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主日の説教

主日の説教

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年間第2主日 B年 2018年1月14日

聖書朗読:サムエル記上3:3-19;詩篇40:ヨハネ1:35-42

イエス様は今日、私たちと共に生きておられます。イエス様は特に福音を通して、生きている声で私たちに語りかけます。今日イエスは私達一人ひとりに重要な言葉をかけられます。
「何を求めているのか?」
私が自分自身に直面して「人生で一番欲しいものは何だろう」と思い巡らすと、初めにイエス様に答えるのは「健康と視力を望みます」だと思います。しかし、さらに深く思い巡らせこう答えます。「私はあなたに出会って、あなたをもっと深く知りたい」イエス様も私におっしゃいます。「来て、見なさい」 これは優しく素晴らしい招待状です。
私は若いころからそして今でも聖アウグスチヌスの祈りが心に響いています。「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休まることはありません」
イエス様は私たち一人ひとりに「何を求めているのか?」と問いかけておられます。イエス様は私たち一人ひとりに、温かいもてなしを受けるためにイエス様のもとに来るよう招いておられます。具体的には祈りの中でイエス様と一緒に静かな時間を過ごすよう、私たちに勧めています。

祈りの中でイエス様に会いに行くとき、このように始めましょう。まず「主よ、私はここにいます。お話しください。私は聴いています。」と話し、しばらく沈黙します。沈黙の後、自分自身の言葉で願いをイエス様に伝えましょう。このように祈る時には聖書がとてもよい助けとなります。
現代社会で、私たちはとても忙しく、多くの音に囲まれています!私たちは心を騒がせる雑音を止める方法を学ばなければなりません。スマートフォンを別の部屋に置いておくとか…?
主は、祈りの中でご自分と会うようにといつも呼びかけておられます。主がサムエルを4回も呼ばなければならなかったことを忘れないで!神の呼びかけに敏感でいましょう。
今日の福音に出てくる2人の弟子たちは、イエス様と初めて会ったのが午後4時ごろだったことを後々まで覚えていました。
祈りの中でイエス様に会いましょう。そしてイエス様の平和と励ましを味わいましょう。今日の福音のアンデレがしたようにイエス様の平和と励ましを他の人と分かち合いましょう。(北尾)

主の公現 B年 2018年1月7日

聖書朗読:イザヤ 60:1-6; 詩編 72; エフェソ 3:2-6; マタイ 2:1-12
今日は「主の公現」の祝日です。この祝日で、神様が御子をすべての国に現わされた出来事が思い起こされます。聖書には、後世の私たちに深い意味を持つ歴史的な出来事が、たびたび述べられています。例えば、ユダヤ人の人々は、約束の救い主を1000年も待ち望んでいましたが、イエス様に最初に会うように呼ばれたのは、祭司たちではなく素朴な羊飼いたちでした。この羊飼いたちがユダヤ人の代表でした。今日の福音には東方からやってきたユダヤ人ではない3人が登場します。この3人は、世界のすべての国を代表しています。この3人は貴方であり私なのです!
この3人は「賢人」と呼ばれています。どういうことかというと、この3人は自然-太陽、月、星について研究していて、創造主の人間を超えた力を知っていたのです。そして、大地の上での人生の意味について探索し、この力によって強められ導かれることを望んでいました。彼らは特別な星を見つけて、その導きに従い、その星は彼らをイエス様の元に導きます。彼らはこれを受け入れ、イエス様を彼らの神として敬愛します。イエス様は彼らの力となり案内者となったのです。心にいっぱいの感謝を表して、彼らはイエス様に贈り物を捧げました。
現代の私たちへのメッセージとチャレンジは次のようです:私たちは、星や月、花などを見て、これらの自然を創造した方について思いめぐらすでしょうか?それとも当たり前のこととしてしまうのでしょうか?私たちは神様を探し求めているでしょうか?私たちを導く星-聖書を読んでいるでしょうか?私たちは本当にイエス様に出会い、心に愛をもって受け入れているでしょうか?ご自身を私たちに表わしてくださったお恵みに感謝して、イエス様に贈り物を捧げているでしょうか?それはどんな贈り物でしょうか?イエス様が私たちに求める贈り物は、興味深いものです。私たちの疲れや重荷、イエス様への友情、私たちの弱さ、心の渇きを差し出すことを、イエス様は福音書の中で呼びかけています。時間をとって祈り、イエス様に出会うよう呼びかけられています。そして、私たちにくださった恵みを、他の人々と分かち合うことを、イエス様は私たちに呼びかけているのです。(相田) 

クリスマス B年 2017年12月24日

聖書朗読:ルカ2:1-14
 みなさんにとってクリスマスとはどのような意味があるのでしょうか。
 神様から人間への最も頻繁に伝えられるメッセージの一つは、「恐れるな。私はあなたと共にいる。」です。キーワードは“共に”です。旧約聖書では、神様は与えられた仕事や召命をやりとげるために強さと勇気を与えられるという意味で用いられています。
 しかし馬小屋でのイエスの誕生はもっと根本的な意味を持っています。神ご自身は天の国の栄光を脇に置き、人となられました。イエスは100%神様で100%人間です。
 私たちの神であるイエスは、わたしたちと同じ人間の弱さを体験されました。イエスは、私たちがどのようにやり直ししたり、感じるかを知っておられます。またどのように喜び、苦しむかもご存知です。なぜでしょうか?それはイエスが人間と同じ苦しみを体験されたらです。言い換えれば、イエスは私たちと共にいらっしゃるからです。
 人生という旅路では、私たちは一人ではありません。神であるイエスが横におり、共に歩んでくれます。
 神様が人間になられた時から、神様はわたしたちに近く親しみやすい方となられました。
 私たちの神であるイエスは、わたしたち一人一人を名前で呼び言われます。「〇〇さん。恐れないでください。わたしはあなたと一緒にいます。」
 これがクリスマスの真の意味なのです。(薩田)

待降節第3主日 B年 2017年12月17日

聖書: イザヤ書第61章1-11ルカ1:46-54第1章5:16-24ヨハネ1:25
 「自己中心」はあなたの心を喜びから遠ざけます。自分を最優先にすることであなたの心にもたらされるのは暗闇です。自分のことを忘れて他の人を思いやることは、あなたの心に喜びと平和と光をもたらします。今日の福音に私たちの模範が示されています。
洗礼者聖ヨハネは当時とても人気のある説教者で、何千もの人が彼の話を聞きに来ました。彼には多くの弟子がいましたが、自分の使命は約束された救い主であるイエスの道を準備することであることを知っていました。洗礼者ヨハネはこう言っています:「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)
 自分が評価されることに執着せず、後進に道を譲ることが出来たら、私たちはそれを神様の贈り物として喜びをもって受け取ることが出来ます。私たちは自分の都合や楽しみを優先にして、他の人のことを忘れていませんか?私たちは別の人に席を譲ることが出来るでしょうか?
 イエスと福音の謙虚な精神に基づき、アッシジの聖フランシスによって実践された、世界的に人気のある有名な祈りは「平和の祈り」です
この祈りの中で、最も重要な言葉は、「神よ、私をあなたの道具にしてください(助け導いてください)」だと思います。「助けてください」はとても重要です。私たち弱い人間は、いつも自己中心に傾いていて、自分の力だけで、日常生活の中でこの祈りの精神を生きることは出来ません。私たちは神様に「助けてください(強めてください)、私たちの心のうちに働いてください」と乞い願います。
 この祈りを、待降節の間、毎日、ゆっくりと丁寧に祈りましょう。平和は、私たちに、家族、職場、地域、私たちの国、そして世界の一人ひとりに来ます。
 平和は私たちに喜びをもたらします。(北尾)

待降節第2主日 B年 2017年12月10日

聖書: イザヤ 40:1-11; 詩編 85; マルコ 1:1-8
 今日の聖書には、道、小道、広い道といった言葉が出てきます。教会の最初の百年くらいの間、イエスに従う人たちにとって、小道、道という言葉は特別なものでした。洗礼を受けることは、キリストの道に入ることだったからです。すなわち、洗礼を受けた人々は、イエスの歩んだ道を歩んだのです。神が人となり、私たちと同じように、人生の小道を歩んだのです。でも、注意してください。ここに大切なことがあります:イエスは今日も、私たちと共に人生の道を歩んでいるのです。ですから、人生の旅路において、私たちは決して一人ではありません。イエスは私たちのそばで、支え、力、そして勇気を私たちに与え、一緒に歩んでいるのです。「私は道である。人生の旅路で、私はあなたと共にいる。」-イエスの言葉です。祈りの中で、このことを深く受け止めれば、心の中に生き生きとした希望が沸き起こってきます。苦しみの中でさえ、この希望が消えることはありません。この希望の土台は、神の愛です。イエスは私たちと共にいます。イエスも苦しみの道を歩みました。「私は、決して、あなたを置き去りにも見捨てもしない。」(ヘブライ 13:5)-イエスはこう言われます。
 ラジオや新聞、テレビでニュースを聞くと、北朝鮮のミサイル、自社の製品についてうそを言う社長、毎日のように起きる殺人、物価の値上がりなど、恐ろしい事件の洪水です。高齢者は行く末を心配しています。年金は十分なのでしょうか?泥棒や殺人、自然災害もあります。そして、私たちは誰でも自分自身の死と向き合わなければなりません。いつ死がやってくるのか、わかりません。でも必ず来ます。こんな中にあって、私たちには希望が欠かせません。
 希望は、未来への信頼です。私たちの未来は、私たちを慈しむ神様の手の中にあります。「恐れるな!私はあなたの名前を呼ぶ。あなたは私の目に価値高く、私はあなたを大切にする。恐れることは無い、私があなたと共にいるのだから。」(イザヤ 43:1-5)-神様の言葉です。神様ご自身のこのような約束は大きな希望です。
 今週は、祈りの中で静かな時間を持つようにしましょう。神様があなたをどのように慈しみ、世話をやいてきたか、振り返ってください。これこそが、私たちの希望の土台です。そうすれば、信頼して、「愛する父よ、あなたの手に私の命を委ねます。私の未来をあなたの手にお任せします。私はあなたに寄り頼みます。」
これこそが希望です!(相田)

待降節第1主日B年 2017年12月3日

聖書朗読: イザヤ63:16-19&64:2-7; 詩編80; 1 Cor.1:3-9; マルコ 13:33-37
待降節の間、キリストの道の重要な真理を考えます。考えてみましょう。神様とはどういう方か?私たちと神様のつながりは?今日の聖書朗読では次のように言われています。
①「神よ あなたは私の父」イエスは私たちに、神様は優しく、穏やかで、私たちの幸せに関心があり、許す父親であると教えてくれます。イエスは子供が使う父親への呼び方、お父ちゃん、と呼びかけます。父である神は慈しみに満ちています。
②神様は私たちのあがない主です。このあがない主は、自由と幸せを与えるために膨大な額の身代金を支払います。神であるイエスは、私たちの幸せのために命という身代金を支払いました。
③神様は陶工で私たちは粘土のようなものです。粘土は陶工のろくろの上で上品に形作られます。陶工は仕事に誇りを持っていますが、焼き物はとても壊れやすいことも知っています。陶工としての神様は、意義と慰めに満ちた美しいたとえなのです。
④答唱詩編80は二つのイメージを用いています。神様はわたしたちの羊飼いです。神であるイエスは良い羊飼いで、羊たちを一匹一匹名前で呼び、守っています。イエスは優しくいなくなった羊を探します。
⑤神様はぶどう畑の主人です。この主人は一年中ぶどうの世話をして守ります。これは意味深いたとえ話です。
⑥第二朗読で聖パウロは、「神は真実な方です」と言っています(1コリント1:9)。この単純な言葉は意義深いものです。この言葉は神様の私たちに対する神聖な約束すなわち契約について述べているのです。その約束とは、「わたしは常にあなたと共にいる。」というものです。この約束に忠実であることは、例え仮にわたしたちが神様を忘れたとしても、神様は決して約束を破らないということを意味しています。神様はいつでも自分の羊の群れにわたしたちが戻るのを歓迎してくれます。
 福音書ではイエスは三度も「目を覚ましていなさい。」と言われました。神様のすばらしい優しさを想い、祈りと神の愛を他と分かち合うことを通して、神様との友情を一層強くするという意味です。(薩田)

王であるキリスト A年 2017年11月26日

聖書: エゼキエル 34:11-17; 詩編 23; マタイ25:31-46
 イエス様は今日の福音で大切なことを教えます。私たちは死んだ後に、私たちの生涯を振りかえると話されます。こう尋ねます:「私が地上にいたとき、飢えていた時に食物をくれたか?乾いた時に水をくれたか?旅人だったとき歓迎したか?病気だったり牢屋にいたとき尋ねてくれたか?」こう答えるでしょう:「イエス様!いつあなたにお会いしましたか?」こう答える:「これらの困っている人に良いことをしたのは、まことに私自身にしたのである。」今の私たちには大きなチャレンジです。
日本でだれが飢えていますか?ホームレスのほかに、心の大きな飢えがあります。イエス様はたずねるでしょう:「人に暖かに微笑みを与えますか?『よくやった』『ありがとう』といいますか?こういう親切はさみしい心に食べ物を与えます。」
日本では、福音の「旅人」は外国人労働者や近所に引っ越してきた人です。また家から遠く離れて働く人です。暖かく歓迎しますか、知らん顔をしますか?
日本では、入院している人のほかに、ストレス、うつ、依存症や心配にさいなまれる人がいます。イエス様はたずねます:「これらの人々に親切にし支えたか。」
日本では高い塀に囲まれ窓に格子のはまった刑務所に実際に入っている人がいますが、心の牢屋にいる人、寝たきりになっている人、家に閉じこもって家から出られない人いじめられている人がいます。そうすれば、天に永遠の報いがある。
「今日の最大の病気はらい病でもがんでも結核でもない。これは孤独です。今日の最大の悪は孤独な人への知らん顔と冷淡さです。」(マザー・テレサ) 中里

年間第33主日 A年 2017年11月19日

「貧しい人のための世界祈願日」
聖書:箴言31:10-31詩編128マタイ25:14-30
今日の福音の中で、イエス様は私たち皆にチャレンジ(課題)を投げかけています。 「あなたは人生で何をしますか?」私たち一人ひとりは、神様から使命をいただいています。そして神様はまた、私たちにその使命を果たすための贈り物や才能を与えてくださっています。誰もが、一人の例外もなく、生涯の仕事=使命を持ち、それを達成する能力を神様から授けられています。
一部の人々には豊かな才能が与えられています。彼らは、今日の福音のたとえ話の言葉でいう5タラントンを受け取ります。たとえば、音楽家、芸術家、作家、陶芸家、彫刻家などがそのような人たちです。しかし、私たちのほとんどは、1つか2つの才能をいただいた普通の人、つまり福音には1タラントン、2タラントンを預けられたと書かれている人です。
福音の中で、一番悲惨なのは「1タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた」という箇所です。
先ほどお話した、イエス様からのチャレンジは「これは私に当てはまるのではないか?」「私は、いただいた才能を隠しているのではないか?」ということです。
1タラントン、2タラントンをいただいた「普通の人」の例は、今日の第一朗読『箴言』の妻(2700年前の!)です。この有能な妻は洋裁の才能を持っていました。ある人々は頭がよく、ある人々は手先が器用です。ある人々は自信を持って話し、ある人々は人の話を深く聴くことができます。また、ある人々は微笑みで他の人をもてなす才能を与えられています。
私がニュージーランドの幼稚園に通っていたとき、水頭症の少年がいました。彼はとても虚弱で、ほとんど活動することができませんでしたが、彼が与えられた才能は、周囲の子どもたちが、苦しんでいる人に対して優しい心を持つことを(無意識に)促すことでした。
今週のプログラムです:
①自分の才能が何であるかを具体的に決めます。他の人と比較しないでください。神様は最善をご存じで、私たちにふさわしい才能を与えてくださっています。神様に信頼をおきましょう。
②いただいた才能を神様に感謝しましょう。これらの才能は私たちのものではなく、神様から預かっているものであることを再認識しましょう。この才能は神様から借りたもの、と思うならばその結果生じるのは「謙遜」です。
③いただいた才能をどのように他の人と分け合うかを決めましょう。
フランシスコ教皇様は、私たちの才能を特に、貧しい人々と分かち合うように求めておられます。神様にいただいた愛を隣人、特に貧しい人を愛することによって神様にお戻ししましょう。(北尾)

