもさらけだして話すことが出来ます。特にこの淋しいコロナの時代には、私達はイエス様のような友が必要です。イエス様のもとへ行って話しましょう、沈黙のままでもいいので、私達の友であるイエス様と話しましょう。「誠実な友は、堅固な避難所。その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。誠実な友は、生命を保つ妙薬。」(シラ書6章14節~16節)(翻訳担当:三村)

復活節第5主日 B年 2021年5月2日

聖書: 使徒たちの宣教 9:26-31; 詩篇 22; 使徒ヨハネの手紙 3:18-24; ヨハネ15:1-8
 わたしはほぼ毎晩NHKの7時のニュースを観ます。最近の主なトピックスはコロナウイルス感染に関するものです。街中でのインタビューで良く出てくる言葉は 不安 です。不安と落胆が日本中を暗く覆っています。最近の調査では日本人の83%の人は将来に不安を持っているそうです。25%の人が自殺を考えたことがあると政府の報告書には書かれています。最近宇宙飛行士の星出さんは国際宇宙ステーションに到着し、希望と書かれた垂れ幕の前で会見を行いました。わたしたちキリスト者にとっては、希望は神様からの贈り物です。
 今日の聖書朗読は、祈りを込めて深く考えることにより、希望が与えられます。
 イエスが亡くなる前の最後の晩餐において、とても大切な言葉を述べています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」この言葉は、山梨県の人にはわかりやすいかもしれません。コンクリートだらけの横浜ではぶどうの木をほとんど見ることはありません。イエスの言葉の意味を考えてみましょう。土に根を張り幹のあるぶどうの木を想像してください。樹液は幹を通り枝まで流れていきます。春には葉が出て花が咲き、秋には美味しい果実がたくさん実ります。幹を通し、枝に命が行き渡り果実が実ります。もし枝が幹から切られれば、枝は枯れ死にします。希望も同じです。イエスはわたしたちに命、健康、希望、目的をくださいます。イエスは2つのことを言っています。①わたしにつながっていなさい。②わたしのもとにとどまりなさい。このためには、イエスと語り合うことが必要です。友としてイエスと語り合いましょう。不安や痛みを伝えましょう。イエスとの親しい交わりは、希望、励まし、友情をもたらします。
 わたしたちにはイエスがくれる強さが必要です。イエスはわたしたちへの祝福を他の人と分かち合うよう求めています。わたしたちの愛は言葉だけでなく、行いが必要です(使徒ヨハネの手紙 3:18)。他の人に希望を与えるために、感謝し、微笑みましょう。自分の力に頼らず、イエスに頼りましょう。イエスの助けがなければ、わたしたちは何もできないのです。(翻訳担当:薩田)

復活節第4主日 B年 2021年4月25日

聖書:1ヨハネ 3:1-2; 詩篇 118:1-23; ヨハネ 10:11-18

変異ウイルスのせいで、東京に、また「非常事態宣言」です!またもや規制です!ゴールデンウィークという自由な期間に突入するというのに!このコロナまん延はいつ終わるのでしょうか?コロナ疲れやストレスを感じていますか?制限されていると感じますか?不自由でしょうか?
イエス様は「真理があなたを自由にする」(ヨハネ8:32)と仰います。「真理」とは、私たちの優しい神様が私たち一人一人をありのままに愛してくださっている、ということです。今日の聖書朗読は、私たち一人一人と神様との愛の関係をテーマにしています。これこそが、私たちを自由にしてくれる真理なのです!
教皇フランシスコは、復活したイエス様が私たちのそばで人生の道を歩み、私たちを照らし、力づけ、解放すると書いています。「解放する」「自由にする」という言葉が、聖書によく出てきます。イエス様は、私たちの心を縛っている枷を解いてくださいます。自由になるためイエス様のもとに行きましょう。
聖ヨハネの手紙では、私たち一人一人を我が子として愛してくださる父なる神の愛を、味わうよう促されています。「私は神様に愛された子供です」私たちはみんな、こう言うことができます。単なる言葉のあやでもなく、美しいだけの言葉でもありません。洗礼によって神様の命が自分の中にあり、これによって本当に、そして実際に神様の子供となるのです。神様の子供という関係は現実のものです。私は愛された子供です。これが私たちを自由にしてくれるのです。たとえ私たちが気力を失い、あるいは神様を見捨てても、神様は私たちを見捨てません。神様の愛は無条件です。なんと自由なのでしょうか!私たちが神様のもとに戻ると決めるや、神様は私たちをお帰りと抱きしめてくれます(ルカ15章)。
今日の福音で、イエス様は「私は良い羊飼いである」と仰います。羊飼いは、羊を導き、守り、自由にします。
イエス様の時代の羊飼いは、家の羊を守る息子であることが多かったのです。ですから、自分の羊として、狼(敵)の攻撃から保護し、守り、自由にするために命がけでした。小羊が生まれるとすぐに、羊飼いは名前をつけました。羊は羊飼いの声がわかりました。羊は羊飼いと一緒にいれば安心し、自由を感じていました。イエス様は私たちの羊飼いで、私たちはその羊です。イエス様は、私たちの弱さを知っていて、ありのままの私たちを受け入れてくださいます。このように、イエス様は私たち一人一人を愛してくださるのです。
神様が皆を愛していることを人々に知らせるために、イエス様に私たちが必要です。「私には、この群れにいない別の羊がいる。この羊たちをも導きたいのです。」 (ヨハネ10:16)と言われています。神様がキリストを通して私たちに与えてくださった偉大な贈り物、すなわち平和、自由、慰めを分かち合うよう、私たちは、イエス様から求められているのです。

追伸: 聖書の詩篇23(主は我らの牧者)を開いてみることをお勧めします。イエス様はこの詩篇を成就されました。本当に美しく、意味と慰めに満ちています。詩篇23に描かれている愛と配慮によって、私たちは自由になります。(翻訳担当:相田)

復活節第3主日 B年 2021年4月18日

聖書: 使徒言行録 3:13-19; 詩篇 4; 1ヨハネ 2:1-5; ルカ 24:35-48
私たちは不穏な時代に生きています!コロナ・ウィルスの蔓延が止まりません!このコロナの不安の他にも、悩みや不安、ストレスなどはありませんか?人間関係で心に傷を負っているのではないでしょうか。信仰の弱さを感じて闇の中なのかもしれません。眠れない夜を過ごしているのではないでしょうか?もしそうなら、今日のミサの答唱、詩篇4番を祈りましょう。美しい祈りです。聖書に収められている150篇の詩篇は、人の心のさまざまな経験を示しており、神の霊感による人間らしい祈りとして私たちに与えられています。
今日の福音書の場面は、詩篇4番を具体化しています。つまり、神の愛、人間の弱さを理解してくださっているということです。これが今日の私たちに対する神様の姿勢です。神様からの聖書のメッセージは、いつの世も現在形なのです。
復活したイエス様が弟子たちの前に現れます。彼らは、それを、イエス様を見捨て否定した自分たちに復讐する亡霊だと思い、恐怖を感じます。「天罰」を恐れる気持ちが強かったのです。でも、イエス様は彼らに「私はあなた方に平和を与える」と言います。それでもまだ、弟子たちは怖がっていました。安心させるため、イエス様は焼いた魚を食べます。幽霊は食べ物を食べないからです。イエス様はとても思いやりがあります。復活されたイエス様は、今の私たちにも同じように接してくださいます。
そして、イエス様は、彼らが聖書の深い意味を理解できるように、彼らの心の目を開いてくださいました。イエス様は今日も同じです。聖書を開いて読むときは、いつもイエス様の光を求めましょう。
復活したイエス様は生きており、いつもそばにいて、私たちに平安を与え、聖書の深い意味やメッセージを説明してくれます。イエス様は私たちの迷いや恐れを理解し、私たちをありのままに受け入れてくださいます。イエス様は私たちに無条件の愛を与えてくださいます。私たちの神を信頼しましょう。信頼すれば、心配事やストレス、忙しさにもかかわらず、心に平安がもたらされます。私たちは床につき、心静かに眠ることができるのです(詩篇4篇)。この平安を分かち合いましょう。(翻訳担当:相田)