年間第32主日 A年 2017年11月12日

聖書: 知恵の書 6:12-16; 詩編 63; マタイ 25:1-13
 聖書の中で、知恵は、励ましに満ちた言葉です。ヘブライ語やギリシャ語では、知恵という名詞は女性名詞です。さて、この知恵とは何でしょう?
 聖書でいう知恵は、勉強や頭の良さ、学習が強調される世間的な知恵とは、かなり違います。これらの勉強などは、私たちとどう関係するでしょう?多分、学者になるとか、会社のトップになるとかでしょうか。でも、これらのことは一時的なことにすぎず、人の心を本当に満たすことはできません。
 聖書に示される知恵とは、学んでいようといまいと、求める人には誰にでも神様が下さる恵みです。「誰でも知恵が必要ならば、神様に求めなさい。そうすれば、与えられるでしょう。神様は寛大な方です。」(ヤコブ 1:5)
 さあ、天からの知恵への憧れを、強く持ちましょう。今日の詩編63に、その憧れが表されています。知恵は、私たちの人生の暗闇を照らす灯火の炎を輝かせ続ける、備えの油です。「知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える」(知恵の書 6:15)のです。
 神様からの贈り物である知恵によって、人生での優先順位が付けられます。知恵は神様がどんなに私たちを愛しているかを示してくれます。神様はいつくしみに満ちています。人生の目的は、友であるイエス様と一緒に、天国に向かって旅することである、ということを知恵が示してくれます。知恵の恵みは私たちが賢く選択するのを助けてくれるのです。
 それだけでなく、知恵は、私たちの日々の生活のためでもあります。聖書では、知恵が、衣類の裁縫、大工仕事、テント作り、海を渡る船の案内を導いています。つまり、この知恵は、家庭、学校、職場、そして引退後の私たちの日々の生活のためのものでもあります。
 恵みである知恵は、祈りを通して受け取ります。この知恵という贈り物を求めて、毎朝、祈りましょう。つまり、私たちの普段の一日中の行動を導き、啓発することを、毎朝、神様に願うのです。夜には休んで、違いに目を向けましょう。私たちの心の灯火は、祈りと他の人々への親切という備えの油で燃え続けるのです。これこそが真の知恵です。さあ、神様に知恵を願いましょう。         (相田)

年間第31主日 A年 2017年11月5日

聖書マラキ 1:14-2:10、詩編 131、マタイ 23:1-12
 第一朗読では預言者マラキは神の代弁者として旧約聖書の祭司に警告しました。福音朗読では、神を敬うための613もの規則を作った律法学者とファリサイ派の人々の教えに対し、イエスは異議をとなえました。この規則は一般の人には大変重荷になっていました。また規則はとても複雑でした。
 新子安教会の司祭である私は、教皇フランシスコが2013年に出した勧告「福音の喜び」164に書かれている指針に従ってこのホームページでの説教を書いています。
 教皇様は、司祭は繰り返し様々な手段で次の大切な福音をはっきりと宣べ伝えなければいけない、と言われています。
「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うためにいのちをささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます」
これはキリスト信者としての中心的土台です。この教えを注意深く考えましょう。そして祈りの中に用いましょう。優しいイエスに出会いイエスとの交わりを味わいましょう。
 福音書の中の高慢なファリサイ派の人々は2000年前に限った人たちではありません。ファリサイ派の人々のような心は誰の中にもあるのです。私たちはたびたび、見せびらかしたり、他の人からの称賛を得ようとしたり、他の人と比較したり、ある人たちを見下したり、一番になりたがったりします。家庭、職場、学校などで権力を持っているなら、それを他の人のために使うのでしょうか。それとも自分のためだけに使うのでしょうか。私たちはキリストの代表者ですから、他の人のために使いましょう。
 最後に詩編131のとても短い祈りを唱えましょう。「主よ、わたしの心は驕っていません。…わたしの魂を、幼子のように母の胸にいる幼子のようにします。主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」(薩田)

年間第30主日 A年 2017年10月29日

聖書: 出エジプト 2:20-26; 詩編 18; 22:15-21 マタイ29:34-40
 
自分と向き合い、たずねましょう:「本当に神を愛していますか?」でも神は誰でしょう?!!。人であるイエス様に会うとき、 神を知ることができます。イエス様は神の自画像です。優しさ、人間の弱さの理解、だれでも無条件に受け入れることを見ると、「これは神の心だ」と言えます。イエス様は人の心の中の神の愛です。イエス様は私たちを神に導くために他人となった神です。
詩編18に詩的なイメージを読みます:「神はいつくしみ。私たちの砦(そこでは安全です)。神は岩(生活を立てるしっかりした土台)。神は盾(神は私を守る)。神は私の力(弱さを助けてくださる)。」とても近く愛してくださる、こんなに優しい神様を愛していますか?この質問に正直に答えるのはむずかしい。でも私の本当の心を示すものがあります。神様との対話をときどきしますか – つまり、神に祈りますか?もう1つは、他人に親切で受け入れますか?です。むずかしい人でさえ受け入れますか?同僚、やっかいな夫や妻、子どもかもしれません。私を傷つける人をゆるしますか?
さあ、自分の親指の指紋を見ましょう。まったく唯一のものです。神様は一人一人を違うように作りました。無条件の愛で私たち一人一人を愛しています。神様は私たちの弱さを知っていても、愛しています。
もう1つの大事な質問があります! 自分自身を愛していますか?自分をありのままに受け入れていますか? (神様はありのままで受け入れていることを思い出しましょう)。
今日の福音で、イエス様は幸せな生活の大切な2つの道標を与えてくださいました。「心を尽くして主なる神を愛しなさい。」第2は、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」自分の性格を愛し、受け入れていないのに、神や隣人を愛するのはとてもむずかしい。私たちを愛してくださる神様の御許に行って、助けを願いましょう。(中里)

年間第29主日 A年 2017年10月22日

聖書:イザヤ 45:1-6; 詩編 96; テサロニケ 1:1-5; マタイ 22:15-21

 旧約聖書では、ユダヤ教でない人を通して神が働くのは珍しいです。しかし、神はユダヤ人をバビロンの捕囚から救うために、異邦人のキュロス王を通して働きました。今日の私たちへのメッセージは、今でも神はクリスチャンでない人を通して働くということです。世界のすべての人が神に愛されていることも教えています。
第二朗読の中でパウロはテサロニケの共同体に言います:「いつも祈りなさいと私は言う。」今日、この言葉をよく味わいましょう。神に祈ることが上手なのは自分自身にとって利益ですが、他人のために祈るのを忘れていませんか?考えが狭く自己中心的ではありませんか?とりなしのための祈りは大切です。福音の中で、異邦人の百人隊長は、召使の健康のためにイエス様に祈りました。ティルスの異邦人の母親は、娘のためにイエス様に祈りました。たとえば、今日シリアとミャンマーの難民を目の当たりにします ― 彼らのために祈りますか?日本の東北の困難について今でも聞きます ― 彼らのために祈りますか?親御さんたち ― 子どもや孫のために祈りますか?誰かが病気だと聞いた時 ―彼らのために祈りますか?祈りについては広い心を持ちましょう。
日本のために祈りますか?政府や地方の指導者のために祈りますか?聖パウロはテモテへの手紙12:2-4で:「王や権力者のために祈りなさい。そうすれば、静かで平和な生活ができるでしょう。」・・・ このような祈りは神様を喜ばせます・・・すべての人を救う方です。(「王」=「政府」)
福音の中で、イエス様は言います:「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に。」(「皇帝」は今日では「政府」と言い換えられます。) 言い換えれば、良いクリスチャンは自分の国の良い国民です。そういう人は国のために祈り、すべての国民の平和ために働いているのです。神さま第一は私たちの生活のすべてをまとめ上げます。
もちろん、クリスチャンの間でも、政治的意見に違いがあります。イエス様は12使徒のすべてのタイプを受け入れました。ガリレア出身の左翼的な人とマタイと熱心党(革命派)のシモンは右翼でした。イエス様という私たちのモデルの中ですべてが統合されました。
(中里)

年間第28主日 A年 2017年10月15日

聖書:イザヤ25:6-10詩篇23マタイ22:1-10

聖書学者は「祝宴のテーマ」という言葉を使います。彼ら(学者たち)は旧約聖書でも新約聖書でも「食事」について頻繁に言及しています。例えば、祝宴、(最後の)晩餐、夕食、会食、宴(うたげ)など。食事は、温かくリラックスした家族の親密な時間です。
何故「食事」が聖書の中でそんなにも重要なテーマなのか? 
理由がここにあります。
神様ご自身が、神様との親密さを味わい楽しむように、私たち一人ひとりを招いておられます。温かい雰囲気の中での楽しい食事は、私たち一人ひとりと神様との親しい交わりの象徴です。すべての人が招かれています。
普段の生活で、私たちは招待状に返事を求められます(要返信)。私たちは「はい、喜んで出席します!」と答えることもあれば、出席に〇をつけて、義務的に出席することもあります。「欠席します」ということもあるでしょう。そんな時、私たちは自分自身にいろいろな言い訳をします。「忙しい」「この仕事をしなければならない」「都合が悪い」など。一番悲しいのは、招待状を受け取り、読んで、広げたまま机の上に放り出しておくことです。
イエス様は私たちを祝宴に招待してくださいます。彼は親しさと友情を私たちに差し出してくださいます。イエス様は優しく穏やかな方です。
「すべての顔から涙をぬぐい・・・(イザヤ25)」
良き羊飼いとして「私に食卓を整えてくださる(詩篇23)」
イエス様からの招待状に、私たちはどのように応えるでしょうか?「はい、喜んで!」、義務的な「はい」ですか?私たちは本当に忙しいから「いいえ」と言っていますか?それとも、無関心や面倒くささから招待状を無視しているのでしょうか?
よく考えましょう!神様、イエス様との親しい交わり・・・なんという素晴らしい贈り物でしょうか。それこそが、私たちの心の飢えと渇きに答えをもたらし、神様だけが私たちの望みを満たすことがお出来になるのです。
4つのことを通して、私たちはイエス様に出会い、イエス様の温かさを味わうことが出来ます。
①聖書を読んで
②祈り(祈りは基本的に神様との親密さを喜び味わうことです)
③ほかの方、特に困っている人・不幸な人に親切にすること(マタイ25参照)
④ご聖体拝領(イエス様との一致)によって、私たちは特別な方法でイエス様に会います。
ともに、招待に応えましょう! イエス様の温かさを他の人と分かち合いましょう!(北尾)

年間第27主日 A年 2017年10月8日

聖書: イザヤ 5:1-7; 詩編 80; フィリピ 4:6-9; マタイ 21:33-43
 私が何か問題をかかえていると、「心配しないで!」と言われることがあります。でも、この言葉は好きにはなれません。心の中の心配事は、電気のスイッチを切って電球を消すようには、消すことはできません。今日の第二朗読(フィリピ 4:6-9)で、聖パウロは「思い煩うのはやめなさい」と言います。聖パウロは次の様に大切な言葉を続けます:「感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。・・・神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 とても大きな励ましです。

 誰にでも心配事はありますーそれが人間です。これらの心配事を、祈るための原料として使いましょう。このような祈りでは、イエス様に友人として話し、心配事を全て吐き出せば良いのです。聖ペトロの言葉です:「心配事を主に任せれば、支えてくださいます」(1ペテロ 5:7)

 でも、助けを求め始める前に、立ち止まって、神様が私たちに下さった贈り物―命、信仰、家族などを思い起こしましょう。神様は今までも親切で、未来も慈しみを持ち続けられます。神様への感謝を思いながら、私たちの心配事を打ち明けましょう。

 私たちが深く心配してしまう根本原因は、神様や私たち自身、そして友人たちへの信頼が足りないということです。神様に何かを願うと、願った恵みを受け取ることもあります。しかしながら、神様の大きな知恵により、別の恵みが与えられることもあります。この恵みは、私たちの幸福や平和に、より良いのです。イエス様は、人間として、とても大きな心配事や怖れを抱いていました。イエス様の祈りです:「父よ!私からこの苦しみを取り去って下さい。でも、私の意志ではなく、神様の意志が実現しますように」(ルカ 22:41)

 私たちの祈りによる願いは、決して、決して、むなしくはなりません。この祈りは私たちの心から出て、私たちを大切にし、慈しみに満ちている神様に直に届きます。パウロは、このように祈るとき、安っぽい物に気を取られないようにと諭しています。この祈りの結果、「平和の神様があなたと共にある」(フィリピ 4:9)のです。(相田)

年間第26主日 A年 2017年10月1日

聖書: 第2朗読 2:1-11

「心の中で、イエス・キリストと同じでなければならない。」(フィリピ. 2:5)
日本では、この言葉を聖歌で歌う。(典礼聖歌390) 「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛いそう。」この聖歌は今日の第2朗読を要約している。最後の晩餐でイエス様は言いました:「私は模範を示した。そのように行いなさい。」聖ペトロが手紙の中で(1 ペトロ 2:21) 「キリストはその足跡に従うように模範を残された。」(1 ペトロ 2:21)

「キリストのように」は今日の私たちにとってどんな意味でしょうか?イエス様の考えの変わらぬテーマは詩編31に要約され、「父よ、私のすべてをすべて御手にゆだねます」という最後の息まで生涯祈ったのです。神を信じる祈りです。私たちも同じに祈りましょう。

「キリストのようにも話そう。」その言葉によって、イエス様は平和、勇気、励まし、許しを与えてくださいます。ザーカイに話しかけ、生きる意味を与えます。私たちの言葉で他人のための平和の道具になっていますか?本当の意味で他人に「ありがとう」といいますか?

「キリストのように行う」ゲッセマニの園でとらわれたとき、思慮深い仕方でもっとも自己中心でなく行いました。兵士に言いました:「私はあなた方の手にある。彼らを行かせなさい。」3年間、イエス様はペトロとともにパレスチナを歩きました。多くの場合ペトロは極端に衝動的で、時に自分の利益と名誉だけ考えました。イエス様は彼に辛抱強かった。ペトロは信仰の弱さで沈みかけました。ペトロは3度イエスを知らないと否みました。しかしイエス様はいつもペトロをありのままに受け入れました。私たちは人々をありのままに受け入れていますか?
「キリストのように行う」イエス様は友達である私たちのために命を捨てました。私たちは他人のために小さな道で自分の命を捨てますか?他人のために時間を使いますか?本当に耳を傾けますか?他人のために自分の都合を諦めますか?