復活節第2主日 B年 2021年4月11日

聖書:使徒たちの宣教4:32-35 詩篇118 使徒ヨハネの手紙5:1-6  ヨハネ20:19-31
 イエス様のお蔭で、私達は確信をもって神様に向かい合うことができます。イエス様は天からの真の使者として、私達弱い人間に対する神様の優しさ、理解と慈しみを語って下さっています。多くの人々は神様を裁き主として、つまり天罰を恐れています。いえ、不幸なことに沢山の人が神のことを考えることさえもしません。その人生の中で主な興味は阪神タイガースです!と語っていた人に会ったことがあります。
 今日、神のいつくしみの主日に、私達の神様のイメージがどんなものであるか、そしてどれほど、神様に自分の心をお捧げしているかを思い巡らしましょう。
 今日の詩編118は美しいです。「恵み深い神に感謝せよ。そのあわれみは永遠。神のいつくしみは絶えることがない。」(詩篇118-1)
 私達が深い祈りとともに福音書を読む時、私達はイエス様のその時代の人々に対する人間的な優しさを見ます。そしてイエス様と出会う時、今も神様の私達に対する真実の心を見ることができます。イエス様は詩編118の言葉を具体的なものとしています。例えば、イエス様は息子が死んだナインの母親の涙を見ました。そして、その兄弟ラザロが死んでしまったマルタの涙も、マグダラのマリアの涙も見ました。そしてイエス様は彼らに同情し、彼らと共に泣きました。これが神のいつくしみです。私達の神様であるイエス様は、私達と思いを共にして下さるのです。
 ペテロは3度もイエス様を否みました。イエス様はペテロに優しく「あなたは私を愛しているか?」と3度お聞きになりました。これが神のいつくしみです。
 トマスも又、疑い深く頑固でした。でも復活したイエス様はトマスを叱りませんでした。イエス様はトマスに対してとても優しく、寛容で、いつくしみに満ちています。イエス様は今日の私達に対しても同じです。イエス様は決して変わりません。「彼は昨日(2000年前この世界にいらした間)も、今日(私達が生きている今)も、そしてこれからも、永遠に変わることのない方です。(ヘブライ人への手紙13章8節)さあ、優しいイエス様のもとへ行きましょう。彼のいつくしみを味わいましょう。そして、この愛を他の人達と分かち合いましょう。イエス様のいつくしみは今も私達と共にあります。(翻訳担当:三村)

復活の主日 B年 2021年4月4日

聖書:使徒たちの宣教 10:34-43; 詩篇 118; コロサイ教会への手紙3:1-4; ヨハネ 20:1-9
 私にとって聖書の中で最も大切な言葉は、イエスがわたしたちひとりひとりに語りかける「怖れるな わたしはあなたと共にいる」という言葉です(マタイ28:20、ルカ12:7 同じ主旨の言葉は創世記に始まり黙示録まで聖書の中に様々な箇所で出てきます)。イエスは2000年前に人間の姿でこの世に居られたとき、弟子たちにこの言葉を語りました。しかし今ご復活により、2000年前という時間やイスラエルという場所の制約はなくなりました。イエスは人間として復活しましたが同時に神様の無限の力を得て、限界はありません。このことは重要です。イエスがわたしたちの名前を呼び、「怖れるな わたしはあなたと共にいる」と言われるとき、本当にイエスはそばに居て生の声で言われているのです。
 ご復活により、イエスは生きておりわたしたちひとりひとりのそばにいます。わたしたちは孤独ではありません。イエスはわたしたちを導き、守り、励まし、そして温かく生きている愛をくださいます。(わたしは繰り返し「イエス」という名前を使っています。親が付けた名(いわゆる下の名前)です。友達どうしは名前で呼び合います。イエスはわたしたちに「あなたはわたしの友である」と言われます。イエスと友だちどうしのように語りましょう。)
 新型コロナウイルスの第4波が来ているようです。皆が集うことが難しい状況ですが、この聖なる共同体の中では、復活されたイエスのもとで心で一致しましょう。復活されたイエスは聖書を通し生きている声でわたしたちに語りかけます。優しく、理解があり、思いやりがあるイエスに皆さんの家庭での祈りの中で出会えます。イエスは言います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)「怖れるな わたしはあなたと共にいる」(マタイ28:20)これは神様がくださる素晴らしい特典です。
 今日の詩篇118を用います。「善良なる神に感謝を捧げましょう。神の愛は終わりはありません。」復活の希望と励ましを他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)

受難の主日(枝の主日) B年 2021年3月28日

聖書朗読イザヤ50.4-7 詩編22 フィリピ2.6-11 マルコ15.1-39
この2か月の間に、私は3回入院し、心臓の血管にステントを入れる手術を経験しました。あなたはどんな経験をされましたか? 病気をしたり、なにか失敗をしたり、人に傷つけられたそのとき、あなたはイエス様があなたの近くにいてくださると感じられますか? 私の第一の(本能的な)反応は、こうでした。私は神の存在を感じられませんでした。感じたのは「空虚(空っぽ)」だけでした。虚無感の中で「神様、なぜですか?なぜですか?あなたはどこにおられるのですか?」と叫びました。これは人間の普通の反応だと、私は思います。 マリア様は12歳のイエス様を見失って、3日後に神殿で見つけたとき、イエス様に「なぜこんなことをしてくれたのです。・・・心配して探していたのです」と仰いました(ルカ2.48)。
今日の福音に、同じ虚無感で一杯の「人間イエス」を見て取ることができます。これは、人間の普通な反応です。イエス様は十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マルコ15.34)。
イエス様は詩編22(今日の答唱詩編「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられるのか」)を使ってこのように祈られましたが、この詩編は神への信頼で終わっています。
イエス様も最後に十字架上で「主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」と詩編31.6と16を使って祈られました。
聖書に示されている、この「神への信頼」は第二の(信仰的な)反応です。そこでは「なぜ?なぜ?」から「わが神よ、私はあなたを信頼します。あなたはわたしを愛しておられ、最善を知っておられます」へと反応が変わっています。
そうです、イエス様は、私たちの苦しみのとき、共にいてくださるのです。私たちは今日の受難劇の朗読をとおして、イエス様の苦しみを知りました。ご自身があれほどの苦しみを経験されたから、イエス様は私たちの痛みを理解し、共に苦しむことがお出来になるのです。

遠藤周作の『イエスの生涯』を引用します。
第十章 逮捕の夜
ゲッセマネのオリーブ林のなかにイエスは死の不安と闘っておられた。永遠に人間の同伴者となるため、愛の神の存在証明をするために自分がもっとも惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わうすべての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。もしそうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみをわかち合うことができぬからである。人間にむかって、ごらん、わたしがそばにいる。わたしもあなたと同じように、いや、あなた以上に苦しんだのだ、と言えぬからである。人間にむかって、あなたの悲しみはわたしにはわかる。なぜならわたしもそれを味わったからと言えぬからである。

遠藤周作のこれらのことばは、実に聖書に基づいています!そして、具体的で現実的です。イエス様が生きている声で、私たちに語りかけている言葉です。苦しみの中で、私たちにはこの励ましが必要です。(NHKのニュースで、さかんに「コロナ疲れ」「コロナストレス」という言葉を聞きます。)今こそ!イエス様の励ましが必要です。

イエス様は、今日の第1朗読、イザヤ書の成就です。
「主なる神は…疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる(イザヤ50.4)」
イエス様は私たち1人ひとりに、こう言われます。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう(マタイ11.28)」

第一の本能的反応から第二の信仰的な反応へと、変わっていきましょう。(翻訳担当:北尾)

四旬節第5主日 B年 2021年3月21日

聖書朗読エレミヤ31:31-34;詩編57;ヘブライ5:7-9;ヨハネ12:20-33

主日の聖書の朗読箇所を順に見ていきましょう。
1.第一朗読はエレミヤ、キーワードは「新しい」契約です。神は古代、ご自分の民を世話する(扶ける)ことを誓われました。これが「旧約」です。旧約はユダヤ人のためだけのものでした。エレミヤ書には、神が「新約」を結ぶと書かれています。この誓いは、すべての人のためのものです。イエスは、こう言われます「これは私の新しい契約の血である」。私たちが受洗のとき、神様は教会を通してこう言われます「私はあなたを護り、扶ける」と。契約は相互の約束ですから、私たちは「私はあなた(神様)に自分の人生を捧げます」と約束します。
2.罪は、私たち側からの約束を弱めてしまいます。 詩編51は回心の美しい祈りです。この祈りの中で、私たちは神様に「ゆるしてください」と願います。しかし、思い違いをしないでください。ここで強調されているのは私たちの罪ではなく、私たち人間の弱さを理解しておられる神様の憐れみ、優しさ、思いやりです。私たちの神様は罰する神ではなく、癒してくださる神様です。
3.「ヘブライ人への手紙」は、真の人間となられた(神である)キリストが、どのように苦しんだかを教えてくれます。この箇所には日本のことわざ「艱難汝を玉にす」と通じるものがあります。
人から苦しめられ、傷つけられた経験によって、私たちは自己中心的になり、その人を恨む感情で一杯になるでしょうか?!イエス様が経験された苦しみと裏切りを静かに思い巡らせ、自分の苦しみをキリストと結びつけるなら、私たちの苦しみは私たちに他人への思いやりと理解を教えてくれるものとなります。イエス様は人間の苦しみを特別なかたちで経験されたので、キリストは今、私たちと共におられるのです。
4.今日の福音のように、「私はイエス様にお目にかかりたいのです」と祈りましょう。イエス様は「永遠の命」を約束されます。この永遠の命は、私たちが死んで天国に行った後のものだけではありません!永遠の命は、、始まります。イエス様は私たちのために、「永遠の命」を勝ち取るために十字架上で死んでくださいました。イエス様に感謝し、その「愛」を他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:北尾)

四旬節第4主日 B年 2021年3月14日

聖書朗読:歴代誌下36:14-23 詩篇137 エフェソの教会への手紙2:4-10  ヨハネ3:14-21
 神様は私達一人一人を個人として愛して下さっています。私達は途切れることのない神様の愛の中にどんな時も包まれています。
 1世紀から言い伝えられている話があります。12使徒の一人、年老いた聖ヨハネは、亡命してギリシャのパトモス島で暮らしていました。毎日、仲間たちはミサをたててもらうために彼を担架で運びました。ヨハネはいつも彼らにお説教していました。毎日それは同じテーマでした。「神はあなた方を愛しておられます。神はあなた方を愛しておられます。」仲間たちは言いました。「何か違うことを説教して下さい。」ヨハネは答えました。「あなた方は心をこめてそれを受け入れ、信じなさい。そうすれば、イエスの道において他の全てのことも従うでしょう。」
 この話は二千年後の私達にとってのメッセージでもあり、挑戦でもあります。四旬節はイエス様の教えの根本的な真実を深く考える期間です。神様は私達一人一人を造られました(両親を通して)。神様はその創造の後、私達の後ろで遠くに立って私達を見ているだけではありません。神様は人間的な喜びや成功、苦しみや失敗、そして孤独をも、全て私達と共にするために、愛する息子を送って下さったのです。
 神様は生ける人間全てを愛しておられます。それは大変信仰深い人々も、普通の人々も、神から離れた人々も、神に逆らう人達も、神の存在を否定している人達も、そして神に従わないばかりか、神の子の言葉を聞こうともしない人達をも含んでいます。皆が100%の愛を得ています。この愛に対する私達の答えはそれぞれ―90%、80%、50%、0%と違っていますが、しかし神様の私達への愛は常に100%です。神はあなたを愛しているのです!
 四旬節、そして特にコロナウィルスの不安な状況の間、神様のあなた方、あなた自身に対する無条件の愛をじっくり考えましょう。
 第一朗読の旧約の歴代誌(下)の中で、選ばれた民がいかに神を拒絶したかを読みました。彼らはバビロニア軍と戦うのに自分達の力を信じていました。神との契約を忘れて、他の国々と協定を結びました。彼らは征服され、遠いバビロンに捕囚として送られました。結局彼らは、これは神からの罰ではなく、全くの自分達の過ちであったと認めました。私達の神は罰する神ではありません。神はキュロス王を導き、彼らを解放しました。私達の神は慈しみ、愛の神であり、人間の弱さを理解しています。
 第二朗読(エフェソの教会への手紙2章4-10節)の中に次のようにあります。「憐み豊かな神は、私達をこの上なく愛してくださった。」(4節)
 そして今日の福音:「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
(16節)
 聖パウロは今日の朗読の中で、私達それぞれに対する神の愛を深めること、それこそが純粋な神からの賜物であるということを強調しています。
 「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(8節)
 今週は、私達がこの大いなる賜物を受けているということを祈りましょう。それは私達の毎日の生活の中に、新しい味わいをもたらしてくれる贈り物です。
 この贈り物を他の人々と分かち合いましょう。
 【神は愛です】(翻訳担当:三村)

四旬節第3主日 B年 2021年3月7日

聖書: 出エジプト記 20:1-17; コリントの教会への手紙 1:22-25; ヨハネ 2:13-25
 今日のお説教は、人間としての体を持ち、十字架に磔にされ拷問を受けたイエスのことを考えてみましょう。初めて教会の建物に入り十字架像を見た人の中には、ショックを受けるだけでなく、嫌悪感を持つ人もいると思います。なんて残酷なんだと。
 第二朗読では聖パウロは、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」と述べています(コリントの教会への手紙 1:22)。
 そうです。十字架上での苦しみは残酷です。磔刑は死に至るまで苦しい時間が長く続く刑で、ローマ軍により重罪を犯した者のみに科せられた刑でした。イエスは全くの無罪でしたが、わたしたちを救うためにこの死を受け入れました。十字架刑により、わたしたちは皆神様に近づくことができ、天国の門が開かれています。この十字架上の苦しみの裏にある神様の愛に思いを馳せましょう。自宅の壁または家庭祭壇の十字架を手に取り、長い時間見つめ、自分自身に「我が神イエスはこんなにも私を愛してくださる。イエスはわたしのために命を捧げてくれた」と言いましょう。
 遠藤周作さんは次のように書きました。
イエスは人間の味わうすべての苦しみと悲しみを味わいました。だから人間にむかって、ごらん、わたしがそばにいる、わたしもあなたとおなじように、いや、あなた以上に苦しんだんだ。(イエスの生涯 第十章)
とても癒やされるこの文章をかみしめましょう。真実なのです。復活された主イエスはいつもそばにいます。
 旧約聖書の時代、神殿は本来、神様に出会い語る静かな神聖な場所として建てられました。しかし騒がしい物売りの場所になっていました。新約聖書の時代に生きているわたしたしはとても恵まれています。キリストのおかげで教会でも自宅でも自由に神様と話せるからです。(復活されたイエスがそばにいるからです)祈りの中でイエスの愛を味わいましょう。イエスの愛を他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)

四旬節第2主日 B年 2021年2月28日

創世記2:1-18; 詩編 116; ロマ 8:31-34; マルコ 9:2-10 18
聖書を読むとき、その一節だけでなく、文脈の流れの中で理解することがとても大切です。例えば、今日の福音の変容の場面ですが、この前の部分で、イエスは12人の弟子に、自分が長老たちからひどい苦しみを受け、拒絶され殺されるだろうと言っています(マルコ8:31)。
もう一つ、イエスが真の人間であったことを思い起こすことも重要です(自分が神であることは、イエスは天国に置いてきてしまいました)。人であるイエスは、自分で決断しなければなりませんでした。このまま行くのか、それとも逃げようとするのか。その重要な選択と決断をするための導きを求め、イエスは3人の弟子と山(静かな場所)に登って祈りました。父なる神はイエスに「あなたは私の息子であり、私はあなたを愛している」と言われました(マルコ9:7)。神は人間イエスに、苦しみに立ち向かう勇気を与えてくださり、そして3人の弟子に「彼の言うことを聞きなさい」と言われました。
私たちは皆、人間です!皆、何らかの苦しみを経験します。イエスは今の私たちの(特にこのコロナウイルス感染の時代に)お手本です。正直に自分自身と向き合って、沸き起こる疑問について考えましょう:「私の将来はどうなるのか?病気や苦しみがやってきたら、どうなるだろう?私はどのように死ぬのだろう?」もちろん、こうした基本的な疑問は、私たちを不安にします。この不安を、自分と神との対話、すなわち祈りのテーマとしましょう。静かな心の中、神が私たちに語る言葉を聞くでしょう:「あなたは私の子、あなたを私は愛している。あなたに私の子イエスを与えよう。その声に耳を傾けなさい。」私たちは、勇気と慰めと強さと希望を受け取るでしょう。
イエスは今、天に帰り、人間の代表として私たちを執り成してくださっています(第二朗読 ローマ人への手紙8:34)。イエスがそばにいてくださるのですから、恐れることがあるでしょうか?
第一朗読の創世記22:1-18でも、文脈と背景がとても重要です。アブラハムは、神モレクのため人間を犠牲にするカナンの人々の中で暮らしていました。神はアブラハムに、一人息子を献げものとして殺すことを求めているように見えます。でも、この箇所を読むユダヤ人には、その背景が分かっていました。神は彼らに言っていたのです:「私は人間の献げものを望んでいない。神なる私が求めるのは、あなたが心を捧げ、私を信頼することである。」
父なる神は、愛する子として私を大切にすると約束してくださいました。その父なる神を、私は信頼しているでしょうか?静かな祈りの中でイエスに耳を傾けていますか?執り成しをイエスに願っていますか?信頼の賜物を求めていますか?そして、苦しみや試練の中にある他の人のため、祈っているでしょうか?(翻訳担当:相田)