キリストのように考え、話し、行い、愛するには、福音を読み祈ることで、祈りの中で友達として話しかけることによって、ご聖体の中のキリストと一致することによって、キリストを知らなければなりません。(中里)

年間第25主日 A年 2017年9月24日

聖書朗読:イザヤ55:6-9; 詩編 145; マタイ 20:1-16

 こんな経験がありますか?将来に対するビジョン、希望、夢を持ったことがあると思います。人、場所、仕事、立場が皆さんにとって特別なものであったことがありますよね。このことが長く続くことを希望したと思います。しかし突然すべての希望や夢が朝露のように消えてしまったことがあったかと思います。(ここで止まり、できるなら具体的なことを思いだしてみてください)
 言うまでもなくがっかりしましたよね。落胆し前途は暗く感じたと思います。神様に「なぜですか。なぜですか。なぜですか。」と問いかけ、おそらく神様に対し怒りを覚えたでしょう。また神の存在と愛を疑ったかもしれません。
 もしこのような経験があれば(私もありました)、今日の福音朗読(マタイ 20:1-16)のイエスのたとえ話の中の日雇い労働者と同じ気持ちになったでしょう。この労働者は朝早くから雇用事務所で待っていて、夕方5時になっても仕事がもらえませんでした。彼は大変落胆していました。仕事をしたいという希望はかなえられませんでした。予期せぬことに、ブドウ畑の持ち主が「あなたを雇います」と言ってくれました。1時間だけ働き、6時になり、労働者は1時間分の賃金をもらうものだと思っていました。しかし1日分の12時間分の賃金をもらえたのです。ブドウ畑の持ち主の気前の良さに大変喜びました。自分と家族のために食べ物が買えるのです。
 イエスのこのたとえ話は、私たちの神様は慈しみに満ち、常に私たちのことを心に留め導いてくださることを教えてくれます。しかし神様は時々「わたしの思いは、あなた達の思いと異なり わたしの道は、あなた達の道と異なる」(今日の第一朗読 イザヤ55:8)と言われます。私たちはある道を選びますが、神様は他の道を選ぶのです。神様は私たちを愛し、幸せを望んでいます。神様は最善を知っています。今日のたとえ話は、神様は気前の良い方であることを私たち一人一人に教えてくれます。どんなに長く働いても、神様から頂く贈り物の量を稼ぐことはできません。神様は私たちのすべてを愛し、幸せを望んでおられます。神様を信頼しましょう。(薩田)

年間第24主日 A年 2017年9月17日

聖書:シラ書(Sirach)27:30-28:7;詩編103、マタイ18:21-35

私たちは皆、人間関係で何らかの問題を抱えています。あなたは、侮辱されたり、いじめやえこひいきの被害を受けたり、皮肉を言われたり、人に見下されたり無視された経験はありますか?もしそうなら、おそらくあなたの心は傷ついています。あなたはその傷を抑えようとするかもしれないし、忘れようとするかもしれませんが、その傷は私たちの心の底に残っています。それは「がん」に育つ「ばい菌」のようなものです!

イエス様は私たちに、私たちのことを傷つける人々を許すように何回も話されます。「主の祈り」の中で私たちは「私たちの父よ・・・私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)と祈り、イエス様も「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り…」(ルカ6:27)と話されます。
私を傷つける人を心から許すことは、イエスの道で最も困難な挑戦と言えるでしょう。

私たちはどのように人々を許しますか?ここに4つのステップがあります:
① 自分の力だけでは決して人を許すことができないことを認めます。私たちは神様の助けと力に頼らなければなりません。
② 神様が私たちにどのようになさってくださるかを思い出しながら、黙想しましょう。「神は恵豊かに、あわれみ深く、怒るにおそく、いつくしみ深い」詩篇103
③ あなたを傷つける人の心を思いやってみましょう。なぜ彼/彼女はそんなことをしたのでしょうか?彼/彼女自身も心に傷を持っているから?幼児期の影響?等。
④ 神様に話しましょう「私は許したいと思っています。どうか助けてください。」
今日のたとえ話で、王は返済するのに50年かかる負債を抱えている召使いを許しました。しかし、その召使は彼に返済するのに3ヶ月かかる借金を抱えている仲間を許しませんでした。
神様の赦しは寛大です。私たちは、必ず、他の人から受けた小さい傷を許すことができます。
私たちが人を許す時、心の重荷はすっかり取り除かれ、自由と喜びを感じます。これが神様からの贈り物です。さあ、この4つのステップを試してみましょう!(北尾)

年間第23主日 A年 2017年9月10日

聖書:エゼキエル 33:7-9; 詩編 95; ローマ 13:8-10; マタイ 18:15-20

 今日の第二朗読(ローマ 13:8-10)で、聖パウロは、現代の私たちにとって、とても興味深い言葉を使っています:「愛の借金をしましょう!他の人を余分に愛しましょう!」 繰り返し、繰り返し、イエス様は隣人を愛するよう言われます。困っている人は誰でも、私たちの隣人です。(善きサマリア人のたとえ話は、「私の隣人とは誰でしょうか?」と問いかけた人への答えだったことを思い出してください。)

 「隣人を愛する」といいますが、「愛する」というのは、いったい、どういうことなのでしょう。人に対する感情的な愛のことではありません。私を傷つけた人、とても難しい性格の人、悪く冷酷な人に対して、温かい感情を持つことはできません。それでも、イエス様はそういう人たちを愛するようにおっしゃいます!イエス様は、様々な欠点もそのままに、その人たちをありのまま受け入れる、というのです。

 どうすれば、難しい人を受け入れ、愛することができるのでしょう?私のことを傷つけた人を、どうすれば、受け入れ、愛することができるのでしょう?そうです、私たち人間の力だけでは不可能です。不可能であることを認め、神様に助けを求めましょう。

 福音で、イエス様は私たちにとても難しい投げかけをしています。人間関係の中で、私たちはしばしば、心を傷つけられます。時には、人々は、私たちを侮辱し、いじめ、冷たい態度を取り、裏切ることもあります。イエス様は、傷つけられた人に、傷つけた人のところに行って、和解するように言われます。これもまた、不可能に見えます!それでも、時には微笑んだり、親切な言葉で、そういう人たちと和解することができます。でも、やはり、この難しいことができるよう、イエス様に助けを求めましょう。

神様が私たちに、どれほど親切で優しいか思い出してください。神様は私たち人間の弱さを理解し、ありのままの私たちを受け入れてくれます。神様は私たちを許してくれます。さあ、私たちも他の人たちに同じようにしようではありませんか。(相田)

年間第22主日 A年 2017年9月3日

聖書:エレミア 20:7-9; 詩編 63; ロマ 12:1-2; マタイ16:21-27

エレミアは旧約聖書の預言者です。若く、とても敏感な心を持っていました。人々が拒否し侮辱した時、心が深く傷つきました。今日の朗読 (エレミア 20:7-9) はエレミアが悲しみと絶望のどん底にいることを示しています。今日の朗読がエレミアの神への祈りであることに注意しましょう。エレミアは神様に怒ります。その祈りはていねいではありません。エレミアは怒り、悲しみ、苦しみを神にぶちまけます。
あなたが怒り、悲しみ、心が傷ついているなら、苦しんでいるなら、あなたはこう祈るべきです。神は私たちを愛し、ありのままに受け入れてくださいます。祈りの時、神はありのままの心を望まれます。いつわりの飾りは要りません。祈りの時、神に怒りを向けてかまいません!
私たちは人間なので、苦しみ、失望し、失敗し、夢が砕けます。イエス様は私たち一人ひとりにいいます:「私に従いたいなら、自分を忘れなければならない。あなたの十字架を持って私に従いなさい。」(マタイ16:24) これはキリスト者の人生がみじめで暗いことを」意味するのでしょうか。そんなことはありません。自己中心主義を避けることを意味します。自分よりも他人のことを考えましょう。こうすることは犠牲(十字架)を意味します。苦しみに会うとき(それは自分の十字架を運ぶとき)、私たちは決して一人ではないことも意味します。苦しみを経験し人間の苦しみを分かったイエス様はいつも、十字架を運ぶ私たちのそばにいてくださいます。イエス様は人生の旅路を私たちとともにされます。
苦しみに会うとき、静かに祈ることはほとんど不可能です! 人間の苦しみが何であるか知っている神であるイエス様に苦しみをぶちまけましょう。空っぽのように感じることはよくあります。私たちの心は不毛な水のない砂漠のように感じます。詩編63で祈りましょう。自分の苦しみは他人の苦しみに敏感にさせます。自分を彼らの支えと励ましにしましょう。(中里)

年間第21主日 A年 2017年8月27日

聖書:イザヤ22:19-23; 詩編138; ローマ11:33-36; マタイ 16:13-20

 福音書は唯一のものです。福音書は、私たちに二千年前にイエスが語ったことを教えてくれるばかりでなく、イエスは生きた声で今日の私たちに同じことを語ってくれます。
 ここに、福音書の内容はいつの時代でも変わらないという具体例があります。イエスはわたしたち一人一人にとても重要な質問を投げかけます。「あなたにとって私はどのような存在なのか」、「あなたは私を何者だと考えているのか」。道徳の道に従いまた信仰の教えを信じることだけがキリスト教徒にとって一番大切なことではありません(もちろんこれらのことはとても重要です)。第一に、最も根本的で大切なことは、イエス自身を受け入れることです。
 イエスがペテロにこの大切な質問をした時に、ペテロは他の人が言っている事を答えました。私たちは本に書かれていることやそのように信じなければいけないのではと考えることを答えてしまうかもしれません。イエスは私たち自身の考えを求めているのです。
 ペテロは最終的には自分の考えていることを答えました。イエスはペテロの答えは父である神様からの賜物であることを教えました。これは、光や導きを神様に願う祈りが絶対に必要なことを表しています。
 自分のことですが、福音書をとてもゆっくり読むことでイエスのことをもっと知ることと愛することを試みたことがあります。遠藤周作さんが書いた「イエスの生涯」という文庫本が非常に役に立ちました。福音書をゆっくりと祈るように読むことを通して、イエスが身近な存在になりました。神であり人間であるイエスは人生の旅路の同伴者となります。イエスは私たちを支え、励まし、慰めてくれます。人間の弱さを理解し愛と慈しみの心で私たち人間を見つめるイエスに出会うことができます。(薩田)

年間第20主日 A年 2017年8月20日

聖書:イザヤ書56:1,6-7 詩篇67 ローマⅡ13-32 マタイ15.21-28

イエスの時代のユダヤ人は、神様の愛といつくしみは、熱心なユダヤ人のためだけにあると考えました。今日の第一朗読のイザヤの預言と詩編67(あなたの救いがすべての国に知られるように)にもかかわらず、当時はこのような狭い了見が存在しました。

今日の福音でイエス様は行いによって教えています。イスラエルの外におられたイエス様にユダヤ人でないお母さんが叫びます。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が病気です」弟子たちは彼女を煩いと思いました。しかしイエス様は、叫びの裏側にあるお母さんの心配と悲しみを見ました。そして、イエス様とこのお母さんの、とても面白くてユーモアのある話し合いが始まります。(聖書学者たちは、元のギリシア語の文脈では、イエス様の言葉は厳しいものではないと伝えています。)イエス様は、お母さんの神様への信頼を称賛し、娘は癒されました。

この場面は2000年後の私たちに何を教えるでしょうか?
① 神様の愛、世話、そしていつくしみは、この世界のすべての人のために注がれます。私たちは神様の愛といつくしみを認め、神様を信じるよう呼ばれています。
② 他の人々のために祈りましょう。まず、自分の子供や家族のための祈りから始めて、それからあなたの親戚を越え、日本や他の国の人々、特に苦しんでいる人や病気の人のために祈りましょう。
私たちは今日のミサでこのように祈ります。
「救いの源である神よ、弱さや無力を感じる時にも、神の救いを信じ続けることができますように」(北尾)

年間第19主日 A年 2017年8月13日

聖書:列王記上 19:9-13; 詩編 85; マタイ 14:22-33
 北朝鮮は日本の上を通過するミサイルを発射すると言い、アメリカは「炎と怒り」で報いるとしています。さあ、平和のために祈り、働きましょう。世界で、日本で、職場で、家族で、心の中で、平和を祈りましょう。平和は神様からの贈り物です。私たち人間は神様に協力するのです。今日の詩編(詩編85)に、「主なる神は平和を約束される・・・平和は神の足跡に従う」とあります。

 今日の福音(マタイ14)に、激しい嵐の中で小舟に乗った12人の弟子が描かれます。小舟は沈みそうです。弟子たちにはイエス様が見えません。でも、イエス様は山の上から弟子たちを見て、彼らのために祈っています。そして、イエス様は、水の上を歩き、沈みそうな小舟と恐れている弟子たちの近くに来て、優しく語りかけます:「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」 ペテロは衝動的に、イエス様の招きにこたえて、水の上を歩きだしますが、イエス様への信頼を失い沈みそうになります。それでもイエス様は人間の弱さを理解し、手を伸ばし、ペテロをつかんで助けます。

 今日の世界、そして私たち自身も個人的に、激しい嵐を経験しています。戦争、苦しみ、病気、失敗、心の傷や嵐。時に、イエス様は遠く、沈黙しているように見えます。神なるイエス様は、今は、山の上ではありません。天国から私たちを見守り、祈ってくださいます。私たちにとって一番の時に、私たちのところに来て、言われます:「安心しなさい。恐れることはない。私が共にいるのだから。」 人生の嵐に出会ったなら、必ず、この場面に戻ってきましょう。声に出して助けを呼びましょう。太陽が毎朝上るのと同じくらい確かに、イエス様は、私たちのところに来られます。私たちの神は、遠くで、無関心でいるのではありません。イエス様はすぐ近くで、苦しんでいる私たちと一緒に苦しんでおられます。さあ、希望をもってイエス様を待ちましょう。勇気を出して、安全な小舟から出て、水の上を渡りイエス様のもとに行きましょう。そして苦しんでいる人たちのところに行って、希望と勇気を伝えましょう。(相田)

主イエスの変容 A年 2017年8月6日

聖書:ダニエル7:92-14; 詩編 97; ペトロ1 1 16-19; マタイ 19:1-9.