四旬節第1主日 B年 2021年2月21日

創世記9:8-15;詩篇25; 1ペトロ3:18-22;マルコ1:12-15
みなさん、「コロナ疲れ」ですか?ストレスを感じていますか?不安な気持ちですか?
雄々しくあれ! 神様はあなたを愛しておられます。
今年の四旬節が始まりました!忘れないでください。
四旬節は自分が人生の旅路、その「道」をどう歩んでいるのかを考える季節(とき)です。
四旬節は喜びの季節です。今日の集会祈願でこのように祈っています。
「いつくしみ深い神よ、あなたはすべての人を神の国の喜びへと招いておられます。」
第一朗読の創世記(9:8-15)では6回、続く詩編(25章)には「契約」という言葉が語られています。
「契約」は特別な聖書の言葉であり、非常に深い意味を持っています。専門用語のようですが、実は、イエス様に従って生きる私たちの日常生活と深く関わっています。聖書の「契約」は、私たちを愛し、いつもともにいて、私たちを護ってくださるという、神様の厳粛な誓いです。この契約=誓いによって、神様は私たち人間に、温かい交わりを与え、温かい家族の一員として神様の子どもになるように私たちを招いてくださいます。神様が私たちに呼びかけてくださるのです。なんと素晴らしいことでしょう!なんという励ましでしょう!
神様との最初の契約(の誓い)は、ノア、後にアブラハム、そしてモーセです(旧約)。今日の私たちのため、イエス様は、最後の晩餐で「これはわたしの、新しい、永遠の契約の血である」と仰せになったとき、この契約(誓い)を更新なさいました。(新約)。神様のこの厳粛な誓いは、洗礼によって、教会をとおして、公式にかつ具体的に私たちに与えられます。受洗のときに神様は「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたの父である神、わたしはあなたを愛し、護り、あなたと共にいる」と約束されます。

さて、今日の福音を見てみましょう。これはイエス様からの最初のメッセージです。
「悔い改めて(回心して)福音を信じなさい」
「回心」とは、人生の「道」を歩む中で、新たなスタートを切ることです。(「道」は今日の詩篇25に5回出てきますね。)
私たち人間は一人残らず、人生の道を歩みながら、常に新しく出発しなくてはなりません。(四旬節は「新たなスタート」の特別なときです)。しかし、「回心」は、私たちが神様を信頼する、と約束することも意味します。 (契約は双方向・相互の約束です)。
「福音」は、私たち1人ひとりへの、イエス様からの喜びのメッセージです。神様は私たち1人ひとりを愛しておられます。神は私たちが弱いことをご存知です。
神様は私たちの「弱さにもかかわらず」ではなく、私たちの「弱さのゆえに」私たちを愛してくださいます。神様は私たちの力になりたいと願っておられます。神様は私たちに、神様の助けを受け入れる自由を与えてくださいます。これが、神様の無条件の愛です。この愛に応えましょう。
フランシスコ教皇様は、イエス様の中心的な教え(ケリグマ)について、このように話されます。

「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うためにいのちをささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」
                           福音の喜び164

コロナ禍の四旬節に、これらの励ましの言葉をゆっくりと黙想しましょう。そして、その愛と励ましを他の人と分かち合いましょう。

神様の豊かな祝福が皆さんの上にありますように
    回心して福音を信じなさい!      (翻訳担当:北尾)

年間第6主日 B年 2021年2月14日

聖書ヘブライ人への手紙4:15-16 詩篇32 マルコ1:40-45
 今日の福音はマルコ福音書の最初の部分でとても重要な場面です。(マルコ1章40-45節)この場面は又その当時の3つの密がある状況で、現在のコロナ禍における私達にも関係があります。
 聖マルコは、私達にどう祈ったらいいかを語っています。それは私達が祈っている時にイエス様が私達に対してどんな心、どのような姿勢でいらっしゃるかについてです。そしてそれはまた、私達が祈る時のイエス様に対する姿勢でもあります。
 イエスの時代の背景、習慣、人々の考え方を見てみましょう。これはとても重要です。重い皮膚病、つまりハンセン病は、感染力が強いために大変恐れられていました(今日のコロナのように!)。この病気を患っている者は、家からも家族からも追い出されていました。病気になった者は人々に近づくこと(密接)も許されないばかりか混雑した会堂(密閉・密集)にも入ることはできませんでした。人々は苦しんでいる人に触れることも禁じられていました。ファリサイ人たちは、この律法を堅く守っていました。しかしイエス様にとっては憐みが先にきます。
 福音の中のハンセン病患者は全身傷つき、淋しい気持ちで一杯です。ハンセン病患者は大胆に、信頼を持ってイエス様の所へ行きます。彼は心からイエス様にお願いし、イエス様を信じていました。
 イエス様はハンセン病患者に出会い、彼の痛みを見ました。そしてイエス様は深く、とても深く心を打たれました。イエス様は、彼と共に苦しまれました。ギリシャ語の原文で使われているこのイエス様の深い友愛と共感を表す言葉には、大変特別な深い意味があります。イエス様は今も私達に対してこの共感に満ちた心を持っていらっしゃいます。
 私達は今日、この奇跡そのものを強調するより、むしろその奇跡の裏にあるこの共感を考えましょう。何故なら、私達は今日も同じこのイエス様の愛と共感を味わうことが出来るからです。復活したイエス様は、「昨日も今日もまた永遠に変わることのない」方です。(ヘブライ人への手紙13章8節)
 私達の痛みと心配を、信頼と信じる心を持ってイエス様に委ねましょう。大胆でありましょう。この場面は私達の祈りの模範です。新約聖書のヘブライ人への手紙の中に私達はそれを読むことが出来ます。(ヘブライ人への手紙4章15-16節)
 「イエス様は私達の弱さを全てご存知です。罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私達と同様に試練に遭われたのです。だから、憐みをうけ、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4章15-16節)
 そして、マルコ福音書の中で、イエス様は亡くなる前の晩にオリーブの園で祈られました。「アッバ!父よ、この杯を私から取りのけて下さい。しかし私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ34章35-36節)
 これは慈しみの神に対する信頼の模範です。
だから、私達は祈る時、次のように祈りましょう。
1.イエス様の私達に対する深い友愛-共感を理解させて下さい。
2.素直にありのままの自分で、大胆に求めさせて下さい。
3.神様が私達に何が最良なのかを示して下さることを信じさせて下さい。(翻訳担当:三村)

年間第5主日 B年 2021年2月7日

聖書:ヨブ記7:1-7; 詩篇141; コリントの教会への手紙9:16-23; マルコ1:29-34
 今日の聖書朗読は、疲れている人、ストレスがある人、病気の人への励ましです。またコロナ渦に生きるわたしたちへの励ましでもあります。ヨブの言葉は神様への祈りです。ヨブは病気になり孤独で、絶望のもとにありました。ヨブは不平不満を神様に浴びせました。これはヨブの心からの真実でありのままの祈りでした。このような祈りは、神様がわたしたちにも望んでいるものです。わたしたちの真実で、飾り気のない、ありのままの祈りを神様は望んでいます。このような祈りは、神様に対し失礼だと思う人もいるかもしれません。神様はそのようには考えません。神様は祈りの中でのわたしたちの本当の気持ちを聞きたいのです。ぜひやってみてください。心の深いところで神様は私たちを愛していることを知っているので、わたしたちはそのように祈ることができます。
 福音書では、イエスは熱を出しているペテロのしゅうとめを治しました。イエスの時代発熱は重い病気でした。また詩篇147では、「神は失意の人々を支え、その傷をいやされる。」と書いてあります。
 イエスは神様の力により、ペテロのしゅうとめを治療したり、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやす(マルコ1:34)という奇跡を行いました。イエスが2000年前にこの世に居る時に行った奇跡は、神様がすべての人を愛しているということを示すため、また教会の礎を築きイエスの働きを継続させるためのものです。
 福音書でイエスの奇跡を読むときは、奇跡の面ではなく、奇跡の裏にある病人に対するイエスの優しさ、思いやり、共感に目を向けてください。イエスの慈しみを私たちも今日体験することができます。心や体のすべての痛みを持ってイエスのところに行きましょう。疲れ、ストレスそしてコロナ渦の不安をイエスに自分の言葉で語りましょう。もし怒りがあるのなら神様にぶつけましょう。祈りの中の怒りは信頼に変わります。今日の第二朗読のパウロのように、イエスがくれた慰めを他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:薩田)

年間第4主日 B年 2021年1月31日

聖書: 申命記 18:15-20; 詩篇 95; マルコ 1:21-28
先週、ヨナ書を全部読みましたか?旧約聖書のこの美しくユーモラスなたとえ話の、神様からのメッセージは次のようなものです。私たちの神様は罰する神ではありません。それどころか、私たちの神様は私たちの欠点を理解し、忍耐強く対応してくださいます。愛に満ちた私たちの神様は、ご自分のもとに戻るよう、いつも呼びかけを繰り返しておられます。私たちの神様は、私たちがご自分の愛に戻るのを辛抱強く待っておられます。たとえ話の中で、神様はヨナにそのようにされました。それが、今日の私たちに対する、神様の優しい接し方なのです。
今日の福音書で、このメッセージが続けられています。イエス様が教え始められています。イエス様の教えは、天からの喜びの知らせであり、私たちはこれを福音と呼んでいます。今日の福音書に、イエス様の教えを聞いた人々の反応が書かれています。「これは新しい教えで、権威がある」(マルコ 1:27)。イエス様の教えには権威があります。真の神様からの教えだからです。第一朗読では、神様がキリストについて語っています:「その口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるだろう」(申命記18:18)。
イエス様の教えは何でしょう?イエス様のメッセージの中心は、神様は一人一人を無条件の愛で愛しておられるということです。つまり、神様は良い人も悪い人も同じ100%の愛で愛しておられます。良い人はそれを知り、愛を返すのです。
この無条件の愛は、聖書の中で様々な形で表現されています。例えば、次のようです。
1. 神様は愛です(1ヨハネ 4:8)。
2. 放蕩息子の私たちが彼の愛に戻ると、寛大な父なる神様が喜びをもって迎えてくださる(ルカ 15:11-32)。
3. 最後の晩餐で、イエス様は私たち一人一人に「あなたは私の友だ」と言われました(ヨハネ 15:15)。
4. 子供である私たちと神様の暖かく親密な関係を表現するために、イエス様は神様を「アッバ」と 呼ばれました(マルコ 14:36、ローマ 8:15)。「アッバ」は、やさしいお父ちゃんに対する、幼子の信頼に満ちた言葉です。
私たちは、この愛に満ち思いやりのある神様と対話し、コミュニケーションをとるよう呼ばれています。
普通の生活の中で、こんな場面を想像してみてください。あなたに、とても特別な親友がいると想像してください。その友人は「金曜日の朝に電話する」と約束します。金曜日、あなたはわざと、あるいは不注意で、電話が鳴っても出ないのです!そんなこと、考えられないですね!!
神様は聖書を通して私たちに語りかけています。私たちは聖書を開いていますか?神様は祈りの中で私たちに語りかけてくれます。私たちは祈っていますか?
「イエス様の教え」について話していますが、この教えは、頭よりも心のためのものです。私たちは、この教えを日々の生活や祈りの中に取り入れるよう招かれています。
自分自身に問いかけてみましょう。「私は、神様が、あるがままの私を個人的に愛してくださっていると、本当に信じているでしょうか?」「イエス様は私の個人的な友人ですか?喜びも悲しみもすべてイエス様に友人として語りかけていますか?」
イエス様に同伴者として助けを求めながら、イエス様と共に人生の道を歩んでいるでしょうか?
神様の権威からの、これらの真理をよく考えてみましょう。不安に満ちたこのコロナの時代に、イエス様は私たちに平安をもたらしてくださいます。さあ、私たちの希望と平安を他の人と分かち合おうではありませんか。イエス様は、助けを求め来るように、私たちを招かれています。
「疲れている者、悩みを抱えている者は皆、私のところに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28) (翻訳担当:相田)

年間第3主日 B年 2021年1月24日

聖書:ヨナ3.1-5,10詩篇25マルコ1:14-20

コロナ禍と呼ばれる今、私たちは自己中心的になりがちです!自分が感染するのではないか、
とにかく心配です。どんどん孤立し、考えるのは自分のことだけになってしまいます!
私(ケンズ)は皆さんに、そのような状況にある今、聖書を開き、旧約聖書のヨナ書を読むことをお勧めします。ヨナ書の初めから終わりまで読んでください。30分で読み終わります。ヨナ書は短く(優しい)皮肉混じりのユーモアと今日の私たちへのメッセージを含んでいます。
ヨナ書は歴史書ではありません。今日、あなたと私への神様からのメッセージである、物語・
たとえ話・寓話のようなものです。
ヨナは神様から、東のニネベという都に行くようにと使命を受けますが、こう言って反対します。 「神様、ニネベの人々は異教徒で罪人です。彼らは私たちとは違う人たちです!彼らはあなたの慈しみに値(あたい)しません!」そして、ヨナはスペインのタルシシュに行く船に乗り、ニネべと反対方向(西の最果て)に向かって神様から逃げ出し、他の人のために善い行い(神の言葉を伝える)をするように、という神様の呼びかけに応えませんでした。激しい嵐が起こり、ヨナの乗った船は難破しそうになりました!異教の船乗りたちが彼らの神に祈る中、「信仰深いユダヤ人」のはずのヨナは船底でぐっすりと寝込んでいました!ヨナは船乗りたちに、嵐は自分のせいなので自分を船外に放り出せ、と言います。初め、船乗りたちは断りましたが、それでもヨナは投げ出すように言い張ります。結局、ヨナは海に放り出され、巨大な魚(鯨?)に飲み込まれます。 3日後、魚はヨナを陸地に吐き出します。ヨナはニネベに行き、神の言葉を告げます。ニネべの人々は悔い改め、神様は彼らにゆるしと慈しみを与えました。しかし、ヨナは大いに不満です!ヨナに木陰を与えてくれた木さえも神様に枯らされ、暑さの中でぐったりしています.....ここで物語は、唐突に終わります!!

ヨナが、自分に与えられた神様の愛と慈しみと、神様の被造物に対する無条件の愛を受け入れたかどうか、物語の中で語られていません。 ヨナは私たち一人一人の代表で、私たちは、自分自身の物語の結末を選ぶように求められているからです。そのために、ヨナ書は「尻切れトンボ」のような終わり方になっています。
私は、愛である神様が私を慈しみで包み込んでくださっていることを今すぐ受け入れ、人生の嵐の中で神様に信頼を置くでしょうか?
そして、神様が被造物すべてに対して無条件の愛を注いでおられることを信じ、私自身も実践するでしょうか?
それは、現実の中での具体的な行いを意味していますが、私はこのコロナの嵐の中で他の人に愛と励ましを差し出しているでしょうか?
私は神様の慈しみを信頼しているでしょうか?
自己中心的になって、自分のことだけを考えていないでしょうか?
今日、イエスはあなたと私をお呼びになります。
イエスの呼びかけに応えて、このコロナの嵐の中で真の幸福を得ましょう。(翻訳担当:北尾)