イエス様は3人の使徒に自分が神だということを変容の山でお見せになりました。しかし、ちょうど6日前のイエス様の言葉を思い出さなければ、イエス様の栄光の意味を理解できないでしょう:「私はひどく苦しむ。殺されるが3日目に復活する」(マタイ 16:21)
変容の素晴らしい栄光とゲッセマニの園での暗い苦しみはまさに結びついているのです。同じ3人の使徒が両方の場面の証人です。山でと園でと。
イエス様が園で苦しまれたとき、人間らしいエス様を見て言います。イエス様は本当の人間で、拷問と来るべきむごい死を恐れました。イエス様は友であるユダの裏切りに深く心を痛めました。イエス様は私たちのように
100%人間です。イエス様は私たちとともにいらっしゃいます。
変容と復活の中でイエス様を神としてみます。イエス様は100%神です。
今日の私たちへの意味は何でしょうか。私たちの神は私たちと同じ人間性を経験しました。これが神様を私たちにとても近くします。私たちの神は私たちの苦しみが分かります。イエス様自身が苦しみを経験されたからです。ヘブライへの手紙は「イエスは我々のすべての苦しみを分かっている …… だから必要な時はいつでも、あわれみ深い神の玉座の前に勇気をもって出るべきです。助けを見つけるでしょう。」という(ヘブライ4:15-16)
神であるイエス様は人生の人間的道を私たちと一緒に歩いています。イエス様は私たちの支え、力、助け、励ましです。神であるイエス様は生きている声で今日言います。「労苦し重荷を負うものはすべて私のもとに来なさい。元気づけてあげよう。」(マタイ 11:28) イエス様のささえを他人と分かち合いましょう。(中里)

年間第17主日 A年 2017年7月30日

聖書:列王記上 3・5 7-12; 詩編 119; マタイによる福音書 13:44-52
 
 神様から次のように言われたとします。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」(第一朗読では、ソロモンはそのように言われました。)3分間沈黙し、神様への願い事を考えてみましょう。心の深くにある願いを。
 さて、次の3つのことを自問自答してみましょう。
①願い事は自分へのことだけでしたか?それとも他の人へのことだったでしょうか?ソロモンは他の人に用いる力を願いました。
②願い事は、物質的欲求、出世、名誉でしたか?ソロモンは特別な知恵を願いました。
③心の深いところにあるものを願いましたか?それとも上辺な願い事でしたか?本当の願い事でしたか?それとも神様に義務的に願うべきと考えたことを願いましたか?
 私自身の願いごとを皆さんと分かち合いたいと思います。私は日本に60年前に来ました。日本人の99%はキリスト教徒ではありません。私の信仰は今まで感じた事がない程大切なものとなりました。信仰は心の気高く貴重なものとなりました。日本に住むことで神様はこのことを教えてくださったのです。母国に暮らしていれば、信仰という大切なものは、当たり前のものとしか感じられなかったかもしれません。私の信仰によって、イエスに出会いました。イエスは日々の生活の意義を教えてくれます。イエスは私の人生の目的を教えてくれるとともに、天国という真の目的地まで共に歩んでくださいます。イエスは勇気、友情、励ましを与えてくださいます。人生という旅路において孤独であったことは一度もありません。
 私の表向きな願い事は健康です。しかし心の深い願いは、イエスをもっと知り他の人たちと分かち合うことです。多くの人々と安全に天国に行けることを願ったこともあります。私を守る神様への信頼を特に願います。そしてその信頼を多くの人たちと共有することができることを願います。皆さんにとっての大きな願いごとは何でしょうか?(薩田)

年間第16主日 A年 2017年7月23日

聖書:知恵12章13-19節 詩編86 ローマ書8章26-27節 マタイ13章24-33節

考え事を止めて、あなたが2000年前にイエスの話を聴いている場面を静かにイメージしてみましょう。イエスは畑の真ん中に立っておられます。小麦の穂は高く、風にそよいで揺れています。イエスはたとえ話を始められます。「天の国は次のようにたとえられる・・・」群衆は、神の支配とは、雷鳴と閃光と共に強力なユダヤ人の軍隊がローマの占領軍を彼らの国から追い出してくれることだろう、と考えています。そうなったら、自分達に自由が来る!

しかし「神はもう既に静かに働いておられる」とイエスは言われます。神の国は畑にまかれた種のようなもので、目には見えません。けれども種は静かに成長し成熟しています。既に神様の支配は始まっているのです。
神の国には良い人もそんなに良くない人もいます。神の麦畑には良い麦と毒麦があります。農夫(僕)が言います「毒麦を引き抜いてしまいましょうか?」「いや、刈り入れの時までそのままにしておきなさい」畑の主(主人)は言います。

ここにはいろいろな教訓があります。
①イエスの教会には熱心な人もそうでない人もいます。そうでない人達のことを裁いたり、追い出したりしてはいけないとイエス様は私たちに言われます。神様は彼らのことも愛し彼らの回心を待っておられます。神様の助けで毒麦は良い麦になることができます。神は真に素晴らしいのです。
②自分に尋ねましょう。私は良い小麦だろうか?それとも雑草だろうか?普通、私たちの多くは両方が混ざっています。しかし、私たちの神は忍耐強く憐れみ深い方です(知恵の書・詩編86)。神様は私たちをありのままに受け入れてくださいます。この受容は私たちがもっと神様を愛する刺激となります。神様は私たちを「良い麦」として創ってくださいました。
神様は私たちを受け入れてくださる、では私たちは自分自身を受け入れているでしょうか?イエス様が私たちのことをありのままに無条件に愛してくださることがわかると、人間として、また、たとえ雑草に囲まれていてもキリスト者として成熟したものとなることができます。
私たちは良い種です。祈りましょう、そうすれば成長する(栄える)ことができます。今日、イエス様は私たちに希望と勇気を与えてくださいます。イエス様に感謝しましょう。そしてほかの人たちと分かち合いましょう。(北尾)

年間第15主日 A年 2017年7月16日

聖書:イザヤ 55:10-11; 詩編 65; ローマ 8:18-23; マタイ 13:1-23
 
 今日、神様は聖書を通して私たちに語られます。でも、聖書を開くとき、私たちは、心に向けられたものを聞こうとしているでしょうか?私たちに語りかけるイエス様の声を聞くのを妨げる問題は、私たちがほとんど一日中、テレビ、ラジオ、携帯電話、ゲーム、インターネット、パソコンなどからの騒がしい言葉の洪水の中にいることです。私たちは言葉の津波に飲み込まれているのです。私たちが注意を保てる時間はしばしば限界に達してしまいます。雑音がとても多いのです。
 イエス様は、神様ご自身の活きたメッセージを伝えてくれます。このメッセージへの応え方はどのようでしょうか?イエス様は種、すなわちメッセージを蒔きます。種が落ちるのは、どこでしょう?①硬い、踏み固められた道/日常生活の決まり事で鈍くなってしまっている私たちを表しているのでしょうか?②石だらけの地面/人を許すことができないために、たいへんな思いをしている私たちを表しているのでしょうか?③高く伸びた雑草の中/忙しくして、物やお金あるいは出世ばかり考えてロボットになっている私たちを表しているのでしょうか?④それとも、私たちが心の中に作った良い土、そこで神様の言葉を受け止めて、実を結ぶのでしょうか?
 ということで、私たちは何とかして、短くても良いから、神様に会い耳を傾ける静かな時間を作らなければなりません。
 長崎の有名な医師、永井隆博士は、原子爆弾を落とされた後、X線技師としてのたいへん忙しい生活の真っただ中で、イエス様に出会うための方法を見つけました。永井博士は毎日、聖書から一つまたは一行の言葉を選び、心の中で思い出し、忙しい中で、かみしめたのです。このおかげで、平安を保つことができました。毎日の仕事に意味がもたらされたのです。私は永井博士のファンです。夜、聖書から言葉を選んで、翌日、それを味わうのです。今日の聖書から、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(ローマ 8:18)、「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(マタイ 13:16)、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」(マタイ 13:23)。さあ、試してみてください。(相田)

年間第14主日 A年 2017年7月9日

聖書:詩篇142、マタイ11:25-30

あなたが神様に迎え入れられる体験をしたいのなら、悩んでいることをすべて神様に打ち明けましょう。
これが、今日の福音でイエス様が私たちに話された「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」が伝えているメッセージです。

忘れないでください、イエス様は熱心な人だけではなく、すべての人々を招いておられます。今日の競争社会で、人々はたくさんの「重荷」を負っています。例えば、ストレス、悩み事、失望、失敗、難しい、または壊れた人間関係による心の傷、様々な限界、老いの悲しみ、寂しさ、孤独、依存症、恨みなど。
イエス様は、私達が祈りの中でそれらすべてを打ち明けるよう勧めています。彼は私たちに平和、心の平安、そして喜びを与えてくださいます。なんという約束!なんという素晴らしい招きでしょう!この招きに応えましょう。

イエス様は言われます。「わたしの軛(くびき)を負いなさい、そうすればあなた方は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」
1957年からの10年間、私は田舎の教会で働いていました。そのころ機械はなく、農家は畑を耕したり田んぼを準備したりするために、牛に引かせた鋤(すき)を使っていました。牛の肩につける軛は、頑丈な重い木で出来ていました。
そのような軛はイエス様の時代にも使われていました。しかし、福音の中でイエス様は、二頭立て用の軛のことを話しています。イエス様は、私たちが労苦と重荷を一人で運ぶことはないと話しかけています。神であるイエス様は私たちと共におられ、私たちに力と励ましを与えてくださいます。だから、その重荷は負いやすく軽いものになります。私たちは人生の旅路で決して一人ではありません。

祈りの中で、これから紹介する3つのステップを試してください。
①イエス様に「私はあなたに近づきます」と伝えます―しばらく沈黙
②あなたの疲れ、ストレス、負担をありのままにイエス様に話しましょう―しばらく沈黙
③イエス様は「私はあなたと一緒に重荷を負う」と仰います。―長い沈黙のうちに、この「みことば」を味わいます。

イエス様はあなたを力づけてくださいます。
イエス様にいただいたこの力を、他の人と分かち合いましょう。(北尾)

年間第13主日 A年 2017年7月2日

聖書:列王記下 4:8-16; 詩編 89; マタイ 10:37-42.

私たちキリスト者はイエス様が言葉と模範で示してくださった命の道を歩きます。イエス様の言葉は聖書を通して届きます。イエス様は慰めと励ましだけでなく、挑戦を与えてくださいます。今日のミサの聖書は私たちに挑戦を与えています (つぎの日曜には慰めを!)。挑戦なしに慰めだけを与える「安っぽいキリスト教に気を付けなければなりません。

イエス様は「自分の十字架を取って、私に従わないものは、私にふさわしくない」というチャレンジを与えました (マタイ 10:38)。「十字架」という言葉は何かの悩みを意味します。悩みは人間らしいものです。「十字架」は節制、自分の都合をあきらめることも意味します。「十字架」は他人の話に耳を傾けることを意味する場合もあります。「十字架」はとても広い意味を持ちます。「小さな」十字架と「大きな」十字架もあります。キリストとともに自分の十字架をいつも運ぶことを忘れないのがキリスト者には極めて重要なことです。

私たちはイエス様を日常生活の中心に置くという挑戦を与えられています。「イエス様が一番」私たちの生活でイエス様を一番にすれば、親への愛が、子どもへの愛がもっと深くなるのに気づくでしょう。神様が一番なら、他人への愛が育ちます。

今日の福音の後半と最初の朗読で、私たちはあたたかいもてなしに呼ばれています。もてなしはキリスト者の特別なしるしです。洗礼を受けたときに、父と子と聖霊のあたたかいもてなしに入ります。今日、イエス様は言います:「小さなものに一杯の冷たい水をあたるものは、報いを受ける」(マタイ 10:42)。ここで「小さなもの」は見知らぬ人、さびイシイ人、ホームレス、悩む人、いじめの犠牲者、のけ者にされた人等々をふくみます。「冷たい水」は歓迎ともてなしのシンボルです。キリストのようなもてなしは他人に心を開き、ありのままに受け入れることです。このような優しさを他人に示す人は、確かに確かに神に報われるでしょう。(中里)

年間第12主日 A年 2017年6月25日

聖書:エレミア 20:10-13; 詩篇 69; マタイ 10:26-33

 私は、深い苦しみの中にいるすべての人に対し、次のことをお伝えします。孤独でしょうか?裏切られたと感じているでしょうか?病気?将来への不安?死への恐怖?心細い気持ち?この他にもたくさんの苦しみがあります。
 このような状況の時、聖書は何を教えてくれるのでしょうか。今日の聖書朗読では、祈るようにと告げられています。さらに祈り方を教えてくれています。
 聖書の中では、苦しんでいる人の祈り方として3つの歩みが示されています。今日のエレミア書の朗読にその例をあります。他には、母ハンナの祈り(サムエル記上1章)、ゲッセマネの園でのイエスの苦悩の中での祈りがあります。
 ステップ1:神であるイエスに、苦悩を詳細に伝えましょう。これは心理学的な行いではありません。神様は、「私は共にいて、苦しんでいる。」と言われます。ステップ1は短時間に行いましょう。そうしないと、自己憐憫に走ってしまいます。自己憐憫と他者との比較は避けなければいけません。
 ステップ2:神様はあなたを愛しておられるという事実を意識して心に留めましょう。苦しみのさなかでも、神様への信頼は現実に沸き起こります。神様は1羽ごとにスズメがどこを飛んでいるのかをご存知です。神様はあなたのことをよくご存じです。頭の髪の毛の数までご存じです。これらのことは、神様は私たちすべてに心を配られるということを表す具体例です。「わたしの目にはあなたは値高く、貴く わたしはあなたを愛する」(イザヤ書43:4-5)。神様はわたしたちを名前で呼ばれ、そして「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と言われます。ステップ2に多くの時間をかけましょう。神様にたくさんのお願いをしましょう。
 ステップ3:ステップ3は興味深いものです。聖書による祈りの中で、直接神様に感謝の気持ちを伝えましょう。そうです。答えが得られる前にです。何らかの答えがそのうち示されます。多くの場合、その答えは苦難を耐え忍ぶ力を与えてくれます。勇気が与えられます。私たちに心を配る優しい神様のうちに、祈りの全てに信頼が広がっていきます。「我々は主を知ろう。主は曙の光のように必ず現れる」(ホセア書)。恐れを抱いている人々を助けましょう。(薩田)

キリストの聖体 A年 2017年6月18日

聖書: 申命記 8: 2-16; 詩編147; コリント 10: 16-17; ヨハネ 6:51-58.

初代教会から今日にいたるまで、クリスチャンは日曜日に聖なる食事のために集まってきました。この聖なる食事を今日では「ミサ」と呼び、最初イエスご自身が最後の晩餐で最初に祝われました。イエスは最後の晩餐で、「このパンは私の体、この葡萄酒は私の血である」とおっしゃいました。「これを私の記念として行いなさい」とおっしゃったことをしかり心にきざみましょう。これは「この儀式を続けなさい」という意味です。
ミサは毎日曜日に約2000年間祝われ、それは私たちそれぞれの生涯で数えきれない回数になります。この習慣(なれ)がミサの意味をつまらないものにしていませんか。
ミサの中で聖書が読まれるとき、イエス様は生きている声で私たちに話しかけられます。 (第2バチカン公会議、典礼憲章 #7)
そして神(イエス)ご自身の力によって、パンが御体(つまり、本当のイエス様自身)に変わり、葡萄酒が御血(つまり、イエス様の命)に変わります。
イエス様は慎重にパンを選びました。パンはエネルギーを与える食べ物だからです。生きて健康であるために、私たちは普通の食べ物が必要です。この聖なる食べ物、イエス様の体は我々の生涯を生かし、イエス様の道を健康に歩かせてくれます。
この聖なる食べ物で、我々はイエス様と一つになります。誰もが同じイエス様をいただくことで、我々は互いに一つになります。
イエス様との友情に満ちた食事に招かれたのはイエス様です。ご聖体を受けに行くことで、イエス様の招きに答えます。(黙示録 3:20参照)
これはご聖体の多くの面のうち、私が選んで2つです:生涯の信仰の旅の力とイエス様との親しい交わり。このすばらしい贈り物をほかの人と分かち合いましょう。(中里)

三位一体の主日 A年 2017年6月11日

聖書: 出エジプト 34:4-9; 二コリント 13:11-13; ヨハネ3:16-18

 私たちキリスト教信者は、唯一の神を強く信じています。でも、その唯一の神のうちに父と子と聖霊がいます。私たちは、唯一の神の内面的な生命と働きについてのこの啓示を、奥義と呼んでいます。私たち人間が、この奥義を十分理解することは難しいですが、イエス様のうちにある神からの教えによって、私たちはこれを信じています。
 ですから今日は、この奥義を頭で理解するのではなく、味わってみましょう。実際、「心」は「あたま」より重要なのです。
 まず、現代のたとえ話です。私のよく知っている家族の話です。お父さん、お母さん、そして4人の子供たちがいました。幸せな家族の雰囲気が本当に暖かでした。この両親が2才の子供を養子に迎えたのです。この子がこの家族のところに来たときは、体中に打撲傷があり、一言も話せず、触られると、胎児のように丸くなってしまうのでした。お父さん、お母さんと4人の子供たちが、あの暖かい家族の雰囲気の中に心から迎え入れたので、養子となった子も徐々に反応するようになりました。半年ほどたつと、微笑み、言葉を話すようになりました。彼は次第に成長し、幸せな大人になりました。今は30歳で二人の子供がいます。私たちは皆、同じように深く愛されている養子なのです。
 洗礼を受けるときには、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けます」という言葉が必ず唱えられます。つまり、私たちは、聖なる三位一体の暖かい家族の雰囲気のうちに、養子として迎えられるのです。ですから、皆さん、ぜひ、この愛を味わってください。聖ヨハネは、書簡の中で一言「神は愛です」と述べています(一ヨハネ4:8)。
 パウロのティモテへの第一の手紙には、「神は唯一であり、人となったイエス・キリストが神と人とを結ぶ唯一の仲介者なのです」とあります(一ティモテ2:6)。つまり、神であるイエス様が人となり、父なる神よりも前に、私たちに代わって祈ってくださるのです。この祈りによって、私たちに聖霊が遣わされ、この人生に力と励ましと慰めがもたらされます。とても、ややこしいですね!あたまを使うのではなく、心を使って感じましょう。神からあなたへの限りない愛を味わってください。そして、この愛を他の人たちと分かち合いましょう。(相田)

聖霊降臨 A年 2017年6月4日

聖書:使徒 2: 1-11; コリント 12: 3-13; ヨハネ 20:19-23

悲しいですか。さびしいですか。怖いですか。無力ですか。このように感じたときに、聖書は何といっているでしょうか。聖書は長い説明やアドバイスをするのではなく、具体的な例を示すことが良くあります。イエス様がもう見えなくなった後で、使徒たちは悲しく、さびしく、恐ろしく、イエス様が与えたことをするにはまったく無力に感じた。
第一に:無力な度々感じた。
第二に:助けと力と慰めを祈った。
第三に:聖霊から力、光、温かさ、慰めと導きを受けた。
この場面は2000年前の興味深い出来事だけではありません。今日の私たちのために書かれたのです。
年を取って若いエネルギーがなくなると、私は限界を認めるようになりました。聖霊の助けと力に頼るようにもなりました。これは人生を面白く楽しめるようにしてくれました。このやり方を試しましょう(若いと感じていても!)
第二朗読で:「『聖霊の助けなしに』誰もイエスは神だと宣言できない」初代教会で「イエスは神だ」は最初の信仰宣言でした。それはまだ私たちの信仰の基本的で大切な部分です。それは(a)イエスは神であり、(b)イエスは私の主であり、私はしもべであることを意味します。私はイエス様を信頼し、御手に全生涯をゆだねます。「私の全生涯」は日常の仕事、祈り、出来事を意味します。私の将来も。主であるイエス様は優しく、愛に満ち、気遣ってくださる。私はイエス様を信頼できます。「あなたの御手に、おお主よ、私は生涯をゆだねます」 (詩編 31:5)
しかし、聖霊の助けなしに「イエス様は主だ」と心から言えません。「聖霊来りたまえ」と祈りましょう。(中里)

主の昇天 A年 2017年5月28日

聖書:使徒言行録 1:1-11; 詩編 47; マタイによる福音 28:16-20
 
 今日はイエスの神様としての昇天をお祝いします。神様ご自身は天国から地上に降りてこられました。マリア様を通して完全な人間となったのです(また同時に神様でした)。イエスの地上での33年間を振り返りかえってみましょう。
 イエスは動物が使っている小屋で生まれました。(このことは私たちの生活で何が大切なのかを教えています。(物質的なものー心の幸せ)30年間イエスは家族と共に暮らしていました。神様がお考えになられている家庭生活の重要さと価値を学んでいます。大工であった養父ヨゼフの大工見習となりました。私たちの日常の行いや仕事は神様の目から見て価値があるものです。3年間だけ公の場で教えを説き弟子を集めました。イエスの教えの中心は、神様は愛であり、わたしたちのそばにおられ、わたしたち一人一人に関心を持たれているということです。イエスは人々に優しい心を示されました。特に病人、悩んでいる人、過ちを犯した人に対してです。イエスは罪びととして十字架の上で亡くなりました。彼は全くの無罪でしたが、わたしたちのためにご自身を捧げたのです。これはわたしたちをどんなに愛しているかを表しています。イエスの優しい心を見た時、「これは神様の今ある私たちへの本当の心である」と私たちは言うことができます。イエスが地上で生活してくれたことに今ここで感謝しましょう。
 イエスの地上での生活は二千年前の中東の小さな国のみに起こった出来事ではありません。イエスは昇天することにより、時間や国という制約から解放されました。今イエスは神様として私たちと共におられます。今日の福音の重要な最後の言葉として、イエスは「いつもあなたがたと共にいる」と言われています。私(ケンズ神父)にとってこのことは私たち人間が頂ける最高の励ましと慰めです。イエスの優しさを他の人と分かち合うことで、イエスに感謝しその気持ちを具体的なものにしましょう。感謝のうちに、「手を打ち鳴らし、神に喜びの叫びをあげよ」(詩編47)。特に他の人と信仰を分かち合いましょう。(薩田)

復活節第6主日 A年 2017年5月21日

聖書:1ぺトロ3.15-18、詩編66、ヨハネ14.15-21

第2朗読(1ペトロ3章15節)には「あなた方の抱いている希望について説明を要求する人にはいつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって」とあります。聖書からのこのアドバイスは、キリスト信者が人口の1%以下である日本社会に生きる私たちにとって、最も重要なものです。希望は暗闇に輝くロウソクの光です。

最近のニュースについて考えてみましょう。北朝鮮から発射され、日本も射程距離に入るとされるミサイル、今後数年の間に起こると予測される、東京エリアで数千人の人が犠牲になる規模の南海トラフでの地震・津波への警告、若い世代の夫婦は子どもの教育を心配し、高齢者は老後を支えるだけの年金と貯金について心配しています。若者(子ども)のいじめ問題、自死についてのニュースやレポートなどなど。

このような雰囲気の中にあって、イエスと一つに結ばれた私たちは、希望の旗印とならなければいけません。私たち自身が希望を持ち、その希望を他の人達と分かち合わなければいけないのです。
今日の朗読にあるように、何故私たちが希望を持つのか(他の人に)説明してください。
私達キリスト者は、「み摂理」と呼ばれるものを信じています。それは、私達一人ひとりが神様の子どもであると信じることを意味します。父である神様は私たち一人ひとりを愛しておられます。神様は私たち一人ひとりの名前を呼んでくださいます。私たちの愛する父である神様は私たち一人ひとりを護り、導き、守ってくださいます。
今日の福音で、「…わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人たちを愛して…」と読みました。神様は私がどんなに弱い者かをご存じで、それでも、ありのままの私を愛し、受け入れてくださいます。
「神様は私を愛してくださる。私はイエスと人生の小道を歩んでいる。私は決して独りぼっちではない」これこそが、私の希望の源であり土台です。

"自分の心に訊ねてみましょう。私は本当にこのことを信じているだろうか?そしてそれを他の人と分かち合っているだろうか?

私たちは祈ります。主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい。
聖書はこう言っています。「私たちは神様に向かって走らなければならない…この希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものである」ヘブライ人への手紙6章18~19節。(北尾)

復活節第5主日 A年 2017年5月14日

聖書:使徒言行録6:1-7; 一ペトロ 2:4-9; ヨハネ14:1-12
 ペトロは、第一の手紙の中で、私たちとイエス様の交わりを、興味深いたとえ話で描いています。私たちは皆、石でできたアーチの一つ一つの石にたとえられています。このアーチの一番上には、かなめ石と呼ばれる、くさびの形をした石があります。このかなめ石の重みが全ての石に伝わり一つにして、アーチを作っています。イエス様は、私たちと一つになって、私たちの人生を支えようとしているのです。さあ、イエス様を私たちの人生の中心にしましょう。イエス様のおかげで、私たちの人生に味わいが生まれます。
 「私は道であり、真理であり、命である」-今日の福音のイエス様の言葉です。
 「私は道である」-私たちは人生の旅路をたどっています。天国での永遠の命が目的地です。私たちは神様の元から来て、神様の元に戻らなければなりません。私たちが人生の道を歩む間、イエス様が共に旅してくれます。イエス様は私たちのすぐそばにいます。私たちは決して一人ぼっちではありません。イエス様が同伴し、力づけ、手本を示してくれます。聖体拝領で私たちにご自身を下さり、霊的な糧と、旅路を歩むエネルギーを与えてくれます。イエス様は、平和と幸福、意義深い人生への道なのです。
 「私は真理である」-イエス様の教えは、神ご自身からの直接のメッセージです。このメッセージは真実であり、幸せで平和な意義ある人生を築くより所です。イエス様が下さった真理の上に建てた家で、人生の全ての嵐を乗り切れるのです。
 「私は命である」-洗礼によって、神様の命が私たちの心に入ってきます。私たちは神様の子供となります。神様は私たちの真の父なのです。
 「イエス様!私たちに御父を見せてください」-今日の福音でフィリポはこう言います。フィリポは「神様はどんな方なのか?」と求めているのです。イエス様は、父なる神と御子イエスは完全に一致しているので、イエス様を見、会った人は、父なる神を見、会うのだと、答えています。イエス様の心と、父なる神の心は同じなのです。イエス様はたいへん優しく、人々と一緒に感じて、人々が苦しむとき、イエス様も苦しむのです。友人のラザロが死んだとき、イエス様は涙を流しました。ナインの村の母親が一人息子を亡くしたときには、悲しみを共に感じました。人は、ペトロもそうだったように、誰しも罪を犯しますが、イエス様は、そのような人間の気持ちをわかってくれます。人々をありのままで受け入れてくれます。これが私たちの神様なのです。復活されたイエス様が、今日も私たちに全く同じようにしてくださっていることに思いをいたしましょう。イエス様との交わり、そしてお恵みを、ほかの人々と分かち合おうではありませんか。(相田)

復活節第4主日 A年 2017年5月7日

聖書:使徒 2: 14, 36-41; 詩編 23; ペトロ 2: 20-25; ヨハネ 10: 1-10.

イエス様はおっしゃる:「私はよい羊飼い」(ヨハネ 10:11)もう一度ヨハネで(今日の福音) イエス様はおっしゃる:「私は羊の群れの羊飼い … 羊はその声を聞き、一匹ずつ呼んで、外に連れ出す。羊はその声を知っている。」(ヨハネ 10: 3-4) また、イエス様はおっしゃる:「私は門である。私を通って入るものは安全であり、自由に入り、羊飼いを確かに見つける。」(ヨハネ10: 9) 「私は門である」はイエスを通るものは真の神に会うという意味です。

今日の答唱詩編、詩編23を考えましょう。イエス様は自身を詩編23にあてはめます。イエス様は私の飼い主だといえます。この詩編の特別な性質は個人、つまり私に関するものです! イエス様は私を導き守ります。悲しい時(つまり、落ち込んだ)、イエス様は望みと命を与えてくださいます。闇の中にいて、孤独で、恐ろしく感じた時でさえも、イエス様は羊飼いでそばにいてくださることを思い出しましょう。悪魔の誘惑、自分の悪口を誰かが広める、いじめ、裏切りなどで責められるかもしれません。このような苦しみのどん底でも、私の飼い主イエス様は私を守ってくださいます。イエス様のころの普通の羊飼いは、子羊が生まれたときにつけた一匹ずつの名前でそれぞれの羊を呼びました。羊飼いはよい草と水に羊を導きます。その頃の羊の天敵はわしと狼です。

テーマは変わります。神が宴会を開かれます。これは親しい温かい神との交わりを意味します。私たちは神の家で守られて永遠に暮らします。何という喜び!何という励まし!何という希望!
詩編23をゆっくりと祈りましょう。それから外に出て、喜び、励ましと希望を他人と分かち合いましょう。(中里)

復活節第3主日 A年 2017年4月30日

聖書朗読:使徒言行録2・14、22~33、使徒ペトロの手紙1・17~21、ルカによる福音書24・13~35
 初代教会では今日の福音のエマオの光景を用い、私たちがミサと呼んでいる集いについて説明しています。
 昇天したイエスは優しく弟子たち自身に出会うように導きました。二人はがっかりし、失望し、他の人を信じることを拒否していました。彼らは逃げていたのです。ありのままの自分でミサに与ってみましょう。イエスは二人の重荷を気遣っています。イエスは二人の話を聞いていました。今日でも同じです。ミサの中で自分の本当の心をイエスに見せましょう。
 イエスは言われます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。日曜日の集いは重要です。
 イエスは日々の生活における聖書朗読の深い意味を説明します。今日のミサでは、3つの新約聖書と詩編をひとつ読みました。「教会で聖書が読まれる時、イエスは自ら語られているのです」(第二ヴァチカン公会議典礼憲章#7)。希望を持ってミサに与りましょう。イエスは日々の生活において何をおっしゃられるのでしょうか。敏感になりましょう。朗読した聖書の箇所の深い意味をイエスに尋ねましょう。イエスは今日も生きています。エマオで二人の弟子と歩いたように、わたしたちと一緒に人生の道を歩いています。
 今日の福音書では、二人の弟子は一緒に食事をするためイエスに家に来るように誘いました。わたしたちも日々の生活でイエスを誘いましょう。イエスは聖書で、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3:20)。ご聖体を通しイエスは自身をわたしたちに与えてくれます。イエスはわたしたちの心の中におり、力、励まし、導き、希望をくださいます。主の食卓に招かれている私たちは本当に幸せ者です。
 エマオで見えなくなり、そこから常にイエスは弟子たちとともにいました。私たち人間の目には見えませんが、イエスは常にわたしたちと一緒にいます。エマオの弟子たちと同じように、ミサのあとイエスをほかのひとたちをわかち合いあいましょう。家庭、学校、職場においてイエスの証人となるよう話し行動しましょう。(薩田)

神のいつくしみの主日 復活節第2主日 A年 2017年4月23日

聖書:使徒たちの宣教2:42-47、詩篇118; 1ペトロ1:3-9; ヨハネ20:19-31

自分自身に問いかけてみましょう、「イエスが死者の中から復活されたことを信じていますか?
復活されたイエスが、今、私のそばにおられることを信じているでしょうか?」
私は個人の祈りの中で、てんかんの息子を持つお父さんの祈り
「信じます。信仰のない私をお助け下さい(マルコ9章24節)」を使います。

イエスを信じることは、高い飛び込み台の端に立っているのと似ています。水が身体を支えてくれると頭で分かっていても、とても怖くて心配で、飛び込むには勇気が必要です。イエスを信じるにも勇気が必要です。その勇気を贈り物として与えてくださるよう、神様に頼みましょう。