年間第2主日 B年 2021年1月17日

司祭不在のため2018年の説教を掲載しています
聖書:サムエル記上 3:3-19;詩篇 40:ヨハネ 1:35-42
 イエス様は今日、私たちと共に生きておられます。イエス様は特に福音を通して、生きている声で私たちに語りかけます。今日イエスは私達一人ひとりに重要な言葉をかけられます。
「何を求めているのか?」
 私が自分自身に直面して「人生で一番欲しいものは何だろう」と思い巡らすと、初めにイエス様に答えるのは「健康と視力を望みます」だと思います。しかし、さらに深く思い巡らせこう答えます。「私はあなたに出会って、あなたをもっと深く知りたい」イエス様も私におっしゃいます。「来て、見なさい」 これは優しく素晴らしい招待状です。
 私は若いころからそして今でも聖アウグスチヌスの祈りが心に響いています。「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休まることはありません」
 イエス様は私たち一人ひとりに「何を求めているのか?」と問いかけておられます。イエス様は私たち一人ひとりに、温かいもてなしを受けるためにイエス様のもとに来るよう招いておられます。具体的には祈りの中でイエス様と一緒に静かな時間を過ごすよう、私たちに勧めています。
 祈りの中でイエス様に会いに行くとき、このように始めましょう。まず「主よ、私はここにいます。お話しください。私は聴いています。」と話し、しばらく沈黙します。沈黙の後、自分自身の言葉で願いをイエス様に伝えましょう。このように祈る時には聖書がとてもよい助けとなります。
 現代社会で、私たちはとても忙しく、多くの音に囲まれています!私たちは心を騒がせる雑音を止める方法を学ばなければなりません。スマートフォンを別の部屋に置いておくとか…?
 主は、祈りの中でご自分と会うようにといつも呼びかけておられます。主がサムエルを4 回も呼ばなければならなかったことを忘れないで!神の呼びかけに敏感でいましょう。
 今日の福音に出てくる 2 人の弟子たちは、イエス様と初めて会ったのが午後 4 時ごろだったことを後々まで覚えていました。
 祈りの中でイエス様に会いましょう。そしてイエス様の平和と励ましを味わいましょう。今日の福音のアンデレがしたようにイエス様の平和と励ましを他の人と分かち合いましょう。

主の洗礼 B年 2021年1月10日

聖書:イザヤ55:1-11 イザヤ12:2-5 使徒ヨハネの手紙5:1-9 マルコ1:7-11
 非常事態宣言が再び発令されました。コロナウィルスの感染が一日に東京では2000人、神奈川でも800人を超えています。私達を重い暗雲が覆っています。いつになったらこの危機が終わるのでしょうか?私達の神様はどこにおられるのでしょう?
 私達は元気がなくなり、寂しく、恐れに満ち、そして大変疲れてきています。私達の神様は、そんな私達を見守り、そばにいて私達を支えておられます。今日の聖書朗読を通して、神様は私達に生きている声で語りかけています。(思い出して下さい。聖書の言葉はいつも永遠に現在形です。それは昔神様が言った言葉が今日も私達に生きた言葉として繰り返されているということです。)神様はこのコロナ禍の中で、私達に「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。・・何故満たさぬものにお金を費やすのか・・・主を尋ね求めよ、見いだし得るときに、呼び求めよ、近くにいますうちに。」(イザヤ書55章1節と6節)と仰っているのです。これらの言葉は私達にイエス様の言葉として繰り返されています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)
 この大変な状況の中で、皆さんの司祭として、私は強調します。私達の神であるイエス様のもとへ行きましょう、そして、イエス様にあなたの家族、友人、横浜の人々、そして、日本の全ての人達を助けて下さるように頼みましょう。イエス様は特にこの緊急事態の自粛中には、あなた自身の家に、あなたの近くにおられます。今日の答唱詩編の言葉の中にある「神は私の力」。どうぞ、イエス様に会いたいと渇き求めて下さい。イエス様は近くにいてあなたの声をお聞きになります。イエス様は私達に平和を与えて下さる。私達にはそれが必要です!
 聖書にはイエス様が列に加わって洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面が描かれています。洗礼者ヨハネの洗礼は罪びとの為のものでした。何故、罪のないイエス様が洗礼をお受けになったのでしょう?このことは、象徴的な深い意味のある行動です。イエス様はこの行為を通して、私達罪人と共にいるということを私達に告げておられるのです。そして又、イエス様は私達がどんなに弱い存在であるかも理解していらっしゃいます。イエス様は決して非難しません。― イエス様は私達のそばに共にいて、私達を理解して下さいます。声が聞こえます。「あなたは私の愛する子」(マルコ1章11節)これと同じ言葉が私達の洗礼の時にも言われているのです。私達は神様の愛に包まれています。神様の深い愛に気付くことができるようにとお願いしましょう。そして他の人達とその愛をいつも分かち合いましょう。(翻訳担当:三村)

主の公現 B年 2021年1月3日

聖書: イザヤ 60:1-6; 詩篇 72; エフェソ 3:2-6; マタイ 2:1-12
 コロナウイルスによる暗黒が私たちを覆っています。しかし、今日の聖書朗読では、神様は希望と励ましを与えています。「暗黒が国々を覆うが、あなたの上には主が輝き出る」(イザヤ60:2)
 イエスが生まれたとき羊飼たちが、崇めるために馬小屋に来ました。羊飼たちはユダヤ教徒を表します。その後東方から三人の学者たちがイエスを崇めるためにやって来ました。学者たちは、異教徒を表します。つまり、学者たちはわたしたちを表しています。イエスがもたらす平和、救い、才能は、すべての国々のためのものです。
 三人の学者は、人生の意味を教えてくれる人に出会うことを強く願っていました。神様は、イエスのところに導く星を、学者たちに示しました。年始にあたりまたコロナウイルス感染の最中、自分の心を深く見つめましょう。平和、幸福、人生の意味に対する強い願望があることに気づくでしょう。この願望は人間の一部です。神様だけが、人間の心の願望を満たすことができます。わたしたちは、多忙になること、モノにこだわること、自分の喜び、出世などによって、この願望から目をそらすことができます。言い方を変えれば、道に迷うことになります。
 神様は、わたしたちに道案内の星を与えています。すなわち、イエス自身と教えです。イエスは言われます。「私は道である」。イエスはわたしたちの同伴者です。祈りの中でイエスのもとに行きましょう。自分の言葉で、心の中の強い願いや抱えている問題をイエスに伝えましょう。
 三人の学者がしたように、イエスに贈り物をしましょう。黄金の代わりにコロナウイルスの危機の中で孤独な人に親切というプレゼントをあげましょう。恨みを抱いている人がいるならば、乳香の代わりに寛容さを見せましょう。もつ薬の代わりに、良いことをした人がいれば褒めて、感謝しましょう。神様に信仰の恵みに感謝し、他の人と分かち合いましょう。
(翻訳担当:薩田)

聖家族 B年 2020年12月27日

聖書:創世記 15:1-6; 詩篇 105; ヘブライ 11:8-19;ルカ 2:22-40
コロナウイルスが暗く重い霧のように私たちを包んでいます。感染が警戒レベルに達しています。このコロナの混乱の中、私たちの神はどこにいるのでしょうか?不安と孤独が多くあります。
神は苦しみ(あるいはウイルス)を取り去ると約束していません。神の約束は、私たちのそばにいて、私たちが苦しみにあうとき、私たちを強め、守ってくださるということです。この神の約束にしっかりとしがみついていきましょう。私たちは神を信頼しなければなりません。
聖書の中で、アブラハムは神の約束への信頼の模範として示されています。アブラハムは神から、町にある安全な家を出て、砂漠を遊牧するよう求められました。神は言われました。「アブラハムよ、恐れるな。私はあなたの盾である(盾は攻撃を防ぐための武具なので、この神の言葉は、「私があなたを守る」ということです)。アブラハムは神を信頼し、目的地を知らないまま旅立ちました(ヘブライ 11:8)。
未来に私たちに何が起きるか、私たちにはわかりません。しかし、洗礼のとき、神は(教会を通して)「恐れるな。私はあなたと共にいる。私があなたを守る。」と尊い約束をされるのです。
この約束を信頼するには、助けが必要です。福音書の中のシメオンのように、私たちも聖霊の導きにしたがい、力添えを頼みましょう。イエスの母マリアもまた、苦しみにあうと言われました。マリアは信頼して詩篇を祈りました。「神のはからいは限りなく、生涯、私はその中に生きる」(詩篇139)。
イエスは地上での暮らしの中、人々の苦しみを心の奥深く感じておられました。私たちの神は、今日、私たちにも同じようにされます。私たちの神イエスは、共感深い方です。特にこのコロナの危機の中、家族の安全が守られるよう、イエスに祈り、願いましょう。(翻訳担当:相田)