イエスは信仰の弱い人をどのように取り扱うでしょうか?ひと言でいうと「いつくしみ」です。復活されたイエスが、エマオへの道で不信仰の弟子たちに対してどんなに優しかったかを思い出してください(ルカ24章13-35節)。イエスは、イエスを否定したペトロにも優しく、今日の福音でも疑い深いトマスに対する、優しく理解に満ちたイエスの姿を見ることが出来ます(ヨハネ20章24節)。
イエスはいつくしみに満ちています。イエスは人間の弱さを理解しておられます。イエスのいつくしみは今日も私たち一人ひとりに同じように向けられています。
しかし私たちは折々に不安になり、挫折、ストレス、虚しさを感じます。私たちは神様が見守ってくださっていることを疑います。そのような時、神様は沈黙し、遠く隔たった所におられるように感じられます。私たちはカルバリオの丘での苦しみを経験しているようです。イエスが十字架上でなさったように私たちも叫びます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 使徒のトマスも同じような経験をしました。彼は皆のところから逃げ出しました。それでも、イエスが来られトマスの心の傷をすべて癒してくださいました。私たちもしばしば苦しみの中で、生きているイエスに出会うことがあります。

しかし、これが大切です!私たちのすべての痛みと虚しさに、希望を持ちましょう。イエスが来て、私たちを慰めてくださいます。私たちの希望の土台はイエスの復活です。
「主はあけぼのの光のように必ずあらわれる」(ホセア6:3)。
虚しさ、疑い、絶望の中で、心の底から祈りましょう。そうです、空(から)の心で助けを求めて神に叫びましょう。と同時に、苦しんでいる人を助けるために外に出ていきましょう。(北尾)

復活の主日 A年 2017年4月16日

聖書:コロサイ3:1-4; 詩篇118; ヨハネ20:1-9

 今日はイエスの復活を祝う、素晴らしい祝日(復活祭)です。福音書に復活が描かれていますが、それを理解するのに、当時の墓について知ることが助けになります。イエスの弟子の一人にアリマタヤのヨセフがいましたが、彼は金持ちでした。イエスが十字架の上で罪人(無実の、ですが)として死ぬと、ヨセフは「私が自分のために用意した墓を使ってください(マタイ 27:57-61)」と申し出ました。
 この墓は崖に掘られた洞窟で、入り口のすぐ近くに、ぴったりの大きな石が置かれていました。死体は石棚の上に置かれ、大きな石がころがされ、入り口がふさがれて、墓の中は真っ暗になります。
 日曜日の朝、イエスが死んだことを知って、亡骸に油を塗ろうと女たちが墓にやってくると、石が動かされていて、墓の中は空でした。
 イエスは死者の中から、よみがえったのです!イエスは生きている!イエスは神であり、光でした!
 私たちの心は大きな石でふさがれていないでしょうか?心の中は暗くないでしょうか?心に闇がもたらされている理由は、高慢、自己中心、怒り、嫉妬、憤り、自己嫌悪、傷つけてきた人を許せないこと、恨み、劣等感、恐れ、不安、等々かもしれません。
 さあ、復活されたイエスに祈りましょう。イエスは「私は世の光である」と言われます。私たちの「石」についてイエスに話し、「イエス様!私の心をふさぐ重い石を取り去ってください。あなたの暖かい、命に満ちた光で、私の心を照らしてください。」と願いましょう。
 復活されたイエスは、今日も私たちの神であり、人として生きた神です。私たちを理解してくれます。イエスは復活しました。ですから、今も生きて、私たちの間におられるのです。イエスは命に満ちた声で、私たちに言われます:「恐れるな!私があなたと共にいるのだから。」(相田)

受難の主日 A年 2017年4月9日

聖書朗読:イザヤ50:4-7;フィリップ2 2:6-11; 詩編 22; マタイ 26:14-27:66

わたしたちはイエス・キリストの最期の数時間の出来事を朗読しました。イエスはわたしたちの親友です。イエスはわたしたち一人ひとりのために亡くなりました。この強烈な出来事での登場人物を見てみましょう。
ポンティオ・ピラト:占領地の総督。ローマ皇帝とイエスどちらとも上手くやりたいと考えていました。ピラトはイエスが無罪であることを知っていましたが、イエスの人気が高まると死刑の判決を下しました。
ピラトの妻:夢を見て、イエスの無罪を宣告するようにピラトに頼みました。
祭司長とユダヤ政府の政治家、ファイリサイ派:皆イエスに嫉妬していました。イエスが彼らの偽善と薄っぺらな信仰を取り上げたので、彼らはイエスを憎んでいました。彼らは群衆にイエスを拒絶するように説得しました。
群衆:祭司長や政治家に説得され、盗賊バラバを選び「イエスを十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫びました。その後、十字架の上のイエスに「他人を救ったのだから、自分も救ってみせろ」とあざけりました。
ローマ軍の兵士:赤い外套といばらの冠という王様の風采をまねたものでイエスをあざけりました。またイエスに唾を吐きかけました。
弟子ペテロ:イエスを知らないと否定しました。
ユダ:お金のためにイエスを裏切りました。
次にイエスを助けた人たちを見てみましょう。数えるばかりの僅かな人数です。
キレネ(現在のリビア)から来たシモン:初めにイエスの十字架を無理やり運ぶのを手伝わされました。しかしイエスを受け入れ、彼と二人の息子たちはキリスト教徒になりました。
ベロニカ:この勇敢な女性はイエスの顔が血で汚れているのを見て、イエスに反発する群衆の中から抜け出し、布でイエスの顔を優しくぬぐいました。
十字架の足元の女性たち:イエスの母マリア、マグダナのマリア、ヤコブとヨハネの母(ヨハネもいました)。

ピラトの裁判の席で、イエスが悲しい顔をして一人でたたずんでいる姿を思い浮かべましょう。イエスは鞭打たれ、血を流し傷つきました。イエスは重い十字架をカルワリオの丘まで運びます。十字架に釘で打ち付けられ、3時間の苦しみののち亡くなりました。この出来事にどのような意味があるのでしょうか。何のために起こったのでしょうか。このことは神様が私たちをとても愛していることを意味しているのです。イエスは言われます。
あなたが苦しい時、わたしは共に居る。わたしは復活しあなたと共に居る。」(薩田)

四旬節第5主日 A年 2017年4月2日

聖書:エゼキエル37:12-14; 詩篇130; ローマ8:8-11; ヨハネ11:1-45

聖書では、しばしば歴史的なできごとが、私たちの日々の信仰への教えをこめて語られます。今日のラザロのできごとで、私たち自身とイエス様のことが多く語られます。

ラザロ、マルタとマリアの兄弟姉妹は、イエス様の親しい友でした。多くの指導者たちがイエス様をどうやって殺そうかと計画していたときに、彼らはイエス様を支え、もてなしていたのです。私たちは皆、友が必要です。友を大切にしましょう。洗礼を受けて、イエス様は私たちの本当の友となりました。「私はあなたを友と呼ぶ(ヨハネ15:15)」とイエス様は言われます。

ラザロは病気となり、そして死にました。イエス様がやっと到着したときには、死んで4日たっていました。マルタはイエス様に、どうしてもっと早く来てくれなかったのかと求め尋ねました。イエス様は友ラザロをなくしたことに深く心を動かされ、悲しみで泣いていました。とても人間的です。そうです。イエス様は本当に人間なのです。イエス様はマルタに(そして現代の私たちに)、「私は復活であり、命である。私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。このことを信じるか。」とおっしゃいます。「はい、主よ、信じています。」-マルタは答えます。今日の私たちも同じ質問を受けています。イエス様は、本当の神であり、ラザロを蘇らせました。マルタの信仰はまだ弱いですが、深まっていきます。

マルタは、イエス様に、早急の癒しと助けを期待していました。でも、少し待たねばなりませんでした!苦しいとき、私たちは助けと癒しを求めて神に願いますが、何も起きないことがよくあります。まるで、神が私たちのことを忘れたかのように、神はおらず沈黙しているように見えます。

それでも、私たちの願いが神に届き、助けが来ると信じましょう。私たちが苦しいとき、私たちの神、イエス様は私たちのそばにいます。イエス様は私たちと共に泣いておられます。一番近くで、このうえなく誠実な友なのです。「苦しむ者、重荷を負う者は皆、私の元に来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)」-イエス様の言葉です。イエス様は苦しいときに、力と励ましをくださいます。

そうです、私たちは、皆死なねばなりません、人間ですから。でも、死は生命の終わりではありません。新しい生命の始まりなのです。イエス様は私たち一人一人に生きた声で言われます:「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。」
そうです、死の後に、素晴らしい生命があるのです。この教えは、大きな希望と勇気を与えてくれます。この恵みを皆で分かち合いましょう。(相田)

四旬節第4主日 A年 2017年3月26日

聖書朗読:サムエル上 16: 1-13; 詩編 23; エフェソ 5: 8-14; ヨハネ 9: 1-41.

教会では、古代から、今日のミサの朗読は復活祭に受洗する他人の最後の準備となるものでした。またすでに洗礼を受けた人には復活祭に洗礼の約束の更新のためでした。
 旧約時代からの第一朗読(サムエル上16: 1-13)では、サムエルはエッサイ息子の一人がイスラエルの新しい王だと告げられます。サムエルはどの息子が神に選ばれたか知りません。長男のエリアブだと考えます:「大男で。確かに神が選ばれた。」しかし違う。他の息子も違った。エッサイは遠くで羊の群れの番をしていた末息子を呼びにやらせた。一番ありそうもない息子が戻った。神はサムエルの啓示した:「ダビデが王な」洗礼のための、神は一番ありそうもない他人を選び、その人は自分の弱さと神を必要とすることを認める。
さて福音です。私たちは心の目が見えなくて悩んでいます。福音の盲人は私たちの代表です。最初、かれはイエス様を知りません。その後、彼の信仰は少しずつ深まってゆきます。最初はイエス様を偉大な人と呼びます。それから預言者といいます。最後にはイエス様が神であると信じ、心から「信じます」といいます。これは私たちのモデルです。
洗礼で心の闇からキリストの光へと移ります。このことのシンボルとして、「光の子として歩みなさい」(第二朗読からの言葉:エフェゾ 5: 8-14)という言葉ともに火のついたろうそくを受けます。
最初の朗読に戻りましょう。私たちがどんなに弱いか気づきます。イエス様の呼ぶ道を人間の力だけでは歩けません。イエス様の言葉を思いだします:「あなたが選んだのではない。私が選んだ」(ヨハネ 15: 16) そんなにも弱いので、イエス様の助けと強さに頼ります。イエス様は善き牧者で、「正しい道に導き・・・生涯神のいつくしみがともにある。主の家に生涯とどまる(詩編23)」洗礼は素晴らしい宝です。その宝を分かち合いましょう。(中里)

四旬節第3主日 A年 2017年3月19日

キリスト信者とは、イエスを人生に受け入れる人のことです。その人はイエスに心を奪われ、真の信者であるということは、その人の中心にイエスがいるということです。一番はイエスで、「教え」や「掟」は大切なことですが、あくまで2番目です。

今日の福音書(ヨハネ4:5-42)はイエスと、初めて、あるいはもっと徹底的に出会うための招きです。この箇所はイエスと私達自身について多くのことを教えてくれます。イエスについて、いくつかの点を見てみましょう。
① イエスは「人間」でした。彼は疲れていて、私たちのように喉が渇いていました。
② イエスは「神様」でした。彼はサマリアの女の秘密の心を知っていました。イエスは、神様だけが出来る約束、すなわち、「永遠の命に至る水」を約束なさいました。
③ イエスは人を裁きません。その人をありのままに受け入れます。イエスは、この女が5回結婚していたこと、そして、今彼女と一緒にいる人は、婚外のパートナーだということもご存じでした。しかし、イエスは彼女を叱りませんでした。
⑤ イエスは、イエスのほうから「水を飲ませてください」と話しかけられました。そして、最も興味深い会話が始まります。初めは一般的な「水」についてですが、「心の渇き」について話すことによって、より深いテーマになっていきます。イエスは、心を満たし、永遠の命に至る、生きた水を約束されます。これは、イエスが私たちを導き、私たちに神様との暖かい関係を与えてくださること、平和をもたらすことを意味します。

聖アウグスティヌス(~430年)はこの祈りを書いています。
「主よ、あなたは我々をあなたへと向けておつくりになった。それ故、我々の心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」

イエスは私たち一人ひとりに「私のもとに来なさい、休ませてあげよう」と話しかけておられます。

サマリアの井戸の場面は、2000年前の出来事ではありません。私たちも祈りの中で、イエスに出会うための招待状を受け取り、心と心でイエスと話をします。水を汲む空の器、すなわち開かれた心で井戸に行きましょう。休息と平和を味わいましょう。そうすれば、サマリアの女のように、イエスの賜物を他の人と分かち合うことができます。(北尾)

四旬節第2主日 A年 2017年3月12日

聖書:創世記12:1-4, 詩編33, 使徒パウロのテモテへの手紙1-8-10, マタイによる福音 17:1-9
 
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネはイエスの12人の弟子の中の3人です。3人はイエスと共に高い山に登りました。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔が太陽のように輝くのを見ました。栄光の中のイエスを見たのです。イエスは自分が神であることを示されました(マタイによる福音 17:1-9)。かなり後に、同じ3人の弟子は、平らな場所で暗い夜にイエスと一緒にいました。イエスの苦悩を見ています。イエスは、わたしたちに、ご自身が人間であることも示されます(マタイによる福音 26:36-45)。これは、イエスは100%神で、100%人間であることを示す聖書のやり方なのです。
 山で語られたみ言葉について考えてみましょう。天から神様が言われます。「これは私の愛する子。・・・これに聞け。」今日の私たちに対する神様からの課題があります。イエスに従う私たちはイエスの声を聞く時間を作っているでしょうか。イエスは聖書を通して生きた声で私たちに語りかけます。時間を作り、聖書を開き、イエスの行いとみ言葉を学びましょう。「力を捨てよ。知れ 私は神」(詩編46:11)と言われる神様のみ言葉を聞きましょう。しかし現代社会では、穏やかで静かな状況を作るには努力や意志が必要です。気を散らすたくさんのものがあります。スマートフォン、メール、インターネット、ファイスブック、電子ゲーム(例えば、ポケモン、スーパーマリオ)そしてテレビなどです。イエスがわたしたちに語りかけてくれることを遮断する雑音がたくさんあるのです。イエスの言葉は、平和、幸せ、励ましをもたらします。四旬節のおすすめの断食は、これらの機器を止めてしますことです。そうすれば静かな時間が得られ、聖書を開き、イエスの語りかけを聞くことができます。おそらく福音書の中の「起きなさい・・・恐れるな」という言葉を聞くことができるでしょう。わたしたちの多くは、恐れ、心配ごと、ある種のストレスを抱えています。静かな祈りの中で、イエスにすべての恐れをゆだねましょう。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロの手紙一 5:7)。注意深く聞くことは、自分自身、他の人、神様との出会いと愛への第一ステップです。さあやってみましょう。(薩田)

四旬節第1主日 A年 2017年3月5日

聖書:創世記2:7-9;3:1-7 詩篇51; マタイ4:1-11

 さあ、また、四旬節です。この四旬節は、額に灰を塗ることで始まります。このとても古くからの灰の典礼では、「回心して(罪を離れ)福音を信じなさい」という言葉が唱えられます。私たちは心の中で、これらの言葉を、聖書を背景として見つめなければなりません。例えば、「罪」とは「的をはずすこと」です。私たちは的に狙いを定めますが、失敗してしまいます。
 四旬節の間、私たちは自分の失敗を認め、また新たに始めます。そして「福音を信じなさい」という言葉です。福音とは、イエス様を通して届く、神様からの喜ばしいメッセージです。
 イエス様のメッセージの心髄は、神は愛、ということです。
 そうです、これこそがイエス様の生涯と教えのまとめであり、中心です。まさに、良い知らせであり、まことに喜ばしいメッセージです。神様が私を愛してくださっているのです。
「神様が私を愛してくださる」-静かな中で、この言葉の深い意味を味わいましょう。
「神様」-神様は私たちを創られ、その私たちに、愛と哀れみと理解と恵みで向き合ってくださいます。
「愛する」-神様は私たち人間の弱さをすみずみまでご存知で、いつも、ありのままの私を受け入れてくれる-これこそが真の愛です。
「私」-私は弱く、誘惑に陥りやすい。決心をするが、守れません。神様に、もっと信心深くなると言っても、失敗してしまいます。神様は、私が思うあるべき姿ではなく、ありのままの私を受け入れてくださいます。
日曜日の朗読箇所で、神様が人間を創造されたのに、人間は神様の力と知恵に信頼するのを断ってしまう様が描かれます。それでも神様は愛であり、寛容で、情け深い(詩篇51)。神様は、息子であるイエス様-本当の神で、かつ本当に人間である-を地に送りました。本当の人間として、イエス様は深い誘惑に苦しみます。そして私たちは、はかなさの中にあっても、自信を持って神様の方に進みます。なぜなら、神であるイエス様が、私たち人間の条件と弱さを味わわれたからです。
四旬節の特別な努力として、静かに5分間、祈りましょう。例えば、「神様が私を愛してくださる」という言葉について、その意味をかみしめ、じっくり考えてみましょう。これが、あなたを自由の身にできる真実です。そして、神様の愛とこの自由を他の人たちと分かち合いましょう。
                             (相田)

年間第8主日 A年 2017年2月26日

聖書:イザヤ 49: 14-15; 詩編 62; マタイ 6: 24-34.

心配がありますか。心配や悩みがありますか。将来のことがのしかかっていますか。病気や死が怖いですか。たくわえが減ったり心配だったりしますか。等々。
とても心配なら、今日のイザヤ、詩編62と福音を繰り返し繰り返し読んでください。朗読は慰めに満ちています。
イザヤの短い朗読の中で、人々が遠い国バビロンに家畜の群れのように送られました。故郷、町、美しいエルサレムの神殿は粉々になりました。「神は我々を見捨てられた。神はいるのか。」と叫んだ。イザヤの声を通して、聖書の最も美しいイメージの一つで答えられた。「母親が胸に抱く幼子を忘れるだろうか。そうであっても、私はあなた方を決して忘れない。」
これらの言葉の意味を深く考えてみましょう。神は私を名前で呼び、私を気づかってくださる。母親のように。それから答唱詩編の詩編62の重大なテキストをゆっくりと読みましょう。「神は私の守り、わたしの力、私の逃れ場。」神を信じよう。
それから福音を読みましょう。弟子たちは先のことを心配していました。イエス様は言います:「空の鳥を見なさい。あなた方の愛する父なる神は一羽の小さな鳥もどこにいるか知っていらっしゃる。どんな花もどこに咲いているか知っていらっしゃる。愛されている子供であるあなた方ははるか尊い。あなた方は愛するアッバ父なる神が気をかけ、あなた方の心配は御手にあり、信じなさい。
 このことをしっかりと覚えなさい!神が愛し、気遣い、優しい神であると知らなければ、神を信じることはできない。神は私たち一人一人を気にかけてくださる。主を知らなければ、悩みをすべてゆだねることはできない。神を遠く、ぼんやりしたものと思いますか。
日本の典礼聖歌391番があります:ごらんよ空の鳥、私の友。神はそれぞれを気にかけてくださる。大いなる愛を信じましょう。
もう一度、第8主日の聖書朗読のそれぞれを繰り返し読むよう勧めます。とてもゆっくりと読み、美しく勇気づける文章を味わいましょう。そしてほかの人に勇気と希望を与えましょう。(中里)

年間第7主日 A年 2017年2月19日

聖書

今日の福音で、イエス様は私たちに最大の挑戦をするように呼びかけています。イエス様は言われます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」そんなことは絶対に無理です!あの人から受けた私の心の傷はあまりにも深いので、あの人を愛する(受け入れる)ことなど出来ません。確かにそれは不可能です、イエス様の助けと導きがなければ。 自分の力だけでは出来ないことを認め、イエス様の助けを願い求めましょう。

典礼聖歌390番で私たちはこのように歌います。「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう」この歌詞を味わい、イエス様の助けを願いましょう。

キリストのように考え…サマリア人の村で歓迎されなかった時、ヤコブとヨハネは「天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いましたが、イエス様の考えは違いました。イエス様はご自分を歓迎しない人たちでさえ受け入れ、愛されました。イエス様は忍耐強く待っておられるのです。姦通の罪で捕らえられた女を「律法に従って石で打ち殺せ」と言う厳格なファリサイ派の人々と、イエス様の考えは違います。(ルカ9; 54)イエス様は罪を憎まれますが、「罪人」を愛しておられるのです。

キリストのように話し…ヨハネによる福音の4章を読んでみましょう。イエス様は井戸の前で、サマリア人の女の話しを聴き、会話も交わします。イエス様は優しく、女の話を聴きます。そのサマリアの女は5人の夫と結婚し、今は別の人と連れ添っているような人であっても、イエス様はその女を受け入れました。

キリストのように行い…イエス様のことはこう書かれています。「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12:20)。この言葉は、イエス様が穏やかで、弱い人・倒れた人・傷ついている人をよく分かってくださることを意味しています。私たちはどうでしょうか?  イエス様が一日中説教をし、とてもお疲れになったちょうどそのとき、ある母親がイエス様のところに来て、子供たちに触れてくださるように頼みました。弟子たちは母親に腹を立てましたが、イエス様は、疲れていても、子供達と母親を祝福しました。(マルコ10:14)、私たちはどうでしょうか?

キリストのように愛そう…あなたの敵を愛しなさい。あなたを傷つける人に良いことをしなさい。彼らのために祈りなさい。「ローマの兵士たちはイエスの手に釘を打って十字架につけ、長老たちはイエスを罵りました。イエスは彼らのために愛をもって、こう祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:33)私たちはイエス様と同じように愛することが出来ますか?イエス様の助けをいただいて、人々を受け入れることが出来るように願い求めていますか? さあ、挑戦しましょう。(北尾)

年間第6主日 A年 2017年2月12日

聖書:シラ書15:15-20,

 東京の上野公園の中には、ロダン作の「考える人」と呼ばれている大きなブロンズ像があります(鋳型から20体しか作られていません)。以前私がその像を見た時、その男性は考えるとともに祈っているように感じました。
 今日の第一朗読のシラ書において、「神の知恵は豊かである」ことを読みました。詩編119節では、「主よ、私の目を開き、あなたの律法のすばらしさに気づかせてください。」と書かれています。第二朗読では、パウロはこの世の知恵とパウロが私たちと分かち合う神様の知恵について語っています。
 わたしたちは考えること、学ぶこと、そして努力することができます。しかしこれらは何をわたしたちにもたらすのでしょうか。会社での出世、良い大学への進学、たくさんの物の所有でしょうか?これらはいつかなくなり、価値を失います。この世の知恵です。表面的なものなのです。
 神様からもたらされる知恵は、神様がくださる豊かな贈り物です。祈りの中で求めることによって与えられます(詩編119節)。この知恵は愛に基づく神様の優しさを教えてくれます。聖書を通じた今なお生きているイエスからの呼びかけです。また人生の真の目的を教えてくれます。霊的な目的です。しかしわたしたち人間は、霊的なもの、心、肉体を持っています。今日の聖書朗読は日々の生活における知恵でもあります。具体的に神様の知恵がどのように働くかを教えています。服を縫う能力、大工として建物を建てること、テントを作ること、海上での船の誘導、葬儀での歌うことなどです。また興味深い一例があります。教育を受けていない白髪のおばあさんが一人の軍隊の将軍に助言をしています(エレミア記)。言い換えると、神様の知恵は日々の生活へのものです。どのように時間を使うかを教えてくれます。テレビを観る時間をたくさんとることではありません。知恵は、物事を滞りなく行うこと、自分のパソコンの有効な使い方、買い物や料理の仕方、仕事の上手なやり方を教えてくれます。知恵は怠け者には与えられません。神様の知恵の必要性を感じ祈りの中で求める人にしか与えられません。ヤコブの手紙1:5-8を読みましょう。「あなたかたの中で知恵に欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。」(薩田)

年間第5主日 A年 2017年2月5日

聖書:イザヤ58:7-10; 詩篇112; マタイ5:13-16

今日の福音は先週に続き、イエスの山上の説教です。先週の福音では、私たちは本当に祝福されるだろうと、8回も話されました。祝福されているというのは、自分や周りの人々、環境について恵まれ、神の平安と共にあるということでしょう。
私はニュージーランドのキリスト教の家庭に生まれました。自分がどんなに幸せだったかということを本当に知ることができたのは、日本に来てからでした。神は神の子イエスを知っているという大きな恵みを私に下さっていたのです。これは私にとって、この世界でこのうえない宝です。
今お話していることを準備するために、時間をとって、もし私がキリストを知らなかったとしたら私の人生はどうだっただろうかと想像してみました。これは、少し怖いことでした。私は空っぽで、暗く、意味が無いように感じました。私は大きな病気を3回経験していますが、もしイエスを知らなかったとしたら、絶望していたことでしょう。進む道を見失ってしまったことでしょう。
その静かな時間の中で、イエス無しの人生を想像してみたことで、私の人生にとってのイエスの意味を、深く悟ることができました。イエスは私の人生に、味わいを、闇の中で光を与えてくれるのです。希望の源です。私はイエスに尋ねます、あなたはどんな経験をしたのでしょうか?
今日の福音でイエスは、人生の良いことを他の人と分かち合いなさい、他の人と光を分かち合いなさいと、私たち皆に呼びかけています。世の光とは、たとえば、マザーテレサは、その大きな例です。イエスは私たち皆に、一本のろうそくのような小さな光になるように呼びかけています。さあ、私たち自身の家庭で、親切で思慮深くなることから始めましょう。人々を褒めたたえましょう。人々の親切は当たり前のことではありません。自分の家庭から始め、その光を家の外、学校、職場、友人たちの元に届けましょう。そして、もっと遠くの、飢えた人、家の無い人、寒い冬に温かな衣類が足りない人たちの元に届けましょう(今日のイザヤの第一朗読のように)。イザヤは、私たちに光の子として、人々に重荷(くびき)を負わせることを避け、赦さないこと(握りしめた拳)や悪いうわさ話(邪悪な言葉)を避けるよう語りかけます。
キリスト教徒の皆さん!今週は、祈りの中で、皆さんがどれほど素晴らしく祝福されているか、よく考えてみましょう。そして、行って、その恵みを他の人たちと分かち合おうではありませんか!(相田)
 

年間第4主日 A年 2017年1月29日

聖書マタイ 5: 1-12.

 今日の福音は、イエス様の山上での説教と8つの教えです。これはある種の心のあり方を表しています。イエスの道を歩く必要があり、それは私たちの人生の道です。
以前、まったく聖書的な意味で貧しくあることの深い意味を説明しました。つまり、神の助けにまったく頼ることです。
今日はもう1つの教えを選びます:「心の清い人は幸いである。彼らは神を見るであろう。」(CEV) でも心が清いとはなんでしょう。「清い」の元のギリシャ語は、‘KATHAROS’で混じりけのない絶対を意味します。たとえば、私は机の上に2つの日本の文鎮を置いています。1つは鉄で銅と銀の象嵌があり、もう1つは純粋の鉄です。象嵌のあるものは混ざっていなくても、純粋ではありません。ただの鉄のものは純粋です。この教えは、まったく性的な分野に意味を狭めると、十分に理解されていないと感じることが多いです。はるかに、はるかに意味が広いのです。むずかしいが勇気づけてくれます。心を100%神にささげることを意味します。祈りの時や日曜だけでなく、普通の日のどの瞬間も、イエスさまの様であること、イエス様と一緒であることを意味します。平日もクリスチャンであることを意味します。他人に思いやりがあり、受け入れて許し、勉強、家事、仕事に最善を尽くすことを意味します。正直であることを、などなど。100%キリストのようであるのは、つまり心が「清い」ことです―「金を稼ぐ、成功する、有名になる、のような世間的価値が混じっていない心です。そのためには祈らなければなりません。神に触れなければなりません。神だけが私たちを完全に清く (katharos)できます。そうすれば神を見るでしょう。毎日の生活のあらゆる瞬間に、神は私たちとともにいらっしゃることに気づくでしょう。(中里)

年間第3主日 A年 2017年1月22日

聖書: イザヤの預言 8:23-9:3 詩編27 マタイによる福音4:12-17 
創世記から黙示録まで、聖書全体を通して「光」と「闇」というテーマを見出すことが出来ます。闇とは絶望、苦しみ、病気、人間の失敗などを表しています。光は神様から来るもの、すなわち希望、喜び、励まし、慰め、癒しのことです。
自分自身に問いかけてみましょう。苦しみ、すなわち闇に出会うとき、私は光を物質的なものによって自分で創り出そうとしてはいないでしょうか。自分自身の努力だけを頼ってはいないでしょうか。物質的なものに逃げて苦しみを忘れようとしてはいないでしょうか。その作戦は決して上手くいきません!

神は光です。イエスは世の光です。あなたが暗闇の中にいるならお勧めのステップがあります
1)まず、自分が闇の中にいることを認めます
2)もう一度、自分が無力であることを謙虚に認め、自分で光を創り出すことは不可能であると認めてください。
3)祈りの中で神様と向き合い、光と暖かさを願いましょう。神様は喜んであなたを照らしてくださいます。あなたを愛しておられますから。
4)神様からいただいたこの光を、感謝のうちに他の人達と分かち合いましょう。

イエス様は100%の人間性を経験された私達の神様です。イエス様は闇を体験なさいましたから、それが何であるかをご存じです。ですから、私たちは恐れずに、自信を持ってイエス様のところに行くことが出来るのです。

「主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。
 主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ 主を待ち望め。」
                         詩編27。 (北尾)

年間第2主日 A年 2017年1月15日

聖書: イザヤの預言 49-3:6

今日のイザヤの預言の朗読において、49:5の一文を中心にお話しをしたいと思います。「わたしの神こそ、わたしの力」という言葉です。
先ず「わたしの神」という言葉を考えてみましょう。神様とは誰でしょうか?神様とはどのような方でしょうか?神様とは優しく、思いやりのある、愛情に満ちたお父さんです(アッバ)。私たちを特別に愛する子として心にかけてくださいます。これは例外なく私たちすべてが当てはまります。神様の愛される子という真実は、私たちをいろいろな束縛から解放してくれます。神様は私たちの全ての欠点をご存じの上私たちを愛されるのです。神様は私たちが弱いから愛されるのです。神の愛は無条件です。
 次に「わたしの力」という言葉を考えてみましょう。私たちに力を与えてくださるのが神様です。この力を授かるには、先ず私たちは弱いということを認めることが必要です。私たちは自分の力のみでは人生の旅路を歩んでいくことはできません。謙虚に神様からの力の必要性を認めましょう。それがないと、心に自尊心という壁を作り、神様からの力を授かることができません。神様自身は、力を私たちに与えることをお歓びになられます。その力は、勇気と忍耐をもたらします。
 「わたしの神こそ、わたしの力」というテーマは、旧約聖書にも新約聖書にも頻繁に出てきます。旧約聖書の人々は、「自分たちは弱く、神様の望まれることを行う十分な力が無い」と言っています。例えば、アブラハム、モーゼ、ギデオン、イザヤ、エレミア、エゼキエル達です。
 新約聖書では、イエスが「わたしはあなたたちと共にいる」と言われています。イエスは私たちの傍におり、人生の旅路においてイエスの力を共有できるという意味です。イエスは言われます。「私を離れては、あなたは何もできない。」また、聖パウロや私たち一人一人に「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント信徒への手紙二:12)とも言われています。
 今週繰り返しこの言葉を思い起こし、深く考えてみましょう。
「わたしの神こそ、わたしの力。」 (薩田)