主の降誕 B年 2020年12月25日

聖書:イザヤ9:1-6 詩篇96 テトス2:11-14 ルカ2:1-14

コロナ禍で悲しみと孤独、どんよりした雰囲気に包まれている今、私たちには励ましが必要です。
神様は、今日の「みことば」をとおして、私たちに励ましを与えてくださいます。
「私は大きな喜びを告げる」(ルカ2:10)。
旅行や訪問が制限されている コロナ禍の暗がりを過ごす間、私たちには慰めの光が必要です。
「死の影の地に住む者の上に光が輝いた」(イザヤ9:1)
神様は、苦しみやウイルスをなくすことを約束なさいません。私たちが苦しみに出会うとき、支えと勇気と力、すなわち「心の平安」を与える、と神様は厳かに約束されます。
神様は私たち人間を愛し、苦しみの中で私たちと共におられることを具体的に示してくださいます。神様は、その力と栄光を脇に置いて天から降り、私たちと同じ姿・真の人間になられました。これが主の降誕の意味です。私たちの神様であるイエス・キリストは私たちの心の平安の源です。 「地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。
平和を味わうためにイエス様のところに行きましょう。
イエス様は私たちの人生の旅路の同伴者です。私たちは決して独りぼっちではありません。このコロナ禍で孤独を感じたら、イエス様のこの言葉を思い出してください。
「私はいつもあなたと共にいる」
これが、イエス様のご降誕の本当の意味です。
フランシスコ教皇様は私たちに、慰めの言葉を書いています。
「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うためにいのちをささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」(福音の喜び#164)。
ゆっくり、とてもゆっくりと この言葉を味わいましょう。
地上の生活をとおして、イエス様は私たち人間に神様の心を示してくださいました。復活したイエス様は、今日も変わらない優しい心を持っておられます。祈りの中でイエスのところに行き、イエス様の慈しみを願いましょう。
そして、イエス様の平和、慰め、力づけを他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:北尾)

待降節第4主日 B年 2020年12月20日

聖書:サムエル記下7:1-16 詩篇89 ローマ書16:25-27 ルカ1:26-38
 私達は今、いつもと違う不安が一杯の雰囲気の中に暮らしています。コロナウィルスによる感染が増えています。この混乱と心配の中で、一体神様はどこにおられるのでしょうか?この最も重要な疑問に対する答えは、今日の聖書朗読の中にあります。イエス様は全ての苦しみを取り去ると約束された訳ではありません。しかしイエス様は、私達が苦しむ時に私達と一緒にいてくださると真剣に約束して下さったのです。このコロナの時にこそ、私達はその励ましを必要としています。
 第一朗読(サムエル記下7章9)において、神様はダビデに次のように言っています。「私はあなたと共にいる・・・私はあなたがどこへ行こうとも、私はあなたと共にいる。」詩篇89においても、私達は神様がこう仰っているのを聞きます。「私の手はいつもあなたと共にある。」そして、福音書の中で神のみ使いは、マリアに次のように言っています。「主はあなたと共にいる。」そして、イエス様のこの世での最後の言葉、「私はいつもあなた方と共にいるでしょう。」
 これらの特別な人達に対する、そばにいつもいるという神様の約束は、また私達普通の人々に対しても約束されたことなのです。
 私達の神様は空の彼方にいらっしゃるのではありません。私達の神様は遠くにいるのではなく、そして私達に無関心でもありません。私達の神様がいかに愛に満ち、近づき易く、慈悲深く、そして、私達人間と親密であるかということを明らかに示すために、神様ご自身が人間になられたのです。
 フランシスコ教皇は、私達に次のようなメッセージを書いておられます。「キリストはあなたを愛しておられます・・・そして、キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放して下さいます。」(エヴァンゲリ・ガウディウム#164)この励ましの言葉を深く考えましょう。
  神様ご自身が私達と同じ人間性を受けられたので、私達に身近な存在になり、私達と喜びも悲しみも分かちあうことが出来るようになったのです。これが本当のクリスマスの意味です。ここに私達は飼い葉桶の中の幼子を見ることが出来ます。― これは現実に人間として現れた神様です。私達の神であるイエス様は、このコロナ禍の中の孤独や淋しさ、不自由さ、心配という体験を今まさに私達と共にしてくださっています。この時期おいて、私達一人一人に対する生きている声としての神様からのメッセージは、「恐れるな!私はあなたと共にいる。」です。これは真の慰め、そして励ましです。
「あなたと共に」という言葉は、短いがとてもとても大事な言葉です。(翻訳担当:三村)

待降節第3主日 B年 2020年12月13日

聖書:イザヤ 61:1-11; ルカ 1:46-55; テサロニケ 5:16-24; ヨハネ 1:6-28
 イエスは、日常の会話から言葉を選び、とても深い霊的な意味を与えています。例えば、父、愛、平和、忍耐、そして喜びなどがあります。今日の典礼では、”喜び”という言葉が13回使われています。聖書の中では、”喜び”という言葉は、特別で深い霊的な意味があります。
 世の中の一般的な人たちは、「コロナウイルスのパンデミックの真っ最中に、喜びなんて得られるのでしょうか」と疑問に思うでしょう。先日の金曜日には神奈川県では285名、東京都では595名(木曜日は602名)の感染者が報告されました。日本では、2,553名がこのウイルスにより亡くなりました。暗雲が日本全体を覆っています。感染への恐怖を皆もっています。いったい、聖書の喜びとはなんでしょうか。
 テレビのコマーシャルでは、あるサプリメント薬を飲んだり、特別な食べ物を食べたり、ブランド物の化粧品を使うことで、喜びが得られると言っています。
 聖書の喜びは、もっと、ずっと、深い意味があります。聖書の喜びは、まっすぐに心の中に入ってきます。この喜びを味わうステップを次に示します。
1.聖書の喜びは、聖霊からの純粋な贈り物です。わたしたちの神様は、惜しみもなくこの天から贈り物をわたしたちに与え、お互いに助け合うことを求めています。
2.自分の弱さを認め、神様に喜びという贈り物を求めましょう。
3.自己中心は喜びが心に入ってくるのを妨げます。自分を忘れ、他の人を思いやりましょう。他の人を慰めることで、喜びが与えられます。
4.神様が造られた自然の美しさを思いましょう。自然の美しさはわたしたちに喜びをもたらします。
5.同じように、他の人の良い点を見つけましょう。神様にその人を遣わしてくれたことに感謝しましょう。自分と比べたり妬むことはしてはいけません。
6.次のことは最も重要です。祈りの中で神様に向き合い、無条件の愛で神様はありのままの自分を愛してくれることに気づきましょう。信仰の熱心さにかかわらず、神様は100%の愛で、一人ひとりを愛してくださいます。神様の愛は様々な形で示されます。特に苦しみの中にある時、わたしたちの神であるイエスは、わたしたちに寄り添い、支え、勇気と忍耐を与えてくださいます。わたしたちは決して孤独ではありません。ですから、苦しみの中でも聖書の喜びを味わうことができます。このことは矛盾しているようですが、真実なのです。(翻訳担当:薩田)

待降節第2主日 B年 2020年12月6日

聖書:イザヤ 40:1-11; 詩篇 85; マルコ1:1-8
コロナウイルス感染者の数が再び増えています!この危険はいつになったら止まるのでしょう!多くの人が制限され、落ち込んでいます。日本中を不安感がおおっています。この状態は、今日の第一朗読で、神様がイザヤを通して語りかけた、バビロンに捕らわれていた人々と似ています。神様はこのような落ち込んだ人々に希望を与えます。今日の典礼でも、神様は同じように希望のメッセージを与えてくださいます。希望は待降節のテーマです。
今日の主日の典礼におけるキーワードは、道、です。道は初期のキリスト者にとって、とても特別な言葉でした。洗礼によって、彼らはイエスの道(キリスト道)に入りました。つまり、初期のキリスト者は、自分たちが復活したイエスご自身と一緒に人生の道を歩いていると考えていたのです。この考え方を、私たち自身の日常生活に取り入れてみましょう。私たちは決して一人で歩いているわけではありません。イエス様はいつも私たちと一緒に歩まれています。イエス様は私たちの旅の同伴者です。この言葉をよく味わってください。これが私たちの希望の源です。イエス様は「私は道である」(ヨハネ14:6)と言われています。「私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ 13:5)とも言っています。何という希望でしょう!
今日のマルコ福音書の一行目に「イエス・キリストの福音」とあります。私たちは「福音」という言葉を頻繁に使うので、「喜ばしい知らせ」という、深い意味を忘れがちです。このメッセージはいつも新しく、いつも喜びに満ちたものです。そのメッセージとは「神様は私たち一人一人を無条件に愛しておられる」というものです。それが私たちの希望の根底にあるのです。神様は私を愛しておられます。神様が私を大切にしてくださるから、未来を神様の手に委ねることができるのです。希望の恩恵は、私たちの人生の道の将来につながっています。私たちの神様は生きた声で「恐れるな。私はあなたを名前で呼ぶ。あなたは私の目に価高く、私はあなたを愛している。恐れてはいけない、私があなたと共にいるのだから(イザヤ43:1-5)。」苦しみに遭遇しても、イエス様は私たちの側にいて、助けと力と勇気を与えてくださいます。復活された主イエスは、私たちの傍らで人生の道を歩まれています。イエス様は私たちの旅の同伴者です。ですから、私たちには希望があります。私たちは、他の人のために、この希望の道具となりましょう。
追伸 カトリック・ピエタの修道女たちのカレンダーにこんな言葉がありました:「与え、ささえ、励ましあおう いま ここで」―――コロナ禍の中にある私たちにとって、大切な言葉だと思います。(翻訳担当:相田)