主の公現 A年 2017年1月8日

聖書: イザヤ60:1-6; 詩篇72; エフェソ3:3-6; マタイ2:1-12

今日は「主の公現」の祝日です。この「公現」とは「公に現す」と書かれる通り、神がその御子を私たち、全ての国、全ての民族の人間に現されたということです。イエスの誕生の時には、羊飼いが馬小屋にやってきて、イエスを、長い間待ち望んでいた救い主として拝みました。この羊飼いたちはユダヤ教を信じていました。今日の祝祭では、東の国からイエスを拝みにやってきた三人の学者を思い起こします。さて、この三人の学者は異邦人で、ユダヤ教徒ではありませんでした。ここに注意してください。羊飼い、三人の学者、両方ともイエスの生まれた馬小屋に導かれてきました-羊飼いは天使に、三人の学者は特別な星によって、です。この出来事に、現代の私たちにとって深い意味があります。つまり、神の御子イエスが人間となったのは、全ての国、全ての民族のためなのです。私も異邦人の一人です。その私にも神は御子イエスを現してくださったのです。私は、全てのキリスト教徒ともども、世界で一番恵まれた人間なのです。
三人の学者は、イエスのいる馬小屋に来て、喜び、拝みました。黄金、乳香そして没薬の贈り物で、その感謝を表しました。
現代の私たちは、イエスのおかげで、霊的に地上で一番恵まれています。ですから、イエスの元に行き、今でも喜んでもらえる贈り物をささげましょう。
自分自身の身も心も、イエスへの贈り物としましょう。
私たちの毎日の仕事、勉強、趣味そして楽しみも、イエスのためにしましょう。
ほんの少しの間でも良いから、イエスと触れ合う静かな祈りの時間を作りましょう。そうすることで私たちの人生が希望あるものになります。
私たちを傷つけた人を許しましょう。
悲しむ人、病気の人、老人や寝たきりの人を慰めましょう。
私たちには誰でも、特別な贈り物があります-例えば、音楽、会話、共にいることなど-これをイエスのために使い、他の人を幸せにしましょう。貧しい人を助けましょう。
イエスは「疲れた人、重荷を負った人は私のところに来なさい」と言われます。さあ、自分の心配事、悩み、苦しみをイエスに打ち明けましょう。私たちがイエスと触れ合うことが、イエスの喜びなのですから!(相田)

神の母聖マリアA年 2017年1月1日

聖書: 民数記: 6:22-27; 詩編 67; ガラテア 4:4-7; ルカ 2:16-21

 「主、私の神よ!私たちの心はあなたの内に憩うまで、安らぎを得ることができない」聖アウグスチヌス (西暦430年死亡) はこう祈った。年の初めの日に、あなたに尋ねます。「本当の心の安らぎを望みますか?」神様だけが他人の心の強い憧れを満足させます。
神様がどんなに私たちを愛しているかに気づいた時、安らぎを味わいます。今日の朗読で聖パウロ(ガラテア4:47) は神を「アッバ」と呼べと言います。私たちは優しい神の愛された子です。「アッバ」はヘブライ語で「私のなつかしいお父さん」の意味で、小さな子どもの言葉です。神様はとてもなつかしいお父さんで、私に気づかい、愛し、力づけてくださることをよく考えましょう。これが安らぎの基礎です。
第一朗読 (民数記6:22-27) と答唱詩編67で、「あなたの顔の光を私たちの上に照らしてください。」と祈ります。私たちのやさしいアッバ、父、神に喜びと安らぎを与えるよう微笑んでくださるよう求めましょう。聖書の言葉をよく考え、安らぎを感じましょう。神様は微笑んでいらっしゃいます。
マリア様を模範として考えましょう。マリア様は神の子を産みました。その村の宿屋には部屋がありませんでしたので、すきま風のふく馬小屋で産んだのです。羊飼いたちが赤ちゃんを拝みに来ました!マリア様はこれらの出来事を理解しませんでした。不便さとつらさにもかかわらず、自分と赤ちゃんイエスを見守ってくださることを信じている神様に信頼していました。マリア様はこれらの出来事を心の中にしっかりとしまいました。これがやすらぎをもたらしました。詩編139は「神のはからいは限りなく、生涯、私はその中に生きる」といっています。これが彼女に安らぎをもたらします。
2017年が、「神がどれだけあなたを愛し、どんなに安らぎを味わえるかに深く気づく年になりますように。(中里)

主の降誕(夜半のミサ)A年 2016年12月25日

聖書: イザヤ書9:1-6詩編96テトス2:11-14ルカ2:1-14

なぜクリスマスに多くの人が教会に来るのでしょう?それは、日々忙しい人生の中に、神様の平和・温かさ・強さそして励ましを求める願いが、私たちの心の奥深くにあるからだと思います。今日は遠藤周作の小説『沈黙』を使ってクリスマスの本当に意味すること、すなわち「神は私たちと共におられる」ことを説明したいと思います。

ポルトガル人の司祭セバスチャン・ロドリゴ(Sebastian Rodrigues)は将軍徳川家光(1604-1651)の時代に日本に来ました。当時、キリシタンの弾圧は特に激しいものでした。ロドリゴは隠れて布教をしていたところ、捕らわれてしまいました。彼は知り合いの信者が拷問されている様子を見せられます。それは「穴吊り」と呼ばれる拷問で、深い穴に五体逆さ吊るされ、ゆっくりと苦しみ続けて死んでいくというものです。ロドリゴは彼らの悲惨な苦しみの叫び声を聞き、祈りの中で神様に尋ねます。「なぜ、あなたは沈黙しているのですか」
井上(という名の)奉行は「あなたが踏み絵を踏めばこのキリシタンたちを解放しよう」とロドリゴに言いました。イエスはロドリゴに憐みの目を向けて仰いました。「踏みなさい!私の足も同じように痛み、苦しんでいる。私がこの世に来たのはそのためである。私は沈黙しているのではない。あなたと共に苦しんでいる。強い人も弱い人も皆同じように苦しみ、私はいつもあなたがたのそばにいる」 

ここにクリスマスの本当の意味があります。真の神は、天の栄光を脇に置いて私たちと同じ真の人間となられました。今日、私たちが誕生をお祝いするイエス様は100%の神様であり、100%の人間です。イエス様は人生の道を一緒に歩いてくださる、人生の同伴者です。神様は私たちと共におられるために人となられました。神様は私たちと同じように人間の苦しみ(喜びも)を体験なさいましたから、人間のことをよく理解しておられます。

毎朝、今日一日私たちを導き力づけてくださるよう、憐れみ深い神様に願いましょう。(北尾)

待降節第四主日 A年 2016年12月18日

聖書: イザヤ7:10-14; 詩篇24; ローマ1:1-7; マタイ1:18-24

「神はどこにいるのでしょうか?」 と問われることがあります。でも、今日、もっと自分に深く係わる 「私の神はどこにいるのでしょうか?」 という問いに、自分の心を深く省みて答えては如何でしょう。様々な答えを聞いたことがあります。例えば、「宇宙に」、「天国に」、「自然の中に」、「世界の力の中に」。これらの答えは間違いではありませんが、自分との係わりが表れていません。これらは、2000年前までだったら、良い答えだったでしょう。しかし、私たちの神は、天国の栄光を脇に置き、私たちの地にやってきて、人間として生きたのです。その時から、神は私たち人間に近い存在となりました。私たちの神、イエスは、今日も、私たちの近くで生きています。肉眼で見ることはできませんが、私たちが信仰の眼を開けば、イエスがすぐ近くにいることがわかります。
今日の福音の中で、神の使いが、ヨセフに、マリアのお腹の子の父は聖霊(つまり、神)であり、イエスと名づけるようにと伝えます。この名前の意味は、救い主ということです。そして、天使は、イエスがインマヌエルとなることを告げます。この特別な言葉は、ヘブライ語で 「神が共にいる」 という意味なのです。
今日の私たちは、神が近くにいる、この時代に生きている、大きな恵みの中にあります。神は、私たちと共に、すぐ近くで、人生の道を一緒に歩まれています。私たちにとって、イエスは、この人生の同伴者なのです。
私たちは、怖れることなく、自信をもって、全くありのままで、イエスに近づけます。私たちの神イエスは、人間のもろさ、怖れ、体と心の痛みを理解してくれます。イエスには友達のように話せます。この、今も生きている、神であるイエスに、聖書で、また祈りで出会うことができます。さあ、イエスに話してみましょう、一緒にいる友達のように。
私たちの日々の生活の中、家庭で、職場で、学校で、病院で、余暇の中で、イエスは神であり、私たちと共にいるのです。助け、導き、力、慰め、そして勇気を与えてくれます。さあ、私たちと共にいる神であるイエスのところに行きましょう。イエスと彼の恵みを、周りの人たちと分かち合いましょう。(相田)

待降節第三主日 A年 2016年12月11日

聖書朗読 イザヤの預言35:1-10, 詩編 146, ヤコブの手紙5:7-10, マタイによる福音 11:2-11

本日の待降節第三主日は、「喜びの主日」という興味深い名前で呼ばれています。
信仰の喜びは神様からのものです。この喜びは、人間の心の中に深く根を張っているので、苦しみの中にあっても深い喜びを見出すことができます。第一朗読のイザヤの預言において「喜び」という言葉は七回出てきます。また次のような神様からの喜び言葉もあります。”心のおののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。」”信仰の喜びを味わうために次の四段階の行いをやってみてください。
①心の状態を見つめて心からの喜びを願いましょう。そして祈りの中で神様に喜びという最もすばらしい贈り物を授かるように願いましょう。大きな希望を持ちましょう。神様はこの贈り物を本気で願う人に授けてくださいます。
②自己中心的な行動を捨てましょう。他の人のことを考え、親切で思いやりの態度で接しましょう。“与えることによって与えられる”ように、人に喜びを与えることによって、心の中で喜びを味わえるのです。
③ほかの人の良いところを評価しましょう。また自分の周囲の世の美しさに目を留めましょう。そして神様に人の善良さと世界の美を感謝しましょう。自然は私たちに安らぎを与えてくれます。これは神様からの贈り物なのです。
④ここからが最も大切なところです。心を静め、皆さん一人一人がどんなに神様から愛されているかを深く考えましょう。神様は本当に皆さんのことを心に留めていらっしゃいます。“わたしはあなたの名を呼ぶ。わたしの目にあなたは貴く、わたしはあなたを愛する。”(イザヤ43)神様は皆さんをありのままに受け入れてくださいます。
 今日のイザヤの預言において、“弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。心のおののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。」見よ 神は来て、あなたたちを救われる。”
 イエスはこの預言を実現するために来られました。今日生きている声で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)イエスのもとに行き、この喜びを味わいましょう。この喜びをほかの人と分かち合いましょう。(薩田)

待降節第二主日 A年 2016年12月4日

聖書朗読 イザヤ11:1-10 詩篇72 ローマ15:4-9 マタイ3:1-12

洗礼者聖ヨハネは荒れ野で説教をしました。今、私たちは木の枝に葉も残っていない寒い冬を過ごしていますが、同時に荒れ野に生きているとも言えます。多くのテロリスト達がいて大気と海は汚染されています。シリア、アレッポ、南スーダンの状況、北朝鮮がミサイルを発射するなど、世界は摩擦だらけです。日本は繫栄しているように見えますがホームレスが溢れています。引きこもりの方は200万人と推定されています。教会には人が少なく受洗者の数も聖職者も少ないのです。その上、個人の心の荒れ野、家庭の荒れ野を抱えている人々が数多くいます。

洗礼者ヨハネは2000年前に、そして今日、現代の荒れ野の中で神様は「希望を持ちなさい!私たちの救い主、イエスが来られる!未来に希望を持ちなさい!」と宣言しておられます。
真実の自分と向き合い、自分の将来について考えてみましょう!あなたは希望を持っていますか?希望は幸福で平和な生活に絶対不可欠なものです。希望はいつくしみ深い神様からの贈り物です。希望を神様に願いましょう。私たちの未来への希望は、いつくしみ深い神様が私たちを愛し、導いてくださるという事実に基づいています。イエスは人生の旅の同伴者です。このことが私たちに希望を与えるのです。
しかし、洗礼者ヨハネは私たちに回心を呼びかけます。回心とは、神様の愛を感じながら、私たちが弱い者、罪びとであること(私たちがしてしまった悪いこと、しなかった(怠った)善いこと)を思い出すことです。

私たちは、よりよくなるように努力しましょう。次の2つのことをしましょう。
①聖書を開き、神様のメッセージをゆっくりと祈りながら味わい、黙想します。例えばイザヤ書11:1-10は詩です。「天敵が共に遊ぶ」のは平和の象徴です。あなたはキリストの平和を願っていますか?それを求めましょう!ローマ15:4-9で聖パウロは、希望、信頼、そして決してあきらめないことについて語っています。それを求めましょう!福音(マタイ3:1-12)で洗礼者ヨハネは、今日、私たちに呼びかけています。希望を持ちなさい、約束された救い主、イエス・キリストが来られる。
②自分自身に問いかけましょう:私は世界や日本の貧しい人々をどのように助けることができるだろうか?街はイルミネーションで明るく照らされています。
イエス様の光をあなたの心に入れましょう。(北尾)

待降節第一主日 A年 2016年11月27日

聖書朗読 イザヤ: 2:1-5; 詩編 122; ロマ 13:11-14; マタイ 24:37-44

 今日から待降節が始まります ― 日々の生活にキリストが深くいらっしゃるよう準備するときです。今日の聖書朗読のテーマは「巡礼」です。巡礼は神に会うという特別な目的地への宗教的な旅です。待降節には心の巡礼をします。朗読は語ります。①誰が巡礼の道を歩くのですか?②どこに行くのですか?③どうあるいは何を途中でするのですか?①誰が巡礼者ですか?あなたと私。でも私たちのコミュニティの人と一緒です。多くの国々からの人とも。(イザヤ 2:2) 差別やえこひいきなしに ― みんなが歓迎されます。「主の山に登ろう‥‥主の光の中を歩もう」(イザヤ 2:3-5) ②どこにそしてなぜ私たち皆が行くのですか?この人生の旅、巡礼では、生活の山に登る狙いで、神様に会うのです。神様は温かく迎えてくださいます。神ご自身が私たちに会いたいのです。③生活の巡礼旅で何をしますか? うらみ、憎しみと許さない心を打ち直し(シンボルは槍)、平和の道具にします。(イザヤ 2:4) イエス様の下さる光の中を歩きましょう。(第2朗読、ロマ 13) 希望の民になりましょう。
 今日、イエス様は「目覚めていなさい」とおっしゃいました。パウロは「眠らないでいなさい」と。穏やかな波の規則的な音や日常生活の小太鼓のような決まりきった繰り返しが私たちを鈍くし、忙しさに負けて人生の本当の目的を忘れているのに気づいたことはありませんか。私たちは人生の大切なことを忘れています(ノアの時代の人々のように)。自分に問いましょう:朝、目覚めたときにどう感じますか?また、つまらない一日が始まる?それとも。神様と新しい日を歩むことへの喜びと感謝を感じますか?それなら、エネルギー、平和と目的が与えられます。この待降節中目覚めていて、イエス様と一緒に歩きましょう。(中里)

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