待降節第1主日 B年 2020年11月29日

聖書:イザヤ63:16-64:2-7詩編80 1コリ1:3-9マルコ13:33-37
私たちは「神」という言葉をよく使います。今日朗読される福音で私たちは、その言葉が意味するもの(こと)を考えます。そのような考察は私たちの祈りと日々の生き方に、とても大切です。

1.「主よ、あなたはわたしたちの父です」(イザヤ63:16)実際、イエス様ご自身、小さな子供がお父さんに呼びかけるときの、「アッバ」を使っています。この「私たちの父」は、私たちの神様が優しく、私たちを気にかけている父親であることに加え、私たちが神様に愛されている子どもであることを強調しています。父なる神は、私たち一人一人を特別な子どもとしてよく知っておられます。私たちの弱さをご存じで、私たちを赦してくださいます。私たちの神様は慈しみに満ちた方です。
2.神は私たちの贖(あがな)い主です。贖い主とは、人に自由を与えるために身代金を払う人のことです。イエス様は私たちに平安と平和をお与えになるために、身代金としてご自分の命をお払いになりました。イエス様は十字架上の死によって、私たちのために天国の門を開いてくださったのです。
3.「神様は陶工で、わたしたちは粘土です」(イザヤ64:7)。陶工である神様は優しい手を持ち、ご自身の作品(私たち)を誇りに思っておられますが、私たちが容易に壊れてしまうこともご存じです。
4.神様は私たちを「牧するかた」です(詩篇80)。イエス様は言われます「私は自分の羊を名前で呼ぶ。」私たちの神であるイエス様は私たちを護り、導かれます。イエス様は私たちを愛し、迷子になった私たちを探してくださいます。
5.神様はブドウ園の管理人です。神様はブドウの木(私たち)を世話し、実を結ぶための栄養を与え、ブドウの木を守ります。聖書に出てくる「陶工」、「牧者」、「ブドウ園の管理人」は特別な意味を持つ「たとえ話」です。
6.パウロ(1コリント1:3-9)は、私たちの神様は寛容で、贈り物を注いでくださる と私たちに告げています。寛大で慈しみ深い神様に信頼をおきましょう。私たちは、信頼のうちに、人生の終わりまで神様に堅く護られ、天国に入ることができます。
7.神は真実な方です(1コリント3:9)。受洗のとき、神様は私たちに荘厳な約束をしてくださいます。「あなたはわたしの子。わたしはいつも、あなたとともにいて、あなたを護る」。 「真実」なかたである、ということは、神様がいかなるときも、この約束を守られることを意味します。私たちが神様を忘れたり、神様から離れたりしても、神様ご自身は約束を守られます。
福音の中でイエス様は私たちに3回言われます:「目を覚ましなさい」。神様の慈愛を決して忘れず、神様とこれまで以上にしっかりと繋がっていきましょう。そして、神様の愛を他の人と分かち合いましょう。(翻訳担当:北尾)

王であるキリスト B年 2020年11月22日

聖書:エゼキエルの預言34:11-17 詩篇23 1コリントの教会への手紙15:20-28     マタイ25:31-46
 ある時、イエス様は質問をされて、その答えがこの世で最も重要だと答えられました。その質問は、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」というもので、それに対するイエス様の答えは、「心を尽くして神様を愛しなさい。そして、自分自身を愛するように、あなたの隣人をも愛しなさい。」ということでした。その質問をした男は、それからまた次のように尋ねました。「私の隣人とは誰ですか?私はどのようにその人を愛すればいいのでしょうか?」ルカ福音書の中で、イエス様が示している答えは良きサマリア人のたとえ話です。(ルカ福音書10章5節)つまり、私がどこかで出会う誰もが私の隣人です。今日の福音書(マタイ25章)の中で、イエス様は誰が隣人で、その隣人をどのように愛したら良いかを6つ実例で示しています。それらは、永遠の命を受け継ぐ為の6つのわかり易い道しるべです。聖書学者達は、これらが厳しい審判者の規則ではないことを強調しています。これらの6つの道しるべは、羊飼いのイエス様、それぞれの羊の名前を知っていて、その弱さを理解し、そしてかれらを愛している羊飼いである優しいイエス様から示されたものなのです。(今日のミサのエゼキエル書34章と詩篇23)

 これらの6つの道しるべは1.飢えている人に食物を与え2.喉が渇いている人に水を飲ませ3.見知らぬ人やよそから来た人を温かくもてなし4.寒くて着る物がない人に衣服を与え5.病気の人や一人ぼっちの人を見舞い6.牢にいる人、又心を閉ざしている人を訪ねなさいということです。私達がそのように行う時、私達は実際にイエス様自身に対してそうしていることになるのです。

フランス、トゥールの聖マルタン(316-397)は、傭兵としてローマの軍隊にいたキリスト者でした。ある冬の日、彼は寒さの中で震えているホームレスの男に出会いました。マルタンは、剣で自分の軍服のマントを半分裂いて、それをその物乞いにやりました。その夜彼は夢の中で、天国にいる軍服のマントを半分まとったイエス様に出会いました。イエス様は、私達に永遠の命を受け継ぐ為の6つの方法を示して下さっています。ですから、これらのことを実践することが、私達一人一人にとってきわめて大事なことなのです。(翻訳担当:三村)

年間第19主日 2020年8月9日

聖書:列王記19:9-13詩篇85マタイ14:22-33
世界は今、新型コロナ禍という嵐の真っただ中にあり、松井一實広島市長が平和宣言(2020.8.6)で述べた「自国第一主義」という名の嵐によって国々が衝突しています。この嵐の中で、神様は私たちと共におられるのでしょうか? はい!確かにおられます!
教会も嵐の中にいます。 (ここでの「教会」は組織ではなく、人々の意味です。)先週、私はアイルランド・フランス・ドイツ・韓国等、カトリック信徒数が多い国々の記事を読みました。 ミサの数は減り、召命も減っています(醜聞も)。聖書の言葉で言うならば、私たちは嵐の中にいます。イエス様は私たちを気にかけ、傍にいてくださっているでしょうか?はい!いてくださいます!
私たち1人ひとりは人生で嵐に遭うでしょう?しばしば私たちは独りぼっちだと強く感じます。そんなとき、神様はどこか遠くにいるようです。病気や心配ごと、ストレス、人との関係が絶たれてしまったり、失業したりなど様々な嵐があります。この新型コロナウィルスそのものに感染してしまう恐怖もあり、今、私たちは独りで嵐の中にいるようです。はたしてイエス様は、独りぼっちの私と一緒にいてくださるのでしょうか?はい!確かに! 
今日の福音のメッセージはここにあります。イエス様はあなた方1人ひとりに、生きている声で語りかけておられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。典礼聖歌の言葉で祈りましょう。『力のみことばを わたしにも聴かせてください』
あなたは自分の信仰が弱いと感じていますか?ペトロもそうでした。信仰の薄いペトロは、強い風と高波で湖に沈みかけました。絶望の中でペトロは絶叫しながら祈りました。「主よ、助けてください!」イエスはすぐに手をのばし、ペトロの手をしっかりと握ってくださいました。イエス様は私たちの弱い信仰を分かっておられ、私たちの弱い信仰を罰する方ではありません。
私たちは「自己中心的」な、「自分第一主義的」な祈りはやめましょう。まず、全世界のために、健康と平和のために、教会のために、今、嵐の真っただ中にいる人々のために祈りましょう。その後で、自分のために祈りましょう。
『神は恵みを注ぎ・・・平和はその足跡に従う』詩編85:14。 (翻訳担当:北尾)

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